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賢者の物語

こいつら頭がいいなぁ(賢明)、と感心したものにつくタグです

2012年8月 7日 (火)

ひかりのみちを歩きつづけている「これは恋です」が素晴らしいですね

これは恋です(6) [ 遊知やよみ ]

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感想(4件)

『これは恋です』を6巻の途中まで読んだのですが、前回の記事で書いた内容を相当自覚的にやっているのがわかり、コレは満足です。

この物語は登場人物がかなり頭が良くて、ホントに驚きました。

たとえば5巻で、主人公の男性教諭(通称 綾ちゃん)が自制心を抑えきれず担当の女生徒(遠藤)に告白をしてしまうシーン。

通常なら「綾ちゃんっ!わたし嬉しい!!(ひしっ)」「おれもだっ(だきっ)」となる展開のはずなのに作者はきちんとわかっていて綾ちゃんに次のようなセリフを言わせています

「なんだろ・・・この部屋、暗いな・・・

夜だからか・・・・・・・

変だ・・・・・・・

遠藤に触れれば触れるほど、周りが暗くなっていくような気がする」

ホントに素晴らしいっ!

きちんと「まっとう」な物語をやっているのが、これは素晴らしいですね。

欲をいうなら、こういうモノローグを言わせず、絵で表現していたらもっと深みがましたのだとは思うのですが「わからせる」ことを優先するならグッドチョイスなのでしょう。

そして6巻で遠藤はあることを知り、その結果「光り輝く道」を進むことになります。

いやあ、真っ当な道をまっとうに進んでいく物語はいいですねぇ。

もちろんダメになっていくのはそれはそれで味があるのですが、ぼくはこういうまっとうな物語も好物です。

ちなみに「正しすぎる」物語ってのあって、それはCARNIVALの記事ですね。一方「間違えるべくして間違えた」物語(つーか、まぁ間違えてしまうのは仕方ないよね)ってのもあってそういうのはシンフォニック=レインのことです。これも昔、勢いだけの感想記事に書いたので見てやって下さい。

これらはPCゲームなのですが、これは間違いなく傑作ですね。

やってないと人生の1%くらいは損しているかもしれないってくらいには、傑作です。まぁ、世の中には1%の損の物語ってそれなりにあって、全部足すと100%を超えるのですが、数字ってそういうものじゃないのよ?ってことだけは書いておきます。

まぁ、「これは恋です」はCARNIVALやシンフォニック=レインにははるかに及ばないのですが、それでも結構いい物語ですね。

うわぁ、かなり満足。

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感想(1件)

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2012年8月 6日 (月)

「これは恋です」が青空エールの河原和音の「先生」と決定的にちがうひとつの視点

これは恋です(4) [ 遊知やよみ ]

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感想(4件)

評価 3.0(中途評価)

個人的評価 3.5

遊知やよみ著の「これは恋です」を4巻まで読み終わりました。

教師と生徒の恋愛話なので、どういうはなしなのだろうとワクワクして読んでいました。

これを読みながら気にしていたのは「どういうことを描きたいのだろうか?」という、いつもどおりのこと。

少女漫画系にはこういう先生と生徒といった「禁断の愛」系のものがけっこうあります。

たとえば青空エールの作者さんのデビュー作「先生」とか

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感想(5件)

花とゆめ系でいうなら最近完結した田中ロボ先生の「キスよりも早く」

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感想(49件)

ほかにもいろいろな場所で使われている素材です。

先述の衝動と欲望系の少女コミックでもその題材はかなり使われているはずで、ちょっとぼくがそちらに詳しくないからタイトルとか思い出せないけれど「鬼畜な教師とそれに魅せられた女生徒」という題材でいくらかアルはずです。

というか、少女コミックの読者は基本学生なわけでして、彼女たちに一番身近な社会的空間は学校なんですよね。

だからそういう読者を対象にした少女コミックの舞台は古くから学校が舞台であることが多く。その多くが生徒同士の恋である一方、同時に禁断の恋である教師と生徒の恋愛が描かれるのは、まぁ必然かと。

ちなみに禁断の愛系統の別の作品をいうなら最近の話題作「僕は妹に恋をする」とか

僕は妹に恋をする(9) [ 青木琴美 ]

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感想(16件)

北川みゆき著の「罪に濡れたふたり」とかがあります。

ぼくが好きな作品としては猫山宮緒著の「今日もみんな元気です」ってのもありまして、これは個人的に大好き。

そこで「禁断の愛」の系統である「これは恋です」なのですが、この系統の中でもこの作品はいったい何処に分類されるのだろうか。

べつにそういう分類をしながら見ていたわけではないんですけれどね。ついつい比較していたらああ、こういう分類になるのか、という。

これでスタート地点にはなしが戻るのですが、少女コミック系を分類すると「衝動・欲望系」と「乙女の恋系(心情寄り添い型)」、「ヒロイックサーガ型(客観視点の包含)」などに分類されると見ていて(べつにきちんと分けてきたわけではなく、所感として)、今回でいうなら2番目の亜系かな、と。

これのなかには「先生」や「キスよりも早く」とかも含まれるんだけれど、「これは恋です」ってのはそれらとはちょっと違っている。

ちょっと細かい分類のはなしは面白く無いので、結論から書くと

「これは恋です」という作品は「恥のない恋愛」を描こうとしている

作品なんだろうな、という印象です。

この「恥のない」というのをどういうことかというと、「周囲にきちんと認められる」恋愛と言い換えてもいい。

恋愛物の展開の多くは「あなたがいればそれでいいっ(ひしっ)」って内容が多く、場合によっては周囲に忍ぶ恋というのも珍しくはない。

まあ、互いに互いしか見れないそういうはなしも面白いといえば面白いのですが、決して世間に公開できないということで常にどこかしらの後ろめたさを抱えた作品となっていく。

「キスよりも早く」などはそういう部分をギャグにすることでガス抜きをしているのですが、「先生」は全編にわたってそういうほの暗さが漂っている。

そういう暗さの作品も面白いのではありますが、そうではなく、もっと健全なかたちってあるんじゃないの、ってのが「これは恋です」とかの系統だとみています(まぁ、結末見てないからなんとも言えないけれど)

まぁ、続きを読んでみるとします。

2012年3月17日 (土)

ぼくの見たネギま!を語ってみるよ~―「誰」に「なに」を届けたいのか

LDさんのネギま!最終回漫研ラジオに参加させてもらいました。みんな色々な考えがあって、聞いてて楽しかったw

さて、みんなのはなしを聞きながら考えていたことがあるのでちょっと書き起こしてみようと思います。ポイントとしては前回の記事の延長にあるので、それを再度取り上げながら話すと

  1. ネギま!のエンディングは「魔法エンド」なのではないか
  2. 「魔法エンド」になってしまったのは「子ども」に「未来を信じてもらいたいから」ではないか
  3. これはネギま!の「限界点」ではなく、「選択」だったのではないか
  4. ただ「猫箱に閉ざされた真の世界」というのがあるので、それの暗示として「ナギ」が「独り」でいるのではないか。かれは「世界から半歩はみ出た」存在なのではないか

ということですね。

これらはどこまで言ってもぼくの「妄想」にしかならない話です。でも、「誰に」「何を」伝えたいのか、ということからの類推でもあります。

ちなみに上記のようなことを自分でかってに直観してしまったため、最終回のCAST以降は超フラットな感情で読んでしまいました。「あー、この箱の中ではこういう論理的結末を備えているのか。すげぇなぁ」みたいな感じ。もちろん感動したんだけれど、情動としての感動はナギとネギのやり取り(前回の記事)がMAXでしたね。

「なんでこの親子はこんなに異なる空気でいるんだ?」と

これは、ボクの勝手な表現で言うと、

未来を語る子どもとそれを見守る大人

という構図に見えるんですよね。

どちらにでも感情移入できるように、両者の対比があるんじゃないかな。

で、上記の列挙を用いて、再度説明しなおしましょうか。

まず2「「魔法エンド」になってしまったのは「子ども」に「未来を信じてもらいたいから」ではないか」これは「誰を対象」に「何を伝えたいのか」ということですね。

この作品のグランドテーマとして「少年の成長」というのがあるので、そこから

対象:子ども

テーマ:成長(未来は自分で作れる)

という話に移行したんだろうと思います。

別の記事で「成長」(モチベーション)ということを題材に書いていたんですが、そのなかで「どうやって成長させるのか」という問いに対してぼくは「一つのことを信じさせる」のが良いのではないか、と書いたことがあります。

これは「未来を信じられない」から「眼の前のことをみていく」という考えなんですよね。いまのみんなは先を見るので「ああ、この道は行き止まりだ」といって「足を止めてしまう」

昔なら「でも未来はある」といって進めたんだけれど、いまはそれが信じられないから、対応策として「一歩前を見る」ということを書いたんですよ。一歩一歩進んでいって気づいたら「あれ、壁を超えていた!?」これがいいんじゃないかな、というつもりで書いていました。

でも赤松さんのネギま!は38巻という壮大な物語を用いて「いや、未来は信じられるんだ」「きみたちが自分で世界は変えられるんだ」という壮大な騙しをかけているんじゃないかと言いたいんです。

ここで騙しといっているんですが、これは悪いことではない。

このブログを読んでくださっている方はそれなりの年齢の方が多いんじゃないかなと思うんですが、そういう方々が同意してくれるだろうと思うのは

大人は子どもとそんなに違うものではないよ

ということ。

完璧ではない。

人並みに欠点もあれば、コンプレックスもあるし、ぼくたちが子供の頃イメージした「大人」とはかけ離れているんじゃないかな?

でも、じゃあ大人と子どものなにが違うのかというと、勿論異論は認めるんですが、子どもの前で格好良く在ることなのではないかと。

あるいは別の言い方をすると

子どもの未来を守ること

それは「苦しみがすくない社会」「自分たちの負債を残さない」とかいろいろあるけれど、その根本は「大人になることに希望を与えていく」ということなんじゃないかな、とは思います。(ちなみに子どもには子どもの一個の人格があるので「守る」という表現は好きではないのですが、これは大人の「自負」の問題だとおもいます)

で、この「大人になることに希望を与えていく」というのは要約してしまうと「子どもの前で格好をつける」ってことなんですよ、おそらく。

ドラえもんとかクレヨンしんちゃんなどで「父ちゃんすげー」ってのは、あるいは様々な物語で「大人が格好いい」のは未来のための「幻想」だった。

ただ、今の社会は相対化されてしまってそういう幻想にコミットしづらくなってきてしまったんだと思うんですよ。残ったのは「師弟関係」とか「かつての幻想を追い求める」という小さなものしかなくなっていた。

でもそれって先細りになるとぼくは思っていて、ここを打破するのは「物語」「虚構の力だ!」とは思っていたんだけれど(以前コクリコ坂とかの記事で書いてます)、「じゃあ実際それをするにはどれほどの力量が必要なの?」って疑問が湧いてくることになると思うんですよね。

これは書いてないんだけれど、そこをフォローするのがビオトープの管理者:キュレイターの役割なんだと思っていました。超超末席とはいえ、ぼくも「自分の視点で見たものを伝える」という役割を背負ったからには気づいたと思ったことは「書いて」「伝わる」(伝えられる)ようにしなくてはいけない(まあ、いま明確に自覚したんですがw)

でも赤松先生はそこを自力で乗り越えようとしたんじゃないか、と思うんですよ。

自分の作り出せる物語の能力すべてを用いて、それこそ「世界を変えるため」に物語を書いた。

これはあくまでぼくの妄想なんですけれどね、そう考えると胸が熱くなって来ませんか?

それこそ「ネギが未来を変えていったように、赤松先生も物語ひとつで世界を変えようとしたんだ」、と

超が言っているじゃないですか

今日一日せめて明日一日 憎しみも悲しみもなく 世界が平和でありますように

それめっちゃ、感動だよ!これ、赤松健先生のメッセージじゃね!?って思うよ!ボクが勝手に言っていることかもしれないけれどさ、そう考えたいんだよね。

ぼくの忘れられない趣旨のセリフに(何の作品かは忘れたんですが、ガンダムとかルルーシュだったとは思うんだが)

永遠でなくてもいい、短くてもいいから「戦争がなかった」という世代を作りたいんだ。

というセリフがあります。

これはぼくなりの解釈で言うと「戦争がなかったという世代の記憶は受け継がれていくんだ。それが世界を変えるんだ」ということだと。

戦争がなくなるなんてことはない。絶望が消えることはない。

でも夢をもって叶うと信じて行動したから何かが変わったんだと思うんですよ

こういうメッセージを込めて赤松先生はネギま!を作ったんじゃないか、なんて思います。

そこでそう考えると 1「ネギま!のエンディングは「魔法エンド」なのではないか」 というのは意図して選択されたのかもしれない、と思うんですよ。

つまり 3「これはネギま!の「限界点」ではなく、「選択」だったのではないか」ということです。

ボクが言いたいのは、「ネギま!」はハーレム構造が重点にされたから「限界」を迎えたということではなく、伝えたい相手に伝えるために「選択」したんじゃないかとおもうんですよね。

(ただこの「限界」はハーレム構造のものとは、重なるけれど別の限界かな、と。ただ「誰もが納得しうるエンド」を得るために選ばれた結果「重複」を得たのではないか、なんておもうけれど・・・ハーレム構造についてちゃんと理解しているか自信がないところもあるから不安wまったく別物だったらすみません

この主張の補足として「ネギま!読者がどんどん低年齢化した」らしい、という話をきいたのも理由です。

でも、ネギま!の読書は子どもだけではありません、そういう相手のために最終回で「ナギ」を出したのではないか。

つまり 4「ただ「猫箱に閉ざされた真の世界」というのがあるので、それの暗示として「ナギ」が「独り」でいるのではないか。かれは「世界から半歩はみ出た」存在なのではないか

ということ。

もしかしたら「大人」の見た真実は「絶望」なのかもしれない。でもそれをみて子どもが屈してしまっては、「立ち上がることができなくなってしまうかも」「世界を変えることができないかもしれない」「未来に夢を持てないかもしれない」

だから大人はそれを「猫箱に隠した」

これがぼくのいう魔法エンドの真実です

この大人(隠居するものたち)の比喩が「ナギ」で子ども(未来を作っていく)ものの比喩が「ネギ」

最終回のナギはそういう「サービス」が含まれてたんじゃないかなぁ、ってぼくなんかは「妄想する」

こんな意見に証拠なんて無いんですよ。

それこそこれも「猫箱に隠された真実」だから。

だから「どういう意図があるのか、猫箱の中から選ぶ」のも僕たち自身の「選択」だと思います!

さて、ラジオの感想に絡んだ記事の補足はここで終了~

(ラジオでは「ネギとアスナに一夜の過ちがあって子どもができたんですよ!」とか言ってた男が、んなこと書いていいのかw とか思うんだけれど、まあ、いいや~)

ネギま!は傑作なので、みんな一気に読んでみるといいよ。マジで!

 

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ネギま!とは異なるけれど、脱英雄という物語。群像劇としての傑作に「BREAK-AGE」が存在する。

きっとネギま!とつながるんだけれど、まだ明確に先が見えてない印象。でも間違いなく傑作。読んだほうが、マジでいいわ。

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2012年3月14日 (水)

ネギま!最終回メモ―うみねこの魔法エンドがここにあるのではないか?―そして、赤松先生面白い作品をありがとうございましたぁぁぁぁ!(という話)

いまさっきネギま!の最終回を読み終わりました。

9年間に渡る連載の結実がここにある、という感覚です。赤松健先生、ホントにお疲れ様でした。素晴らしい物語をありがとうございました!

さて、この最終回素晴らしいエンディングだったんですが、なんとなーく気になるところがあったので、そこにたいしてちょいちょいメモを残しておこうかな、と思います。

タイトルの表題に在るように「ネギま!のエンディングはうみねこの魔法エンドなんじゃあないか?」ということです。

これはけっこう無根拠な「印象」を前提にしているのですが、そう考えると自分のなかで腑に落ちる部分があるんですよね。

ちょっとその前に「魔法エンド」とはなにか、という話をしておきましょうか。

同人ゲーム「うみねこのなく頃に」というのは絶大なブームを引き起こした「ひぐらしのなく頃に」を生み出した竜騎士07さんの傑作ゲームのひとつです。

昭和の末期にある無人島六軒島で引き起こされた怪事件。それを軸としたサスペンスゲームです。

第一話では「古典的」な館ものミステリが描かれるのですが、二話以降は超メタミステリが展開されます。この物語の軸は「魔女はいるのかいないのか?」

島で起こる事件は人間が引き起こしたのか、それとも魔女が引き起こしたのか?

館のなかで起こる殺人事件、そしてそれを「盤上」と表現して外から眺める「人間:バトラと魔女:ベアトリーチェ」の「この事件を引き起こしたのは魔女か人間か?」という応酬がキモとなります。

物語を眺めている僕たちは盤外のバトラたち、そして盤上で殺されていくバトラ達を眺めるという、超メタ視点から物語を眺めていくことになります。

ベアトリーチェは「この事件は人間には引き起こせない、だから犯人は魔女」と主張し、バトラ側人間は「いや、すべてトリックだから人間に起こせる出来事」という主張をします。魔女側が「問題作成者」、人間側が「回答者」となるわけです。

「魔法エンド」というのはこの物語のラストでぼくたち読者が「唯一」選ぶことのできる選択肢です。その物語のラストでぼくたちは「魔法を認めるか否か」という決断を迫られる。

この「魔法エンド」を選ぶと、そりゃもう素晴らしいエンディングが見られます。

うみねこをやっているひとは「祭囃し編」のエンディングを思い出してもらえるといいと思います。あらゆる困難は解決され、世界は希望にみち、絶望を人間は乗り越えることができる。奇跡は世界に満ち満ちている、きんもちイィ、エンディングです。

ただ、うみねこにはもうひとつ「人間エンド」という結末があります。

これは「魔法を否定」し、絶望に満ち、苦難が目の前に広がり、ありとあらゆる困難や絶望に圧倒されるエンディングとなっています。まぁ、一見して「BADエンド」なんですけれどねw

でも、ぼくとしてはこのBADエンドこそが人間の取っていく道なのではないかな、と思うわけです。魔法エンドにも心惹かれるんですがぼくは人間エンドを支持したい。

おい、ネギま!のエンディングのはなしをしろよ!、という声が聞こえてきそうなので前置きはこれくらいにしておきましょう(笑)。魔法エンドと人間エンドはネットでしっかり書いてくれている人もいるので、一読してみるといいでしょう。でもその前に、できることなら自分の手でやってみて下さい。たぶんあなたのみたことのない物語を目撃できます

・・・はいはい、ネギま!の話に戻りますよ

そこでネギま!のエンディング

ぼくはこの「ネギま!」の「一見平和なエンディング」というのは「魔法エンド」

すなわち幻想なんじゃないか、と思うんですよね。

これはエンターテイメントに徹した赤松さんなりの皮肉が込められているのかもしれない、と(いや、そう思ってないかもしれないけれどw そうぼくには見えたんだ、と言うのがポイント)

まず気になったポイントは最終回のこのシーン

1

ネギがナギに対して「自分の希望(仲間)に会ってくれ!」とナギに熱弁するシーン。

答えるナギはいったん目を閉じてから「そっか・・・」「会ってみてぇな」とつぶやく。

明るいシーンなのに、ここだけ余韻が感じられます。

まるで「かなわなかった夢」を見るかのように・・・

その後CASTといって、ネギのクラス全員の「その後」が描かれる。

ぼくはこのシーンをみた時にすっごい気になったんですよね。

で、気になった理由を考えると、過程は如何であれ「魔法エンド」「幻想エンド」なんじゃないかな、と。

最初に「無根拠なカン」のようなものだ、と言ったんですがもうちょっとこういう結論に至った理由について話をしましょうか。んー、ちょいと箇条書きにしてみると

  1. ネギま!の特性について―ネギの能力とアウローラ(ちょいこじつけっぽい理由だとは思うが、うみねことの関連を意識してしまうので説明しよう)
  2. 映画版のエンディングへの違和感(DVDは見てないので、あくまで「映画」のエンディングについてです)

まず1について話をしましょうか。

昨日(ん?一昨日だっけ、ごめん寝てないから昨日ってことにするね)の漫研ラジオでペトロニウスさんやLDさんが語っていることを聞きながら思ったのが

ネギま!って過程を省略するよね

ってこと。

これねー、ネギ君にその特性がよく表れているんですよ。この一時を持ってして「ネギがネギま!の主人公としてふさわしい!」と思えてしまうくらい

あ、この「ネギま!の過程省略」についてぼくは説明しませんよ。面倒くさいし。ただ、この最終3章の「すっとばしかた」は傍目にわかりやすいので、直観で理解して欲しい。

で、この「ネギの特性」ってのは魔法界編のラカン戦直前が顕著です。あ、ちなみに、いま以前にもこのブログでは「ネギは正しい問を立てれば過程を省いて結論を手に入れる」趣旨のことは語っています。いや、「ここにつながる」とは思ってなかったんですがw

魔法界編の直前だから、30巻くらいだっけな。新魔法ティクタノンとか雷天大壮(雷化)が出た頃です。ティクタノンとか雷化、というのは「通常なら数年かかるものを3ヶ月?(んな、長かったっけな??)くらいでネギが開発」した魔法です。

一般との差異については、VIP席の皆さんが懇切丁寧に解説してくれています。読み返してみると、その説明の丁寧さに驚きますよ。

それ以外にも「世界を解決する手段を見つける」ところもそうですね。あらゆる人間(魔法界人)たちがどうしようにもできないことを、たった10歳の子供がちょっと考えただけで見つけてしまう。

こういうチートを持っているのが「ネギの特性」です。

これは、「因果さえあれば過程を省く」ことのできる能力だと思うんですよね。

で、こういう能力をもっているひとがうみねこにいるわけですよ。それがアウローラさん

はいはい、このひとです。

このひとの戦闘方法ってのがまさに「チート」なんですよね。「因果さえあれば過程を省ける」能力の持ち主。

あいてを「ふっとばす」と決めたら、「その理由をでっちあげられるなら」「ふっとばせる」(そう記述はしていないけれど、そういう能力だと認識しています。ゲーム中では「べつにどんな理由でも作れるから、まぁふっとんどけ」みたいな描写だったと思います)

で、おもしろいのはこの人がでばってくるのは「魔法エンド」のときぐらいなんですよね。ある時空でこのひとが「人間」として現れるシーンがあるんですが、たしか「人間エンド」では会えなかったんじゃなかったかな(記憶が曖昧。間違えてたらごめん)

つまり、こういう「チート」を使うこの人が前面に出てきたときは「魔法エンド」のときなのかな、と。この前提で考えてみると、「チート」が目立つようになってきたのは魔法界編からかなー・・・つまりそこから「幻想?」なんて、想像もできます。

もちろん赤松さんが「うみねこ」を知っているかどうかは知りませんよ。だから「うみねこで「魔法エンド」に「チート」がでばるといっても(仮に正しいとしても)、それがネギま!に適用できるとは限らない」。その意見は正しい。

だから最初にぼくは「こじつけ」って書きましたよw

ただ、そういう風に見える側面がある。そのことを覚えておいて下さい。

じゃあ、次に2についてはなしをしましょう

こちらは「ネギま!」のはなしなので、もうちょっとは納得がいきやすいかと思いますよ。

・・・えっと、みなさんネギま!の映画見ました?劇場で。

もうね、ぽかーん、でしたよ。はい、ぽかーん・・・

終わった後に「え?なにこれ?」ってはなしです。

でもね、赤松さん的には「OK」らしいんですよ(ぼくの聞く限りでは)。ぼくはDVD見てないので、30分追加されてどうなったのか知らないんですが、仮にこれが「OK」(大人の事情でOKと言わざる負えない、以外の場合)だとしたなら、エンディングプランBとか言ってますし、つまりこの映画には「意味」があるんですよね。きっと。

映画のあらすじをざーっとはなしをしてみましょうか。

まず魔法界のはなしは終わっているんですよ。「いやー、すごい戦いだったね。あの時ネギ君が~~して造物主を倒して。いやー、すごかったぁ」とか言っているわけですよ。視聴者は「・・・え?」な状態です。

そこから麻帆良学園にもどってネギ君に与えられる使命が「だれをパートナーとしてひとり選ぶのか?」。で、ドタバタコメディして、世界樹がぴかーって光る。ぴかーってね。

何があったのかと思ってみんな集まると、さても大変「火星が落ちてくる」・・・・は?

そこで、いきなり学園長が現れて曰く「どうやら造物主の欠けた最後の呪いで地球に火星が落ちてくるらしい(はぁ、ようわからん)。それを回避するにはネギがパートナーを独り選ばないといけない(なんでだろう?)」とのこと。

で、悩んだ結果ネギ君の出した結論が「みんなと契約します」なんですよね。いみわからないんだけれど、仕方ないんですよ。

周りからは「むちゃだー!」とか言われるんだけれど、魔法界での激闘を繰り広げたネギ君はそれを成功させてしまう。学園長「われわれはかれを見誤ってた」みたいなことを言う。

で、全員で火星に挑むんですよ。

んで負ける。

そのとき空からチャオが降ってきて「きみは間違えてない」といってネギと契約をする。

これで生徒全員集まって火星を撃破!

世界はなんだかんだあって魔法のことがばれ、幸せにおわる・・・

ざーっとはなしをしたんですけれど、こんなはなしなんですよ。DVDがどうなっているかは知らないけれど、少なくとも映画はこんなのだった。

意味がわからないんだけれど、「これでいい」んですよ赤松さんは(聞く限りでは・・・どっかで不満もらしたかな?)。

で、ひどいよねーってはなしをしていたんですよ。そしてあるとき映画を見終えた海燕さんとはなしをしたときにいわれたのが「これってコスモエレケンティアに取り込まれた世界なんじゃないの?」ってことば。

納得しました。

それならよくわかるんですよ。ネギにとって「都合の良すぎる世界」なので。

さて、そこで今回の漫画版のエンディングに戻りましょう。

ぼくは「映画でBADエンド」「漫画でGOODエンド」を描くと思っていたけれど、もしかしてそれは勘違いだったのかもしれない!

そうではなくて、赤松さんが描きたかったのは「魔法エンド」「幻想エンド」なんじゃないか、ということなんですよね。

思い返してみれば赤松さんが言っているのは「エンディングプランBです」なんですよ。最初ボクが考えたのは「Aとの対比のB」で、でもいま主張しているのはそうではなくて「Aと同種のB」だったんじゃないかな、ってこと。

そこで竜騎士さんのはなしに戻ります。

かれは「うみねこ」で「魔法エンド」「人間エンド」を描く前に「ひぐらし」で大団円エンドを書いているんですね。ぼくは以前Twitterであるひとに「竜騎士さんは最初から「魔法」と「人間」のエンドを意識していて、「ひぐらし」のときは読者がついてこられないから「魔法」エンド=祭囃し編を「ひぐらし」のラストに持ってきたんじゃないか」、ってはなしをしたんですよ。うみねこはひぐらしで「レベルの上がった」読者を前提に作られているんじゃないか、と。

あと「ひぐらし」のときは「エンターテイメント」を重視したんだと思うんですね。だからあんなに「売れた」。それも一因は「魔法エンド」のわかりやすさにあるんだと思います。きっとうみねこはひぐらしより売れてないんじゃないかな(どうだろ?)

赤松さんがやったのも「そういうこと」なのかもしれない。「エンタメ」を重視した結果なのか、「読者がついてけない」からなのかはわからないんですけれど(たぶん前者を重視して後者を考慮だと思う)

あれほど頭の良い人があの映画を「よし」とするのは、意図あってのことだと思うんですよね。

そういう理由とかを考えると、このネギま!のエンディングというのは、「意図して魔法エンド」を創り上げられているのではないか、と。

こういうところから、ぼくは「ネギま!のエンディングはうみねこの魔法エンドなのじゃないか?」としゅちょうするんですよね

さて、まとめよう。

これが仮に、あくまで仮に正しいとして、赤松さんが「こういう選択」をとったことにぼくは「限界」もしくは「皮肉」を感じてしまう。

これは「エンターテイメント」という枠組みの中にある「限界」であり、その先を超えていくと読者がついてこられないという一流の「ジョーク」を感じてしまうのだ。

ここまでのはなしはぼくの妄想に近い騙りごとではあるが、でも、ぼくにはそう見えた。それはやはり意識してもらいたいところです。

これが現在での極地なんだろうな、と思う。

しかしぼくは満足です。つーか、不満なんて・・・ね(まぁ在るところもあるけれど、些細なものです)。

ここまで限界に挑んだ作品ってのは近年見たことがないレベルでした。これほどエンターテイメントしている思考の娯楽ってのは、なかったです。

エンターテイメントの最前線を走る人間の残した偉大な痕跡と、ネギま!という傑作を残してくれた赤松先生に敬意を表してこのはなしはここで終わりましょう。

赤松先生、おもしろいものがたりありがとう!!

追記

仮にこのはなしが正しいとして、赤松先生が「エンタメから先」、つまり「ひぐらし」のさきの「うみねこ」をやるのかどうかというのはボクにはわかりません。やるなら応援しますし。やってもらいたい。でも漫画はノベルゲーム以上に「エンターテイメント」であることが求められる。少年漫画では難しいかもしれない、とは思うんですよね。

追記2

なんとなく、ネギ君がくっついたのは茶々丸さんな気がしてきた・・・(ぼくはアスナさんとくっつくと嬉しいんだけどね、・・・うん、ないね)

追記3

http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-3623.html

http://jin115.com/archives/51806302.html

ちょい調べたら、赤松さんは映画に対して不満があったみたい、でも「シナリオの前提」に不満があるのであって、ああいうエンディングについては「良し」ということなのかな?

仮にそうなら、「シナリオの見せ方」に問題があるのであって「ああいう結末」自体はOKということかなー。まあ、だとすると「魔法エンド」主張は崩れないわけですが(あくまでぼくにはそう見える、というだけだけれど)

ちなみにシナリオの粗の部分が、魔法エンド的なもの感じさせる部分を際立たせた側面はあるかもしれない

追記4

ちなみに「魔法エンド」というのは「ファンタジーやエンターテイメントの背負う宿命」にちかいところはあるのかな、と。

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追記5<最終回の感想書いている人がいろいろいたね>

1日たっていろいろ書いてくれている人たちがいた。とにかく漁って、楽しく読ませてもらいました

林原館長活動報告書

もめんたむ

ネギま!のなにか

ゆうじの気まぐれなブログ

うぱーのお茶会

ゲームの戯言+α

ランゲージダイアリー

記事の内容に一貫性のないブログ(仮)

kiirock

方丈にて徒然なるままに

ちうちうとれいん

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2011年2月15日 (火)

丁寧に生きる―少女ファイトー そしてまどか☆マギカのQBに見る天才について

3分かからないくらいの記事です

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日本橋ヨヲコによる漫画『少女ファイト』がとても面白かったです。最近周りから「これ面白いから読んでみなよっ」といわれ手を出してみた作品。

基本的には高校女子バレーの話なんですけどね、一つ一つのシーンが魅せてくれるためかなり読み応えのある作品となっています。

丁寧に生きるということ

この物語で自分がもっとも心引かれたのは、主人公練が亡くなった姉の墓の前で泣き崩れているときに姉のかつてのチームメイトの笛子(後に練の進学する高校のバレー部の監督とわかる)が練に言った

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生き方が雑だな
生きている意味が全て噛み合うその瞬間を味わいたいのなら
丁寧に生きろ

という台詞です。

正直この言葉は胸に来ましたね~

ちょいと個人的な事情になるのですがわたしは自分の生き方が雑であることを、多少なりとも、自覚しています。

だからこそ胸に響きましたね。

丁寧に生きる

これは「ネギま」や「なのは」における

友達になりたいんだ

という台詞に匹敵するインパクトがありました、個人的に。

 

苦悩

さいきん「3月のライオン」や「capeta」がとても面白い。

(わたしはこれらの作品をまず、雑誌で追っている。だからこれから話す内容は単行本に未収録の内容だ。ネタばれになる部分があるので、今後に関する展開についてのネタばれがちょっとでもダメな方は続きを見ない方がいいかもしれない。)

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どこに注目したか。

まず3月のライオンで言うなら、最新話の桐山君のセリフである

 

頑張ってもから回る。普通の人が当たり前に出来ることが僕にはできない

 

これを見た時に「ああ、やっぱり桐山君は天才なんだろうなぁ」と思いました。

「まどか☆マギカ」6話におけるQBの態度が話題になっています。知らない人は「まどかマギカ QB 大暴落」とかでググルと出てくると思います。(ニコニコさんにあったので貼りました)

詳細は省きますが「対話ができると言って分かりあえるとは限らない」といえば、知っている人には通じるのではないでしょうか。

ただ、この現象は生きているうえで頻繁に見られます。

「常識」というキーワードで世の中を見てみると、いたるところにあります。「夜10時以降に相手のお宅に電話しない」「約束は守る」ある種の人には当たり前と思われることが別の人によっては当たり前でないことは多々あります。

「時間を守る」というのもそうです。「5分前行動」「ぴったり」「30分は遅れる」人によっても国によっても「常識」というのは変わっていきます。

そういう視点で見ていくとQBとは「人間ではない」ことに適合する生物ではあります。このあたりはLDさんのブログを見てもらえるとわかりやすいのではないかと思う

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で、「天才」というのはそういうなかでも分かりやすいくらいに「対話はできるけど理解ができない」キャラの典型です。

曽田正人さんの「シャカリキ」や「め組の大吾」でもそういうキャラは出てきます。「スバル」なんかはそこから更に一歩進んだ作品になっているのかもしれません。

桐山君の「当たり前の人が当たり前にできることが、ぼくにはできない」という『欠点』は、同時にかれの天才性の証明でもあるのです。(※1)

 

対して、「capeta」を見てましょうか。

これも最新の話から。

 

月刊マガジンの連載では主人公カペタは「高校を辞めようかな」と悩んでいます。それは、ライバルのナオミがプロのドライバーとして結果を出しているから。「一日中クルマのことを考えていられる」プロドライバーと「高校に通っている自分」を比較して「時間を無駄にしている」という感覚を抱いたからです。

それにたいしてカペタの父親はナオミの母親に頼んでカペタに「高校に通うことのメリット」を伝えてもらう。モータースポーツ関連者のナオミの母親からカペタは、現在のモータースポーツが如何に社会と密接に結びついているかを教えられる。そして、その中で生きていくのに重要なのは「当たり前」の感覚なのだと伝えられる。

 

これを聞いて「たしかになぁ」と感心しました。

「ハチワンダイバー」の世界ならともかく、「モータースポーツ」や「将棋」といったスポーツは社会の中でしか生きられません。(「音楽」や「絵画」といった、人間の精神活動に深く結びついた芸術は別な部分があるのではないかと思うのですが。)

そういう点でQBのような、「別世界から来た」種類の「天才という怪物」は生きづらい世の中なのかもしれません。

 

……さて、そろそろ「少女ファイト」の物語に戻りましょうか。(寄り道が長すぎる…)

少女ファイトも上記のような流れで見ていくことのできる作品のひとつだと思います。

ただ、この作品の珍しい点は「社会に拮抗する天才」をえがくのでもなく「社会に組み込まれた天才」を描くのでもなく、「社会の中でしなやかに飛び回る天才」が出てくること(そう見える部分があるということ)。

これに関しては最新7巻のラストエピソードが分かりやすいかもしれません。

 

「隆子さんありがとうございます。私…今日練さんの全力を見て嬉しかった反面圧倒されて…

自分が黒曜谷(学校の名前)の力になれるには具体的に何をすればいいのかまで悩んでしまって…」

「フッ、あなたがなれるわけないしならなくてもいいわよ」

(3人目の静止の声が入る)

「どうして?本当のことじゃないの。どんなに努力してもいまから練と肩を並べるのは無理よ。あなたが家族と幸せに温かいご飯やお茶を飲んでいるとき、私たちはずっとバレーしか食べるものがなかったのよ。一人で泥水のんで生きてきたのよ。それで強くならないわけがないでしょう?

そこで3人目の静止者が疑問の声をあげるんですよね。かれは今まで「隆子」と呼ばれる相手に圧倒されてきました。異なる意見を持っているときでも、恐る恐る「違うんじゃねぇかなぁ…」みたいな感じで自分の意見を提示する関係だった。でも、ここでははっきりと「当たり前」に(俺は知っている)と否定するんですね。

・・・そうか?

おまえらより強かった例外のやつが一人いるぞ 真里(死んだ主人公(練)の姉)だ

あいつはバレーばっかりやってるわけじゃなかったけど、強かったぞ。

だってよくサボってオレとゲームしてたもん」

 

この流れの後にかれの言うセリフ「いやー、お前らの苦労を小田切が軽く飛び越えるとこみてーなー」というセリフには激しく同意です。

丁寧に生きる。得た経験を身につけ、着実に前に進む。関係ないと思われることですら、血となり肉となる。生きていることに無駄なんてものはない(※2)

まぁ、最後のは言い過ぎかとは思いますが、こういうのが「歳を経るにつれて自由になっていく」ということにつながるのだろうなぁ、と思います。

さて、少女ファイトについて語れることはあると思いますが(わたしも眠くなってきたので(笑))、今回はこの辺で終了したいかと思います。

言いたいことは「これは面白い」ですね。(無理やりまとめる)

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※1 ここに関して『自分が欠陥だとわかるくらいでは天才としてまだまだ』という理屈も、なくはない。先ほどあげた曽田正人作品のなかにも、近い記述はある。ただ、後述する「カペタ」における「社会性を持った競技」における天才というくくりで見るならば、それが天才の天才性を減じるものかどうかはわからない部分もあると思う。「理解できる」から天才と認められるともいえるし、「理解できない」レベルにあるからこその天才ともいえる。一番わかりやすいのは「理解できる部分でも物凄く、追いつけない。でも、理解できる部分を仮に極めたとしても、追いつくことはできない。何処まで行っても「わからない」部分が残り、「理解しきることのできない」部分をもつ」天才である。そういう人は歴史に埋もれることもなく、ずっと残っていくのだろう。

※2 ちなみにこれを書いてて「バキ」を思い出した(笑)バキが以前言われたセリフ「たまんねぇな、あいつは道端を歩いているだけで強くなる理由を見つけて強くなる」ってなセリフ

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<おまけ>

これよかった

(↑これを「よかった」というのは正しくないが…)

(↑これみたいのです)

2010年6月 3日 (木)

今回『ネギま』が凄いっ!―友達になりたいんだ―

Dscn0206

今週のマガジンにある『ネギま』が素晴らしかった!

ネギの口から飛び出す『僕はアイツ(フェイト)と友達になりたいんです』という言葉を聞いたときは、「すげぇ!」ってうなりましたね。

ホントはこのことについて語りたい。…語りたいんだけど、ネタがない。ちょっと考えれば思いつきそうな所にあるから、金曜日のテストが終了したら全力で考えるかも知んない。

いまのところ言えることを簡単に記しておこうと思って更新しました(…いや、テスト勉強しろよ自分。というツッコミはマジであるんだけどね)。

たぶんこの記事が出る頃には騒がれているだろうとは思うけど、『なのは』との関連があるでしょうね。(この理由にはいくつか思いつくところはあるけどね。たとえば、人形というキーワードや主人公のタイプとか。いろいろ。)



この映画は個人的にはお勧めなので、出来れば見てほしい。

見なくてもいい『Fate劇場版』。みてほしい『なのは劇場版』

この映画と、今回の話の関連については語れるところがある…はず。まぁ、これはいまは置いておきましょう。

今回(というか現時点)で語れるところは、「ネギが決意に至るまでの過程」にあります。

この話は最後以外にも見所がいっぱいある回です。

たとえばこれ。

Dscn0208

『ネギま』というのは30巻を超える超大作マンガです。その物語の中には、じつに多くの事柄が積み重ねられています。このページもそこがキモになっています。

このように、随所に印象的なシーンを組み込む。このことによって、いままでの積み重ねが複合的に理解できるようになっています。これは凄いことなんですよね。

ランドリオールとかを見ていれば分かるけど、「壮大な物語」は多かれ少なかれ「読み解き」を必要とします。それが物語をを2倍にも3倍にも楽しませるようになっています。



ただこの作業は大変です。そのため(というべきかどうかわからないけど)、読者はこの「読解」のための一つの手掛かりとしてさまざまな手段を用います。『物語三昧』()や『something orange』といったブログもそのようにして消費されていくことが多いと思います。

でも裏を返すと「そのような補助がなくては理解できない(しづらい)」物語。つまり「奥にたどり着くまでにいろいろ思考が必要である」物語であるということもいえます。これは物語として「利点」であると同時に「欠点」ともなりえます。

たとえば、そのようにして「奥行き」がある物語は「深み」が生まれます。それは「面白さ」を生み出すかもしれません。しかし、それは「理解している者にとってはおもしろい」ものになりがちです。

「理解していないもの」は振り落とされていってしまう。文学なんかはこのような傾向があるような気がします。

これではエンターテイメントとしては成功とはいえない。

マンガは大衆娯楽。エンターテイメントを目指さないといけない。

その点、このページはすばらしいんですね。なざならば、この流れを見ているだけで「いままでの積み重ねがどのようにリンクしていった」かがぱっと分かるようになっているからです。

見ているだけでばらばらのパズルが一個の大きな要素に組み上げられていく快感。これは絵と文字で構成されるマンガ独特の楽しみかもしれません。

そしてこのパズルの組み上げられた答えをネギは自ら口にする。

Dscn0211

「だから 僕は前だけを見てようかと」

これはエヴァ破におけるアスカやシンジの成長にもつながる話なので、重要だと考えています。…けど今回は省略。(この「前をみる」というのはエヴァの変遷にかかわるキーワードだと思う。「エヴァQ」が楽しみだ)

エヴァンゲリオン新劇場版:破 の感想

もう一回エヴァ破見てきた

これをぱっと見で実感させるのは「積み重ね」があったればこそだし、それをたった2ページで到達させるのも素晴らしい。

またもう一つ別の観点からみると、これは読者の「レベル調整」をしたとみることもできます。

つまり、先ほどでた「高レベル読者(=奥を読んでいる読者)」と「そうでない読者(=奥を読み切れない読者)」の差を縮めたとも見ることができます。これは「全員を高レベル読者にしようとした」竜騎士07さんとは異なるアプローチです。(例 ひぐらし → うみねこ あるいは ひぐらし・うみねこ内だけでもそのような読者のレベルアップを図っている)

そして、ここで終わりかと思いきや「レベル調整」はまだ続きます。(とはいえ、ここは書いてて言い過ぎなきもした)

Dscn0209

この流れをとおして、ネギはナギと異なることが、感覚的にわかるように配置されています。つまり善悪の2元論的な世界観(=ナギの世界)を乗り越えようとする決意(というか自覚)が描かれているように見えます。

(ここにつながる裏付けとして、数ページ前からの「敵」に関する自問自答があると見れる)


Dscn0207

で、このような「敵味方」といった2元論的な世界観の果てにあるのが最終頁の「友達になりたいんだ」であり、それは「なのは」のそれと関連すると考えるんですね(あくまでもイメージ的な部分が強いんですけどね)。

まぁ、そんな感じのことを書きたいなぁなんて話の前ふりでした。



追記

・・・やべぇ。ちょいと書くつもりだったのに。・・・ああ、テスト勉強が・・・

理由の一端がわかったので、ここに書いておきました

補足 アリエッティはなぜすばらしいのか?5

2009年12月 2日 (水)

『魔法先生ネギま!(28)』感想 ネギという名探偵そして超の最後の言葉とは何だったのか妄想してみる

魔法先生ネギま!  28
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まぁ、たま~に言っているのですが(…ん、ブログでは一度も言ってないかな?)、「ネギって『名探偵』だよね」って話です。ぶっちゃけ今回はホントそれだけの話なんで、これがどこにつながるか(はたまたつながらないか)は自分でもわかりません。

とにかく、簡単に指摘だけしてみようかなという感じですね。

で、作品を見ているとわかるんですが「ネギが名探偵」って要素は作品中でちょこちょこ見かけます、この28巻でいえば、「魔法世界の秘密」に気付くシーンがそこに該当しますね。

ただ、ここで言っている『名探偵』とはポワロやホームズという名探偵というよりかは清涼院流水の作品に出てくる「九十九十九」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9D)や「コナン」の方がより近いイメージです(正確には九十九十九とはベクトルが違いますが)。

言葉として記述するなら、「必要なデータがそろった瞬間に真相を演算する」タイプの名探偵といえばわかりやすいでしょうか。あまりに素早い演算処理が行われるので、推理に必要な要素の大半が出た瞬間に答えを出してしまうタイプです。

なぜそのように思ったかといえば、ネギの「魔法世界は火星だった」と気付くシーンのつぶやきと、そのあとに呟いた「あと一つ…そう あと一つ重要なピースがそろえば…」の下りがポイントです。

このシーンがネギの『名探偵』の要素を上手く表しているように思います。

で、そうやってみてくるとネギの敵たちが事あるごとに彼に対して「正しい」選択をしろと言われる意味の一端が見えてくるのかもしれないと思うんです。

つまりネギの「敵」たちはネギが思っている以上に「ネギを理解」しているのかな、ということです。

ここでどうしてそのように思うかというと「正しい」という言葉を「情報の結果の演算」と表せばわかりやすいのではないかと思います。

ネギの「敵」たちはよく彼を勧誘します。超、フェイト、クルトなどがぱっと思い浮かびます(超は少し例外的な部分もあるんですが)。そして彼らは事あるごとに彼に「語りかけます」。そしていくつもの「情報」を彼に与えるんですね。で、そのあと言うのが「正しい選択をしろ」ないしは「世界を救え」なんです。この「正しい」ということをこの文脈から考えると「これらの情報から得られる最適解を選択しろ」なんです。

そしてそれで見ると、今週号のマガジン(第272話)で突然クルトが説得をあきらめた理由も見えてきます。

それが「ネギが選ぶ最適解が自分の提案と一致しなくなった」からです。

「超の情報」がなければたどり着けなかった「答え」があるとネギの最適解が変わってしまうからです。それはクルトがネギに導かせたかった「答え」とは違うんですね。

で、それを考えていくと超の最後の「わたしの望みは達せられた」も一つの意味を持つ得るかな~

とか思っておりました。

追記

一方、ラカンのネギに対するセリフ

「男だったら女を守れ そして 世界を救え」

「―!」

自分の為じゃなく な…」

はこの「演算」の考えをつかって読むと凄く意味のある台詞、本当に実効的なアドバイスに聞こえます。

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