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思索的何か

なにか気になることがあって、でも明確に言葉に出来ない場合

2015年5月 6日 (水)

『亡国のアキト 三章 』感想と、ここ二日間の出来事についての雑記。

コードギアス亡国のアキト 第3章 『輝くもの天より堕つ』みてきたー!

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先ほど5/6 19:30に新宿バルト9でみおえて。19:50現在は山梨への帰路についております。

今回二日間かけてやったのが

・東京ゲームマーケット初参加
・うどん日本一決定戦で五島うどん食べる
・友達と飲み
・伊豆で初めて体験ダイビング
・別の友達に顔を見せにいってご挨拶
・コードギアス映画鑑賞

です。

これでぼくの東京ミッションコンプリートですよ〜

よかったー。せっかく東京まで出るんだから効率良くイベントこなしたいですからね。

特に亡国のアキトは5日の空き時間で観れなかったのでムリだと覚悟してたんですよね。池袋で5時から見ようと思ったら満席だったんですよ^^;

運良くダイビングの帰路がスムーズだったから映画観る時間ができた。よかったー。

今回の二日間は中々に密度が濃かったです。個人的には飲みとダイビングで最低限ライン以上は満足度は確保してたんですけどね。トドメのアキトが予想より素晴らしくて満足満足。

映画も満足したけど、分析して語ることはいまのところないかなー。

ルルーシュとスザク活躍しすぎだろうとか感想はあるけどね。ランスロットがめちゃくちゃ格好良くてヤバかった。見てるだけで幸せになれる戦闘描写があった。

あんなにロボットってヌルヌル動くんですね。格好いいよなー。あのレベルの画が1,200円で観れるんだから凄いよね。

まぁ、ジプシーの一団と混ぜて幸せなひと時を描くってテンプレだよなぁ、とは思いましたけどね。でも面白い。

描写が綺麗だからどうしようもないです。今後出てこないだろうって婆ちゃんたちもキャラ立ってたし。

幸せなスピンオフですね。

ところで最近思うのが、スピンオフの良さと限界ってやつです。

良さは例えば亡国のアキトみたいなやつですよね。視聴者の快楽を満たして世界観を広げてくれる作品。

限界は攻殻機動隊やパトレイバーだと思うんですよ。あと、フェイト・ゼロも入るかもしれない。

これらの映像化・作品は基本的に面白いんですよね。攻殻機動隊ariseだって最後まで観ると充分に面白かった。しかしこれらの作品にはオリジナルを超えてはいけないという制約がかけられてしまう。

作品のたどり着いた到達点を崩すわけにはいかないから当たり前といえば当たり前なんだけど。だけど勿体ないなーって感じる部分はあります。

次のテーマをその作品で描けない問題がある。

攻殻機動隊は原作が三巻程度しか出てないわけですよね。そこから描いた世界観としては今の攻殻って壮大だとは思う一方、これ以上彫り込むことの出来ないだろう辛さは見てて感じる。

次のテーマを描けないって問題を見てると、作品が新しく作られて行くのは正義なんじゃないかな、と思う。

現在はニコニコの動画みたいに既存のものの組み合わせで新たなものを創り出す文化がある。しかしそこには良悪が隠れているように思う。まだうまく言葉にならないのだけど思うことはあります。

同じようなテーマで作品をやるにしても初音ミクを使うのとMADには違いがあるように感じる。

うーむ。……ちょっとこの話はおいておきます。

久しぶりにまとまり無く書こうかなって思ってる。ちょっと話を戻しましょう。

そこで新たな作品のテーマは新たな作品で示すしかないんだろうな。それが現実的なのだと思う。

もちろん新たなテーマの可能性を示した作品で『次』を描けるならそれでもいい。しかし実際はムリなことが多い。

期待できることではない。

エヴァやガンダム、ジブリとかは例外的なものがある。

たとえば攻殻機動隊はネットの未来と人の可能性を描いた。神山監督はこの作品に意志を仮託してスタンド・アローンの概念を示している。しかしこの仮託では答えを描けないのではないかと思う。

なぜなら原作の素子はネットの海に浮遊する存在になることが決定してる。スタンド・アローンな意識と社会の結末は描かれていない。問題点を解決したら素子がネットの海に行く神秘性が失われてしまうかもしれない。

ある作品の抱えるテーマを解体していく行為は神秘を解明していくことに近い。作品の唯一性がなくなって相対化してしまうことになる。

天にある作品を地に堕とすことは良しとはしないんじゃないかな。

オリジナルを超えたテーマの作品を作っていけない問題点がスピンオフにはある。

そのため、新たなテーマを描きたいなら似ててもいいから異なる新しい世界を描くしかないのかもしれない。サイコパス2を見たときにも同じことを思った。テーマとしては攻殻機動隊の類型な側面もある。民衆がシビラというシステムを選んでしまったときにどうするのか。これは攻殻機動隊で描いてる民衆が悪であるときにどうするのかという問題点とも被る。

似て非なるものだからこそ先が描けるのかも。

スピンオフ見ててふとそんなことをツラツラ考えてみました。

そろそろ山梨に着くかも。

二日間楽しかった!

(5/6 てれびん 著)

2014年12月17日 (水)

もっともっと売りたい電子書籍がなんで売れてないのか(1)〜売れ方にもいろいろある〜ジャンプ漫画が売れるのと、なろう小説は売れ方が違ってる〜

電子書籍の売り上げを伸ばしたいならオンリーワンになるしかない

今回は、こういうテーマを記事にしてみたいと思います。

ところで皆さん電子書籍って買ってますか?

Kindle、ブックウォーカー、eブックス、Yahooブックス…etc

いろんな種類があります。この中で、どれかひとつでも使ってるひとはいるでしょうか。

ちなみにぼくは、Kindleとブックウォーカーを使っています。合わせて千冊は超えてる。使ってみると電子書籍はとても便利。すぐ買えるしすぐ読める。場所もとらない。でも、どうやら売り上げはそこそこらしいんですよね。

これがなぜかずーっと疑問だったのですが、やっとひとつの仮説が頭の中に思い浮かびました。

これって

【場が統一されてない】

せいなんだと思うようになってきた。

どういうことなのかをこれからご説明させてもらいたいと思います。

そのために次の幾つかの話題をお話しなければならない。さっくりテーマだけ羅列すると、

【本の売り上げは読者数✖︎完成度である】

【ジャンプの漫画の売れる理屈と、なろうの小説が売れてる理屈】

【電子書籍が売れないのは、コンテンツが統一されてないせいだ】

【絶版マンガ図書館をブックウォーカーに統一するべき唯一の理由】


この内容を読んでくれたら納得してくれるのではないかと期待してます。

それでは、順番にお話してみよう。

【本の売り上げは読者数✖︎完成度である】
そして
【ジャンプの漫画の売れる理屈と、なろうの小説が売れてる理屈】

これらは、同じ線上にあるので、まとめてお話します。

皆さんジャンプは知ってますよね?

ONE PIECEとかドラゴンボールを生み出した漫画界の巨大コンテンツです。最近はNARUTOが完結しました。

ジャンプ作品は総じて売れる傾向があります。ここをみてみるとわかるのですが、雑誌単体としてジャンプは他の追随を許さないことになってます。※1

あと、2013年オリコン漫画ランキングをみるとやはりジャンプの作品が上に多い。※2

ひとつの巨大コンテンツに掲載されていると、作品は売れやすくなります。これって当たり前のことだと思うのですよ。

めちゃくちゃ面白い作品だけど世の中に知られてないというときは、作品の問題ではなくて雑誌の問題であることも多いと思います。

ここでぼくは売上の大きい雑誌で連載しろと言ってるわけではありません。ただ、全体の傾向として見るなら、巨大コンテンツにある作品は総じて利益を生み出しやすいということを言っている。

そこで、次にこのブログで良くはなしをしている「小説家になろう」を話題にしてみよう。

小説家になろうって知ってますか?知らない?

知らないなら簡単にお話すると、小説の投稿掲示板サイトです。オリジナル作品ならなんでも投稿していい。※3

ここで面白いのは、このサイトのアクセス数は一日云千万らしいということ。※4

さらに、小説家になろう出身の作品はラノベの中でも売れる傾向がある。スレの引用で、信頼性が低いが申し訳ないが参考にして欲しい。

実際、平均的な売上からするとなろう出身の作品の売上は大きい。それは、そこらの書店の本棚みるとなろう出身のライトノベルが幅を利かせてることからも見て取れるだろう。

そこで、次のことを考えてみよう。

一週間に週刊少年ジャンプを見ているひとと、小説家になろうを見ているひとは単純にみて十倍くらいだということは想定できる。※5

では、ジャンプを読んでいる人がジャンプコミックを買う確率と、なろうを読んでいる人がなろう出身の小説を買う確率はどれくらいの差があるのだろうか。

ひとりの読者数に対してジャンプ作品となろうの作品ではどちらが売れているか考えてみよう。つまり、読者数にたいする売上効率を考えてみよう。

…まあ、ジャンプのほうが売上効率いいよね。

これは適当な例ですけど、百人のひとがジャンプを読んで一人がジャンプコミックを買うとするなら、なろうでは千人がなろうを読ん一人がなろう出身小説を買うイメージ。

この差がなにに由来しているかというと、それが「完成度」だと思う。

完成度というのは、作品の圧縮度や読みやすさ、完結させる保証…それらの総合としての指標です。

追記にも書いてあるけれど、ジャンプにジャンプメソッドがあるなら、なろうにもなろうのお約束というのがある。

ただ、そのクオリティに違いがあるので、ジャンプという場から産み出される作品と、なろうという場から産み出される作品のクオリティには違いが生まれてしまう。※6

ジャンプクオリティの平均が80点なら、なろうクオリティの平均が65点という塩梅だ。

作品の売上には

読者数で母数を増やして、次にクオリティをあげて一人あたりの購買確率を増やさないとならないのではないか。

ぼくはそう思う。

そして、その購買確率というのはひとつの作品の完成度を下地にしているというより、場全体の平均に由来するのではないだろうか。

あくまで仮説の段階だが、ひとつの示唆になるだろう。

次の記事ではこのことを下地にして

【電子書籍が売れないのは、コンテンツが統一されてないせいだ】

【絶版マンガ図書館をブックウォーカーに統一するべき唯一の理由】


という話をしていきたい。





※1 ここでホントは、雑誌ごとの漫画の売上ランキングとか見たかったのですが見当たらなかったので言及できなかった。つまり、漫画がジャンプから発表されるのと別の雑誌で発表されたときに平均的な作品の売上の違いを見たかった(例えば各25作品連載があったとして、13番目の作品の売上の差を見たかった)。ぼく個人の感覚としては、ジャンプのような大きな雑誌で発表されたほうが、平均的な購買部数は大きいのではないかという思いはある。ただ、実際には調べないとわかりませんので想像で言及してます。売上を自分で調べて表にすればいいというツッコミはあるのだけど、時間なくてやれませんでした^^;
すみません。もし調べて「お前は間違ってる!」というなら、謝るしかないっす。教えて下さい。

※2 ホントは各雑誌の真ん中の売り上げの作品を比べるのがいいのですが

※3 ただ、ランキング上位にくるのは転生ものなどの「お約束」を下地にした作品が多い。今回のテーマからズレるからお話しないが、このお約束がジャンプメソッド的になろう作品をまとめ上げているので、売れやすいというのはあるとおもう。場の統一性というのを頭の片隅において見て下さい。

※4 一億アクセスとか聞いたことあるが、覚えてないので曖昧に書かせてもらいました。とりあえず、一位の無職転生だけで、一日十万アクセス(更新してないときで)ということは記録にある。ちなみに日間百位の竜姫は一日一万前後らしい。…って、平兵士の丘さんかよ…(苦笑
適当に12/17の百位選んだら…偶然ってこわい

※5 ジャンプの発行部数が二百万にたいして、なろうは一日云千万。単純に比較はできないだろうが、場としてみると単純に十倍は余裕で超える。一位の無職が一日十万アクセス(更新なし)と考えると、十倍の差というのは遠くもないとは思う。

※6 なろうでクオリティを問うことがナンセンスではある。今回は売上という観点からみたらクオリティが大切という話をしてる。

2014年12月 2日 (火)

幸せに生きるって簡単で楽なことかもしれない

人生を加点法で評価するか、減点法で評価するので人間観が変わるのではないかと思って考えてみた。

1.「加点法」、「減点法」の人生観とはなにか


 人生の評価軸は無意識に定められるものであるとぼくは思っています。その観点からするなら、自分の人生の評価軸を明確に意識しているひとはほとんどいないのかもしれない。

 おれの人生は俺が決めたんだ、と主張する人もいるだろう。そこを否定するつもりはありません。ぼくが無意識に定められているというのは、正確に言えば


(人生の評価軸は選択の結果に重み付けをしたことで決定される)
(そして選択は過去から現在まで無数にされ、これからもされている)
(経験的に考えるに、それら無数の選択を常に自覚的に行っている人間はそれほど多くないだろう)
故に、人生の評価軸は無意識に定められる


 という考え方です。

 ここで人生の評価軸を意識的に決定できるのは、重み付けという言葉に表されている。人生での重大な一回の選択は、日常で行われている百の選択より僕たちの人生に影響を与えるでしょう。決定的なところで逃げてはいけないと言われるのは、その所以だと思います。

 そこで重要な選択に絞って意識して、人生の評価軸を決定するひとがいるのは不思議なことではない。しかし、その重要なポイントを意識しているひとが多いだろうと思えないからあえて無意識と言っている。


 さて、ここで前提となる人生の評価軸の定義を終えたとしよう。今回は以下の定義で話をすすめる


定義:人生の評価軸とは、自分の人生を評価する時に用いられる尺度のことである。選択したという結果に重み付けをして尺度の種類が決定される。


 では、尺度の種類とはなんだろう。それが、「加点法」と「減点法」です。

 加点法とは、文字通り物事をプラスに評価することをいいます。用事・仕事を終える。困っている人を助ける。

 基本的には「良い」ことを、プラスに評価することです。

 一方、減点法とはその逆です。「わるいことをしない」のは当たり前だから、減点しない。基本的に「悪い」ことを、マイナスに評価することです。

 多かれ少なかれ、ひとは加点法と減点法を使い分けている。どこで加点法を用いて、減点法を用いているのかを考えるのが、今回のキモになると思います。


2.前提の違い


 本題の前に加点法と減点法の前提の違いについて書いてみたい。

 これは私見が入らざる負えないと思うが、加点法とは「できないことが当たり前」と判断することが前提にあり、減点法は「できることが当たり前」という考えが前提にあるように思う。

 詳しく述べることはないが、「できる」と思う基準は何に由来しているのか。あるいは、「できない」と思う基準は何に由来するのか、というのも考えてみるとおもしろい。

 この決定も人生の評価軸を支える重要な決定なのではないかと思います。自分はなぜその決定をしたのか、は人生の評価軸を考えるにあたって無駄なことではないと思います。


3.加点法、減点法の評価軸のメリット・デメリット


 どちらの評価軸にもメリットとデメリットがあると思います。それを下記に記してみましょう。


加点法のメリット:プラスの評価になるので前へ進んだ気持ちになる。前向きになりやすい。

加点法のデメリット:できなくて当たり前と考えると自分を甘やかしがちになる


減点法のメリット:ミスをしないのが当たり前なので、注意深くになりやすい。失敗を糧にしやすい

減点法のデメリット:自分の成果にならないので自分への評価がマイナスに傾きがち


4.まとめ:あなたは何を加点法で評価して何を減点法で評価しますか?



 ぼくは、わりと加点法を採択している人間です。


 たとえば、普通なら「一般社会で当たり前とされること」ができないのは減点法。「普通ではできないとされること」ができたら加点法だと思います。


 しかし、ぼくは通常なら減点法とされるところも加点法で評価している。


 「わるいことをしない」というのは、基本的には減点法で評価されるものだとおもいます。しかし、ぼくの場合は「ひとは基本的にわるいことをするものだろう」という前提に立つことで「わるいことをしない」のは加点評価になります。


 古代中国で言う、性悪説の立場にあります。


 この生き方の評価軸は非常に楽なものがある。なぜなら人が普通にやっていることを自分もやるだけで、通常の倍の肯定をゲットすることになる。


 基本的に「良いこと」をしないと得られないものが、「わるくないこと」をしても得られる。


 自己肯定感が非常に強くなり、傾向として幸せそうになると思う。


 自分が何を選択をしているのか、考えてみるのも面白いなと思ったので記事にしてみた。尻すぼみになるが、もうでないとならないので、無理矢理に終わらせることにするとする。
 終了!



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2014年5月16日 (金)

アクトオブキリング:この世界の空の下で起こっている不思議について

時間が出来たのでふらっと映画館に言って「アクトオブキリング」をみてきた。

60年代に秘密裏に行われた100万人にも及ぶ大量虐殺の加害者を追いかけたドキュメンタリー映画だ。

虐殺の「再現」。その奥底で監督が見たもの:映画『アクト・オブ・キリング』
いまでも英雄として過ごし続ける加害者たちに監督は「あなたたちの虐殺を映画で再現しませんか」と問いかける。

この映画は確かに傑作だ。

何がスゴイって、僕たちと地続きの世界にこんなにも異なる論理で回ってる世界があるのだということがスゴイ。

この記事を公開するときに公開しているかわからないけれど、いまこの記事と同時並行でインドの少年シャールク・カーンがコンピュータによって結ばれた縁の果てに医学部に入った記事の感想を書いている。
で、こういうことと同時にぼくは日本の川上会長がカドカワの経営者になるってことを知ったんですね。
偶然なんだけど、これらが同日にぼくの目に飛び込んできたことがものすごい衝撃的でした。

えーと、ですね。
ぼくがスゴイなー、と思うのはこのみっつの出来事が同じ空のしたでおこっているという不思議なんですね。とてもエキサイティングな出来事に感じる。

説明してみよう。
これらの出来事をまとめてみると、ぼくの視点では
インドの片隅に生まれた貧困層の少年が奇跡的にコンピュータと出会いに自分の人生を導く師と巡り合うという光り輝く物語の延長線上に、100万人もの人間を殺した者たちが英雄・指導者になるルールの世界が平行に存在してるのだ。ということだと思います。、


夢も希望もあるんだよ、、
って世界の脇に
夢も希望もないんだよ
って世界が佇んでる。


いまふと思い出したのですが「この世界の片隅で」の魅力も同じです。奇跡の起こらない戦争「世界」と同じ空の下に、すずたちの温かな日常がある。

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いや、世界ってそんなものですよね。わかります。たぶん、わかります。
とはいえ、この無常な感覚がものすごく面白いです。気持ちいい。

で、話を戻そう。

こういう対照的な出来事の起こってる空の下では、既存のものとは異なる新たな潮流が生み出されてもいる。それが、川上会長とカドカワの話である。

川上会長とカドカワの繋がりがどうして新しいのか。それは、続いて話をしていきたい。

ぼくは、おそらく川上会長ってリアルとネットを同列に捉えている方なのだとおもってます。
そのために、ちょっと次の文章を見てもらいたい。
この記事の川上会長のセリフがものすごく印象的です。

〜この新会社なんですが「プラットフォームをやってるドワンゴとコンテンツをやっているKADOKAWAの2つが合わさった」と理解されると思うんですけど、この理解は僕は少し違うんじゃないかと思っています。実は、もともと両社ともプラットフォームとコンテンツの両方をやることを目指してきた会社ということではないかと思います。
KADOKAWAさんの方も、出版社は雑誌っていうのは「リアルな世界のプラットフォーム」だと思うんですよね。販売網、書店に対してKADOKAWAの棚があるわけなんですけど、これもネットの世界のプラットフォームと対比されるリアルのプラットフォームだと思います。つまり出版社もリアルな世界のプラットフォームとコンテンツの両方を扱うというのが、正しい理解ではないか。〜

これって、ぼくやペトロニウスさん・海燕さんや多くの仲間たちが共通で見ていた世界の出来事のことだと思います。

エンタメならソードアートオンラインなどがいい例だと思います。ぼくも含めてソードアートオンラインを題材にして「これからの未来」を語った人たちは多いでしょう。あれもリアルとネットの接続の物語として読めます。
現代社会はリアルの延長線上にネットがあり、そういうことにリアリティを感じられるようになってきた世界なんでしょうね。

ぼくに会ったことのある人はなろう作家シロタカさんが連載されてる「フィフスワールド」をぼくがものすごく褒めていたのを知っているかもしれない。

そこで、なんで褒めてたかというと、この川上会長の世界ってのをリアルな射程で収めてる作品だったからなんです。

ネットの世界が第二の現実となってる世界は、確かにこうなるだろうと思うんです。子供たちはネットの英雄であると同時に普通の高校生としての日常を謳歌している。
ネットの英雄は、いわばプロ野球のトッププレイヤーと同じなんですよね。

しかもオリジナル版の初期はリアルとネットがほぼ同列で書かれていた(とぼくには見えました)ので、その地続きの感覚が鮮烈な印象を与えてくれました。

勿論、書籍版も面白いんですが(こないだ四巻読み直した面白かった)、ただそういう意味では、オリジナルのネット版ってのはやはり最高でした。ネットの英雄が高校では美少女に振り回される普通の少年だって二面性が素晴らしかったんですよ。リアルとネットはどちらが上でも下でもなく等価な世界でした。

いやー、なんでぼく保存しておかなかったんだって大後悔してます。誰か保存してたらください(と、宣伝しておく)

ぼくの見ていたのは、そういう「先」の物語でした。

で、話を戻すと、、全く異なるルールの世界が並列に並んでる脇で、リアルとネットが相互を補完しあうような流れが出来ている。
「新たなフロンティア」が世界の片隅で創成されていると言えるかもしれない。

こういう不思議がいま世界で起こっているんですよ。
いやー!!すごい!
やはり世界って広いのだなぁと思います。

・・・あれ・・・アクトオブキリングの話題何もしてないや。なんか話題がずれてた笑

ちょっと収集がつかないので、映画の感想は次回にでも続けることにします。

できるならば人間が人間を殺すときとか、ひとの変化とかココロノ不思議を絡めていきたい。
まぁ、ぼくのことだからそんなに予定通り考えられるかはわかりませんが・・・
そんなこんなで今回はここまでにします。では、また〜(唐突)

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2013年8月30日 (金)

クラウズの向こう。シンフォギアのかなた。(疑問のみ)

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さいきん見れていなかったシンフォギアGの8話をみています。
こうやって改めてみていると、シンフォギアって旧いつくりなのだなぁという印象がぬぐえません。ガッチャマンクラウズを見た後だから余計にそう感じるのかもしれないけれど、両作品の差異が気にかかってます。
ぼくの見た感じだと、ガッチャマンクラウズは余計なものをそぎ落としたのにたいしてシンフォギアは余計なものを盛り込んでいっているようです。クラウズは登場人物の生々しい日常が排除されていったのにたいして、シンフォギアは取り込み圧縮していった。
そのあたりがクラウズの洗練された様相とシンフォギアにつきまとう泥臭さの差になっているのかもしれません。
いやぁ、このあたりは面白いですね。
シンフォギアの方向性とクラウズの方向性。
両作品ともに同じような技術で逆のベクトルに突き進んでいるようにみえます。
ここに何かあるんじゃないかなぁ、って気がしているんですよね。
うーーん、なんなのだろう。
うーーーん。『里山資本主義』の里山と都市部の違いだろうか・・・。ちょっと気にかかる。
シンフォギアの先と、クラウズの先。このへんは赤松先生の新作『UQ QUEST』に続いているんじゃないかなぁ。
。。。まぁ、そんな疑問だけブログに残し
ここはおわりましょう。

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2013年7月30日 (火)

魅力的な女性キャラとはなんなのか。

魅力的な女性キャラとは何なのであろう。現在かんで(@kandetakuma)さんと海燕(@kaien)さんと話をしている。三人で話をしていると様々なキャラクターがでてくる。たとえば『Fate/stay night』のセイバーや凛であったり、『3月のライオン』のひなちゃん、ぼくは『神風怪盗ジャンヌ』のまろんをあげた。
彼女たちはいったいなにが魅力なのだろうか。
そこに迫る前に、いくつか確認しなければならないことがある。まず『魅力』とはなんであろうか。魅力とはこころに訴えかけるものであるので、一概に定義できるものではない。
たとえば『神風怪盗ジャンヌ』のまろんに魅力を感じるのは、彼女の精神性に所以がある。世界をつくりあげた神に選ばれた少女は否応なしに神へと反逆する魔王と戦うことを強いられる。まろんは神の力を宿した『ジャンヌ・ダルク』の魂をもっており、その力をもって悪魔と戦い続ける。物語のヒーローであることを強いられた少女が『神風怪盗ジャンヌ』の主人公まろんである。まろんはギフト(=天から与えられた才能)をもっているが、その精神性はただの少女だ。孤独に涙し、雷に怯え慄く。普通の少女に宿る超常の力というアンバランスがこの物語の魅力の一つである。これは物語全編で重要な部分だ。まろんは自分の孤独を見出してくれた千秋(=ヒーロー)に恋をし、フィン(=まろんを支える天使。物語後半で裏切る)を親友とする。巻が進むごとに抑圧され続けた少女はその抑圧に反逆をしていく。孤独は愛で癒される。弱さは受け入れる。印象的なシーンにはまろんの処女喪失がある。物語中でジャンヌに変身できるのは穢れなき乙女のみである。だからこそ性交渉は許されていない。しかしそのタブーをまろんは最後に破る。彼女はそのとき魂の輝きこそが穢れなき乙女の条件であり、処女を失う程度のことはジャンヌに変身できないことにはならないと悟る(ちなみにその前の巻で処女を喪うことで変身できなくなった聖女ジャンヌ・ダルクがでている)。ここでまろんはひとつの到達点に辿り着く。まろんは世界が彼女に強要するものすべてに反逆してみせる。ぼくはそういう『神風怪盗ジャンヌ』が好きなんです。
この観点からいえば、ジャンヌの魅力とは「乗り越える」ところにある。
これはひとつ重要な示唆であるかもしれない。ぼくにとってはキャラクターの魅力とは『困難を乗り越える』ことがひとつのポイントにあげられる。(『マクロス7』のバサラなどはそこから外れるので、べつのポイントもある)
幻想を打ち破る「上条当麻」(とある魔術の禁書目録)、ヴィンランドを目指す「トルフィン」(ヴィンランド・サガ)、ゲームの世界を限界以上に楽しもうとする「キリオ」(BREAK-AGE)、まだ見ぬ理想の飛行機を創りあげる「堀越二郎」(風立ちぬ)
ここからひとつ考えてみよう。

【仮定】限界を乗り越えていこうとするものには(たとえそれが叶わなかったとしても)魅力が生まれる。

しかしここにはまだ問題点がある。ここで話をしたいのは魅力的な『女性キャラ』である。なんらかの限界を乗り越えるものが『魅力的』であるとしても、それは『存在としての魅力』であり『魅力的な女性キャラ』とはいえない。女性であることが魅力とは、一体何であるのか。
思うに、女性特有の困難がポイントになるのではないだろうか。すなわち肉体的限界、社会的抑圧、性的・生理的被害などのことだ。
男性では起こり得ない(意識されづらい)女性特有の困難の克服が『女性キャラの魅力』を引き出す。
それは裏を返せば、『男性キャラの魅力』を定義づけることにもなる。
ここで思うのは、魅力というのは複数の領域にまたがって作られる。『存在(人間)としての魅力』『男性としての魅力』『女性としての魅力』の3領域は相当数に共通の領域を持っているのではないかということ。
そのうえで『3月のライオン』のひなちゃんはその多くが『人間としての魅力』で構成されているように見える。『神風怪盗ジャンヌ』のまろんは、どちらかといえば『女性としての魅力』に比重が偏っているかもしれない。
このあたりの区分は難しい。区分けに主観的な影響が強くなるからだろう。
改めて『女性としての魅力』とはなんであろうか。それは壁を乗り越えようとする魅力だけではないだろう。なぜなら、それのみだと『人間としての魅力』に区分されてしまうからである。容姿、社会的制限、努力、忍耐・・・それらの要素が加味されることで『女性としての魅力』へとつながっていくのではないだろうか。
そう考えると、『魅力的な女性キャラ』を作るのは存外難しい。精神的要素のみでは『女性』としての条件を満たさないかもしれないからである。
魅力的かつ女性であるキャラクターは、複雑な配分の果てに存在している。女性分を盛りすぎても興ざめになる。しかし減らしすぎると女性である必要が無くなる。
今日も作家は『魅力的な女性キャラクター』を求めて理想のバランスを求め続けるのであろうか。芸術家が果てなき美の極比を求め続けるように、女性としての最適な美を追い求める日が続いているのかもしれない。

2013年3月20日 (水)

キヅキアキラ作品の読後感がきになったひとたちへ

書店で見かけた『メイド諸君』が気になったので読んでみました。

大阪から東京に来た女の子がひょんな事からメイド喫茶で働くことになり、恋をして、結ばれる物語です。

こうしてことばにすると典型的な少女漫画な世界なのですが、キヅキアキラ+サトウナンキさんが描くとどうしてこうも妖しいせかいになってしまうのでしょうか。

ぼくは「いちごの学校」で彼らの作品を知り、それから地味~にこのコンビを追いかけています。

なんとなく気になるんですね。好きとか嫌いとかではなく、気になります。

目をそらしても恐る恐るもう一度みてしまう感じです。

惹かれてしまうといってもいい。

どうやら、ぼくにはそういう作品がいくつかあるようです。

パッとは思い出せないけれどそのひとつに『時計じかけのオレンジ』があります。

原作ではなく映画のほうです。スタンリー・キューブリックが映画化した奇妙にねじれた人間ドラマです。

少年は、レイプ、暴行、麻薬、殺人・・・ありとあらゆる犯罪の友だった。しかしあるとき仲間に裏切られ、投獄される。そこからかれの運命がはじまる。

刑期を短くするため、かれは国の実験台となる。こころを作り替え人格を矯正する実験。そして、堀の外に出た時かれの地獄ははじまる。過去の悪事は報いを与えにくる。過酷な現実は困窮を与える。そして物語は始まりの地、悪徳と強欲の転換点(ターニングポイント)に辿り着く。

時計じかけのオレンジを見て、咄嗟に感想が出る人は少ないだろう。なぜならこの物語はこのなかだけで完結している箱庭の物語だからだ。

ぼくはこのものがたりに美を感じるけれど、それは先端まで研ぎ澄まされた脆いもろい刀のような美しさである。

あといっぽで破綻するギリギリを歩いている危うい芸術である。

これを読んでいる人は『カラヤン』を知っているだろうか。クラシック音楽の音のみを追求したために批判された音楽家だ。

もともとクラシック音楽は歴史の積み重ねを音に託したものだ。その音を聞くものは音の響きを楽しむのと同時に、背景に描かれている歴史そのものを楽しむ。

平均法、対立法などのさまざまな技術を駆使して音楽はその世界を表現する。

音楽言語で描かれた歴史小説といえば、伝わりが良いかもしれない。歴史の流れはひとつである。しかしゴールに至るまでの詳細は描かれていない。

楽譜は年表であり、年表の中に隠れている苦悩や愛徳を創りだすのは演奏家である。だからこそ音楽家の楽譜への解釈は重要である。

しかしカラヤンはその歴史を破壊したと批判される。

いままで書いたように、クラシック音楽の『音』は小説でいう『言語』である。ことばを用いて歴史やそのなかの感情を伝える。しかしカラヤンは『音』に注目した。

『音』をより美しく魅せるために演奏をした。

音楽を通して壮大な歴史を感じさせるのがいままでの音楽であるならば、カラヤンは箱庭のなかだけで作動する精巧で閉じた音楽を作り上げた、といえるかもしれない。

時計じかけのオレンジはそういうものを感じさせる。

ただ美しく魅せるために美しい。そこに感想も、分析も存在しない。ただ美しさを感じるだけである。

そこで『メイド諸君』、あるいはキヅキアキラさんたちの作品へと話を戻そう。

かれらの作品はやはり美しい。しかし時計じかけのオレンジなどとは異なり、胸を締め付けるような痛ましいものをみるような、妖しい感情が立ち上ってくる。

結論から言うのならば、ぼくは彼らの作品は告発の物語なのではないかと思ってみています。

誰の、誰に対する何の告発なのかというと

「物語の登場人物」たちによる「読者」への「物語そのものの欺瞞」の告発

である。

キヅキ作品の多くはたしかに現実には存在するが少数である(と思われる)ファンタジーからはじまる。

教師と教え子が結ばれる、偶然訪れたメイド喫茶であらたな人生を発見する、愛する恋人のいる女性と結ばれる・・・

これらの起こりそうで起こり得ない物語をスタートとして、その物語が孕む矛盾を告発するのがキヅキ作品である。

教師と教え子が結ばれたあとに何が残るのか。少女漫画では教師と生徒が多くの苦難を乗り越えてハッピーエンドにいたる作品が多くある。しかし、その先にはなにがあるのだろうか。

教職を追われるかもしれない、子どもの未来を奪ったのかもしれない、手に入らなかったものへの憧れはどうなるのだろう。

そういうさまざまな矛盾を無視して物語はハッピーエンドへと辿り着く。

エンディングの先は断片的にしか語られない。

キヅキ作品ではそういう矛盾や欺瞞を登場人物が読者に提示してくる。

メイド諸君もそれに合致する。

物語ラストで愛する恋人を手に入れた者は、以下のような内容を独白する。

「なんと苦しい世界だ。不幸せであればそのことに苦しみ、幸せであればそれを失うことにおびえて苦しい。いつまでも幸せになれない」

詳細は異なるが、そんな台詞をつぶやく。

そうして恋人の膝枕のなかで物語は終了する。

そうなのだ。キヅキ作品のもうひとつの特徴に物語に回帰する性質が挙げられる。

ものがたりを通して嘘や欺瞞を告発した登場人物は、それでいて物語へと帰って行く。

外から見ている僕達はそこにねじれた感情を抱く。

これがキヅキ作品の面白い部分である。

登場人物たちは物語のなかから箱庭の欺瞞を提示するためにぼくたちのまえに現れる。しかし告発をしたあとはまた物語のなかへと帰って行くのである。

これが独特の読後感を与えるのです。

さて、おおまかな感想を終えたので今回はこれで終了とします。ではまた

2012年12月31日 (月)

アニメ『K』からみる現代の変遷について

スタイリッシュ抜刀アニメ『K』の最終回を見終えました。これが素晴らしかった。『K』には「抜刀」「ホモのテーマ」「あんこ」「先が見えない」・・・さまざまなフックがあります。ぼくたちはこれをネタとして楽しむのですが、そこから『K』が何故たのしいのかについて思いつきを書いてみます。

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仮定:この話で前提として仮定される出来事

1.現在せかいは並列化へとシフトしている

2.従来の作品は「物語」が優先された

今回から思考の前提となる仮定をおいた上で文章を書くこととします。研究的な意味では前提知識を証明したうえで「ただしく」考えなければいけないのですが、これは研究ではなく思考実験(っぽい遊び)なので、数学的な意味での「定義」に近い事象として「仮定」をたててはなしを進めていくとします。

結論:『K』はとても現代的な作品である

ここでは『K』が現代の申し子なのではないか、という思いを連ねてみます。

さて、13話を見た時に『K』のコメントに面白い言葉がありました。曰く「結局どうなったの?」「最後までよくわからなかった」「ミュージカル~完~」。ぼくが気になったのは「ミュージカル」という言葉です。おそらくここでの『K』への「ミュージカル」表現は、「はなしの中身が無いオサレアニメ」という揶揄かと思われます。※2

引っかかるものがありました。そして用いる意味は違いますが、「『K』がミュージカル」というのは正しい指摘だとぼくは同意します。

『K』のさまざまなフックについて

冒頭でも書きましたが、『K』はさまざまな「ネタ」を持っています。毎週毎週さまざまなネタでぼくたちを翻弄してきました。それは同時期に流れていたアニメ『イクシオンサーガDT』にも通じるものがあります。

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13話ではこれを揶揄して「ミュージカル~完~」と書いたのでしょう。ところで、こういう「ミュージカル」と揶揄される作品は今までどれくらいあったのでしょうか。

ぼくの所感では、あまりなかったように思われます。

例外もあるので仮定2で定めたのですが、従来の作品では「物語」が「音楽」や「小ネタ」より尊重される傾向があったと思います。

だから物語を終わらした(ように見える)『カブトボーグ』などが話題になる。

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つまり「物語」はそれ以外の要素より高い位置を占めていた。これは作品の核(テーマ)がそこにあったからこその、決まるべくして決まった「地位」だと思います。

だからこそ話を前にすすめない「ギャグ」は「シリアス」な話より低い地位として扱われた。こういう「無意識の圧力(序列意識)」があったのではないか。

そしてその意識が『ブリーチ』や『テニプリ』『K』をオサレマンガ(アニメ)と揶揄させるに至った一因ではないかと考えます。※3

しかし時代が下ると、そういう意識もシフトしてきます。仮定1で示したのですが、「価値が並列」の時代がやってくる(フリーとかワークシフトとか・・・いろいろ説明している)

すると何が起こるか。

それが「エンターテインメントのシンプル化現象」である。

「ラノベは女の子がかわいければいい」は、その一例だと思う。その流れの中にいるのが「小説家になろう」や「ニコニコ動画」であると思う。エンターテインメントがシンプルになったからこれらが生まれたのか、これらが生まれたからシンプル化が促進されたのか。これは単純にはなしを出来ることではないと思う。おそらく相互に作用しているのだろう。

そして、現代での最先端に『戦国コレクション』『モバマス』がある※4

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戦国武将を女の子にして「お米大好き!=羽柴秀吉」としたり「あるアイドル=ドーナツ好き!」という単純な一点に焦点を絞る。その一点だけを軸にして数千人がキャラクターを共有するようになる。

かつては「物語の共有」だったのが、「キャラクターの共有」となり、「ポイントの共有」へとシフトしたことになる。どんどんシンプルになっている。ちなみに「小説家になろう」「ニコニコ動画」は「場に存在する空気(前提知識)の共有」ということになるだろう。

このようにして共有するものはシンプルになってきた。

さて、『K』のはなしに戻ろう。

いままで「エンターテイメントがシンプルになってきた」ことを話題にしていた。この流れで見ると「作画廚」「設定厨」などがでてくることは、納得が行くと思う。

そして製作者側もそれに対応してきた。

ちなみにこの流れのおかげ(というのか、責任というのか)で「従来ならばエンターテイメントではなかった作品も、エンターテイメントの範疇に落としこむことができるようになってきた」とかんがえられる。

難解だとして先細りを続けるSFの系譜に『魔法少女まどか☆マギカ』があることや新本格の流れの傍流に『西尾維新』がいるのは、その一例だろう。

さまざまな要素が分解され、再結合されて現代のエンターテイメントがある。

そこで『K』である。「『K』がミュージカル」というのは、そういうエンターテイメントの要素が分解され、連続的に並べられた結果がミュージカルと同じだと思ったからである。

ぼくたちは「物語」を楽しんだつぎの瞬間に「音楽」を、「あんこ」を与えられる。

料理に例えてみると、『魔法少女まどか☆マギカ』が「既存のものを組み合わせた新料理」とするなら、『K』は「いままでより精密に組まれたコース料理」のようなものである。

ひとつの料理の味に飽きる前に、新たな味を与えられているようなものである。

そうして「瞬間的な快楽」を楽しみ続けているうちに時間が過ぎ去り、劇が終わる。

このような理由から、『K』はとても現代的である、と考えた。※5、6

ラスト

ぼくは『K』を見ていて、毎回満足を覚えていた。昔『鉄鍋ジャン』というマンガで、「おたま一杯のコース料理」という話があったのだが、あれを味わっているようだった。毎週毎週「あれ、すっげぇ満足」というのが不思議だったのだが、こういう考えをまとめるとかなり納得がいった。楽しかったわ~

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※1 『K』の最終回みるのが遅かったな〜(遠い目

※2 ブリーチへの言及と同様の意味合い

※3 「褒め言葉」としてオサレ(それに類する言葉)を用いる人もいるだろうが、「ネタ」として扱われ易い傾向の要因がそういう「選別意識」にあったのでは、と

※4 『戦国パラダイス』ぼくは数話しか見ていない『モバマス』やってない

※5 同様に『DOG DAYS 2期』も扱えると思う。

※6 また、この話はエンターテイメントに限ったことではなく現代社会で重要な話だと思うのだが・・・まぁ、そのはなしはいいや

2012年12月 3日 (月)

イジメ番組ってマジメだねぇ

いやー、東京から帰って来ました。

帰ってくるときに中央道のトンネルの崩落があったので、電車で帰って来ました。まだ救出作業が続いていますが、無事だといいんですけれどねぇ。

ちょっとタイミングが違えば、ぼくが同じ立場に立っててもおかしくないですからね。

まぁ、そんなこんなで夕方に帰ってきて家でのんびりしていましたら、NHKのDEEP PURPLEで「緊急特集 いじめ」が取り上げられていたので、何の気なしに見ていました。

えっと、ボク個人の感想で言うならば「けっこう、当たり前のことを重要な事実のように語っているなぁ」ということでした。

前半だからなのかもしれませんが、現状を認識する話が延々と述べられていて「じゃあ、どうしたらいいのか/どうしたら回避する可能性があるのか」ということが、ほとんど述べられていなかった。

ここにはメリットとデメリットがあると思いながら聞いていたんですが、ちょっとそれについて書いてみましょう。

まずメリットについて。これは「前提条件を設定する」「現況を報告する」という役割。

みている人たち全員が全員、登場人物たちのいうことを聞いて「ああ、あたりまえだなぁ」と思うだろうか。

なかにはそこに今まで聞き手が知らなかった情報があるかもしれない。それは情報を広めるというメリットがある。

一方、デメリットとしては「それを聞いて現状が変わるのだろうか」ということでした。

現時点でイジメがリアルタイムで起こっていないならば、そういうゆっくりした話も有効かもしれません。しかしリアルタイムに進行形のイジメへの対策としての特番であるならば、2週連続で段階を踏む構成は「遅い]と思います。

これは番組のコンセプトを知らないので、コレ以上のコメントをできないことですが、てれびんはそう思いました。

あと、別のデメリットとしては、正直「おもしろくない」

これを聞いて「人が死んでる重大事をはなししているんだよ!それを「面白くない」なんて!」と怒るひともいるでしょう。

それは、そうなんですけれどね。たしかに重要な話を題材にしていると思います。でも、それとコレはちょっと違うという感覚があります。

たぶんこの番組を見る人っていうのは「いじめについて話を知らなくて勉強したい人」「現時点でリアルタイムにいじめに関わっているひと」「どういう理由にせよ、いじめの話題に興味のある何者か」といった人達だと思います。

この人達の「面白い」「興味深い」と感じるポイントはどこにあるのだろうか。そういうポイントを掴むことで、こういう人たちに「番組を見続けさせる」ことが出来るようになっているんじゃないだろうか

ちなみに、こういう話題を「面白く」エンターテイメントへと偏らせたのは、ドラマにもなった「鈴木先生」とか、乙一の「死にぞこないの青」「Carnival」でしょう。

ただ、これは仮にも「教育番組」であるので、もうちょっと別の方向性で面白さがほしい。

ぼくはそれを「目新しい視点」や「解決方法」であると思う。

だれもが知っている「あたりまえの情報」なんて、正直おもしろくもなんともない。もうちょっと毒のある言い方をすれば、「それ(=あたりまえのこと)でどうにもならなかった」から緊急特番を組むことになったのだろう。

とはいえ、それもコンセプトによる。ここで、もういちど番組のコンセプトの話題に戻る。

もし番組の製作者が「みんながイジメについての現状を知らなかったから、何らかの状態となって、イジメが止められないのだ」と思っているのならば、延々と現状を述べる意味も無くはない(とはいえ、より多くのひとに知らせるために『興味を引く努力』がなされてもいいとは思うが)

だが、そこに「目新しさ」や「興味を引く」何かがなければ、番組をただ流しているだけです。新しい層に「伝える」ことにならない。

こういう「伝える」のがコンセプトの番組であるならば、ぼくとしては、おそらく番組後半で伝えるであろう内容を関根勤さんにあっけらかんと事ある事に行って欲しかったな。

番組の端々から「学校を辞めてもこういうルートがあるから大丈夫さ!」とか「いざとなったらこういう選択肢が取れるよ」ということを、ある種無責任に、事あるごとに言いながら作られているほうが良かった。

番組でも言っているけれど、いじめって構造的に「マジメ」なひとがダメージを食らいやすいシステムだと思うので、みているひとが「ああ、まじめに取り組まなきゃっ」って気負うような「マジメ」な番組なんて作らなくてもいいんじゃないかなぁと思いました。

最期に番組見ながらおもってたことなんですが、ここで取り上げられている「離れた瞬間に何を言われているかわからない」出来事って、べつに特別なことではなくて、世の中のあらゆるところで起こっていることだと思います。

だから、この番組で殊更にそこをフィーチャーしないでもいいと思います。むしろ「それは特別なことではない」と伝えるとかのほうが、よっぽど益になることのような気がする。

まぁ、そんな感じのツラっとおもった出来事でした、

あ!?へうげもの始まってるので、見まーす

2012年10月 2日 (火)

WORK SHIFT(ワークシフト)―働き方の未来を考える―

こんにちは。久しぶりの長文記事です。

友達に勧められてWORK SHIFT(ワークシフト)という本を読んだので、それを読んでの「自分にとってのポイント」を列挙してみようと思います。

ワークシフトとは?

その前にWORK SHIFTという本について簡単に説明をしましょう。

リンダ・グラットンにより記述されたこの本のテーマは「2025年に我々はどういう人生を歩んでいるだろうか」になります。

膨大な情報を集積することにより、現代におこっている変化を捉え、未来への可能性を提示した本です。

彼女はみらいに大きな影響を与えると予測される32の現象をあぶり出し、それを5つのかたちにまとめあげています。

それは

  1. テクノロジーの進化
  2. グローバル化の進展
  3. 人口構成の変化と長寿化
  4. 社会の変化
  5. エネルギー・環境問題の深刻化

に分類され、その中から「われわれの人生に影響を与えるのはどの要因か」を自問させる形式になっています。

後半はこれらの要因を用いて「2025年にどういう人生を歩んでいるのか」を提示した無数のレビュアーからの返答を用いて2種類のあり得べき「暗い未来」と「明るい未来」を示し、そこから「より望ましい未来を手に入れるための3つのワーク・シフト」を提案しています。

働き方をシフトする

本の最終章には未来に対応するために3つのシフトが描かれています。

  1. 第一のシフト―ゼネラリストから「連続スペシャリスト」へ
  2. 第二のシフト―孤独な競争から「協力して起こすイノベーション」へ
  3. 第三のシフト―大量消費から「情熱を傾けられる経験」へ

それぞれの現象は現代で既におこっていることであり、それらに関しての事例や見解が述べられている。これを自分の事例にあてはめて読むとなにが足りていて何が足りていないのか考えるヒントになるように思われる。

感想

堅苦しいのは終わりにして、ここでボク個人の感想へとうつっていこうかと思います。思いつきで書くためはなしはあちらこちらへと飛ぶでしょうし、関係ないことや勘違い、自分の無知を晒すと思われますが、どうぞご容赦を(笑)

さて、突然ですがぼくが最近「ドラクエ10」をやっているがためにブログの更新がとどまっていたのは、この一つ前の記事「近況」にて報告させてもらいました。

この「ドラクエ10」ですが、知っている方は知っていると思うのですがドラゴンクエストシリーズ初の「オンライン」ということで賛否両論の的になっています。ぼくとしてはとても面白いし、ある意味ではドラクエ史上さいこうのできかもしれないという意見です。(オフラインにはないあたらしさ・おもしろさがあります)

このドラゴンクエストはすごく面白いんですが、シリーズ史上最大のデメリットがあります。それは「時間がかかる」こと。

これは言い換えるとシリーズ史上最大のメリットであるともいえます。

ぼくたちはRPGなどをやるときに「終わってしまう」物悲しさとともに、ゲームを進めていきます。だからこそ大きな思い入れを生む要因ともなっているのですが、今作のドラクエではそこが除去されています。終わりが終わりとならないのがオンラインの特徴とも言えるかもしれません。

いままでのドラクエだってやりこむことはできました。ラスボスを倒し、それに飽きたらず自らを鍛え上げる毎日。しかしそれはストイックな職人のようで誰もが実行できる(あるいは、実行したい)ものではありませんでした。

「赤信号皆で渡れば怖くない」

これはいつのまにか日本中で唱えられるようになった標語です(Googleで予測変換で出る程度には知名度がある)が、オンラインのドラゴンクエストには「ひとりではムリでも皆となら乗り越えられる」悪魔のようなちからが存在しています。

そのため通常ならラスボスを倒したし隠しボスとか面倒臭いのでドラクエは終わりでいいやという層(つまりぼくのこと)ですら「隠しボスの先」まで進めてしまうちからを持っています。おそらくこういう所をさして「ネトゲは中毒性が高い」というのでしょうが、現実問題ここには「タイムの過剰消費」という現実が潜んでいます(まあ、わかりきってたことと言えばそれまでですが)。

それを乗り越えて初めて「一歩抜きん出る」ことができます。

ワークシフトにもネットゲームの記載がありまして、それは主に「悪い」側面として描かれることが多いように思われます。

実際ドラクエオンラインをやってわかるのは、現実を切り売りすることで仮想の現実でのパワーを手に入れるというトレードオフの関係が忠実に働いているということです。

ネトゲをしながら勉強することや仕事をすることは(できないとは言わないが)ほぼムリな出来事だと思われる。やれたとしてもその多くは半端なかたちとなってしまうことだろう。そのため現在のネトゲというのは現実を切り売りして、現実にはまったく役に立たない仮想のパワーを手に入れるハメになっている

また「どんな分野であれ一流になるには一万時間程度の学習が必要である」というのもワーク・シフトに記載のあることがらです(ネトゲですら週に1日を費やすことをしないと一流になれないと書いてあるくらいです)。これが真実であるならば、一万時間(1日10時間として1000日≒3年)もじかんがかかるのにさらにゲームなどに膨大な時間を奪われる暇はないことになります(しかも現実への見返りの期待できない)

現在のオンラインはそのような状態なので、悪い(暗い未来のひとつの)例として出てくることは仕方がないことであるかもしれません。

そこをキチンと管理できることでネトゲは遊びの範疇に留めることができ、未来へのステップアップのじかんが確保できる。

ところでこの管理―つまりセルフマネジメント―についても、ワークシフトは書いてあります。これは、第一のシフトと第三のシフトに関連することだと思います(特に第三)。

管理というのは取捨選択を行うということに他なりません。最近発売した『少女ファイト』の八巻は「整理整頓」について書いてありますが、ここに繋がってくることです。

取捨選択、整理整頓―すなわち「選択」です。わたしたちは意識するにせよ、しないにせよ無数の選択を常におこなっています。

そしてそれを選ぶことによって選ばなかったさまざまなものを切り捨てている。

少女ファイトでは整理整頓の意義に「最適化」があると説明されています。これを読んでなるほど整理整頓しようと思った読者は多いでしょう(ぼくも思い立ってやり始めたけれど・・・あれ、また同じ状態に・・・)。

この最適化を「なぜ」行うかというならば、「目的を達成するため」ということになると思います。

だからぼくたちがまず設定すべきは「目的」であり、「なにを価値あるとするかを決定」することでしょう。そのためにはどの選択にどういうメリットがあり、どういうデメリットがあるのか。それを正確にしておくと自分的にいいのだろうな、なんて考えましたね。

脚注

1.とくにリンクを貼るほどではないので、貼りはしません。ぼくのレベルとかが分かるくらいですね。

2.こういうのって標語っていうのかね?(検索中)三省堂国語辞典のアプリによると「主義や守るべきことがらをかんたんにはっきりあらわしたみじかい語句」とあるので、違いますね。要はみんなの認知がたかい言葉と言いたかった。

3.ただ、これは「現在のせかい」であって「未来の世界」。それこそ2025年のせかいではどうなっているかわからないとぼくは思っています。小説家になろうというサイトに「The fifth eorld online」という小説があるのですが、そこでは「現実≒仮想現実」という新たなモデルが提示されていて現代の延長からすれば決して夢物語ではないように思えます。この注のあとの記述でも触れる予定ですが、いまのオンラインの欠点というのはリアルとの地続き感が少ないことにあるように思われます。そのためゲームの中でのパワーはリアルに反映されない、それこそ一方的にエネルギーを吸い取られかねない関係を産んでいるともいえる。だからこのまませかいが進んで「ネットのリアル」と「現実のリアル」が途切れない(途切れられない)関係になればこういう関係も逆転していくと思います。上記の小説を未読の方は「SAOの茅場の残した遺産が順当に発展したせかい(あるいはアクセル・ワールドのせかい)」「サマーウォーズのOZのせかい」などはイメージの参考になるかもしれません。

4.これは飽くまで「そういう視点で見たら」という話であって、じゃあゲームするなよ、という話になるかというとそれは別かと。だいたいにして意味在ることだけで構成される生き方を求めるか(存在するか)ってことですよね。無駄な時間を使ったということは、無駄であるからこそ価値あることな場合もある。まず「遊び」って意味があるからしているわけではないよね、きっと。

5.この目的というのは、恒久的なものでなくてもいいのではないかと思います。1年2年先でもいいのかもしれない。自らの設定する「価値」を変化させながら、2025年を目指せばいいものではないかな(小目的としては)。2025年、それ以上先を求めて目標を設定できるならば素晴らしいのかもしれないがそこまで長期的な視野を持てる人間(つまり未来の形を見据えられるにんげん)は少ないでしょうし、実現可能な理想を設定できるものも稀有かという気もします。(中目的としては「この道は成功するんじゃないか」という概観の把握なのかなぁ)

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