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超越者

ぼくのみたいもののひとつ

2012年2月13日 (月)

愛の物語とディスコミュニケーション―人類の鬼子 バサラ、タナベとはいったい何者だったのか―(ガンダム マクロス プラネテス)

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プラネテス読みなおしたのですがやっぱり面白かった。にんげんの変化についての描き方が秀逸。ちょっとTwitterで「 プラネテスは宇宙に出ても人は根本的に変わらなくてハチが素直になっていく様を描いた作品という印象。」というコメントを貰ったのですが、それはそれでよく分かる話なんですよね。このあたりはハチマキやフィーに視点を持って行ってるひとはそういう感想になるんだと思います(あくまでぼくの印象だと。ですが)。

ちなみに、ぼくはこの物語「タナベと猫」以外に共感するのが難しい人なのでそこら辺の感覚がちょっと違います。(別に他のキャラに共感できなくはない・・・努力すれば・・・)

どちらかというとこの物語は「ディスコミュニケーション」の物語だと思ってみている部分が強いですね。

ぼくが昔から語る感覚の一つに「ひとは決して交わらないし孤独だけれど、それでいい」という感覚があります。これはその「交わらない」ということに対して「喜び」とか「悲しみ」を結び付けない立場と言えばわかりやすいのでしょうか(説明が難しいな)

ちょっと概念的になるけれどそのあたりについてもうちょっと話をすると、ひとの思いと世界ってのは無関係だよね、という表現になります。もちろん世界の変化にたいして人の心ってのは影響を受けざるおえません。そこを否定しているのではなく「世界の変化にたいして影響をうけることを決定しているのそのは本人の精神」と言えばわかりやすいでしょうか(わかりにくいだろう。。。)

よくある物語の形式に「人と人が分かり合えないわけがない」「分かり合えないことが悲しい事なのだ」というのがあります。これはガンダムでも語られていることですね。

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ニュータイプというのはその「分かり合えないひとの空隙」を埋めてくれるシンパシーをもっている存在とも言える。(成功しているかは別にして理想としては)

だけどぼくの好きなガンダム作品「ガンダムX」はそのニュータイプを特殊能力を有したに過ぎない「只の人間」「幻想」だと断じてしまう。そこにたいして喜びも悲しみも表明することはない。「そういうものなのだ」と示してしまう。おそらくこのカタルシスのなさが評価の低い所以だとは思います(ぼくは逆にそこを評価している)

ここには「何処まで言ってもにんげんはにんげん」なのだ「にんげんはにんげんのまま突き進むしかない」という夢も希望もないリアルな世界が広がっています。ガンダムX では「でも人間は人間のちからでまえへ進めるんだよ」ということもいっていてその点はプラネテスのロックスミス的でもある

ただ「わかりあえないことが悲しいのか?」という疑問は、ほんとうはあがってきてもいいことだとぼくなんかは考えてしまう。

ガンダムXは「恋愛」「一目惚れ」という要素をうまくつかってそこをクリアしている。あくまでかれらは人間だから恋愛感情を「差別」の感情を持っているということになっている。ティファは超能力をもっているだけの「ただの人間」であってニュータイプとか言う「異物」ではない。ガロードはテーマ的にも「人間」なのでそこはクリアされている。

たとえば「わかりあえない」(けれど「わかった気になっている」)物語というのは以下に上げる『マクロス7』が代表作になるかもしれない。

たとえば『マクロス7』のバサラや『プラネテス』のタナベ(後にホシノになるが)というのは人類の中でも「異物」である。バサラなんて物語の開始では延々敵と味方から「お前邪魔だぁぁ」と怒鳴られている。バサラへの周囲の評価が変わってもバサラは変わっていない。本質的にバサラというのは「理解出来ない存在」として描かれている。たぶん彼らのみている世界を共有するには人類が本当に「ニュータイプ」とかそういう「人類以上」の存在になるしかない(それが進化であるかどうかは別にして)

バサラがなぜ歌うのか理解するのを理解することはできないししなくていい。かれにとって唄を歌うことはタナベがすべてを愛するのと同じように自然なことなのである。

タナベの愛には理由はない。いいところを見つけることはあってもだから愛するという類(たぐい)のものではない。

幸村誠さんの別作品『ヴィンランド・サガ』には「愛と差別」を語った部分がある。

ひとがひとを愛するのは差別であり、真の愛とは区別なきものである。

目の前の死を愛し眼の前の苦難を愛し眼の前の幸福に涙する。ひとの残虐に感動し優しさに頬ずりをしてどれにも興味がない。

ちょいと適当に書いたのだが、まあ、愛とはそういうものであろう。

愛とはいわば「受け入れるもの」であるとも言えるかもしれない(すいません反射神経で書いています)。

プラネテスのラストでタナベは上司のフィーとかれの旦那であり物語の主人公であるハチマキについて語り合うシーンがある。フィーはタナベにハチマキの何処が好きになってかれと結婚したのか問う。それにたいしてタナベは曖昧な答えを返す。結婚しようと言われた時に外に相手がいなかったから、と。フィーはそれを聞いて唖然とした声でそれは先着順ということかお前はハチマキを愛しているのかと彼女に問う。それに対するタナベのこたえは

?・・・はい。もちろん

という一言であった。

これはタナベという存在が「差別のない愛」と「人」の間に揺蕩(たゆた)う存在だからこのような答になったのだろう。(作品をみていると「ひと」としてのタナベと「人以外」のタナベの2種類があるように見えたのでこういう表現になっている)

彼女は人としてハチマキを愛すると同時に「人以外」としてもハチマキを愛している。(どちらかというと人以外の部分が強いとは思うが・・・)

彼女が圧倒的な異物と「なりきれない」のは彼女の人たる部分によるものだとぼくは思ってしまう。

その点バサラは突き抜けている。かれはそういう意味でいうなら「人ではない」。

かれのまえでは人もプロトデビルンも山も宇宙もクジラも差別がない。

ただただ「歌って聴かせる」存在である。

だからこそバサラという存在を理解できるものは物語の中にも外にもいない。それはわれわれの限界の先にある「異物」だからである。

こういう存在の出てくる物語は存外にすくない。しかも主役として活躍しているとなるとそれこそ異常である。

正直ようこんなやつを主人公にしたものだと思う。バサラという存在は物語的には「異物」として排除される存在である。ゲームだったら「魔王」としても登場しておかしくない。

それはかれの能力がどうこうということではなく、その精神が既存の範疇を圧倒的に超えてしまっているのである。

ただ同時に思うのは、ただそんな存在を「許容」して存在しているのもまた世界なのだろう。

そういう点を鑑みても「世界は美しい」と僕は思う。

以前のきじでも書いたがぼくは本質的に「物語が好き」というわけでもないのかもしれない。

だがそういう「異物」も含めて存在している「マクロス」という世界と「プラネテス」の世界は尊敬に値すると思ってる。


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2010年9月12日 (日)

補足 アリエッティはなぜすばらしいのか?5

「小さな、だけど大きな奇跡の物語」―借り暮らしのアリエッティをみて―
補足 アリエッティはなぜすばらしいのか?1
補足 アリエッティはなぜすばらしいのか?2
補足 アリエッティはなぜすばらしいのか?3
補足 アリエッティはなぜすばらしいのか?4
今回『ネギま』が凄いっ!―友達になりたいんだ―←最終的にこれも絡む

最後です。長かった。


さて、最後の話だ。長かった。正直、ここまで長くなくていいんじゃないかというくらい長かった。
 前回のはなしで「わたしたちは自分の都合を相手に押しつけて生きている」ということを説明した。
 ここまで理解していれば簡単だ。
 アリエッティのはなしをしよう。

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 じつはアリエッティの世界も「自分の都合を相手に押してけているせかい」である。
 これは見ているとわかるのだが、アリエッティはアリエッティの都合を翔に押しつけ、翔は翔の、叔母さんは叔母さんの、お手伝いさんはお手伝いさんの都合を互いが互いに押し付けあっている。
 物語の大半はこの世界で構成されている(具体的にはアリエッティのお母さんが助けられた後くらいまで)
 ただ、ここで美しい奇跡が起こる。それは以前の記事でも書いたが、小さなそれでいて大きな奇跡だ。「小さな、だけど大きな奇跡の物語」―借り暮らしのアリエッティをみて―
 猫のニーア。
 彼女はそんな「互いが互いにエゴを押し付けあっている世界」から離れた存在である。
 物語がすべて終わった後、アリエッティは翔に別れを告げずに去っていく。
 他者が他者に自分の都合を押し付けあっているだけの残酷な世界なら、これで終わり、となっていたに違いない。
 しかし、それでは終わらなかった。
 ニーアはアリエッティの瞳を写し、去っていく。ここでニーアの感情を読み取ることはできない。これは当然だ。ニーアはその瞬間、ニーアという個が捨て去られ、無私の存在となっていたのだから。これはその前までのニーアと比較してみると、違いが感じられるのではないかと思う。
 ニーアはつづいて、翔を連れ、アリエッティと翔を引き合わせる。
 わたしとしては、物語のクライマックスはじつは此処であるのだと感じている。この瞬間、アリエッティと翔は、はじめて互いが互いに「借し」がない状態で「出会えた」のだ。
 残酷な世界でニーアが作りだした「奇跡」
 だからこそ、わたしはアリエッティをすばらしいと思うのだし、みんなに見てもらいたいと感じている。
 
 尺の都合もあるので、もう少し余談をしよう。
 ここで、ニーアの作りだした奇跡の物語とは、今までの残酷な世界の「先」を表現している。わたしはいままであげてきた作品を通して「人は自分の都合を押し付けて生きている」ことを説明してきた。
 これは、最近の作品の流行なのではないだろうか。ワンピースでも描かれているのではないかと思うのだが、その「残酷な世界を如何にしてして乗り越えていくか」というのがある。「まおゆう」も同様に「先」を描いている話である。まおゆうの感動の一つとして、「エゴを押し付けあって動けなくなった世界の先」がある。
 じつはさきほど出てきた「ネギま」でもその先を描こうという話が出ている。以前のエントリを見てもらえば分かるのだが、わたしはそこで「何故だかわからないが、めちゃくちゃ感動した」と述べている。

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今回『ネギま』が凄いっ!―友達になりたいんだ―

 第Ⅰ部では「自分たちは悪をなして生きている」ということを提示した。そして、第Ⅱ部では「そのエゴを押し付けあった世界から脱却しよう」ということを描いている。
 もう少し説明すると、ネギまの敵であるフェイトは「世界を救おうとしている」。手段はどうであれ、かれは「正義という名の一方的なエゴ」を為そうとしている。
 これは、ネギの父であるナギの行ったことと質的には同様である。
 ピースメイカーと呼ばれる世界そのもののような存在をかれは「ねじ伏せる」
 一方的に「おれの言う事を聞け」としたのだ。(※1)
 これはフェイトのやろうとしている「崩壊していく世界の住人を理想の世界に放り込んでやろう」という発想と同じなのだ。
 たいして、記事にした回のネギは、「フェイトと友達になりたいんだ」という、「ぼくは一方的に都合を押し付けあっている世界から先に行きたいんだ」という決意が見て取れる。
 これを感じとって強烈な感動を覚えたのだろう、ということがわかった。(まだまだ読み取れる先があるかもしれないが、あのセリフには)

※1 今週のマガジン300回記念のネギまで描かれているナギの会話はそれを裏付ける話題で、「おお」と思っていた。かれは自分のやっていることが「一方的」であると知ってはいたが、それ以外の手段はないのでその先を「別の誰かに託した」。これはまおゆうの世界と同様であり、受け取ったのが息子のネギであるという事に感動を覚える。

「でもそれで立ち行かなくなったら(エゴを押し付けてもどうにかならなくなったら)どうするんだ」
ナギ「おれは壊すしか能がないからな。そんときは、別の誰かがどうにかしてくれるだろう」

(記憶で書いているので、こんな会話をしていた、とだけ)

じつは、このナギの態度はグレンラガンのシモンを思い起こさせる。現状をぶち破るのはするけど、その先はだれかが引き継いでくれるだろう、と。

補足 ネギまでナギがピースメーカーを倒すときのコマが「グレンラガンでラスボスを倒すときのオマージュ」という趣旨をいずみのさんが語っていたことを補足する。(わたしはそういうところに気付けない人間なんです)だから、ネギまとグレンラガンは語るときに同列に語りうる、ということを述べておく。

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