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小動物

プリミティブな衝動とか内的感情の発露とか・・・すばらしいよねっ

2012年8月 9日 (木)

強い願いが奇跡を起こす。『コイネコ』や『ネコあね。』5巻が日常と過去を積み重ねる理由について

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奈良一平著。『ネコあね。』5巻を読了しました。

基本的には過去記事に書いている内容と共通していると思うので、そちらも参考にしてみて下さい。

過去記事

この物語は大きな物語とかがほとんどなく、その多くは日常的な積み重ねのみで構成されています。

物語的な嘘といえば「ネコが姉になる」という一点(チュー太郎もその流れ)のみであり、それ以外はダラダラとした日常が延々と続いていく。

「一年後にはネコの杏ちゃんは人間になれなくなる」という(物語上)大きな問題は立ちふさがっていますが、じゃあそのためになにができるかというと、別にできることは何もない。

ではそういう日常は無意味なのかというと、そうというわけではないはずなんですよね。

たとえば最近で同様の物語を思い浮かべると真島悦司著の『コイネコ』があります。『コイネコ』と『ネコあね。』ではキャラクターの中心にあるネコたちのプリミティブな衝動は異なるのですが、その物語の中心が「日常」に在る点では共通しています。

こういう日常の描写が多く取られる理由は、ひとつには「作者が描きたいから」というのは勿論あるのでしょうが、別な物語的な理由としては「絆の積み重ねを描きたいから」というのがあるかと思われます。

こういう奇跡の物語において、奇跡とは「与えられるもの」です。

なかには理由なく与えられるものもあるのですが(その場合は再契約がひつようになるかな)、理由があって与えられるものもあります。

『コイネコ』と『ネコあね。』の2作は理由があって与えられる物語となっています。

これらが奇跡を与えられた最たる理由に「何物にも代えがたい純粋な願いがあるから」というのがあります。

2作において、あえて単純化した公式を用意するなら、

奇跡を与えられる者=より強い願いをもつもの

という形になります。

そのため「日常」を強調して描くことは、キャラクターたちの強い絆を描くこととなり、それが「強い願い」の説得力となります。

特に『ネコあね。』は時折ものがたり中に過去の描写を差し挟みます。

これらの「時間の積み重ね」というのは、その願いが「時間という試練を経過したものだ」と読者にしらしめる効果があります。その結果、願いの強度はあがる。

今回の5巻で「頑張っている人は神様もみている」というラストのあとに、銀之介の過去のはなしを詰め込んだのも、演出上の効果で言うならばそういう意図を読み取ることができます。

ぼくはこの物語は、ネコの杏ちゃんの「感情」が好きなのですが、たまにはこんな事も書いておこうかなというのが今回の記事のコンセプトでした。

こういう「内的感情の発露」による物語はとても気持ちの良い衝動を放つ場合があります。

いやーー、今巻も素晴らしかった!

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2012年2月10日 (金)

『ネコあね。』の語り尽くせない魅力。4巻の内容がやっぱり素晴らしすぎてもう!―プラネテスとネコあね。を並べて(好きなこと)語ってみた―

『ネコあね。』4巻読了しました。

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評価 3(3.0)

個人的評価 5

これは素晴らしかった!

ただこれって、ぼくの個人的感覚に依る所が多いので説明が難しいんですよね。だから個人的評価との差が大きいのはそういう部分に依ります。いまから少しでもその『素晴らしさ』について話せたらいいなと思います。ゆるりとお聞き下さい。

まずこの話がどういうものかというと「ある日我家の猫が人間になって『わたしがおねえちゃんだよー!』って言って来ました」って、話なんですよね。ある種のボーイミーツガールものとして読んでいる人が多いんじゃないかな。以前このブログでも「ネコあね。」がすっげー好み!って話はしたんですが、うん、やっぱり好物です。

この話でぼくの好物ポイントってのはいくつか在る(はず)なんですが、一番わかり易いのは4巻のオビについているセリフ

「ネコ」が「姉」になりました。

私はお姉ちゃんだからちょっとくらい大変でも仕方無いのです!!

って部分です。

この「喜び」の描写が好きなんですよね。「喜び」ってどういうことか?

それはこの漫画のあるエピソードを見るとわかります。ここでは次のような会話が行われます

「・・・杏子さんは怖くなかったんですか?・・・急に猫から人間になった時ー・・・」

「色んなものが―今まで見てた世界が・・・変わってしまうこと・・・」

この問いに対して猫から人間になった杏子は答えます。

「全然?」

「だって銀ちゃんのお姉ちゃんになれたことの方が・・・ずっと嬉しかったもの!!

うん。この感情が好みなんですよ。

もちろんこれだけではないのだけれど、これが好みのひとつであることは変わりません。

これがどう素晴らしいのか?

それはこれがひとつの「選択」だってことなんです。つまり選んだからその道を突き進む

意地とかそういうものではありません。

「選択」し「歩めること」それそのものが「喜び」

という話なんですよ。

うん、これだけでは分からないかもしれないからべつの話をしてみましょう。

これの類型としては『プラネテス』という作品があります。とはいえこんな(一見)理想的なお伽話に出てくるようなまっさらな感情ではなくて、もっとドロドロした「意地」の塊のような感情ですが・・・

多くの人がリアリティがあると感じるのはおそらくこちらですね。

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藤田貴美さんの『EXIT』とかでもそうですが「ホントは好きだからやっていたはずなのに・・・だけどその「すきなこと」がおれたちを追い詰めに来るんだ」という感情について書いてあります

ちょっと長いですが引用してみましょう

プラネテスでは次のようなセリフを主人公ハチマキが語ります。次のセリフは自らの内面、心のひとつがじぶんに語りかけるシーンです。

「なぜ助けを求めない?人間は孤独に弱い生き物なんだぞ」「ホラ あいつ タナベなんてどうだ?奴の口ぐせの「愛」とやらを具体的に実践してもらうといい」

「かたくなになるなよ 皆やっていることじゃないか 苦しみは分かちあうもんだ たとえお前の喜びが他人と分かちあえない性質のものであってもな」

「ただ一言「愛してる」と言えばいいそれで契約は成立だ その言葉が嘘でも甘えでも彼女はお前を受け入れるだろう そういう女だ」

それにたいしてハチマキが返すセリフがコレです

「はっ はははははっ 何言ってんだかコイツは

まったくカンケーねェじゃんタナベなんか」

「全部おれのもんだ 孤独も 苦痛も 不安も 後悔も もったいなくてタナベなんかにやれるかってんだよ」

いやぁ、何度読みなおしても素晴らしいシーンですね。

『ネコあね。』の感情が「正」とするならこれは「負」の方向の感情です。どちらがいいとか悪いとかではなくて、「そういう感情は現実に在るのだ」ということは意識してもいいことでしょう。

そういう意味ではぼくはこの話『ネコあね。』を「物語」として好きではないのかもしれませんね。この物語のなかで主人公銀之助くんは母親を失ったつらい過去と姉を失うかもしれない先の見えない不安を抱えながらこうつぶやきます(一部大幅改造意味は変わらないはず)

「平穏だった時間・・・それはいつだって唐突に破られることをおれは嫌という程知っていた」

「悲しい出来事は いつだって 唐突に起こるのだ」

「だけど・・・」

「だけどそれだけじゃないことも知っている」

嬉しい出来事だってこの世界には確かに存在するのだ

「ある朝起きたら―猫が姉に変わってたみたいに・・・」「俺を想って奇跡を起こした姉のように・・・」

これは次のようにして締めくくられます

「俺にも奇跡は起こせるだろうか?」

素晴らしいよねッ!!いやっ、ぼくは素晴らしいと思いますよ。

この一連のプロセスがもう素晴らしいんですよ!

この物語には悲しいことも辛いことも「在る」んですよ。

確実に在る。

でも、その現実を知った上で「でも現実には絶望以外も起こりえるんだ」という点を描き、折れてしまいそうな自らのこころを立て直す銀之助くんがマジ格好良い!

この話アニメで見たいですっ!!(言うだけならタダ)

これがぼくのみている『ネコあね。』の一部です。

・・・とまあまだまだ語れることはあるはずですが、今回はとっちらかる前にここでお開きとしましょう。書きたいことを全部書くと寝る時間がわからなくなってしまいますし。

最後にもう一言

『ネコあね。』はすっごく好きな作品ですね!

追記

書き忘れた内容のひとつに「孤独の対峙」というはなしや、「タナベとバサラが似た地平の存在で、それが故にかれらは『孤独』」なんだ」という話があります。

どっか書いておかないと(つーか書いても)忘れる気がするので書きました。どこかでこの話を書けたらいいなぁと思います(忘れる自信 大)

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2010年10月11日 (月)

ヤバい。やっぱりツボだった!! -奈良一平『ネコあね。』

…え~と、公開し忘れてました(汗)

しかもいま見なおすとこの文章読みにくすぎる…(読み返しても、すぐには自分でも意味がわからなかった)

直すのは大変すぎるのでこのまま挙げます。

おそらく「本来対話ができない相手が対話ができるようになった時、両者の境にある溝をどう扱えばいいのか」を話したかったんだと思う。

たとえば、4コマ漫画だと「伝わらない」ことが笑いにつながる。でもそれは元々「伝わらない」んだからそれを笑いにしても違和感はない。逆に両者の言いたいことを分かる読者が「おかしい」んですね。だからギャグになる。(見ていての不快感はない)

でも、それが「言葉の通じる相手」ならどうか。4コマならギャグですませられた部分を「ギャグで済ませられない」ようにする。そうしたらこんなシリアスで切なくて、あたたかな話ができたよって言いたかったんだと思う(たぶん)

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いや~。おねえちゃんかわいい。

ツイッターでもつぶやいてたんですが「じぶんを主人の姉や兄と認識している動物」のなんとかわいいことかっ!

これは主人の「側近」としての立ち位置としても可で。

ようは「人間社会では主人に守られていると認識されている動物だけど、かれらのなかでは主人こそが守るべき対象」というところがいいのかと。

かれらはかれらなりの理屈でもって主人をまもるんだけど、人間社会の常識からするとそうは認識されない(ペットが遊んでいるようにみえたりする)。だけれどかれらの中ではあいてを「まもっている」んですよ。

このあたりを描いている別の作品にはまんがタイムで連載していた『ラブじゃらし!』があります。

趣味は盆栽、日課が時代劇の日本のこころを宿したハスキー犬のはなしですね。かれが好きなのは隣の女子高生。彼女をまもろうとしてちょこちょこ動きまわる。2匹(?)の子猫になつかれていたり、子分がいたりでなかなかにぎやかな毎日。

かれの場合は案外女の子を守っているんだけど、女の子からしてみれば遊んでるように見えたりする。

この「なんとなく報われない愛情」に心惹かれているのかもしれません。

4コマ作品だとこの人間と動物の交流は常にすれ違う。

読者はコマのつぶやきなどから両者の相違を見いだせるけど、作品内部ではそれができない。

その「すれちがう」ところを楽しんで4コマ漫画は作られたんだと思う。でも『ネコあね。』はそこから先に行って「対話が可能だとどうなるのか」を描いている。

結局背景が違うのだから(相互理解をしあったならともかく)最初は上手くいかない。人間化しようとネコはネコなので人間のルールが飲み込めない。

ここでは4コマの時より強烈な「相互不理解」が描かれる。4コマでは「すれちがい」を笑いに転化することで相互不理解と言うのは物語のギャグを構成する要素であるとして、相互不理解の重さに向き合う事はない。

『ネコあね。』ではそこをもう少し進め、「対話が可能」という条件を付けた。

そうすることで「対話が可能なのにつながらない」という「重さ」が生じる。これは4コマの方では衝突を避けたテーマであるが、この作品ではもう少しつっこむ。

2010年9月12日 (日)

補足 アリエッティはなぜすばらしいのか?5

「小さな、だけど大きな奇跡の物語」―借り暮らしのアリエッティをみて―
補足 アリエッティはなぜすばらしいのか?1
補足 アリエッティはなぜすばらしいのか?2
補足 アリエッティはなぜすばらしいのか?3
補足 アリエッティはなぜすばらしいのか?4
今回『ネギま』が凄いっ!―友達になりたいんだ―←最終的にこれも絡む

最後です。長かった。


さて、最後の話だ。長かった。正直、ここまで長くなくていいんじゃないかというくらい長かった。
 前回のはなしで「わたしたちは自分の都合を相手に押しつけて生きている」ということを説明した。
 ここまで理解していれば簡単だ。
 アリエッティのはなしをしよう。

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 じつはアリエッティの世界も「自分の都合を相手に押してけているせかい」である。
 これは見ているとわかるのだが、アリエッティはアリエッティの都合を翔に押しつけ、翔は翔の、叔母さんは叔母さんの、お手伝いさんはお手伝いさんの都合を互いが互いに押し付けあっている。
 物語の大半はこの世界で構成されている(具体的にはアリエッティのお母さんが助けられた後くらいまで)
 ただ、ここで美しい奇跡が起こる。それは以前の記事でも書いたが、小さなそれでいて大きな奇跡だ。「小さな、だけど大きな奇跡の物語」―借り暮らしのアリエッティをみて―
 猫のニーア。
 彼女はそんな「互いが互いにエゴを押し付けあっている世界」から離れた存在である。
 物語がすべて終わった後、アリエッティは翔に別れを告げずに去っていく。
 他者が他者に自分の都合を押し付けあっているだけの残酷な世界なら、これで終わり、となっていたに違いない。
 しかし、それでは終わらなかった。
 ニーアはアリエッティの瞳を写し、去っていく。ここでニーアの感情を読み取ることはできない。これは当然だ。ニーアはその瞬間、ニーアという個が捨て去られ、無私の存在となっていたのだから。これはその前までのニーアと比較してみると、違いが感じられるのではないかと思う。
 ニーアはつづいて、翔を連れ、アリエッティと翔を引き合わせる。
 わたしとしては、物語のクライマックスはじつは此処であるのだと感じている。この瞬間、アリエッティと翔は、はじめて互いが互いに「借し」がない状態で「出会えた」のだ。
 残酷な世界でニーアが作りだした「奇跡」
 だからこそ、わたしはアリエッティをすばらしいと思うのだし、みんなに見てもらいたいと感じている。
 
 尺の都合もあるので、もう少し余談をしよう。
 ここで、ニーアの作りだした奇跡の物語とは、今までの残酷な世界の「先」を表現している。わたしはいままであげてきた作品を通して「人は自分の都合を押し付けて生きている」ことを説明してきた。
 これは、最近の作品の流行なのではないだろうか。ワンピースでも描かれているのではないかと思うのだが、その「残酷な世界を如何にしてして乗り越えていくか」というのがある。「まおゆう」も同様に「先」を描いている話である。まおゆうの感動の一つとして、「エゴを押し付けあって動けなくなった世界の先」がある。
 じつはさきほど出てきた「ネギま」でもその先を描こうという話が出ている。以前のエントリを見てもらえば分かるのだが、わたしはそこで「何故だかわからないが、めちゃくちゃ感動した」と述べている。

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今回『ネギま』が凄いっ!―友達になりたいんだ―

 第Ⅰ部では「自分たちは悪をなして生きている」ということを提示した。そして、第Ⅱ部では「そのエゴを押し付けあった世界から脱却しよう」ということを描いている。
 もう少し説明すると、ネギまの敵であるフェイトは「世界を救おうとしている」。手段はどうであれ、かれは「正義という名の一方的なエゴ」を為そうとしている。
 これは、ネギの父であるナギの行ったことと質的には同様である。
 ピースメイカーと呼ばれる世界そのもののような存在をかれは「ねじ伏せる」
 一方的に「おれの言う事を聞け」としたのだ。(※1)
 これはフェイトのやろうとしている「崩壊していく世界の住人を理想の世界に放り込んでやろう」という発想と同じなのだ。
 たいして、記事にした回のネギは、「フェイトと友達になりたいんだ」という、「ぼくは一方的に都合を押し付けあっている世界から先に行きたいんだ」という決意が見て取れる。
 これを感じとって強烈な感動を覚えたのだろう、ということがわかった。(まだまだ読み取れる先があるかもしれないが、あのセリフには)

※1 今週のマガジン300回記念のネギまで描かれているナギの会話はそれを裏付ける話題で、「おお」と思っていた。かれは自分のやっていることが「一方的」であると知ってはいたが、それ以外の手段はないのでその先を「別の誰かに託した」。これはまおゆうの世界と同様であり、受け取ったのが息子のネギであるという事に感動を覚える。

「でもそれで立ち行かなくなったら(エゴを押し付けてもどうにかならなくなったら)どうするんだ」
ナギ「おれは壊すしか能がないからな。そんときは、別の誰かがどうにかしてくれるだろう」

(記憶で書いているので、こんな会話をしていた、とだけ)

じつは、このナギの態度はグレンラガンのシモンを思い起こさせる。現状をぶち破るのはするけど、その先はだれかが引き継いでくれるだろう、と。

補足 ネギまでナギがピースメーカーを倒すときのコマが「グレンラガンでラスボスを倒すときのオマージュ」という趣旨をいずみのさんが語っていたことを補足する。(わたしはそういうところに気付けない人間なんです)だから、ネギまとグレンラガンは語るときに同列に語りうる、ということを述べておく。

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