いまさっきネギま!の最終回を読み終わりました。
9年間に渡る連載の結実がここにある、という感覚です。赤松健先生、ホントにお疲れ様でした。素晴らしい物語をありがとうございました!
さて、この最終回素晴らしいエンディングだったんですが、なんとなーく気になるところがあったので、そこにたいしてちょいちょいメモを残しておこうかな、と思います。
タイトルの表題に在るように「ネギま!のエンディングはうみねこの魔法エンドなんじゃあないか?」ということです。
これはけっこう無根拠な「印象」を前提にしているのですが、そう考えると自分のなかで腑に落ちる部分があるんですよね。
ちょっとその前に「魔法エンド」とはなにか、という話をしておきましょうか。
同人ゲーム「うみねこのなく頃に」というのは絶大なブームを引き起こした「ひぐらしのなく頃に」を生み出した竜騎士07さんの傑作ゲームのひとつです。
昭和の末期にある無人島六軒島で引き起こされた怪事件。それを軸としたサスペンスゲームです。
第一話では「古典的」な館ものミステリが描かれるのですが、二話以降は超メタミステリが展開されます。この物語の軸は「魔女はいるのかいないのか?」
島で起こる事件は人間が引き起こしたのか、それとも魔女が引き起こしたのか?
館のなかで起こる殺人事件、そしてそれを「盤上」と表現して外から眺める「人間:バトラと魔女:ベアトリーチェ」の「この事件を引き起こしたのは魔女か人間か?」という応酬がキモとなります。
物語を眺めている僕たちは盤外のバトラたち、そして盤上で殺されていくバトラ達を眺めるという、超メタ視点から物語を眺めていくことになります。
ベアトリーチェは「この事件は人間には引き起こせない、だから犯人は魔女」と主張し、バトラ側人間は「いや、すべてトリックだから人間に起こせる出来事」という主張をします。魔女側が「問題作成者」、人間側が「回答者」となるわけです。
「魔法エンド」というのはこの物語のラストでぼくたち読者が「唯一」選ぶことのできる選択肢です。その物語のラストでぼくたちは「魔法を認めるか否か」という決断を迫られる。
この「魔法エンド」を選ぶと、そりゃもう素晴らしいエンディングが見られます。
うみねこをやっているひとは「祭囃し編」のエンディングを思い出してもらえるといいと思います。あらゆる困難は解決され、世界は希望にみち、絶望を人間は乗り越えることができる。奇跡は世界に満ち満ちている、きんもちイィ、エンディングです。
ただ、うみねこにはもうひとつ「人間エンド」という結末があります。
これは「魔法を否定」し、絶望に満ち、苦難が目の前に広がり、ありとあらゆる困難や絶望に圧倒されるエンディングとなっています。まぁ、一見して「BADエンド」なんですけれどねw
でも、ぼくとしてはこのBADエンドこそが人間の取っていく道なのではないかな、と思うわけです。魔法エンドにも心惹かれるんですがぼくは人間エンドを支持したい。
おい、ネギま!のエンディングのはなしをしろよ!、という声が聞こえてきそうなので前置きはこれくらいにしておきましょう(笑)。魔法エンドと人間エンドはネットでしっかり書いてくれている人もいるので、一読してみるといいでしょう。でもその前に、できることなら自分の手でやってみて下さい。たぶんあなたのみたことのない物語を目撃できます
・・・はいはい、ネギま!の話に戻りますよ
そこでネギま!のエンディング。
ぼくはこの「ネギま!」の「一見平和なエンディング」というのは「魔法エンド」
すなわち幻想なんじゃないか、と思うんですよね。
これはエンターテイメントに徹した赤松さんなりの皮肉が込められているのかもしれない、と(いや、そう思ってないかもしれないけれどw そうぼくには見えたんだ、と言うのがポイント)
まず気になったポイントは最終回のこのシーン
ネギがナギに対して「自分の希望(仲間)に会ってくれ!」とナギに熱弁するシーン。
答えるナギはいったん目を閉じてから「そっか・・・」「会ってみてぇな」とつぶやく。
明るいシーンなのに、ここだけ余韻が感じられます。
まるで「かなわなかった夢」を見るかのように・・・
その後CASTといって、ネギのクラス全員の「その後」が描かれる。
ぼくはこのシーンをみた時にすっごい気になったんですよね。
で、気になった理由を考えると、過程は如何であれ「魔法エンド」「幻想エンド」なんじゃないかな、と。
最初に「無根拠なカン」のようなものだ、と言ったんですがもうちょっとこういう結論に至った理由について話をしましょうか。んー、ちょいと箇条書きにしてみると
- ネギま!の特性について―ネギの能力とアウローラ(ちょいこじつけっぽい理由だとは思うが、うみねことの関連を意識してしまうので説明しよう)
- 映画版のエンディングへの違和感(DVDは見てないので、あくまで「映画」のエンディングについてです)
まず1について話をしましょうか。
昨日(ん?一昨日だっけ、ごめん寝てないから昨日ってことにするね)の漫研ラジオでペトロニウスさんやLDさんが語っていることを聞きながら思ったのが
ネギま!って過程を省略するよね
ってこと。
これねー、ネギ君にその特性がよく表れているんですよ。この一時を持ってして「ネギがネギま!の主人公としてふさわしい!」と思えてしまうくらい
あ、この「ネギま!の過程省略」についてぼくは説明しませんよ。面倒くさいし。ただ、この最終3章の「すっとばしかた」は傍目にわかりやすいので、直観で理解して欲しい。
で、この「ネギの特性」ってのは魔法界編のラカン戦直前が顕著です。あ、ちなみに、いま以前にもこのブログでは「ネギは正しい問を立てれば過程を省いて結論を手に入れる」趣旨のことは語っています。いや、「ここにつながる」とは思ってなかったんですがw
魔法界編の直前だから、30巻くらいだっけな。新魔法ティクタノンとか雷天大壮(雷化)が出た頃です。ティクタノンとか雷化、というのは「通常なら数年かかるものを3ヶ月?(んな、長かったっけな??)くらいでネギが開発」した魔法です。
一般との差異については、VIP席の皆さんが懇切丁寧に解説してくれています。読み返してみると、その説明の丁寧さに驚きますよ。
それ以外にも「世界を解決する手段を見つける」ところもそうですね。あらゆる人間(魔法界人)たちがどうしようにもできないことを、たった10歳の子供がちょっと考えただけで見つけてしまう。
こういうチートを持っているのが「ネギの特性」です。
これは、「因果さえあれば過程を省く」ことのできる能力だと思うんですよね。
で、こういう能力をもっているひとがうみねこにいるわけですよ。それがアウローラさん

はいはい、このひとです。
このひとの戦闘方法ってのがまさに「チート」なんですよね。「因果さえあれば過程を省ける」能力の持ち主。
あいてを「ふっとばす」と決めたら、「その理由をでっちあげられるなら」「ふっとばせる」(そう記述はしていないけれど、そういう能力だと認識しています。ゲーム中では「べつにどんな理由でも作れるから、まぁふっとんどけ」みたいな描写だったと思います)
で、おもしろいのはこの人がでばってくるのは「魔法エンド」のときぐらいなんですよね。ある時空でこのひとが「人間」として現れるシーンがあるんですが、たしか「人間エンド」では会えなかったんじゃなかったかな(記憶が曖昧。間違えてたらごめん)
つまり、こういう「チート」を使うこの人が前面に出てきたときは「魔法エンド」のときなのかな、と。この前提で考えてみると、「チート」が目立つようになってきたのは魔法界編からかなー・・・つまりそこから「幻想?」なんて、想像もできます。
もちろん赤松さんが「うみねこ」を知っているかどうかは知りませんよ。だから「うみねこで「魔法エンド」に「チート」がでばるといっても(仮に正しいとしても)、それがネギま!に適用できるとは限らない」。その意見は正しい。
だから最初にぼくは「こじつけ」って書きましたよw
ただ、そういう風に見える側面がある。そのことを覚えておいて下さい。
じゃあ、次に2についてはなしをしましょう
こちらは「ネギま!」のはなしなので、もうちょっとは納得がいきやすいかと思いますよ。
・・・えっと、みなさんネギま!の映画見ました?劇場で。
もうね、ぽかーん、でしたよ。はい、ぽかーん・・・
終わった後に「え?なにこれ?」ってはなしです。
でもね、赤松さん的には「OK」らしいんですよ(ぼくの聞く限りでは)。ぼくはDVD見てないので、30分追加されてどうなったのか知らないんですが、仮にこれが「OK」(大人の事情でOKと言わざる負えない、以外の場合)だとしたなら、エンディングプランBとか言ってますし、つまりこの映画には「意味」があるんですよね。きっと。
映画のあらすじをざーっとはなしをしてみましょうか。
まず魔法界のはなしは終わっているんですよ。「いやー、すごい戦いだったね。あの時ネギ君が~~して造物主を倒して。いやー、すごかったぁ」とか言っているわけですよ。視聴者は「・・・え?」な状態です。
そこから麻帆良学園にもどってネギ君に与えられる使命が「だれをパートナーとしてひとり選ぶのか?」。で、ドタバタコメディして、世界樹がぴかーって光る。ぴかーってね。
何があったのかと思ってみんな集まると、さても大変「火星が落ちてくる」・・・・は?
そこで、いきなり学園長が現れて曰く「どうやら造物主の欠けた最後の呪いで地球に火星が落ちてくるらしい(はぁ、ようわからん)。それを回避するにはネギがパートナーを独り選ばないといけない(なんでだろう?)」とのこと。
で、悩んだ結果ネギ君の出した結論が「みんなと契約します」なんですよね。いみわからないんだけれど、仕方ないんですよ。
周りからは「むちゃだー!」とか言われるんだけれど、魔法界での激闘を繰り広げたネギ君はそれを成功させてしまう。学園長「われわれはかれを見誤ってた」みたいなことを言う。
で、全員で火星に挑むんですよ。
んで負ける。
そのとき空からチャオが降ってきて「きみは間違えてない」といってネギと契約をする。
これで生徒全員集まって火星を撃破!
世界はなんだかんだあって魔法のことがばれ、幸せにおわる・・・
ざーっとはなしをしたんですけれど、こんなはなしなんですよ。DVDがどうなっているかは知らないけれど、少なくとも映画はこんなのだった。
意味がわからないんだけれど、「これでいい」んですよ赤松さんは(聞く限りでは・・・どっかで不満もらしたかな?)。
で、ひどいよねーってはなしをしていたんですよ。そしてあるとき映画を見終えた海燕さんとはなしをしたときにいわれたのが「これってコスモエレケンティアに取り込まれた世界なんじゃないの?」ってことば。
納得しました。
それならよくわかるんですよ。ネギにとって「都合の良すぎる世界」なので。
さて、そこで今回の漫画版のエンディングに戻りましょう。
ぼくは「映画でBADエンド」「漫画でGOODエンド」を描くと思っていたけれど、もしかしてそれは勘違いだったのかもしれない!
そうではなくて、赤松さんが描きたかったのは「魔法エンド」「幻想エンド」なんじゃないか、ということなんですよね。
思い返してみれば赤松さんが言っているのは「エンディングプランBです」なんですよ。最初ボクが考えたのは「Aとの対比のB」で、でもいま主張しているのはそうではなくて「Aと同種のB」だったんじゃないかな、ってこと。
そこで竜騎士さんのはなしに戻ります。
かれは「うみねこ」で「魔法エンド」「人間エンド」を描く前に「ひぐらし」で大団円エンドを書いているんですね。ぼくは以前Twitterであるひとに「竜騎士さんは最初から「魔法」と「人間」のエンドを意識していて、「ひぐらし」のときは読者がついてこられないから「魔法」エンド=祭囃し編を「ひぐらし」のラストに持ってきたんじゃないか」、ってはなしをしたんですよ。うみねこはひぐらしで「レベルの上がった」読者を前提に作られているんじゃないか、と。
あと「ひぐらし」のときは「エンターテイメント」を重視したんだと思うんですね。だからあんなに「売れた」。それも一因は「魔法エンド」のわかりやすさにあるんだと思います。きっとうみねこはひぐらしより売れてないんじゃないかな(どうだろ?)
赤松さんがやったのも「そういうこと」なのかもしれない。「エンタメ」を重視した結果なのか、「読者がついてけない」からなのかはわからないんですけれど(たぶん前者を重視して後者を考慮だと思う)
あれほど頭の良い人があの映画を「よし」とするのは、意図あってのことだと思うんですよね。
そういう理由とかを考えると、このネギま!のエンディングというのは、「意図して魔法エンド」を創り上げられているのではないか、と。
こういうところから、ぼくは「ネギま!のエンディングはうみねこの魔法エンドなのじゃないか?」としゅちょうするんですよね
さて、まとめよう。
これが仮に、あくまで仮に正しいとして、赤松さんが「こういう選択」をとったことにぼくは「限界」もしくは「皮肉」を感じてしまう。
これは「エンターテイメント」という枠組みの中にある「限界」であり、その先を超えていくと読者がついてこられないという一流の「ジョーク」を感じてしまうのだ。
ここまでのはなしはぼくの妄想に近い騙りごとではあるが、でも、ぼくにはそう見えた。それはやはり意識してもらいたいところです。
これが現在での極地なんだろうな、と思う。
しかしぼくは満足です。つーか、不満なんて・・・ね(まぁ在るところもあるけれど、些細なものです)。
ここまで限界に挑んだ作品ってのは近年見たことがないレベルでした。これほどエンターテイメントしている思考の娯楽ってのは、なかったです。
エンターテイメントの最前線を走る人間の残した偉大な痕跡と、ネギま!という傑作を残してくれた赤松先生に敬意を表してこのはなしはここで終わりましょう。
赤松先生、おもしろいものがたりありがとう!!
追記
仮にこのはなしが正しいとして、赤松先生が「エンタメから先」、つまり「ひぐらし」のさきの「うみねこ」をやるのかどうかというのはボクにはわかりません。やるなら応援しますし。やってもらいたい。でも漫画はノベルゲーム以上に「エンターテイメント」であることが求められる。少年漫画では難しいかもしれない、とは思うんですよね。
追記2
なんとなく、ネギ君がくっついたのは茶々丸さんな気がしてきた・・・(ぼくはアスナさんとくっつくと嬉しいんだけどね、・・・うん、ないね)
追記3
http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-3623.html
http://jin115.com/archives/51806302.html
ちょい調べたら、赤松さんは映画に対して不満があったみたい、でも「シナリオの前提」に不満があるのであって、ああいうエンディングについては「良し」ということなのかな?
仮にそうなら、「シナリオの見せ方」に問題があるのであって「ああいう結末」自体はOKということかなー。まあ、だとすると「魔法エンド」主張は崩れないわけですが(あくまでぼくにはそう見える、というだけだけれど)
ちなみにシナリオの粗の部分が、魔法エンド的なもの感じさせる部分を際立たせた側面はあるかもしれない
追記4
ちなみに「魔法エンド」というのは「ファンタジーやエンターテイメントの背負う宿命」にちかいところはあるのかな、と。
追記5<最終回の感想書いている人がいろいろいたね>
1日たっていろいろ書いてくれている人たちがいた。とにかく漁って、楽しく読ませてもらいました
林原館長活動報告書
もめんたむ
ネギま!のなにか
ゆうじの気まぐれなブログ
うぱーのお茶会
ゲームの戯言+α
ランゲージダイアリー
記事の内容に一貫性のないブログ(仮)
kiirock
方丈にて徒然なるままに
ちうちうとれいん
Black swan
江戸前ネギ巻き寿司 重婚説は面白いな~
くろうのだらオタ日記 「確定されたハッピーエンドが出来た事により、そこに至る『幸福な時間の物語』が全て『再現』された」というのは、ボクの表現でいう魔法エンドにつながるなー。ちなみに魔法エンドというのは「ファンタジーの要請」という側面もあると思うんですよね。「良い悪い」ではなく「ファンタジーであるが故の制限」に近いものではないかな、と
のびゆく麻帆良市
カラフルカーニバル
うわっつらな進化する日々
カートゥーン☆ワールド この「わずかな勇気が本当の魔法 少年少女よ大志を抱け その一歩が世界を変える」というのは、「夢がありすぎるように」思うところはあるんですよね。さっきのファンタジーの要請がそうなんだけれど、「夢を見せる/見られるようにすること」というのはある種大人の仕事で、「こういうエンディング=魔法エンド」というのは「夢を信じられるがためのエンディング」だと感じています。だからこのエンドが「悪い」とか「良い」という括りで話したのではなく、「そうなった」「そうなるように設計された」ことに意味があると思うんですよね。まぁ、魔法エンドってのはぼくの妄想的な話ではあるのですが、それを前提に話をしていますよ~
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