愛の物語とディスコミュニケーション―人類の鬼子 バサラ、タナベとはいったい何者だったのか―(ガンダム マクロス プラネテス)
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プラネテス読みなおしたのですがやっぱり面白かった。にんげんの変化についての描き方が秀逸。ちょっとTwitterで「 プラネテスは宇宙に出ても人は根本的に変わらなくてハチが素直になっていく様を描いた作品という印象。」というコメントを貰ったのですが、それはそれでよく分かる話なんですよね。このあたりはハチマキやフィーに視点を持って行ってるひとはそういう感想になるんだと思います(あくまでぼくの印象だと。ですが)。
ちなみに、ぼくはこの物語「タナベと猫」以外に共感するのが難しい人なのでそこら辺の感覚がちょっと違います。(別に他のキャラに共感できなくはない・・・努力すれば・・・)
どちらかというとこの物語は「ディスコミュニケーション」の物語だと思ってみている部分が強いですね。
ぼくが昔から語る感覚の一つに「ひとは決して交わらないし孤独だけれど、それでいい」という感覚があります。これはその「交わらない」ということに対して「喜び」とか「悲しみ」を結び付けない立場と言えばわかりやすいのでしょうか(説明が難しいな)
ちょっと概念的になるけれどそのあたりについてもうちょっと話をすると、ひとの思いと世界ってのは無関係だよね、という表現になります。もちろん世界の変化にたいして人の心ってのは影響を受けざるおえません。そこを否定しているのではなく「世界の変化にたいして影響をうけることを決定しているのそのは本人の精神」と言えばわかりやすいでしょうか(わかりにくいだろう。。。)
よくある物語の形式に「人と人が分かり合えないわけがない」「分かり合えないことが悲しい事なのだ」というのがあります。これはガンダムでも語られていることですね。
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ニュータイプというのはその「分かり合えないひとの空隙」を埋めてくれるシンパシーをもっている存在とも言える。(成功しているかは別にして理想としては)
だけどぼくの好きなガンダム作品「ガンダムX」はそのニュータイプを特殊能力を有したに過ぎない「只の人間」「幻想」だと断じてしまう。そこにたいして喜びも悲しみも表明することはない。「そういうものなのだ」と示してしまう。おそらくこのカタルシスのなさが評価の低い所以だとは思います(ぼくは逆にそこを評価している)
ここには「何処まで言ってもにんげんはにんげん」なのだ「にんげんはにんげんのまま突き進むしかない」という夢も希望もないリアルな世界が広がっています。ガンダムX では「でも人間は人間のちからでまえへ進めるんだよ」ということもいっていてその点はプラネテスのロックスミス的でもある
ただ「わかりあえないことが悲しいのか?」という疑問は、ほんとうはあがってきてもいいことだとぼくなんかは考えてしまう。
ガンダムXは「恋愛」「一目惚れ」という要素をうまくつかってそこをクリアしている。あくまでかれらは人間だから恋愛感情を「差別」の感情を持っているということになっている。ティファは超能力をもっているだけの「ただの人間」であってニュータイプとか言う「異物」ではない。ガロードはテーマ的にも「人間」なのでそこはクリアされている。
たとえば「わかりあえない」(けれど「わかった気になっている」)物語というのは以下に上げる『マクロス7』が代表作になるかもしれない。
たとえば『マクロス7』のバサラや『プラネテス』のタナベ(後にホシノになるが)というのは人類の中でも「異物」である。バサラなんて物語の開始では延々敵と味方から「お前邪魔だぁぁ」と怒鳴られている。バサラへの周囲の評価が変わってもバサラは変わっていない。本質的にバサラというのは「理解出来ない存在」として描かれている。たぶん彼らのみている世界を共有するには人類が本当に「ニュータイプ」とかそういう「人類以上」の存在になるしかない(それが進化であるかどうかは別にして)
バサラがなぜ歌うのか理解するのを理解することはできないししなくていい。かれにとって唄を歌うことはタナベがすべてを愛するのと同じように自然なことなのである。
タナベの愛には理由はない。いいところを見つけることはあってもだから愛するという類(たぐい)のものではない。
幸村誠さんの別作品『ヴィンランド・サガ』には「愛と差別」を語った部分がある。
ひとがひとを愛するのは差別であり、真の愛とは区別なきものである。
目の前の死を愛し眼の前の苦難を愛し眼の前の幸福に涙する。ひとの残虐に感動し優しさに頬ずりをしてどれにも興味がない。
ちょいと適当に書いたのだが、まあ、愛とはそういうものであろう。
愛とはいわば「受け入れるもの」であるとも言えるかもしれない(すいません反射神経で書いています)。
プラネテスのラストでタナベは上司のフィーとかれの旦那であり物語の主人公であるハチマキについて語り合うシーンがある。フィーはタナベにハチマキの何処が好きになってかれと結婚したのか問う。それにたいしてタナベは曖昧な答えを返す。結婚しようと言われた時に外に相手がいなかったから、と。フィーはそれを聞いて唖然とした声でそれは先着順ということかお前はハチマキを愛しているのかと彼女に問う。それに対するタナベのこたえは
?・・・はい。もちろん
という一言であった。
これはタナベという存在が「差別のない愛」と「人」の間に揺蕩(たゆた)う存在だからこのような答になったのだろう。(作品をみていると「ひと」としてのタナベと「人以外」のタナベの2種類があるように見えたのでこういう表現になっている)
彼女は人としてハチマキを愛すると同時に「人以外」としてもハチマキを愛している。(どちらかというと人以外の部分が強いとは思うが・・・)
彼女が圧倒的な異物と「なりきれない」のは彼女の人たる部分によるものだとぼくは思ってしまう。
その点バサラは突き抜けている。かれはそういう意味でいうなら「人ではない」。
かれのまえでは人もプロトデビルンも山も宇宙もクジラも差別がない。
ただただ「歌って聴かせる」存在である。
だからこそバサラという存在を理解できるものは物語の中にも外にもいない。それはわれわれの限界の先にある「異物」だからである。
こういう存在の出てくる物語は存外にすくない。しかも主役として活躍しているとなるとそれこそ異常である。
正直ようこんなやつを主人公にしたものだと思う。バサラという存在は物語的には「異物」として排除される存在である。ゲームだったら「魔王」としても登場しておかしくない。
それはかれの能力がどうこうということではなく、その精神が既存の範疇を圧倒的に超えてしまっているのである。
ただ同時に思うのは、ただそんな存在を「許容」して存在しているのもまた世界なのだろう。
そういう点を鑑みても「世界は美しい」と僕は思う。
以前のきじでも書いたがぼくは本質的に「物語が好き」というわけでもないのかもしれない。
だがそういう「異物」も含めて存在している「マクロス」という世界と「プラネテス」の世界は尊敬に値すると思ってる。
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