『野のなななのか』~一人一人の過去と未来を真剣に想像するということ~
大林宣彦監督の最新作『野のなななのか』を見てきた。
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~雑記~
この作品は傑作だろうと思えるものにはつきます
大林宣彦監督の最新作『野のなななのか』を見てきた。
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スタイリッシュ抜刀アニメ『K』の最終回を見終えました。これが素晴らしかった。『K』には「抜刀」「ホモのテーマ」「あんこ」「先が見えない」・・・さまざまなフックがあります。ぼくたちはこれをネタとして楽しむのですが、そこから『K』が何故たのしいのかについて思いつきを書いてみます。
仮定:この話で前提として仮定される出来事
1.現在せかいは並列化へとシフトしている
2.従来の作品は「物語」が優先された
今回から思考の前提となる仮定をおいた上で文章を書くこととします。研究的な意味では前提知識を証明したうえで「ただしく」考えなければいけないのですが、これは研究ではなく思考実験(っぽい遊び)なので、数学的な意味での「定義」に近い事象として「仮定」をたててはなしを進めていくとします。
結論:『K』はとても現代的な作品である
ここでは『K』が現代の申し子なのではないか、という思いを連ねてみます。
さて、13話を見た時に『K』のコメントに面白い言葉がありました。曰く「結局どうなったの?」「最後までよくわからなかった」「ミュージカル~完~」。ぼくが気になったのは「ミュージカル」という言葉です。おそらくここでの『K』への「ミュージカル」表現は、「はなしの中身が無いオサレアニメ」という揶揄かと思われます。※2
引っかかるものがありました。そして用いる意味は違いますが、「『K』がミュージカル」というのは正しい指摘だとぼくは同意します。
『K』のさまざまなフックについて
冒頭でも書きましたが、『K』はさまざまな「ネタ」を持っています。毎週毎週さまざまなネタでぼくたちを翻弄してきました。それは同時期に流れていたアニメ『イクシオンサーガDT』にも通じるものがあります。
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13話ではこれを揶揄して「ミュージカル~完~」と書いたのでしょう。ところで、こういう「ミュージカル」と揶揄される作品は今までどれくらいあったのでしょうか。
ぼくの所感では、あまりなかったように思われます。
例外もあるので仮定2で定めたのですが、従来の作品では「物語」が「音楽」や「小ネタ」より尊重される傾向があったと思います。
だから物語を終わらした(ように見える)『カブトボーグ』などが話題になる。
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つまり「物語」はそれ以外の要素より高い位置を占めていた。これは作品の核(テーマ)がそこにあったからこその、決まるべくして決まった「地位」だと思います。
だからこそ話を前にすすめない「ギャグ」は「シリアス」な話より低い地位として扱われた。こういう「無意識の圧力(序列意識)」があったのではないか。
そしてその意識が『ブリーチ』や『テニプリ』『K』をオサレマンガ(アニメ)と揶揄させるに至った一因ではないかと考えます。※3
しかし時代が下ると、そういう意識もシフトしてきます。仮定1で示したのですが、「価値が並列」の時代がやってくる(フリーとかワークシフトとか・・・いろいろ説明している)
すると何が起こるか。
それが「エンターテインメントのシンプル化現象」である。
「ラノベは女の子がかわいければいい」は、その一例だと思う。その流れの中にいるのが「小説家になろう」や「ニコニコ動画」であると思う。エンターテインメントがシンプルになったからこれらが生まれたのか、これらが生まれたからシンプル化が促進されたのか。これは単純にはなしを出来ることではないと思う。おそらく相互に作用しているのだろう。
そして、現代での最先端に『戦国コレクション』『モバマス』がある※4
戦国武将を女の子にして「お米大好き!=羽柴秀吉」としたり「あるアイドル=ドーナツ好き!」という単純な一点に焦点を絞る。その一点だけを軸にして数千人がキャラクターを共有するようになる。
かつては「物語の共有」だったのが、「キャラクターの共有」となり、「ポイントの共有」へとシフトしたことになる。どんどんシンプルになっている。ちなみに「小説家になろう」「ニコニコ動画」は「場に存在する空気(前提知識)の共有」ということになるだろう。
このようにして共有するものはシンプルになってきた。
さて、『K』のはなしに戻ろう。
いままで「エンターテイメントがシンプルになってきた」ことを話題にしていた。この流れで見ると「作画廚」「設定厨」などがでてくることは、納得が行くと思う。
そして製作者側もそれに対応してきた。
ちなみにこの流れのおかげ(というのか、責任というのか)で「従来ならばエンターテイメントではなかった作品も、エンターテイメントの範疇に落としこむことができるようになってきた」とかんがえられる。
難解だとして先細りを続けるSFの系譜に『魔法少女まどか☆マギカ』があることや新本格の流れの傍流に『西尾維新』がいるのは、その一例だろう。
さまざまな要素が分解され、再結合されて現代のエンターテイメントがある。
そこで『K』である。「『K』がミュージカル」というのは、そういうエンターテイメントの要素が分解され、連続的に並べられた結果がミュージカルと同じだと思ったからである。
ぼくたちは「物語」を楽しんだつぎの瞬間に「音楽」を、「あんこ」を与えられる。
料理に例えてみると、『魔法少女まどか☆マギカ』が「既存のものを組み合わせた新料理」とするなら、『K』は「いままでより精密に組まれたコース料理」のようなものである。
ひとつの料理の味に飽きる前に、新たな味を与えられているようなものである。
そうして「瞬間的な快楽」を楽しみ続けているうちに時間が過ぎ去り、劇が終わる。
このような理由から、『K』はとても現代的である、と考えた。※5、6
ラスト
ぼくは『K』を見ていて、毎回満足を覚えていた。昔『鉄鍋ジャン』というマンガで、「おたま一杯のコース料理」という話があったのだが、あれを味わっているようだった。毎週毎週「あれ、すっげぇ満足」というのが不思議だったのだが、こういう考えをまとめるとかなり納得がいった。楽しかったわ~
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※1 『K』の最終回みるのが遅かったな〜(遠い目
※2 ブリーチへの言及と同様の意味合い
※3 「褒め言葉」としてオサレ(それに類する言葉)を用いる人もいるだろうが、「ネタ」として扱われ易い傾向の要因がそういう「選別意識」にあったのでは、と
※4 『戦国パラダイス』ぼくは数話しか見ていない『モバマス』やってない
※5 同様に『DOG DAYS 2期』も扱えると思う。
※6 また、この話はエンターテイメントに限ったことではなく現代社会で重要な話だと思うのだが・・・まぁ、そのはなしはいいや
松岡修造さんの著作「挫折を愛する」をよみました。
素晴らしかったです。
普段は熱さをネタにされている松岡さんですが、本書でかれは「自分の仕事でのテーマは冷静さと論理性です」と語っている。
松岡修造さんをネタにしているひとからすると「ウソだ~(笑)」と言うかもしれない。
しかし、本書を読んだひとは松岡修造さんの言葉に説得力を感じることが出来るだろう。
かれが本来はどういう性質の人間なのか。それをぼくたちは知ることができない。
かれを内面から見ることが出来るのは、本来的には彼だけである。
僕たちが眺めることが出来るのは、あくまで松岡修造が行った行動や発言、ガワ(外側)だけである。
ぼくたちはこの本を読むことで松岡修造が自身をどのように捉えているのか。それにたいしてどういうアプローチをとっているのか。その結果どうのような行動をとっているのかを知ることが出来る。
普段「熱い」とネタにされている彼がそのような行動をとるにはどういう理由があったのか。諸君は考えたことがあるだろうか。普段ネタにされている松岡修造のウラというやつを。
彼が熱くあるのは天然か?それとも本能か?
いや違う。かれは目的があってそういう行動をとっていたんだ。
松岡修造をネタとして愛するひとには、是非一読してもらいたい。かれの行動には透徹した理念がある。
彼は常にトライ&エラーを繰り返している。
マンガが好きな人なら「ベイビーステップ」を読んだことはあるだろうか。マンガの主人公エーちゃんと松岡修造にはどこか通じ合うものがある。
それは彼らがともに自分の成功を見つめ、失敗を見つめる姿が似通っているからだ。
その結果生まれたのが「クレバー」丸尾栄一郎であり、「熱血」松岡修造なのだ。
本書をよんだひとはきっとこの言葉に納得を覚えてくれるに違いない。
それは確かに「冷静さと論理性」を兼ね備えた結果なのだから。
追記
本書のなかでは松岡修造さんがかつてインタビューしてきたスポーツ選手たちが無数に取り上げられている。本書を読むと松岡さんが彼らを生身の人間として、一個の個人として大切にしているのが見て取れて、それがとても良かった。
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内容の感想はどっかで書くきがしますが、おおまかな所感だけ述べさせてもらいます。
基本的な映画単体のエンターテイメントとしては「そこそこ」かなって印象です。前回のエヴァ破が動的なカタルシスがある作品ならば、こちらは対照的に静的な内容ですね。
とはいえ、このエヴァQが面白いか面白く無いかで言うならばぼくは「面白い」。
ただ、初見の方々がこのエヴァQを見て面白いと感じるかどうかは・・・う~ん、わからない(苦笑)
今回新展開ばかりではありましたが、だからといってなにか新たな情報が提示されたかというと別にそういうわけでもない
今回の映画を一言でいうならば「わからない」になるかもしれません
ちなみに今回のエヴァQは旧作の「エヴァンゲリオン」から外れた(ほぼ)新作シナリオなわけです。前回のエヴァ破は「旧作と同じルートを辿って」「しかし別の結末にたどり着いた物語」と表現する事もできて、そこが(旧作をみている僕たちにとって)凄まじいまでのカタルシスを与えてくれたって側面があります。
だからエヴァ破とエヴァQに同様のカタルシスを求めても、得られるものが違うのは、まぁ仕方ないかなと
次は・・・・何年後だろう?
どういうシナリオになるか楽しみですねぇ。※1
※1 友達のいずみのさんから話を聞いて自分のなかで妄想を膨らませた結果「こういう展開が始まってもおかしくないわ~(汗)」というのはちょっとあります。・・・たとえば、前半が「碇シンジ育成計画」だったり「RE-TAKE」が始まったりとか・・・Qとその次に連続性があるとも限らないんですよねぇ(納得させる力さえあれば、ですが)
こんにちは。久しぶりの長文記事です。
友達に勧められてWORK SHIFT(ワークシフト)という本を読んだので、それを読んでの「自分にとってのポイント」を列挙してみようと思います。
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ワークシフトとは?
その前にWORK SHIFTという本について簡単に説明をしましょう。
リンダ・グラットンにより記述されたこの本のテーマは「2025年に我々はどういう人生を歩んでいるだろうか」になります。
膨大な情報を集積することにより、現代におこっている変化を捉え、未来への可能性を提示した本です。
彼女はみらいに大きな影響を与えると予測される32の現象をあぶり出し、それを5つのかたちにまとめあげています。
それは
に分類され、その中から「われわれの人生に影響を与えるのはどの要因か」を自問させる形式になっています。
後半はこれらの要因を用いて「2025年にどういう人生を歩んでいるのか」を提示した無数のレビュアーからの返答を用いて2種類のあり得べき「暗い未来」と「明るい未来」を示し、そこから「より望ましい未来を手に入れるための3つのワーク・シフト」を提案しています。
働き方をシフトする
本の最終章には未来に対応するために3つのシフトが描かれています。
それぞれの現象は現代で既におこっていることであり、それらに関しての事例や見解が述べられている。これを自分の事例にあてはめて読むとなにが足りていて何が足りていないのか考えるヒントになるように思われる。
感想
堅苦しいのは終わりにして、ここでボク個人の感想へとうつっていこうかと思います。思いつきで書くためはなしはあちらこちらへと飛ぶでしょうし、関係ないことや勘違い、自分の無知を晒すと思われますが、どうぞご容赦を(笑)
さて、突然ですがぼくが最近「ドラクエ10」をやっているがためにブログの更新がとどまっていたのは、この一つ前の記事「近況1」にて報告させてもらいました。
この「ドラクエ10」ですが、知っている方は知っていると思うのですがドラゴンクエストシリーズ初の「オンライン」ということで賛否両論の的になっています。ぼくとしてはとても面白いし、ある意味ではドラクエ史上さいこうのできかもしれないという意見です。(オフラインにはないあたらしさ・おもしろさがあります)
このドラゴンクエストはすごく面白いんですが、シリーズ史上最大のデメリットがあります。それは「時間がかかる」こと。
これは言い換えるとシリーズ史上最大のメリットであるともいえます。
ぼくたちはRPGなどをやるときに「終わってしまう」物悲しさとともに、ゲームを進めていきます。だからこそ大きな思い入れを生む要因ともなっているのですが、今作のドラクエではそこが除去されています。終わりが終わりとならないのがオンラインの特徴とも言えるかもしれません。
いままでのドラクエだってやりこむことはできました。ラスボスを倒し、それに飽きたらず自らを鍛え上げる毎日。しかしそれはストイックな職人のようで誰もが実行できる(あるいは、実行したい)ものではありませんでした。
「赤信号皆で渡れば怖くない」
これはいつのまにか日本中で唱えられるようになった標語2です(Googleで予測変換で出る程度には知名度がある)が、オンラインのドラゴンクエストには「ひとりではムリでも皆となら乗り越えられる」悪魔のようなちからが存在しています。
そのため通常ならラスボスを倒したし隠しボスとか面倒臭いのでドラクエは終わりでいいやという層(つまりぼくのこと)ですら「隠しボスの先」まで進めてしまうちからを持っています。おそらくこういう所をさして「ネトゲは中毒性が高い」というのでしょうが、現実問題ここには「タイムの過剰消費」という現実が潜んでいます(まあ、わかりきってたことと言えばそれまでですが)。
それを乗り越えて初めて「一歩抜きん出る」ことができます。
ワークシフトにもネットゲームの記載がありまして、それは主に「悪い」側面として描かれることが多いように思われます。
実際ドラクエオンラインをやってわかるのは、現実を切り売りすることで仮想の現実でのパワーを手に入れるというトレードオフの関係が忠実に働いているということです。
ネトゲをしながら勉強することや仕事をすることは(できないとは言わないが)ほぼムリな出来事だと思われる。やれたとしてもその多くは半端なかたちとなってしまうことだろう。そのため現在のネトゲというのは現実を切り売りして、現実にはまったく役に立たない仮想のパワーを手に入れるハメになっている3。
また「どんな分野であれ一流になるには一万時間程度の学習が必要である」というのもワーク・シフトに記載のあることがらです(ネトゲですら週に1日を費やすことをしないと一流になれないと書いてあるくらいです)。これが真実であるならば、一万時間(1日10時間として1000日≒3年)もじかんがかかるのにさらにゲームなどに膨大な時間を奪われる暇はないことになります(しかも現実への見返りの期待できない)4。
現在のオンラインはそのような状態なので、悪い(暗い未来のひとつの)例として出てくることは仕方がないことであるかもしれません。
そこをキチンと管理できることでネトゲは遊びの範疇に留めることができ、未来へのステップアップのじかんが確保できる。
ところでこの管理―つまりセルフマネジメント―についても、ワークシフトは書いてあります。これは、第一のシフトと第三のシフトに関連することだと思います(特に第三)。
管理というのは取捨選択を行うということに他なりません。最近発売した『少女ファイト』の八巻は「整理整頓」について書いてありますが、ここに繋がってくることです。
取捨選択、整理整頓―すなわち「選択」です。わたしたちは意識するにせよ、しないにせよ無数の選択を常におこなっています。
そしてそれを選ぶことによって選ばなかったさまざまなものを切り捨てている。
少女ファイトでは整理整頓の意義に「最適化」があると説明されています。これを読んでなるほど整理整頓しようと思った読者は多いでしょう(ぼくも思い立ってやり始めたけれど・・・あれ、また同じ状態に・・・)。
この最適化を「なぜ」行うかというならば、「目的を達成するため」ということになると思います。
だからぼくたちがまず設定すべきは「目的」5であり、「なにを価値あるとするかを決定」することでしょう。そのためにはどの選択にどういうメリットがあり、どういうデメリットがあるのか。それを正確にしておくと自分的にいいのだろうな、なんて考えましたね。
脚注
1.とくにリンクを貼るほどではないので、貼りはしません。ぼくのレベルとかが分かるくらいですね。
2.こういうのって標語っていうのかね?(検索中)三省堂国語辞典のアプリによると「主義や守るべきことがらをかんたんにはっきりあらわしたみじかい語句」とあるので、違いますね。要はみんなの認知がたかい言葉と言いたかった。
3.ただ、これは「現在のせかい」であって「未来の世界」。それこそ2025年のせかいではどうなっているかわからないとぼくは思っています。小説家になろうというサイトに「The fifth eorld online」という小説があるのですが、そこでは「現実≒仮想現実」という新たなモデルが提示されていて現代の延長からすれば決して夢物語ではないように思えます。この注のあとの記述でも触れる予定ですが、いまのオンラインの欠点というのはリアルとの地続き感が少ないことにあるように思われます。そのためゲームの中でのパワーはリアルに反映されない、それこそ一方的にエネルギーを吸い取られかねない関係を産んでいるともいえる。だからこのまませかいが進んで「ネットのリアル」と「現実のリアル」が途切れない(途切れられない)関係になればこういう関係も逆転していくと思います。上記の小説を未読の方は「SAOの茅場の残した遺産が順当に発展したせかい(あるいはアクセル・ワールドのせかい)」「サマーウォーズのOZのせかい」などはイメージの参考になるかもしれません。
4.これは飽くまで「そういう視点で見たら」という話であって、じゃあゲームするなよ、という話になるかというとそれは別かと。だいたいにして意味在ることだけで構成される生き方を求めるか(存在するか)ってことですよね。無駄な時間を使ったということは、無駄であるからこそ価値あることな場合もある。まず「遊び」って意味があるからしているわけではないよね、きっと。
5.この目的というのは、恒久的なものでなくてもいいのではないかと思います。1年2年先でもいいのかもしれない。自らの設定する「価値」を変化させながら、2025年を目指せばいいものではないかな(小目的としては)。2025年、それ以上先を求めて目標を設定できるならば素晴らしいのかもしれないがそこまで長期的な視野を持てる人間(つまり未来の形を見据えられるにんげん)は少ないでしょうし、実現可能な理想を設定できるものも稀有かという気もします。(中目的としては「この道は成功するんじゃないか」という概観の把握なのかなぁ)
※ ちょこちょこ子どもの名前を間違えているみたいです(笑)
先生の跡を継いだのは雨で、人間なのは雪です。
個人的評価 2
客観的評価 5
この記事の続き、というか補足についてがここに書いてあります。内容としてはおおかみこどもの演出の巧さやそれによって批判が批判でなくなることについてとかです。
いやー、すごかった。こういう作品に出会ったのは久しぶりですね。
なんといっても物語のストーリーにまっったく興味が起こらないのがすごかった!
じゃあ、この作品が駄作なのかというとそういうわけではないんですよね。きっと。
間違いなくこの映画は日本の映画の最前線にある。
なんていうのかな、
何処がどうすごいってちょっっと言いづらい部分はある。たしかに映像は凄いし、いろいろな突っ込みどころに対するカウンターも用意してある。
でも、それがこの物語の評価を決定づける要因には思えないんですよね。
たしかに重要な要素なんだけれど、それが絶対必要なものであるとはいえないと思う。
それはこの物語が群像劇?であることが大きな理由でしょう。
この物語はずっとキャラクターに寄り添いながら同時に俯瞰して描いている。だから花にも感情移入しづらいし、相手の父親にも感情移入しづらい。
話の冒頭から「これは~~」というように、成長した雪がナレーションをしており、この物語は過ぎ去った過去の、いわば思いでとか昔語りであることように作られている。
こういうギミックを用いることでぼくたちはせかいの中のキャラクターに寄り添わなくていいようにサれている(逆に言うなら、はじき出されていると感じる人もいるかもしれない)
とはいえ実感を伴って見れる人は感情移入できる程度のよわい弾き方である。
だから感情移入した結果「なんでこうするんだよっ!」とか「否定された!」「そんなことになるわけがない!」という反応が出てくることもあるかもしれない。
しかしそういう反応はこの映画に対しては見当はずれな批判であると考える。
それは先述の通りこの物語がキャラクターをちょっと離れた外から俯瞰したものであるからである。
だからこそ個々の出来事に対してその理由は敢えて描かれることは少ない。同時にキャラクターが客観的に知り得ない事実は、ぼくたちも知ることは出来ない。
また同時に外から見ているのでその心情は推し量るしかない。内面描写などもないので、キャラの心情は外面から、ぼくたちが普段相手と相対するように外から見てエられた情報から判断するしかない。
父親がなぜ死んだのか。それは、キャラクターが知らないから僕たちも知ることは出来ない。
韮崎のおじいちゃんがなぜ花を気に入ったのか。それは内面を描かれないからぼくたちには知り得ない。ただ僕たちが知ることのできるのは、花が聞き得た情報である「おじいちゃんが周りに面倒を見てやれ」といった情報とかだけである。
また花の心情。それも推測である。
しかし物語冒頭で「常に笑っている」というはなしを恋人にし、父親の葬儀のときにも笑っていたとある。
常識に言って悲しくないわけない。花が笑う時ってのは、つまり「嬉しい」とき「悲しい」時である。
笑っているからといって「悲しくない」とはならない。だから花の感情はそういう情報から「推測」するしかない。
作物が枯れたとき。夫が死んだ時。
花は笑っている。しかしその笑みは弱々しいものであり、そういう情報を読み取ることをぼくたちは要求される。
そういう意味でこの物語はとても「わかりづらい」ともいえる。
少なくともエンターテイメントか、と問われると うーん としかならない。
でもそういう側面がこの完成度を生んでいるとも言える。
ちなみに物語ラストで雪が先生の跡を継ぐ決意をしているとき、「あなたはっ・・・・!!」といって言葉をなくすシーンがある。
これは物語序盤で、引っ越すときに「この子達が狼と人間のどちらの道も選べるように」と言っていることときちんと符合する。
だから、彼女は「あなたは人間なんだから」ということが出来ず、ただ雪に対して請い願うしかなかった。
こういう彼女の心情をたどることによって、ラストの雪に「生きてっ!」という言葉の意味を感じることができるんだと思います。これは物語のあちらこちらに散りばめられているヒントを用いないと「わからない」ことでしょう。
彼女にはいろいろな葛藤があり、それを押しつぶしながら生きている。だから外からみていると彼女の苦しみってのは「よくわからない」
でも、10年間育ててきた息子との別れの瞬間、彼女の人間としての「別れたくない」「そばに居てほしい」という感情と「自由に生きて欲しい」という複雑な、人間らしい「矛盾した」感情がそこに見て取れる。
そして片方の感情に流されない、狼も人間も自由に選べるようにという、賢明な人間としての花をそこに見ることができる。
一方この物語の群像劇としてのはなしとして、同時進行の物語に「雪の物語」がある。
しかしこの物語もやはり俯瞰して描かれている。
キャラクターの内面に深く踏み込みすぎず、そして淡々と進む。
転校生の少年の家族は雪の知り得る範囲でしか知り得ない。これらの物語は基本的に「終わってしまった」物語であり、どうしようもすることが出来ないものである。。
このどうしようもなさに、むかつく人もいるだろうし、分からないでもない。だからボク個人も評価はそこまで高くはない。だって物語に興味が持てないのだから仕方ない。
あ、ちなみにカーテンを用いての「おおかみこども」をばらすシーンは素晴らしかったですね。
カーテンが雪を包むシーンは3度あり。
1度目は狼
2度目に人間に戻り。
3度目に、狼にも慣れる状況で人間のままである。
これは狼を選んだ雨と対比的である。
また、家の前の道、学校に行く(=人間を選ぶ)のは左、森(=狼を選ぶ)のは右になるようになっている。
こういう描写を繰り返したあと、雨と雪のケンカによって「狼」としての差を明確にしている。
人間を選ぶ雪が雨に勝てるわけはないんですよね。風呂場に逃げて鍵をかける文明をもちいた逃げが良かったです。
逆に学校のシーンでは学校に適応できる雪とできない雨が対比的に描かれている。一枚綴りでシーンをつないでいるのは、凄いと思いました。
もうひとつだけオマケを書くなら、この物語で「雨」ってのは別れの描写であるんですよね。夫との別離、雨との別れ。これらは雨のシーンに起こります。
うん。感情的には興味がないので、まったく熱がこもらない文章です。
しかし、一度は見ておくと言い映画ではあると思います。なんか、数年後にはトトロのように金曜ロードショーで定期的に放映されるようになりそうな気がします。
いや、子どもはおもしろくないだろうなぁ。見てみてよくわかった。
また細田監督の小説版と見比べると、映像のうむ効果がわかっていいと思います。
ちなみにぼくは、小説でのストーリーにはまぁぁったく興味がわきませんでした笑
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時をかける少女 や サマーウォーズ をみていると、ああ、こういうところを延ばしたのか。。。すっごいなぁ、と監督の変化に興味が持てるのも面白かった。
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追記
ちなみにぼくが感情的に嫌だな、と思うところはシナリオ的に旦那さんが「殺される」ところですね。
これはね、ちょっと嫌なんですけれどね。
でもそれを批判するのは「意味が無い」んでしょう。
そしてこの物語で「こうではなかったIFの物語」というのは、語ることの意味があまりないだろうと思えるし、そうでなかった物語というのは「ありえない」話なんでしょうね。
見てて、そういうのがわかりました。その作品を嫌だと思うところは、その作品への突っ込むところではない。。。というか評価を下げるものではない部分や、評価をうむために用いられた部分だと思われます
いまさっきネギま!の最終回を読み終わりました。
9年間に渡る連載の結実がここにある、という感覚です。赤松健先生、ホントにお疲れ様でした。素晴らしい物語をありがとうございました!
さて、この最終回素晴らしいエンディングだったんですが、なんとなーく気になるところがあったので、そこにたいしてちょいちょいメモを残しておこうかな、と思います。
タイトルの表題に在るように「ネギま!のエンディングはうみねこの魔法エンドなんじゃあないか?」ということです。
これはけっこう無根拠な「印象」を前提にしているのですが、そう考えると自分のなかで腑に落ちる部分があるんですよね。
ちょっとその前に「魔法エンド」とはなにか、という話をしておきましょうか。
同人ゲーム「うみねこのなく頃に」というのは絶大なブームを引き起こした「ひぐらしのなく頃に」を生み出した竜騎士07さんの傑作ゲームのひとつです。
昭和の末期にある無人島六軒島で引き起こされた怪事件。それを軸としたサスペンスゲームです。
第一話では「古典的」な館ものミステリが描かれるのですが、二話以降は超メタミステリが展開されます。この物語の軸は「魔女はいるのかいないのか?」
島で起こる事件は人間が引き起こしたのか、それとも魔女が引き起こしたのか?
館のなかで起こる殺人事件、そしてそれを「盤上」と表現して外から眺める「人間:バトラと魔女:ベアトリーチェ」の「この事件を引き起こしたのは魔女か人間か?」という応酬がキモとなります。
物語を眺めている僕たちは盤外のバトラたち、そして盤上で殺されていくバトラ達を眺めるという、超メタ視点から物語を眺めていくことになります。
ベアトリーチェは「この事件は人間には引き起こせない、だから犯人は魔女」と主張し、バトラ側人間は「いや、すべてトリックだから人間に起こせる出来事」という主張をします。魔女側が「問題作成者」、人間側が「回答者」となるわけです。
「魔法エンド」というのはこの物語のラストでぼくたち読者が「唯一」選ぶことのできる選択肢です。その物語のラストでぼくたちは「魔法を認めるか否か」という決断を迫られる。
この「魔法エンド」を選ぶと、そりゃもう素晴らしいエンディングが見られます。
うみねこをやっているひとは「祭囃し編」のエンディングを思い出してもらえるといいと思います。あらゆる困難は解決され、世界は希望にみち、絶望を人間は乗り越えることができる。奇跡は世界に満ち満ちている、きんもちイィ、エンディングです。
ただ、うみねこにはもうひとつ「人間エンド」という結末があります。
これは「魔法を否定」し、絶望に満ち、苦難が目の前に広がり、ありとあらゆる困難や絶望に圧倒されるエンディングとなっています。まぁ、一見して「BADエンド」なんですけれどねw
でも、ぼくとしてはこのBADエンドこそが人間の取っていく道なのではないかな、と思うわけです。魔法エンドにも心惹かれるんですがぼくは人間エンドを支持したい。
おい、ネギま!のエンディングのはなしをしろよ!、という声が聞こえてきそうなので前置きはこれくらいにしておきましょう(笑)。魔法エンドと人間エンドはネットでしっかり書いてくれている人もいるので、一読してみるといいでしょう。でもその前に、できることなら自分の手でやってみて下さい。たぶんあなたのみたことのない物語を目撃できます
・・・はいはい、ネギま!の話に戻りますよ
そこでネギま!のエンディング。
ぼくはこの「ネギま!」の「一見平和なエンディング」というのは「魔法エンド」
すなわち幻想なんじゃないか、と思うんですよね。
これはエンターテイメントに徹した赤松さんなりの皮肉が込められているのかもしれない、と(いや、そう思ってないかもしれないけれどw そうぼくには見えたんだ、と言うのがポイント)
まず気になったポイントは最終回のこのシーン
ネギがナギに対して「自分の希望(仲間)に会ってくれ!」とナギに熱弁するシーン。
答えるナギはいったん目を閉じてから「そっか・・・」「会ってみてぇな」とつぶやく。
明るいシーンなのに、ここだけ余韻が感じられます。
まるで「かなわなかった夢」を見るかのように・・・
その後CASTといって、ネギのクラス全員の「その後」が描かれる。
ぼくはこのシーンをみた時にすっごい気になったんですよね。
で、気になった理由を考えると、過程は如何であれ「魔法エンド」「幻想エンド」なんじゃないかな、と。
最初に「無根拠なカン」のようなものだ、と言ったんですがもうちょっとこういう結論に至った理由について話をしましょうか。んー、ちょいと箇条書きにしてみると
まず1について話をしましょうか。
昨日(ん?一昨日だっけ、ごめん寝てないから昨日ってことにするね)の漫研ラジオでペトロニウスさんやLDさんが語っていることを聞きながら思ったのが
ネギま!って過程を省略するよね
ってこと。
これねー、ネギ君にその特性がよく表れているんですよ。この一時を持ってして「ネギがネギま!の主人公としてふさわしい!」と思えてしまうくらい
あ、この「ネギま!の過程省略」についてぼくは説明しませんよ。面倒くさいし。ただ、この最終3章の「すっとばしかた」は傍目にわかりやすいので、直観で理解して欲しい。
で、この「ネギの特性」ってのは魔法界編のラカン戦直前が顕著です。あ、ちなみに、いま以前にもこのブログでは「ネギは正しい問を立てれば過程を省いて結論を手に入れる」趣旨のことは語っています。いや、「ここにつながる」とは思ってなかったんですがw
魔法界編の直前だから、30巻くらいだっけな。新魔法ティクタノンとか雷天大壮(雷化)が出た頃です。ティクタノンとか雷化、というのは「通常なら数年かかるものを3ヶ月?(んな、長かったっけな??)くらいでネギが開発」した魔法です。
一般との差異については、VIP席の皆さんが懇切丁寧に解説してくれています。読み返してみると、その説明の丁寧さに驚きますよ。
それ以外にも「世界を解決する手段を見つける」ところもそうですね。あらゆる人間(魔法界人)たちがどうしようにもできないことを、たった10歳の子供がちょっと考えただけで見つけてしまう。
こういうチートを持っているのが「ネギの特性」です。
これは、「因果さえあれば過程を省く」ことのできる能力だと思うんですよね。
で、こういう能力をもっているひとがうみねこにいるわけですよ。それがアウローラさん
はいはい、このひとです。
このひとの戦闘方法ってのがまさに「チート」なんですよね。「因果さえあれば過程を省ける」能力の持ち主。
あいてを「ふっとばす」と決めたら、「その理由をでっちあげられるなら」「ふっとばせる」(そう記述はしていないけれど、そういう能力だと認識しています。ゲーム中では「べつにどんな理由でも作れるから、まぁふっとんどけ」みたいな描写だったと思います)
で、おもしろいのはこの人がでばってくるのは「魔法エンド」のときぐらいなんですよね。ある時空でこのひとが「人間」として現れるシーンがあるんですが、たしか「人間エンド」では会えなかったんじゃなかったかな(記憶が曖昧。間違えてたらごめん)
つまり、こういう「チート」を使うこの人が前面に出てきたときは「魔法エンド」のときなのかな、と。この前提で考えてみると、「チート」が目立つようになってきたのは魔法界編からかなー・・・つまりそこから「幻想?」なんて、想像もできます。
もちろん赤松さんが「うみねこ」を知っているかどうかは知りませんよ。だから「うみねこで「魔法エンド」に「チート」がでばるといっても(仮に正しいとしても)、それがネギま!に適用できるとは限らない」。その意見は正しい。
だから最初にぼくは「こじつけ」って書きましたよw
ただ、そういう風に見える側面がある。そのことを覚えておいて下さい。
じゃあ、次に2についてはなしをしましょう
こちらは「ネギま!」のはなしなので、もうちょっとは納得がいきやすいかと思いますよ。
・・・えっと、みなさんネギま!の映画見ました?劇場で。
もうね、ぽかーん、でしたよ。はい、ぽかーん・・・
終わった後に「え?なにこれ?」ってはなしです。
でもね、赤松さん的には「OK」らしいんですよ(ぼくの聞く限りでは)。ぼくはDVD見てないので、30分追加されてどうなったのか知らないんですが、仮にこれが「OK」(大人の事情でOKと言わざる負えない、以外の場合)だとしたなら、エンディングプランBとか言ってますし、つまりこの映画には「意味」があるんですよね。きっと。
映画のあらすじをざーっとはなしをしてみましょうか。
まず魔法界のはなしは終わっているんですよ。「いやー、すごい戦いだったね。あの時ネギ君が~~して造物主を倒して。いやー、すごかったぁ」とか言っているわけですよ。視聴者は「・・・え?」な状態です。
そこから麻帆良学園にもどってネギ君に与えられる使命が「だれをパートナーとしてひとり選ぶのか?」。で、ドタバタコメディして、世界樹がぴかーって光る。ぴかーってね。
何があったのかと思ってみんな集まると、さても大変「火星が落ちてくる」・・・・は?
そこで、いきなり学園長が現れて曰く「どうやら造物主の欠けた最後の呪いで地球に火星が落ちてくるらしい(はぁ、ようわからん)。それを回避するにはネギがパートナーを独り選ばないといけない(なんでだろう?)」とのこと。
で、悩んだ結果ネギ君の出した結論が「みんなと契約します」なんですよね。いみわからないんだけれど、仕方ないんですよ。
周りからは「むちゃだー!」とか言われるんだけれど、魔法界での激闘を繰り広げたネギ君はそれを成功させてしまう。学園長「われわれはかれを見誤ってた」みたいなことを言う。
で、全員で火星に挑むんですよ。
んで負ける。
そのとき空からチャオが降ってきて「きみは間違えてない」といってネギと契約をする。
これで生徒全員集まって火星を撃破!
世界はなんだかんだあって魔法のことがばれ、幸せにおわる・・・
ざーっとはなしをしたんですけれど、こんなはなしなんですよ。DVDがどうなっているかは知らないけれど、少なくとも映画はこんなのだった。
意味がわからないんだけれど、「これでいい」んですよ赤松さんは(聞く限りでは・・・どっかで不満もらしたかな?)。
で、ひどいよねーってはなしをしていたんですよ。そしてあるとき映画を見終えた海燕さんとはなしをしたときにいわれたのが「これってコスモエレケンティアに取り込まれた世界なんじゃないの?」ってことば。
納得しました。
それならよくわかるんですよ。ネギにとって「都合の良すぎる世界」なので。
さて、そこで今回の漫画版のエンディングに戻りましょう。
ぼくは「映画でBADエンド」「漫画でGOODエンド」を描くと思っていたけれど、もしかしてそれは勘違いだったのかもしれない!
そうではなくて、赤松さんが描きたかったのは「魔法エンド」「幻想エンド」なんじゃないか、ということなんですよね。
思い返してみれば赤松さんが言っているのは「エンディングプランBです」なんですよ。最初ボクが考えたのは「Aとの対比のB」で、でもいま主張しているのはそうではなくて「Aと同種のB」だったんじゃないかな、ってこと。
そこで竜騎士さんのはなしに戻ります。
かれは「うみねこ」で「魔法エンド」「人間エンド」を描く前に「ひぐらし」で大団円エンドを書いているんですね。ぼくは以前Twitterであるひとに「竜騎士さんは最初から「魔法」と「人間」のエンドを意識していて、「ひぐらし」のときは読者がついてこられないから「魔法」エンド=祭囃し編を「ひぐらし」のラストに持ってきたんじゃないか」、ってはなしをしたんですよ。うみねこはひぐらしで「レベルの上がった」読者を前提に作られているんじゃないか、と。
あと「ひぐらし」のときは「エンターテイメント」を重視したんだと思うんですね。だからあんなに「売れた」。それも一因は「魔法エンド」のわかりやすさにあるんだと思います。きっとうみねこはひぐらしより売れてないんじゃないかな(どうだろ?)
赤松さんがやったのも「そういうこと」なのかもしれない。「エンタメ」を重視した結果なのか、「読者がついてけない」からなのかはわからないんですけれど(たぶん前者を重視して後者を考慮だと思う)
あれほど頭の良い人があの映画を「よし」とするのは、意図あってのことだと思うんですよね。
そういう理由とかを考えると、このネギま!のエンディングというのは、「意図して魔法エンド」を創り上げられているのではないか、と。
こういうところから、ぼくは「ネギま!のエンディングはうみねこの魔法エンドなのじゃないか?」としゅちょうするんですよね
さて、まとめよう。
これが仮に、あくまで仮に正しいとして、赤松さんが「こういう選択」をとったことにぼくは「限界」もしくは「皮肉」を感じてしまう。
これは「エンターテイメント」という枠組みの中にある「限界」であり、その先を超えていくと読者がついてこられないという一流の「ジョーク」を感じてしまうのだ。
ここまでのはなしはぼくの妄想に近い騙りごとではあるが、でも、ぼくにはそう見えた。それはやはり意識してもらいたいところです。
これが現在での極地なんだろうな、と思う。
しかしぼくは満足です。つーか、不満なんて・・・ね(まぁ在るところもあるけれど、些細なものです)。
ここまで限界に挑んだ作品ってのは近年見たことがないレベルでした。これほどエンターテイメントしている思考の娯楽ってのは、なかったです。
エンターテイメントの最前線を走る人間の残した偉大な痕跡と、ネギま!という傑作を残してくれた赤松先生に敬意を表してこのはなしはここで終わりましょう。
赤松先生、おもしろいものがたりありがとう!!
追記
仮にこのはなしが正しいとして、赤松先生が「エンタメから先」、つまり「ひぐらし」のさきの「うみねこ」をやるのかどうかというのはボクにはわかりません。やるなら応援しますし。やってもらいたい。でも漫画はノベルゲーム以上に「エンターテイメント」であることが求められる。少年漫画では難しいかもしれない、とは思うんですよね。
追記2
なんとなく、ネギ君がくっついたのは茶々丸さんな気がしてきた・・・(ぼくはアスナさんとくっつくと嬉しいんだけどね、・・・うん、ないね)
追記3
http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-3623.html
http://jin115.com/archives/51806302.html
ちょい調べたら、赤松さんは映画に対して不満があったみたい、でも「シナリオの前提」に不満があるのであって、ああいうエンディングについては「良し」ということなのかな?
仮にそうなら、「シナリオの見せ方」に問題があるのであって「ああいう結末」自体はOKということかなー。まあ、だとすると「魔法エンド」主張は崩れないわけですが(あくまでぼくにはそう見える、というだけだけれど)
ちなみにシナリオの粗の部分が、魔法エンド的なもの感じさせる部分を際立たせた側面はあるかもしれない
追記4
ちなみに「魔法エンド」というのは「ファンタジーやエンターテイメントの背負う宿命」にちかいところはあるのかな、と。
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追記5<最終回の感想書いている人がいろいろいたね>
1日たっていろいろ書いてくれている人たちがいた。とにかく漁って、楽しく読ませてもらいました
江戸前ネギ巻き寿司 重婚説は面白いな~
くろうのだらオタ日記 「確定されたハッピーエンドが出来た事により、そこに至る『幸福な時間の物語』が全て『再現』された」というのは、ボクの表現でいう魔法エンドにつながるなー。ちなみに魔法エンドというのは「ファンタジーの要請」という側面もあると思うんですよね。「良い悪い」ではなく「ファンタジーであるが故の制限」に近いものではないかな、と
カートゥーン☆ワールド この「わずかな勇気が本当の魔法 少年少女よ大志を抱け その一歩が世界を変える」というのは、「夢がありすぎるように」思うところはあるんですよね。さっきのファンタジーの要請がそうなんだけれど、「夢を見せる/見られるようにすること」というのはある種大人の仕事で、「こういうエンディング=魔法エンド」というのは「夢を信じられるがためのエンディング」だと感じています。だからこのエンドが「悪い」とか「良い」という括りで話したのではなく、「そうなった」「そうなるように設計された」ことに意味があると思うんですよね。まぁ、魔法エンドってのはぼくの妄想的な話ではあるのですが、それを前提に話をしていますよ~
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…優 ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん優 俺、『あっちがわ』には絶対行きたくない…
(校舎のうらには天使が埋められている 1巻123ページ)
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評価 2 (もうちょい詳しく言うなら2.4くらいかな)
個人的評価 2 (2.8くらい)
『校舎のうらには天使が埋められている』の感想です。お久しぶり てれびんです。この本はこの土日に東京に行ったついでに買った本のひとつですね。メロンブックスで平積みされていたから気になってかいました。
後堂理花(うしろどうりか)は赤々瀬小学校4年2組に転校してきたおんなのこ。引っ込み思案で前の学校でのたった一人の親友からは新しい学校ではたくさん友達を作りなと言われて、新しい学校ではともだちをいっぱいつくろうとします。はじめはうまく行かなかったけれどクラスの中の美しい少女蜂屋あいと仲良くなってこれから変わるぞというところで…
いやぁひどい話ですね。僕個人はこういうはなしはきらいじゃないんですが、評価は5段階のうちの2くらいですかね(あ、今回から点数評価入れることにしました個人的な好みの点数も入れてみようかと お試しなので今後がどうなるかわからないけれど試してみます)
冒頭のセリフはクラス内カーストで最下位『ソラ』にされてしまった主人公を助けようとした少年少女の片方が叫んだセリフです。なかなかに衝撃的なシーンなのでこういう閉鎖空間で歪んでいく物語の経験がない人は一度は見てみてもいいシーンかと思います。こんなかんじでぼく個人の印象は「まぁまぁかな」って本作なのですがその評価は2です。
これはねー、べつにこの作品が悪いってわけではなくて比較対象にあげられる作品がすごすぎて結果低くなってしまったんですよ。このブログを見てくださってた方(一年間くらい休止していたので過去形です。いまでも見てくれている人がいたらありがとう)や、ぼく個人の知り合いの方なら知っているかもしれませんが、こういういわゆるイジメのはなしでぼくがさいこうかなと思うのが、いまはなき瀬戸口廉也さんが残された『CARNIVAL』(あ、ゆっておきますが死んでませんからね現在ゲーム業界から文筆業に移られています。このあいだ星海社から発表された『死体泥棒』
あいしたこいびとのなきがらをぬすんでともにくらすせいねんのものがたり
はすばらしくかんどうしました。
とても、いいはなしなので興味のある方はぜひお買い求め下さい。濃厚な文章に耐えた先で得られるカタルシスは大きいです。個人的評価では4くらいになりますね!(ならこっちのレビューしろよと、言われそうな気がするがなんかテストだなんだかんだで機会逸してしまってね。いつか機会があれば書きます))
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それに乙一の傑作『死にぞこないの青』があります。これはとても感動的なはなしなのですよ。
CARNIVALはアマゾンなどでは手に入らないと思いますがDMMでダウンロード販売をしているので、やってないひとはぜひともやってほしいけっさくですね。
両者はじつは似たところのある物語でして 『どうしようもならないクソッタレなセカイ』 のおはなしです。ある意味救いのあるのは『死にぞこないの青』なのですが、本質的に人間の深さを魅せつけてくれるのは『CARNIVAL』ですね。
CARNIVALはそのはじまりから衝撃的で、殺人犯として捕まっている主人公が逃げ出すところからスタートします。そこで???となっているわれわれプレイヤーはかれの、そしてかれのまわりのにんげんの過去と現在を透して『どうしようもなくそうならざるおえなかったセカイ』を目撃しそういう現実にたいしてただひとりで立っていくにんげんを見ることができます。ここで主人公がだしていく決意にたいしてうつくしいとか、すばらしいとかいうことはできるのですが、そうするとどうやったって大事な何かが零れおちていく気がします。敢えていうならにんげんの精神の極限のひとつ、すなわち生身の人間自身をさらけ出してもらったというかんじですね。
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たいして『死にぞこないの青』も『構造的にどうしても虐げられざるえない小世界』が題材となっています。さきほど『CARNIVAL』と『死にぞこないの青』がにているというはなしをしたように、これらの物語はこういうふうになったらそりゃこうならざるえないよねというところが際立った作品です。ちなみに個人評価だとCARNIVALは5(あるいはそれ以上)死にぞこないの青は4(そうとう5にちかい4)となっています。
そこで『校舎のうらには天使が埋められている』に戻りましょうかいままで挙げた2作品に比べるとこの作品は「どうしようもなくそうならざる得ない」という点がたりないかな、と思うんですね。
たとえばCARNIVALや死にぞこないの青では主人公たちの精神が刻命に描かれているので学校という空間から「逃げられない」あるいは「逃げるわけがない」ということがよくわかるんですね。でもこの作品では少女が引っ込み思案だから親とかには言えないんだろうなぁ、という想像はできるのですがそれは想像の範疇であって、仮にそうであったとしても「ほんとうにいわないかな?」「逃げないのかな?」という一抹の疑問が残ってしまう(思わされてしまう)。
(ちなみに視点を変えると「でも虐められている子ってのはあなたたちが『そんなこと?』って思うこともできないで耐えてしまうんだよ実際はこんなものなんだよ」って意見も勿論あると思いますしリアルに近いのはこちらで正しいと思います。さきの2作品はともに主人公の精神が『尊すぎる』ので… だから繰り返して言いますが評価は2ですが、いい作品だと思いますよ。
個人的には『3月のライオン』と比較しながら見るのがおすすめです。
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いじめという現実に「屈してしまう」校舎の主人公と「立ち向かってしまった」3月のひなちゃんの対比は、ぼくたち一般人のリアルに近いでしょう。(虐げられても屈したくない 屈せられない思いを抱くこともあれば、そういう思いを持っても屈してしまう精神というのは、まさにぼくたちリアルなにんげんだと思います)
ちなみにいじめに対して立ち向かえとかてれびんは言いませんよ。正直そういう状況になったら「逃げる」のがいいかなぁと思います。少なくともアドバイスを求められたら「逃げろ」といいます。それはラヴァーズ・キスで、母親のくるった精神に立ち向かえない少年にたいして先輩が「逃げろそれでいいんだ別に立ち向かうことはない」というのとおなじです。
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じぶんにとっての毒に打ち勝つものは賞賛されるべきかもしれませんがそれは逃げて、べつのところで生きる選択肢を非難するものではないでしょうからね。たとえば乙武洋匡さんに関連する問題というのはそこに関連することなのでしょう(わかっているだろうけれどこれは「乙武さんの問題では『ない』」(関連しているけれど)ということは強調しておきます))
だからあえて作品として『評価』するなら「すごいもの」が描いてある前2作品の評価が高くなって、相対的に低くなってしまっただけなのですよ。
ちょっと取っ散らかっちゃったのですが結論
絵も綺麗ですしミニチュアな狭い世界が描いてあるという点では見る価値のある作品だと思います。ここで挙げた『CARNIVAL』『死にぞこないの青』『3月のライオン』に比べれば凄みは少ないですしそれを見ている人からすれば物足りない部分もある作品ですが、はっとさせられるところはある作品でしょう。個人的には2巻かそこらで綺麗におわるとちょうどいい印象ですね。
追記
えっと、ここで挙げ忘れたのですが荻上チキさん著『ネットいじめ』や内藤朝雄さん著『いじめの構造』はこういういじめというものを分析するうえでいろいろヒントとなる作品だと思います。
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また『どうしようにもぬけ出せない輪廻』というのは現実に在るものでして。それを実感するには鬼頭莫広さん著の『ぼくらの』やケン・ローチ監督作品『この自由な世界で』というのがおすすめです。ぼく個人で言うなら後者のほうがコンパクトでいいなという印象ですね。どちらにしてもレベルが高い作品なのでこれらは一見の価値くらいはあります。
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お久しぶりです。2ヶ月・・・いや4ヶ月ぶりでしょうか。
なーんとなくブログ更新をサボり続けて時間が経ちました、てれびんです。
ちなみにブログを休んでいた間いろいろなことがありました・・・(ような無いような)
日々大学に通っていました。
海燕さんさらって西に行ってきました。
ぐーたらしていました。
・・・・・・
(閑話休題)
とにかく、先月something orangeの海燕さんを連れて西に行ってきたんですね。滅多に合わない人達と会ったり、1週間ほどの旅行でした。
その旅の途中で敷居の先住民の敷居さんのお宅(通称 敷居亭)に伺ってきました。そこでCさん(はじめてのC はじCさん)に勧められたのが上記の作品『シンフォニックレイン』です。
で、昨日にはじめて今日に完結したので久しぶりのブログ更新です。
シンフォニックレインとは
詳しくははじCさんのブログ、もしくは公式サイトを見ていただきたい。単純にいえば
止まない雨の降る街での物語。音楽学校の卒業のためにパートナーを探す主人公の周囲でのであいと始まりが描いてある。
とでもいえばいいでしょうか。
感想
一応ネタバレ対策として下にしまいます。ネタバレについて考慮する気はないので、あしからず。(※感想だよ、解釈じゃないよ)
3分かからないくらいの記事です
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日本橋ヨヲコによる漫画『少女ファイト』がとても面白かったです。最近周りから「これ面白いから読んでみなよっ」といわれ手を出してみた作品。
基本的には高校女子バレーの話なんですけどね、一つ一つのシーンが魅せてくれるためかなり読み応えのある作品となっています。
丁寧に生きるということ
この物語で自分がもっとも心引かれたのは、主人公練が亡くなった姉の墓の前で泣き崩れているときに姉のかつてのチームメイトの笛子(後に練の進学する高校のバレー部の監督とわかる)が練に言った
生き方が雑だな
生きている意味が全て噛み合うその瞬間を味わいたいのなら
丁寧に生きろ
という台詞です。
正直この言葉は胸に来ましたね~
ちょいと個人的な事情になるのですがわたしは自分の生き方が雑であることを、多少なりとも、自覚しています。
だからこそ胸に響きましたね。
丁寧に生きる
これは「ネギま」や「なのは」における
友達になりたいんだ
という台詞に匹敵するインパクトがありました、個人的に。
苦悩
さいきん「3月のライオン」や「capeta」がとても面白い。
(わたしはこれらの作品をまず、雑誌で追っている。だからこれから話す内容は単行本に未収録の内容だ。ネタばれになる部分があるので、今後に関する展開についてのネタばれがちょっとでもダメな方は続きを見ない方がいいかもしれない。)
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どこに注目したか。
まず3月のライオンで言うなら、最新話の桐山君のセリフである
頑張ってもから回る。普通の人が当たり前に出来ることが僕にはできない
これを見た時に「ああ、やっぱり桐山君は天才なんだろうなぁ」と思いました。
「まどか☆マギカ」6話におけるQBの態度が話題になっています。知らない人は「まどかマギカ QB 大暴落」とかでググルと出てくると思います。(ニコニコさんにあったので貼りました)
詳細は省きますが「対話ができると言って分かりあえるとは限らない」といえば、知っている人には通じるのではないでしょうか。
ただ、この現象は生きているうえで頻繁に見られます。
「常識」というキーワードで世の中を見てみると、いたるところにあります。「夜10時以降に相手のお宅に電話しない」「約束は守る」ある種の人には当たり前と思われることが別の人によっては当たり前でないことは多々あります。
「時間を守る」というのもそうです。「5分前行動」「ぴったり」「30分は遅れる」人によっても国によっても「常識」というのは変わっていきます。
そういう視点で見ていくとQBとは「人間ではない」ことに適合する生物ではあります。このあたりはLDさんのブログを見てもらえるとわかりやすいのではないかと思う
『魔法少女まどか☆マギカ』~僕と契約して魔法少女になってよ -今何処―
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で、「天才」というのはそういうなかでも分かりやすいくらいに「対話はできるけど理解ができない」キャラの典型です。
曽田正人さんの「シャカリキ」や「め組の大吾」でもそういうキャラは出てきます。「スバル」なんかはそこから更に一歩進んだ作品になっているのかもしれません。
桐山君の「当たり前の人が当たり前にできることが、ぼくにはできない」という『欠点』は、同時にかれの天才性の証明でもあるのです。(※1)
対して、「capeta」を見てましょうか。
これも最新の話から。
月刊マガジンの連載では主人公カペタは「高校を辞めようかな」と悩んでいます。それは、ライバルのナオミがプロのドライバーとして結果を出しているから。「一日中クルマのことを考えていられる」プロドライバーと「高校に通っている自分」を比較して「時間を無駄にしている」という感覚を抱いたからです。
それにたいしてカペタの父親はナオミの母親に頼んでカペタに「高校に通うことのメリット」を伝えてもらう。モータースポーツ関連者のナオミの母親からカペタは、現在のモータースポーツが如何に社会と密接に結びついているかを教えられる。そして、その中で生きていくのに重要なのは「当たり前」の感覚なのだと伝えられる。
これを聞いて「たしかになぁ」と感心しました。
「ハチワンダイバー」の世界ならともかく、「モータースポーツ」や「将棋」といったスポーツは社会の中でしか生きられません。(「音楽」や「絵画」といった、人間の精神活動に深く結びついた芸術は別な部分があるのではないかと思うのですが。)
そういう点でQBのような、「別世界から来た」種類の「天才という怪物」は生きづらい世の中なのかもしれません。
……さて、そろそろ「少女ファイト」の物語に戻りましょうか。(寄り道が長すぎる…)
少女ファイトも上記のような流れで見ていくことのできる作品のひとつだと思います。
ただ、この作品の珍しい点は「社会に拮抗する天才」をえがくのでもなく「社会に組み込まれた天才」を描くのでもなく、「社会の中でしなやかに飛び回る天才」が出てくること(そう見える部分があるということ)。
これに関しては最新7巻のラストエピソードが分かりやすいかもしれません。
「隆子さんありがとうございます。私…今日練さんの全力を見て嬉しかった反面圧倒されて…
自分が黒曜谷(学校の名前)の力になれるには具体的に何をすればいいのかまで悩んでしまって…」
「フッ、あなたがなれるわけないしならなくてもいいわよ」
(3人目の静止の声が入る)
「どうして?本当のことじゃないの。どんなに努力してもいまから練と肩を並べるのは無理よ。あなたが家族と幸せに温かいご飯やお茶を飲んでいるとき、私たちはずっとバレーしか食べるものがなかったのよ。一人で泥水のんで生きてきたのよ。それで強くならないわけがないでしょう?」
そこで3人目の静止者が疑問の声をあげるんですよね。かれは今まで「隆子」と呼ばれる相手に圧倒されてきました。異なる意見を持っているときでも、恐る恐る「違うんじゃねぇかなぁ…」みたいな感じで自分の意見を提示する関係だった。でも、ここでははっきりと「当たり前」に(俺は知っている)と否定するんですね。
「・・・そうか?
おまえらより強かった例外のやつが一人いるぞ 真里(死んだ主人公(練)の姉)だ
あいつはバレーばっかりやってるわけじゃなかったけど、強かったぞ。
だってよくサボってオレとゲームしてたもん」
この流れの後にかれの言うセリフ「いやー、お前らの苦労を小田切が軽く飛び越えるとこみてーなー」というセリフには激しく同意です。
丁寧に生きる。得た経験を身につけ、着実に前に進む。関係ないと思われることですら、血となり肉となる。生きていることに無駄なんてものはない(※2)
まぁ、最後のは言い過ぎかとは思いますが、こういうのが「歳を経るにつれて自由になっていく」ということにつながるのだろうなぁ、と思います。
さて、少女ファイトについて語れることはあると思いますが(わたしも眠くなってきたので(笑))、今回はこの辺で終了したいかと思います。
言いたいことは「これは面白い」ですね。(無理やりまとめる)
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※1 ここに関して『自分が欠陥だとわかるくらいでは天才としてまだまだ』という理屈も、なくはない。先ほどあげた曽田正人作品のなかにも、近い記述はある。ただ、後述する「カペタ」における「社会性を持った競技」における天才というくくりで見るならば、それが天才の天才性を減じるものかどうかはわからない部分もあると思う。「理解できる」から天才と認められるともいえるし、「理解できない」レベルにあるからこその天才ともいえる。一番わかりやすいのは「理解できる部分でも物凄く、追いつけない。でも、理解できる部分を仮に極めたとしても、追いつくことはできない。何処まで行っても「わからない」部分が残り、「理解しきることのできない」部分をもつ」天才である。そういう人は歴史に埋もれることもなく、ずっと残っていくのだろう。
※2 ちなみにこれを書いてて「バキ」を思い出した(笑)バキが以前言われたセリフ「たまんねぇな、あいつは道端を歩いているだけで強くなる理由を見つけて強くなる」ってなセリフ
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<おまけ>
これよかった
(↑これを「よかった」というのは正しくないが…)
(↑これみたいのです)
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