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映画

2016年4月13日 (水)

おっと、ブロマガで公式BANされたぞ。全文UPしてみよう。やはり幼女のパンツが悪かったのか・・・

さて、ブロマガで更新中の日記が公式BANされたようなので、全文UPしなおして見ます。文章が粗くてもがんばって書いたしね。

それにしても、これって原因はなんなのかなぁ。どうやら「性的な理由」でアウトらしいんだけれど。

やっぱ、幼女ってワードとパンツってのがまずかったのかなぁ。運営さんはここに性的な意図をよみっちゃったのかしら。

うーむ。せめてBANした明確なキーワードやBANした責任者の名前をしりたいなぁ。なんか気分でBANされたんじゃないかって気がしちゃうよね。

これマズイのかしら?いやね、別に怒ってはいないけれど、気にはなるね。あと1ヶ月使用禁止は流石にやめてほしいんだけれどなぁ。日記書けなくなる


ま。いいや。とりあえず公開してみます


(以下:公開記事部分)

なんか今日も忙しかった気がする。毎日夜になると疲れが吹き出るんですよね。なんだろ。病気じゃないと思うので食事や睡眠の質が悪いんだと思います。

だから今日は近所の野菜バイキングの店に行って来ました。

腹いっぱいに食べたからもっと疲れが出てる気がする。空腹のときが一番からだの調子がいいんですよね。ぼくだけかしら。
あるいは脂肪肝かな。食べると疲れが出るのは脂肪肝の証って聞く。やはりファッティな食事は控えて出来るだけ野菜を食べよう。

さて、そんなこんなで夕食後のだるい身体タイムがもったいないので映画を観てきました。タイトルは『ルーム』

部屋 上・インサイド (講談社文庫)

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物語はジャックが5歳になったところから始まります。ジャックの朝はいつも同じ。起きて、まずは母に挨拶をする。続いて挨拶をするのは母子二人で住むの”へや”の家具たち。椅子に、机に、キッチンに、天窓に、洋服ダンスにとジャックは挨拶をしていく。ひとつのベッドと限られたキッチンとトイレを備えた”へや”でジャックは昨日も今日も、明日も変わらない日々を過ごしていた。愛するママと、楽しいテレビがジャックの友達である。

ただ、普通と少し違うのは、ジャックが生まれてから一度も”へや”の外にでたことがないくらい。あと毎夜洋服ダンスの中で寝なければいけないこと。なぜかというと、夜になると”へや”には外からオールド・ニックがやってくるから。ママはニックとジャックを会わせたくないらしい。ニックは魔法の袋からジャックたちに食事やプレゼントを持ってきてくれるけれど、ジャックとニックは一度も話をしたことはない。

しかし、とある日にジャックはニックと触れ合う機会を得る。それは”へや”での日々を終わりに導く事件への引き金となる。その事件をきっかけとして、ママはジャックに真実を語る。

実はママにはママ以外にもう一つジョイという名前があること。元々は”へや”の外にいたけれど、7年前にオールドニックに”へや”に連れてこられてしまったこと。そして、”へや”の外には”世界”が広がっていること。

(あらすじ)

本作は、誘拐された17歳の少女が監禁された先で子どもを産み、その部屋から出る物語である。 前半一時間は”へや”とその脱出。後半一時間は”世界”での生活が描かれる。

結論から言うと、ぼくはこの映画を観始めたとき「”へや”に帰るんだろうな」と感じた。そして、それは間違いではない。

本作は複数の視点から語ることが出来る。

ひとつは誘拐されたジョイの再生の物語である。高校生の少女が監禁され、レイプされ、監禁先で子どもを産むことになる。逃げようにも逃げられず精神的に追い詰められた女の子が、機転をきかせ社会へと戻っていく。しかし戻った先は少女にとって新たな地獄だった。

帰還先は少女が元々いる世界だ。だがその世界は一変してしまっている。かつて存在したやさしさは失われ、好奇の目が向けられる。静寂の変わりに喧騒と様々な圧力が襲ってくる。監禁された少女が子どもを産んで帰ってきたことをマスコミは騒ぎ立てる。そして、自分も7年前の自分とは変わってしまった。

過去のイメージと現実のコンフリクトはジョイを圧倒する。徐々にジョイは子どもへと依存するようになる。しかし、それも一時のことに過ぎない。最終的に彼女はその圧力に耐えかねて倒れてしまう。

本作の見所は、そのようになってしまった彼女を子どもの献身が救うところにある。

子どもによって救われ。彼女は社会へと戻り。幸せになりました。

めでたしめでたし



・・・・・・

さて、これが一面の物語である。表と言い換えてもいい。

でも、ほんとうにめでたい?素直に感動できる?

本作を見終えた視聴者はこれで満足するのだろうか。物語をもう一度再構成してみよう。

本作においてジョイが子どもに真実を語るときに次のように言って聞かせるシーンがある。

壁がある。その壁には、表があれば裏もある。私たちは壁の内側にいて、外にも世界が広がっている。

ルームという映画は、ジョイの視点ではなく子どものジャックの視点から見ると別の様相をみせる。

先ほどのジョイからの視点の語りを一般的な視点の物語~インサイダーの視点~とするなら、ジャックから見ると物語はその外~アウトサイダーの視点~を有している。

ぼくはこの映画を観たときに、星の王子様を描いたサンテグジュペリを思い出した。世界の隅々を回ったことのない彼は、世界を巡る少年の物語を書き上げる。世界を描くのに実際の経験などは必要ない。人間精神とはそのような体験を上回る広大な力強さを持っている。

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本作ルームのもうひとりの主人公。いや、個人的には真の主人公と呼びたいジャックはそのような広大な精神を有した子どもである。

ところで、ぼくは今までジャックを「子ども」としか表現してこなかった。なぜだろうか。

じつは、本作ではジャックが男なのかどうかは明かされていないのだ。ジョイは一度としてオールド・ニックにジャックを触らせることはなかった。男の子だと語られるのは、あくまでオールド・ニックに対してのみであり、ジャックが”へや”の外に出たときジャックを見た男性や警官はジャックのことを彼女と呼んだり、ジャック以外に名前はないのかと尋ねている。また、ジャックが寝ている洋服ダンスのなかでジャックの履いているパンツが明らかに女性物だったのも、おや?と感じた一因である。

ジャックが女性である可能性を考慮すると、オールド・ニックとジョイ、ジョイとジャック、ジャックとオールド・ニックの非対称性も見えてくる。

ジョイはジャックにオールド・ニックはリクエストなど応えてくれないようなひどいやつだと語る。ジャックが5歳の誕生日にケーキにろうそくがないとき騒いだときも、オールド・ニックは面倒なものを持ってきてはくれないと言っている。

一方、オールド・ニックはジャックに乱暴な行為を働いたことはない。むしろ誕生日だと知ったら失業中なのにも関わらずおもちゃのクルマをプレゼントしてくれる。

ジョイの語るオールド・ニックと、オールド・ニックの行動に矛盾が存在する。

その矛盾を解消するひとつの案がジャックが実は少女である、ということだ。オールド・ニックから娘を隠すために男の子だと偽っていたと考えると、過剰なまでにジャックをオールド・ニックと遠ざけようとしたことに矛盾はない。

映画の間ずーーっと、この子が男の子かどうかは気になってみてたんだけれど一度もそれは明かされなかった。母子が保護された病院でも、当たり前だが下半身は隠され、真実は闇の中である。



・・・まぁ、ぼくの本当に話したいことは、ジャックが男だろうが女だろうが関係ないからどうでもいいんけどね。

折角なので、考察をしておいただけだ。

話を元に戻そう。



ジャックから見るとルームという物語はジョイから見たものと逆の物語になるとぼくは語った。

ちょうどジョイの物語を補助線にひくと理解しやすいと思う。

本作でジョイは「社会から切り離されて”へや”につれられてきた」少女である。だからこそ、先ほどの再生の物語という見方ができる。

しかし、ジャックから見たらどうだろうか。

ジャックからしたら、彼(彼女?)の世界は”へや”だけだったのだ。彼は母親の要望に従い、”へや”から”世界”へと移り変わる。

ジャックの視点からするならば、彼は元いたところから無理やり切り離されたと見ることが出来る。

母親と、”へや”のみんなに囲まれて平和に暮らしていた少女は他ならぬ愛する母親によってその場所を奪われてしまう。ジョイの視点からしたらオールド・ニックは平和な日常を壊した破壊者かもしれない。誘拐者である。しかし、ジャックの視点からしたらオールド・ニックは敵でも憎むべき相手でもない。むしろおもちゃのクルマをくれたやさしいおじさんともいえるかも知れない。

ジャックの側から見るなら、破壊者は母親のジョイである。

だからこそ、物語後半でジャックは母親が”へや”での母親と異なることを語っている。ジャックからしてみれば、彼の真の母親は”へや”のママだ。ジョイなどという存在ではない。だからこそ、からっぽだと表現したといえる。

ジョイもそれを理解しているのか、それでも私はあなたの母親だ、と述べている。

なんと歪な関係の物語だろうか。そして、なんと美しい物語なんだろうかと思う。

こういう構造を備え、自然とした物語を作り上げている本作は紛れもなく傑作だと思う。

そうやってみると、本作は本来あるべき場所から切り離された少女がもといる場所に戻る物語であると同時に、本来あるべき場所から切り離された少女の非対称的な物語であるといえる。

しかも、ジョイは救われるが、ジャックには救いがない。

彼は、”へや”にあったすべてのものを失い二度と取り戻せない。なにより、彼女の愛した母親は”からっぽ”になってしまったのだ。

”へや”と母親が揃ってこそジャックの原初は完成する。本作はジョイの再生であると同時に、ジャックの喪失の物語なのである。

それにしても、ぼくは本作をジャック視点で見ていると大林宣彦やホドロフスキーを想起してしまう。

ぼくは本作の一番の見所は人間精神の広大さが描かれていることにあると思っている。いきなり人間精神の広大さといわれてもわからないだろうと思うので、もう少し話をしよう。

たとえば映画の終盤あたりでジャックは



”世界”は忙しなくて早く早くと急かしてくる



と、言っている。

これは、”へや”と”せかい”を対比して「世界とはなんて生きづらいところなんだ」って告白しているシーンだとぼくは解釈している。ジョイにとっては”せかい”はあるべき場所なのかもしれないが、ジャックにとっては”せかい”は異郷なんですよね。ジャックが自分の魂を真に安らげられる場所は”へや”のなかなんですよね。

彼が何度も”へや”に戻りたいというのは、犯罪に巻き込まれた後遺症とかではなく、”へや”こそが彼にとって在るべき場所だからです。

ぼくがこの映画を観始めたときに「”へや”にもどるだろうな」って考えたのは、二通りの可能性を考えてのことでした。

ひとつは執着。さきほど否定しましたが、犯罪に巻き込まれた結果”へや”という狭い空間に魂を惹き付けられてしまうことがあります。例えとしてわるいかもしれないけれど、虐待をうけて育つとしたくなくても虐待をしてしまうというのに近いと思う。目を逸らそうとするほどに目を逸らそうとする場所に囚われる。ちょっと前までの物語はこういうものが、割と多かった。

きづきあきらさんの「いちごの学校」とかはそういうパターンですね。他にも、この人の作品はそういうエンディングが多い。あと、瀬戸口連夜さんの『カーニバル』とかにもそういうエンディングがあったような記憶がある。まぁ、エロゲはそういうエンディングが多かったとおもいます。目を逸らしたいのに、その闇に取り込まれてしまうエンディング。

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このような執着が描かれるなら、物語は最終的に”へや”に戻るはずです。そして、その”へや”で孤独に終わっていくことが想定される。

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もうひとつの可能性は、”へや”に希望を閉じ込めるパターン。さきほど話した星の王子様と同じです。べつに世界にでなくても、世界の広さを感じることができる。実際に行動したり経験することなどが世界の真実を実感する方法ではないという感性です。これはどうやらわからない人には徹底的に共感できない感覚らしい。

もうちょっと説明してみようかな。例えば、お坊さん。高僧ですね。高僧はなにをもって高僧と捉えられるのでしょうか。大きなお寺を管理しているとか、病を祈祷で治したとかでしょうか。

おそらくそうではなくて、僧侶自身の徳の高さこそが高僧たる所以です。たとえば、「あっかんべぇ一休」という漫画があります。ここで描かれる一休さんは決して立ち居振る舞いに優れた人物とはいえない。しかし、彼の生き方の気高さや奥深さなどが高僧たる所以であることを示している。ちなみに、一休さんの逆パターンの人間が良寛さんみたい。機会があったら調べてみるのも面白そうです。また、この系統でよく描かれているのは『阿吽』とかもそうですね。人間精神への深い信頼と教典に書かれていることから独自の悟りを得る過程が描かれています。別にお金があるからえらいとかではなく、自然と頭を下げたくなるほどに徳の高い精神性へと敬意を示して高僧と呼ぶのだとぼくは考えています。

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形のないものに価値を見出す・信頼を寄せる文化は世界中で見られることでしょう。それの物語版が星の王子様です。

前述の星の王子様以外にこのパターンの物語を作り上げる作家は何人か心当たりがあります。まずは大林宣彦作品が頭に思い浮かぶ。特に『ふたり』はまさにそのパターンの作品でしょう。また、同様に人間精神への強い希望を描くのがホドロフスキー。『ホドロフスキーのDUNE』『リアリティのダンス』は、人間の内的動力(精神の強さ)は外部の圧力に負けないということを端的に示している。

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ちょっと長くて大変かもしれないけれど、麻枝准による『AIR』もそのひとつでしょう。先ほど名前を挙げた瀬戸口さんの別作品である『SWAN SONG』もその一つ。

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これらの作品はカルト的な人気を誇っていて時として「なんかわからないけれど凄い」という評価を得て売れてしまう。

ところで、最近大林宣彦さんの『大林宣彦の体験的仕事論』というのを読んでいるのだが、そこに面白い一文がある。

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大林さんがHOUSEを作るときに、もうひとつ別の花筐というシナリオを抱えていた際のエピソードです。大林さんのHOUSEはあまりにめちゃくちゃで東宝の監督が全員「おれはこの映画を撮れない」とサジを投げたらしい。そこで台本を提示した大林さんが当時異例の抜擢で東宝で映画を撮ることになった。そのとき、花筐のほうのシナリオも東宝のひとに読んでもらったらしい。

すると向こうは「よくできたシナリオですが、これならうちの監督でも何とか撮れます」といった。

それを聞いた大林さんは「ああそうか、東宝の監督が撮る映画を僕がやってはいけないんだ」と気づいて、『こんなものは映画じゃないぞ』という映画を撮ろうと思ったらしい。

これは非常に良くわかる話なのだが、その話は別の機会に譲る。

とりあえず、「なんだかわからない」っていうのは「いまはまだわからない」というのに過ぎないんですね。

ホドロフスキーなんて本気で映像による人類の革新を狙っている大変態なんですが、彼の狙っていることも同じです。

「いまわからない」ことでもそれを出していれば反応をするひとがいる。その人がきっかけになって、あるいは「わからないけれどすごい」という感覚が人を引き寄せ、いつのまにかそれが「わかる」ことになる。

それこそが、人間の革新だといっているんだと思います。

ワンピースもそういう心意気の高さを感じる。「夢を語れ!」という黒ひげの言葉が表現しているのは、そういうものでしょう。

大林宣彦、ホドロフスキー、麻枝准などは、まさに「いまはわからない」ことを表現し続けた作家です。大半の人間には「まだ」わからないことを描き続けてきた。

しかしその作品が持つ「まだわからない」ところから来る凄みはひとを惹きつける。

カルト映画には、商業映画には持ち得ない未知の鉱脈が広がっています。

その考え方から言うなら「”へや”のなかから”せかい”を知る」ことが出来ることは、まったく不思議ではない。麻枝さんの作品のひとつ『CLANNAD』で、ヒロインのひとりことみが「わたしのお庭は広いから」というシーンがある。

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それは、家一軒程度の広さの狭いスペースで得られることは、世界の広さから得られることに負けないくらい素晴らしいものなのだ、という表明だ。

本作ルームの2つ目の可能性として、狭い”へや”は人間を閉じ込めるようなものではない。さきほどの「わたしのお庭」とおなじく、「わたしのお”へや”」となるかもしれないと思ってみていた。

その観点でいうなら、最終的にジャックは”へや”に帰り、幸せな終わりを迎えることになるだろう。

映画を見ていると、この映画が表現しているのはこのふたつ目の内容であることがわかる。

しかし、この映画は”へや”で終わることを許さない。

この映画は結果的に”へや”にお別れを言って去ってしまうことになる。

それはなぜか。

実は、ここに関しては2つの解釈がある。どちらでも納得はいくが、ぼくとしてはこれからいう内容での理解を推したい。なぜなら、そちらのほうが人間精神への深い感動を覚えられると思っているからである。

映画で母ジョイはジャックにたいして「それでも私はあなたの母」だと述べ、ジャックもそれを認める。

いままで述べてきたとおり、ジャックとジョイは互いに異なる価値観を有した人間である。ジャックを優先すればジョイが立たず、ジョイを優先すればジャックが立たない。

ここで、ぼくは、「ジャックはジョイのために”へや”という安住の地を捨てた」と考えたい。つまり、愛する者のために自らの魂の在りかへの帰還を諦めたという解釈を推したい。

ちなみに、もうひとつの解釈は「”へや”は喪われ、母は”からっぽ”になってしまったので『永遠に部屋は喪われてしまった』」という喪失が描かれているという解釈だ。

このふたつに大きな違いがないと感じるように思うかもしれないが、小さいが大きな差をぼくは感じる。

さきほどもいったが、人間精神というのは広大なものだ。その精神性の深さというのはじつは場所に依存しない。

いっていることがわかるだろうか。どこにいたって”へや”にいることはできるのだ。

”へや”で培った精神性を背景に「孤独」に生きる覚悟さえ出来るならば、”へや”を自分の内部に取り込むことが出来る。それこそが人間精神の奥深さだとぼくは思う。

しかし、この映画の場合は”へや”を内部に取り込むことすら出来ていないと解釈するのが妥当だろう。

解釈の仕方によっては、「”へや”を内部に取り込んだのだ」ということも出来るかもしれないが、それでは最後のエンディングの孤独感の説明がつかない。

だからぼくはあえて”へや”を捨てたのだ、という解釈を優先したい。

”へや”を捨てる最後のシーンがジャックがジョイに言う「お別れは言った?」という台詞である。この瞬間、ジャックは”へや”を捨て、真に孤独になった。

内部に”へや”をもたず、”せかい”のなかで異端の存在として生きていくことが決定ずけられたのだ。物語内で「ぼくはこの”世界”でずっと生きていく」というのは、部屋を捨てる覚悟を表明するシーンだったと考えられる。

すると問題はなぜ部屋を捨てたのかになる。

そこで、さっきのふたつの差異が重要になってくる。

「場所や人が喪われてしまってもう戻ってこない」という無常観をあらわしているという解釈なのか、「自分の意志をもって”へや”を捨てる」という孤独への道程を表現しているのか。

ぼくは意志をもって捨てたほうを推したいのだ。

ママのために、自分の安住の地を去り”せかい”で生きることを決意したと考える。

ジャックが”へや”に心を残せば、ジョイはそれを敏感に感じ取ってしまう。その結果、精神に過剰な圧迫がかかってしまう。

ジャックは愛するママ(たとえそれが”からっぽ”でも)のために、”せかい”のなかで生きることを決意したと解釈するほうが物語の深みを感じられる。より素晴らしい物語だと考えられる。

5歳の子どもが自分の意志で寄る辺なき道程を歩む苦難の始まりが、映画ルームのラストシーンなのだ。

そう考えていくと、この物語はなんと孤独でなんと恐ろしい決意を描いた映画なのだろう。

かつて愛したママがたとえ”からっぽ”になっても、その愛は喪われるものではない。そのために、自分のアウトサイダーとしての世界”へや”を捨ててでもインサイダー”世界”へと迎合する。

それはなんて孤独で尊い物語なのだろうか。

かつて、空の境界で奈須きのこが描いた「ああ、なんて孤独」というシーンを思い出す。

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空の境界を見たときに、さいごの台詞がわからなかったという人も多いのではないだろうか。あれはぼくなりの解釈では、今回のジャックの決意と同類の決意に対する台詞だ。自分の在るべき場所を捨て誰も隣に立てない領域にたってしまった黒桐のために、つぶやかれてしまった台詞だ。空の境界では、黒桐以上に孤独なものはいない。

かれが真に愛した式は、彼を愛し普段接する式ではない。真に求めているのは「両義」式ではなく、「肉体」の式だ。そのことを理解したうえで、「肉体」の式とは逢えなくなることを理解したうえで、黒桐は「両義」式の横にたつ。彼女のために身を捧げ、罪を背負い、癒す。しかし、真に黒桐を癒すものはどこにもいない。だれにも理解されず、誰にも知られないままに、黒桐幹也は孤独に生き孤独に死んでいくのだ。それはどれほどの孤独だろう。

「ああ、なんて孤独」

この美しい台詞と同じエンディングを、映画ルームは抱えている。

誰にも理解されず、誰にも知られないまま、孤独に生きて孤独に死ぬ決意をジャックはしたのだ。それはなんと恐ろしく、なんとも崇高な人間精神の働きだろうか。

あちこちに話がとんでしまってわかりづらいかもしれないが、出来る限りのちからでもって映画ルームで感じた内容を説明してみた。

読んでくれたが理解できないという方もいるだろう。それは実に申し訳なく感じる。

もっと短く出来たらよかったのかもしれない。しかし、これはまとめるとまた別のニュアンスをもってしまうような気がする。



どこが凄いのかというのは、ホントは口頭で説明するほうがいいのかもしれない。

しかし、口頭で伝えるには相手がいる。そして、人間は忘れてしまうものだ。何処かに記録を残しておいたほうがいいだろうとおもうのだ。

ひとりでも、少しでも伝わることがあったなら幸いだ。

2016年4月11日 (月)

【完全ネタバレ】映画『ルーム』にまとわりつく謎をネタバレ自重とか考えずに考察しまくってみた

お久です。そういえば、新しく日記を始めています。本記事の続きの内容を明日そこで公開する予定

なんか今日も忙しかった気がする。毎日夜になると疲れが吹き出るんですよね。なんだろ。病気じゃないと思うので食事や睡眠の質が悪いんだと思います。

だから今日は近所の野菜バイキングの店に行って来ました。

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ただ、普通と少し違うのは、ジャックが生まれてから一度も”へや”の外にでたことがないくらい。あと毎夜洋服ダンスの中で寝なければいけないこと。なぜかというと、夜になると”へや”には外からオールド・ニックがやってくるから。ママはニックとジャックを会わせたくないらしい。ニックは魔法の袋からジャックたちに食事やプレゼントを持ってきてくれるけれど、ジャックとニックは一度も話をしたことはない。

しかし、とある日にジャックはニックと触れ合う機会を得る。それは”へや”での日々を終わりに導く事件への引き金となる。その事件をきっかけとして、ママはジャックに真実を語る。

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帰還先は少女が元々いる世界だ。だがその世界は一変してしまっている。かつて存在したやさしさは失われ、好奇の目が向けられる。静寂の変わりに喧騒と様々な圧力が襲ってくる。監禁された少女が子どもを産んで帰ってきたことをマスコミは騒ぎ立てる。そして、自分も7年前の自分とは変わってしまった。

過去のイメージと現実のコンフリクトはジョイを圧倒する。徐々にジョイは子どもへと依存するようになる。しかし、それも一時のことに過ぎない。最終的に彼女はその圧力に耐えかねて倒れてしまう。

本作の見所は、そのようになってしまった彼女を子どもの献身が救うところにある。

子どもによって救われ。彼女は社会へと戻り。幸せになりました。

めでたしめでたし

それが、一面の物語である。でも、ほんとうにめでたいのだろうか。本作を見終えた視聴者はこれで満足するのだろうか。物語を再構成してみよう。

本作においてジョイが子どもに真実を語るときに次のように言って聞かせるシーンがある。

壁がある。その壁には、表があれば裏もある。私たちは壁の内側にいて、外にも世界が広がっている。

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ところで、ぼくは今までジャックを「子ども」としか表現してこなかった。なぜだろうか。

じつは、本作ではジャックが男なのかどうかは明かされていないのだ。ジョイは一度としてオールド・ニックにジャックを触らせることはなかった。男の子だと語られるのは、あくまでオールド・ニックに対してのみであり、ジャックが”へや”の外に出たときジャックを見た男性や警官はジャックのことを彼女と呼んだり、ジャック以外に名前はないのかと尋ねている。また、ジャックが寝ている洋服ダンスのなかでジャックの履いているパンツが明らかに女性物だったのも、おや?と感じた一因である。

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一方、オールド・ニックはジャックに乱暴な行為を働いたことはない。むしろ誕生日だと知ったら失業中なのにも関わらずおもちゃのクルマをプレゼントしてくれる。

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その矛盾を解消するひとつの案がジャックが実は少女である、ということだ。オールド・ニックから娘を隠すために男の子だと偽っていたと考えると、過剰なまでにジャックをオールド・ニックと遠ざけようとしたことに矛盾はない。

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ちょうどジョイの物語を補助線にひくと理解しやすいと思う。

本作でジョイは「社会から切り離されて”へや”につれられてきた」少女である。だからこそ、先ほどの再生の物語という見方ができる。

しかし、ジャックから見たらどうだろうか。

ジャックからしたら、彼(彼女?)の世界は”へや”だけだったのだ。彼は母親の要望に従い、”へや”から”世界”へと移り変わる。

ジャックの視点からするならば、彼は元いたところから無理やり切り離されたと見ることが出来る。

母親と、”へや”のみんなに囲まれて平和に暮らしていた少女は他ならぬ愛する母親によってその場所を奪われてしまう。ジョイの視点からしたらオールド・ニックは平和な日常を壊した破壊者かもしれない。誘拐者である。しかし、ジャックの視点からしたらオールド・ニックは敵でも憎むべき相手でもない。むしろおもちゃのクルマをくれたやさしいおじさんともいえるかも知れない。

ジャックの側から見るなら、破壊者は母親のジョイである。

だからこそ、物語後半でジャックは母親が”へや”での母親と異なることを語っている。ジャックからしてみれば、彼の真の母親は”へや”のママだ。ジョイなどという存在ではない。だからこそ、からっぽだと表現したといえる。

ジョイもそれを理解しているのか、それでも私はあなたの母親だ、と述べている。

なんと歪な関係の物語だろうか。そして、なんと美しい物語なんだろうかと思う。

こういう構造を備え、自然とした物語を作り上げている本作は紛れもなく傑作だと思う。

そうやってみると、本作は本来あるべき場所から切り離された少女がもといる場所に戻る物語であると同時に、本来あるべき場所から切り離された少女の非対称的な物語であるといえる。

しかも、ジョイは救われるが、ジャックには救いがない。

彼は、”へや”にあったすべてのものを失い二度と取り戻せない。なにより、彼女の愛した母親は”からっぽ”になってしまったのだ。

”へや”と母親が揃ってこそジャックの原初は完成する。本作はジョイの再生であると同時に、ジャックの喪失の物語なのである。

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続きを読む "【完全ネタバレ】映画『ルーム』にまとわりつく謎をネタバレ自重とか考えずに考察しまくってみた" »

2015年4月25日 (土)

映画『セッション』はテニプリと同じありえへん音楽映画である。しかし、テニプリはテニス人口を増やしたがセッションはジャズ人口を減らすのかもしれない。セッションとは何だったのか

セッション

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ノラネコさんの批評raneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-824.htmlを見て、映画『セッション』をみてきました。

折角東京に来たのだから山梨ではやっていない映画を見たいというのが人情でしょう。空き時間を如何に過ごすかで人生のクオリティオブライフは変わって来るのですよ。戯言なんですが。

さて映画『セッション』ですが、僕としては「コ、コメントしづれ〜」というのが正直なところ。

まず、大前提としてこの映画が「面白い」というのは確かです。全く見たことのない映画だ。戸塚ヨットスクール式熱血音楽指導とでも言えばいい。

異常なまでの熱が潜んでいる作品なんです。

しかし、その熱に対してコメントする言葉がない。何故コメントする言葉がないかというと、この映画を作られた理由が個人的経験の昇華にあるからだとぼくはみている。

本作では、過剰と言われるようなシゴキが行われる。音楽大学の教授フレッチャーは全米一のジャズチームを指導してる人物だ。そして、その指導は苛烈を極める。才能を感じられる若者を連れてきては偏執的とも言えるハートマン軍曹式熱血指導を行う。

相手の人格攻撃は基本だ。ミスがなくても怒鳴る。ミスがあれば更に怒鳴る。ありとあらゆる手段で若者の精神を削っていく。狂的なまでの人格矯正指導に耐え兼ねて自殺するものもいるほどだ。

そのフレッチャーが新たに選ぶのが主役のニーマンというドラマーだ。フレッチャーはニーマンを抜擢し、ひたすら厳しく指導をする。愛はない。ひたすら厳しく指導するだけだ。

フレッチャーの目指すのは見果てぬ夢だ。

本作において、フレッチャーはニーマンに自分は天才を産み出したいのだと語る。ありとあらゆる理不尽に耐え自らの限界を超えて後世までに語られる天才を産み出したいという趣旨を語るのだ。

フレッチャーの、そして後にニーマンの目指すのは第二のチャーリー・バード・パーカーである。ありとあらゆる理不尽を超えて音楽を後世に残していく大天才だ。

確かに見果てぬ夢だ。

幾つかの映画批評ブログでは、本作は音楽映画というよりボクシング映画に近いと語られている。ぼくもそこに同意する部分はある。理不尽こそが強い人間性を作り上げる不合理のメソッドがそこにはある。

これをもって音楽世界において一流となるのは如何に過酷なのかと語ることはできる。この厳しい姿勢にたいして尊敬をもって見ようということもできる。

しかし僕はそこには反論したい。

騙されるな。勘違いするなと言いたい。

繰り返すが、本作は面白い。しかしこの面白さは現実の過酷さにあるからではない。理不尽を乗り越えて超人になるから面白いのでもない。

本作が面白い理由は作り手の内面の吐露と激情がマッチしたから面白いのだ。

今回は面白さを議論する場ではないので面白さとは何なのかを議論するのは置いておこう。もし気になるなら明日4/26のニコニコ超会議の海燕さんのニコ生がそのテーマらしいので見てみると良いかもしれない。

今回は面白さには様々な要素があること。そして内面を吐露されることは「面白さを含有している」ことだけ語れれば良いと思う。

その観点からいうなら、今回の面白さは個人的体験を前提にしてるのだろう。シゴキに耐えきって成功を掴んだ人は共感しやすい部分もあるかもしれない。

しかし、本作はそれだけではないと思う。成功体験を語ってるわけでもないのだ。ぼくは先ほどこの作品は見果てぬ夢を描いてると語った。本作の理不尽体験は作り手の経験に依るものだとは思う。しかしその理不尽体験は実を結ばなかったのだろう。

シゴキに耐えることと成功は本質的には関係がない。ぼくは努力を否定しているわけではない。努力は大いにしたら良い。努力は確かに成功する確率をあげるだろう。しかし努力しても報われないこともある。理不尽だ。

そういう理不尽な体験をした時に人に出来るのはその無駄を受け入れることと昇華することのどちらかである。

本作は作品を作ることで昇華をしようとしたのだろう。そして、作っているうちに自分がもし諦めなかったら何処に辿り着けたのかが見えてしまったのかもしれない。

作り手の見えた果てはニーマンとフレッチャーの対幻想の果てと同じだ。ニーマンとフレッチャーは最終的にカーネギーホールで一流の演奏家と演奏する。しかし、作品をみている僕たちにはその場がカーネギーホールには見えない。そして演奏している者も一流の演奏家と見ることはできない。

作り手の体験を無意味にしないための儀式と現実がコラボレーションした結果の姿である。

別の観点からも似たようなものがみてとれる。

先ほど、騙されるな。勘違いするなと語った。

本作のすべてを信用してはいけないとぼくは言いたい。

フレッチャーは天才を作り上げたい教師ではない。口ではそう言っているが、実は違う。彼の本質は自己を偏愛し肯定を求める器の小ささだ。物語ラストで自身を告発したニーマンへの復讐心は純粋なものだ。自己を偽り後付けで肯定していく器の小さい男なのだと思う。ニーマンがラストでフレッチャーに反旗を翻したとき彼はその9分19秒に自己肯定を再構成していく。

はじめは自分の復讐に反旗を翻したニーマンへの怒りがあった。しかし自分では止めることの出来なくなったニーマンを見て考え方を変える。俺はこの反発をこそ待っていたのだと後天的に自己を偽るのだ。偽りの信念はいつの間にか本物と入れ替わり、ニーマンこそが自分の作り上げたかった超人なのだと思い込むようになる。

この自己を後天的に肯定してしまう姿勢は一見すると天才を生み出そうとする狂気にみえる。しかし違うのだ。これはフレッチャーのミニマムな王国を作ってしまう自己顕示欲と、フレッチャーの狂気に感化されて自己を肥大化させてしまったニーマンの狂気が並列に存在してるだけの現象に過ぎない。この天才を生み出そうとした狂気は、自分に制御できない怪物をフレッチャーが見たときに後天的に自己肯定をしてしまったが故に産まれた錯覚だ。

フレッチャーは作り手のエゴを体現した存在だ。もし自分が諦めなかったら音楽の極地に辿り着けたのではないかという無念を体現している。しかし同時に器の小ささ故に理想に身をさらけ出すことを許さない。フレッチャーは他者への指導にテンポの追求を求める一方、自身のピアノ演奏は非常にリリカルになっている。同時に自分の王国を自分の小さな手の中に置いておきたいのだ。

そこにはエゴしかない。自己のみを見ている。肥大化した自己は自分の小さな王国を作りだす。自分の小さな王国を完成させたなら、次は自分の創り出した天才を産みたいという偽りの欲求を充実させる番となる。

グロテスクで醜悪にして器の小さなモルモット実験である。

この姿こそがセッションという映画の一つの真実なのかもしれない、とぼくは思ってる。

とても珍しい映画を観た。通常では見れないものだろう。観て後悔はない

(4/25 てれびん 著)

2014年10月 9日 (木)

『タイバニ好きにオススメしたいイン・ザ・ヒーロー』~めちゃくちゃ面白かった~

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~イン・ザ・ヒーローってどんな話?~
 唐沢寿明主演の演劇映画です。主人公はアクション俳優。日本ではアクション俳優とは言わないで、アクターって呼ぶのかな。着ぐるみに入ってアクションをしたり、殺陣で斬り殺される役をやったりする人です。

 ブルースリーに憧れてアクションスター目指して演劇の世界に入り早数十年という「おっさん」が主役の映画です。夢はブルースリー。でも現実は戦隊ヒーローのなかの人しかやれない。

 本編のなかでも言っていましたが「アクション俳優を目指すやつは必ずスタントマンになってしまう。日本ではアクション俳優にはなれないんだ」。こういう諦念を抱いているおっさんが主人公をやっています。



~あらすじ~

 ヒーローの中の人「イン・ザ・ヒーロー」をやっている主人公(以下リーダー:戦隊モノのリーダー役、インスタント集団のリーダーをやっているからリーダーと呼ばれている)はある日、自分の出演している戦隊番組の映画のゲストの敵役に抜擢されます。このことに喜んだ彼は、別れた奥さんや子供に久しぶりに名前が出るぞと連絡をします。しかし、それは叶わない。売り出し中のイケメン俳優一之瀬涼(以下:リョウ)が、本来リーダーがやるはずだった役をやることになる。事務所のコネで役を奪われます。

 これがこれから互いに意見をぶつけ合わせることになる二人の出会いでした。日の当たらない影の仕事をするリーダーと、常に衆目に晒されている陽のあたる道を歩くアイドルのリョウ。互いに異なる信念を抱くおっさんとイケメン。

 何十年も現場とともに歩んできたリーダーと、ひたすらトップを目指して周囲を見てこなかったリョウでは考え方や価値観が異なります。現場に支えられている自覚を持てという(納得いくがおっさんくさい)リーダーと、そんなものをに振り回されずさらに上に行きたいと現場を顧みないリョウ。ひとつの映画の製作過程を通して互いに知り合って行くのが、物語の前半です。

 後半では(リョウがオーディションを受けている)ハリウッドの映画を通して、今作のテーマ「イン・ザ・ヒーロー」の意味が問われます。
 詳しくは劇場で見てもらいたいですね。(まぁ、後半の感想でネタバレする予定ですが)



~タイバニとの構造的類似点~

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 この映画は、いろいろ面白いところがあるのですが、なにより皆が楽しめるのは「酸いも甘いも知った上で夢にしがみついているおっさん」と「才能にあふれて格好いいイケメン」の構図ではないでしょうか。単純な二項対立に見えるこの構図ですが、本編後半にいくと崩されることになります。現実で生きるってのは、いいこともあれば悪いこともある。構造的には当たり前の流れですが、二時間の作品にまとめ切ったのは素晴らしいことです。上手い。

 タイバニもそうですよね。はじめは格好悪いおっさんの虎徹さんがイケメンのバーニーに絡んでいくうざい構図です。しかし関係が進むにつれて、互いの背景や考え方がわかってきてバーニーからは尊敬を、虎徹からは信頼を与える関係ができる。ある種、精神的な師弟関係の構図ができあがります。この関係性に僕なんかは「萌える」ところがあるわけです。

それと同じことがイン・ザ・ヒーローでは起こります。タイバニでは6時間かかった内容を一時間にまとめきっているので、この「萌え」に共感する人は是非に見に行くといいよ。めちゃくちゃ楽しいです。

また、タイバニの見所のひとつに「ヒーローとは何か」という虎徹さんのテーマが隠れています。おっさんになっても、力を失っても「ヒーローを目指す」。このおっさんの純情に涙した人も多いはず。

 本作でも、その構図は取られています。
 タイバニみたいにヒーローが現実に居る世界ではありません。しかし、現実世界にもヒーローはいます。少なくとも主人公のおっさん、リーダーはその存在を信じている。
 本作の重要シーンで語られるリーダーの慟哭はホントに胸に来ます。
「誰かがやれるって示さなければいけないんだ!そうじゃなきゃ、夢が持てないじゃないか!」という趣旨のセリフ。どこで語られるのか、ぜひ劇場で見てもらいたいです。



~感想~

 おっさんがホントに格好よかったです。
 タイバニと類似しているってかいたけれど、ホントに構造としてはマンマ同じです。いやー、面白かった。
 ぼくが劇場で見たときは三人しかいなかったんですが、残念。あれは売れて欲しいなあ。とてもいい映画ですよ。
 真新しいことはないです。構造も、ここまで書いたのと同じ。


 べつにタイバニ見ればいいんじゃね。って感想もあるかもしれないけれど、それでもこれは見ておいたほうがいいと思います。
 なぜかというなら、この物語のリアリティ度がホントに高いからですね。
 現実にはこのおっさんやイケメンのように「夢は叶う」なんてことは、ない。本作でもそれはわかって作っているんですよ。
 知り合いから聞いた話なんですが、殺陣をやっているひとって、ホントに報われないらしいですね。太秦ライムライト?だっけ、あの主役やっている人とかは、ホントに例外らしい。殺陣をやっていて陽のあたるところに出れない人が無数にいる世界。しかし、本作の素晴らしいのは、そこで「でも!」と叫ぶ人がいることですね。
 先程もかいたけれど、「でも!アクションには先があるんだって示さなければ、後ろにいる奴らが夢をモテないじゃないか。だから俺はやる。ブルースリーに俺が憧れたように、俺も誰かのヒーローにならないといけないんだ。」(意訳)というリーダーのセリフは涙なしには見られません。こういう必要だけれど報われない仕事に夢を与える誰かが必要というのが、普遍性をもっているから感動するんだと思いますね。だから先ほどの言葉に続いて「リョウ、お前もだれかのヒーローになれよ」ってセリフがもう格好良くて仕方ない。
 いやはや、ほんとに素晴らしかった。繰り返すが、素晴らしかった。
 みんな見ようぜ。めちゃくちゃ面白いからさ。ほんと、明日にでも見てください。


 細かいところを言うなら、全員役者なんですよね。だから「現場の空気感」は知り尽くしている。だからなのか、日常シーンがとてもリアリティがありました。ああ、映画の裏ってこうなっているのか、ととてもリアルに想像できる。
 ぼくこれ見ながらアイマスを思い出していたのですよ。
 やっていることは同じで、真逆の物語だなって。


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 アイマスというのは、トップアイドルになるという夢を追いかけるヒロイン達の友情と絆と夢の物語なんですよね。彼女たちがトップアイドルを目指す理由ってのはいろいろあると思うのですが、そのひとつの理由に「アイドルになれるって夢を叶えることを後ろに示す」というのがあるようにぼくは見てます(アニマスとムビマスを見ただけの感想なので、ガチファンからは違う!と怒られるかもしれないですが^^;)。
 まぁ、アイマスが視聴者の共感を産んだひとつの理由にそういう「夢を与える存在」が普遍性をもっているってのが、ひとつあるように思います。
で も、アイマス作品(少なくともアニメ)では、現場の存在というのはあまり描かれることはないように思えます。それは、現場を描けば視点の焦点がどっちらかるということがひとつ理由に上がるのではないかな。また、輝く存在たるアイドルの泥臭い側面を描くのは、それはそれで夢を壊すことになりかねない。彼女たちはステージの裏でも表でも「アイドル」で有り続ける。この一貫性というのが、アイマスの物語の構造にあるんじゃないかなと思います。


 そこで、イン・ザ・ヒーローはその逆。その光り輝く存在を支える「影」の夢を描いている。だからこそ、現場にリアリティがあればあるほど、後半が盛り上がるようになっています。
面白いからまぁ、見てみてください。
もちろん、不満点がないわけではないですよ。最後の最後の「世界初」の殺陣のシーン。お話の設定とその表現描写が矛盾する(たぶん矛盾していると思うけれど、、)と、ちょっと萎えないわけでもない。
とはいえ、それ以外はほぼパーフェクトに面白かったです。
今年の映画ベストに入りそうな勢いなのでみんなみるといいよ。ほんとに。

2014年5月16日 (金)

アクトオブキリング:この世界の空の下で起こっている不思議について

時間が出来たのでふらっと映画館に言って「アクトオブキリング」をみてきた。

60年代に秘密裏に行われた100万人にも及ぶ大量虐殺の加害者を追いかけたドキュメンタリー映画だ。

虐殺の「再現」。その奥底で監督が見たもの:映画『アクト・オブ・キリング』
いまでも英雄として過ごし続ける加害者たちに監督は「あなたたちの虐殺を映画で再現しませんか」と問いかける。

この映画は確かに傑作だ。

何がスゴイって、僕たちと地続きの世界にこんなにも異なる論理で回ってる世界があるのだということがスゴイ。

この記事を公開するときに公開しているかわからないけれど、いまこの記事と同時並行でインドの少年シャールク・カーンがコンピュータによって結ばれた縁の果てに医学部に入った記事の感想を書いている。
で、こういうことと同時にぼくは日本の川上会長がカドカワの経営者になるってことを知ったんですね。
偶然なんだけど、これらが同日にぼくの目に飛び込んできたことがものすごい衝撃的でした。

えーと、ですね。
ぼくがスゴイなー、と思うのはこのみっつの出来事が同じ空のしたでおこっているという不思議なんですね。とてもエキサイティングな出来事に感じる。

説明してみよう。
これらの出来事をまとめてみると、ぼくの視点では
インドの片隅に生まれた貧困層の少年が奇跡的にコンピュータと出会いに自分の人生を導く師と巡り合うという光り輝く物語の延長線上に、100万人もの人間を殺した者たちが英雄・指導者になるルールの世界が平行に存在してるのだ。ということだと思います。、


夢も希望もあるんだよ、、
って世界の脇に
夢も希望もないんだよ
って世界が佇んでる。


いまふと思い出したのですが「この世界の片隅で」の魅力も同じです。奇跡の起こらない戦争「世界」と同じ空の下に、すずたちの温かな日常がある。

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いや、世界ってそんなものですよね。わかります。たぶん、わかります。
とはいえ、この無常な感覚がものすごく面白いです。気持ちいい。

で、話を戻そう。

こういう対照的な出来事の起こってる空の下では、既存のものとは異なる新たな潮流が生み出されてもいる。それが、川上会長とカドカワの話である。

川上会長とカドカワの繋がりがどうして新しいのか。それは、続いて話をしていきたい。

ぼくは、おそらく川上会長ってリアルとネットを同列に捉えている方なのだとおもってます。
そのために、ちょっと次の文章を見てもらいたい。
この記事の川上会長のセリフがものすごく印象的です。

〜この新会社なんですが「プラットフォームをやってるドワンゴとコンテンツをやっているKADOKAWAの2つが合わさった」と理解されると思うんですけど、この理解は僕は少し違うんじゃないかと思っています。実は、もともと両社ともプラットフォームとコンテンツの両方をやることを目指してきた会社ということではないかと思います。
KADOKAWAさんの方も、出版社は雑誌っていうのは「リアルな世界のプラットフォーム」だと思うんですよね。販売網、書店に対してKADOKAWAの棚があるわけなんですけど、これもネットの世界のプラットフォームと対比されるリアルのプラットフォームだと思います。つまり出版社もリアルな世界のプラットフォームとコンテンツの両方を扱うというのが、正しい理解ではないか。〜

これって、ぼくやペトロニウスさん・海燕さんや多くの仲間たちが共通で見ていた世界の出来事のことだと思います。

エンタメならソードアートオンラインなどがいい例だと思います。ぼくも含めてソードアートオンラインを題材にして「これからの未来」を語った人たちは多いでしょう。あれもリアルとネットの接続の物語として読めます。
現代社会はリアルの延長線上にネットがあり、そういうことにリアリティを感じられるようになってきた世界なんでしょうね。

ぼくに会ったことのある人はなろう作家シロタカさんが連載されてる「フィフスワールド」をぼくがものすごく褒めていたのを知っているかもしれない。

そこで、なんで褒めてたかというと、この川上会長の世界ってのをリアルな射程で収めてる作品だったからなんです。

ネットの世界が第二の現実となってる世界は、確かにこうなるだろうと思うんです。子供たちはネットの英雄であると同時に普通の高校生としての日常を謳歌している。
ネットの英雄は、いわばプロ野球のトッププレイヤーと同じなんですよね。

しかもオリジナル版の初期はリアルとネットがほぼ同列で書かれていた(とぼくには見えました)ので、その地続きの感覚が鮮烈な印象を与えてくれました。

勿論、書籍版も面白いんですが(こないだ四巻読み直した面白かった)、ただそういう意味では、オリジナルのネット版ってのはやはり最高でした。ネットの英雄が高校では美少女に振り回される普通の少年だって二面性が素晴らしかったんですよ。リアルとネットはどちらが上でも下でもなく等価な世界でした。

いやー、なんでぼく保存しておかなかったんだって大後悔してます。誰か保存してたらください(と、宣伝しておく)

ぼくの見ていたのは、そういう「先」の物語でした。

で、話を戻すと、、全く異なるルールの世界が並列に並んでる脇で、リアルとネットが相互を補完しあうような流れが出来ている。
「新たなフロンティア」が世界の片隅で創成されていると言えるかもしれない。

こういう不思議がいま世界で起こっているんですよ。
いやー!!すごい!
やはり世界って広いのだなぁと思います。

・・・あれ・・・アクトオブキリングの話題何もしてないや。なんか話題がずれてた笑

ちょっと収集がつかないので、映画の感想は次回にでも続けることにします。

できるならば人間が人間を殺すときとか、ひとの変化とかココロノ不思議を絡めていきたい。
まぁ、ぼくのことだからそんなに予定通り考えられるかはわかりませんが・・・
そんなこんなで今回はここまでにします。では、また〜(唐突)

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2013年9月11日 (水)

映画『キャプテンハーロック』見てきました~福井晴敏と生きることの肯定~

人間は変わらない。世界が変わることもない。
そういう世界でひとはどうあるべきなのか。

この映画は松本零士の『キャプテンハーロック』の魂を受け継ぎ、福井晴敏なりに再構成されたいわゆる『キャプテンハーロック・ビギニング(ライジズ)』である。

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最初にネタバレをしておくと、『キャプテンハーロック』の主人公ヤムはハーロックに敵する地球連邦政府のスパイである。ヤムはかつて犯した過ちを償うためにアルカディア号に乗り込む。そこから物語がはじまる。
映画『キャプテンハーロック』の登場人物は皆なにかしらの後悔をかかえていきている。後悔を抱えているのは主人公ヤムだけではない。物語のキーパーソンたるハーロックもそうであり、ヤムの兄にして地球連邦政府の要人であるイソラもそうである。
このせかいでいきるものは全員なにかしらの後悔を抱えて生きている。

ぼくが最初にこの映画を見ていたときは、松本零士の『キャプテンハーロック』を想像していた。熱をもち義に厚い自由の使者たる英雄キャプテンハーロックが活躍する物語を想像していた。しかしその期待は裏切られる。この映画に登場するのは英雄キャプテンハーロックではない。かつて人類最大の過ちを起こた大罪人にして未だに支えきれないほど巨大な後悔を抱える人間キャプテンハーロックである。
松本零士版ハーロックを想像していたものはこの違いに驚くだろう。
この映画にでてくるのはひたすらまえを向いていきている人間たちである。洒脱なユーモアもなければ、友情になみだする姿もない。かつての後悔に涙して失敗をなかったことにしたがるありふれた人間のすがたである。
松本版と異なるハーロックであるが、唯一共通するものがある。
それが、生きることにたいするスタンスである。

生きることが一瞬のきらめきであるのならば、きらめきの交錯はひとつの奇跡である。一瞬のきらめきの連続で生が成り立っている。
これを松本零士風にいうならば「受け継がれた魂の中でひとは永遠に生き続ける」のである。そのことを異なるアプローチで描いたのが本作である。
本作のテーマを一言であらわすならば「生の肯定」である。
ひとの為す選択のひとつひとつは生の証となる。そして選択には結果がつきまとう。それが連続して人類という種の生がつくりあげられていく。
その意味でこの映画の主人公がヤムであることは納得できる。
物語の主人公が作品のテーマをあらわす存在であるならば、物語中で都合3回裏切る「スパイ」の青年はもっとも多くの後悔を抱えた(=選択の結果を手に入れた)ものであると見ることができる。
作品中でハーロックが世界最大の後悔を抱えていることが明かされる。
だからこそ『ハーロック』はヤムに継承される。
ラストでハーロックがヤムを『ハーロック』の継承者に任命するのは、この物語中でもっとも『生きた(=選択の結果を受けた)』のがヤムだからである。

ダークマターエンジンの停止とともに消滅するミーメは、作品中で自身が語る通り「ハーロックと共にあるもの」である。その「ハーロックとともにある」彼女(とトリ)が、作品のラストでヤムと並び立つのは、ヤムがハーロックの名を継いだ証である。
そうしてハーロックの魂は受け継がれ、ハーロックの生は続いていく。
松本零士風にいうならば「魂が受け継がれて永遠に生きる」ことである。
うろ覚えなのだが、物語の冒頭とラストで次のような問いかけがなされている
「人間はかわらない。せかいはかわらない。なにも変化せず膿み希望も何もみることができない。それでもなぜやつ(=ハーロック)は前に進むのか」
その答えは、「それが生きるということだから」なのだろう。
全体的に粗い部分も在ってひとには薦めづらいが、ぼくとしては楽しい作品だった。
いいものをみた。

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