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物語解釈

じぶんがその物語をどう読んだのか。けっこう熱をいれて書いた場合

2015年4月22日 (水)

ドラゴンボール 復活のFが物凄いことになってた

レイトショーにはたまに行きます。特に精神的にストレスのある時とかは時間や体力を削っても観に行く。

面白くないと辛いけど、面白いと肩に載ってるストレスが少し降りる気もします。人生楽になるんだよね。

そんなわけで、平日火曜日の夜に『ドラゴンボール 復活のF』を突如観に行ってきました。

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はじめは今更ドラゴンボールなんて観なくていいと思ってたんですよ。復活のF自体はめちゃくちゃ気になってたけど、中身がそんなに面白いことは期待してなかった。

勿論面白くないと思っていくわけじゃありません。そこそこは面白くて、そこそこ不満のある内容なんじゃないかと予想してた。驚きは少ないだろうという予想がありました。

そして、観た結果……

……

……

ゴメン。センスオブワンダーあったわ……

……

みなくて良いって言っちゃってすみません。これは観てもいいと思います。

歴史に残る傑作とかではないけど、ドラゴンボールを追いかけてきた人は観てもいいと思います。

ポップにして軽快。ストレスフリーで気軽に観れるドラゴンボール。

これがぼく的には非常に新しかった。

なるほど、ドラゴンボールというのはこんな側面も持っていたのだなと驚かされる。

特に印象的なのはフリーザ様が蘇って地球を襲ってくるとき。

千人のフリーザ軍に迎え撃つのは悟飯・ピッコロ・クリリン・天津飯・ジャコ(宇宙警察)・無天老師の6人。

この6人で千人を無双していくのが非常に楽しい。

しかもメンバーの一人がアノ無天老師様!これが強い強い。一人頭170人ほどじゃな、と言いながらバッタバッタとフリーザ軍をなぎ倒していくのだ。

映画を観ながら「これはドラゴンボール無双がでるな」と思ったほどだ。

ヤムチャやチャオズは足手まといになるからかvsフリーザ軍に連れてきてもらえないのに……

一方、人類最大戦力の悟飯はそこまで過剰な活躍はしない。数の暴力に多少圧倒されるところもみて取れる。

ぼくはこの戦闘シーンが今回のドラゴンボールの映画の重要なテーマを表してるように見えた。

少しずつ話をしてみよう。

今回のドラゴンボールの映画の最大の特徴はなんだろう。

ぼくは、力のインフレに慎重な立場をとったところにあると思う。

例えば冒頭で悟空にたいしてウィスがどんなに強くても油断をしたら終わりだと説教をするシーンがある。この説教が伏線となってラストで悟空がピンチに陥るのだが、ぼくの注目したいのはそこではない。

注目したいのは悟空をピンチに陥れたのが、雑魚の放った光線銃だということだ。進化したフリーザをも圧倒した悟空は流れ弾にやられる。

ここに力のインフレ調整がみてとれる。

それだけではない。

先ほどの無天老師様の活躍もそうだ。過去作なら役に立たぬはずの無天老師様も敵を圧倒している。

無天老師様がいきなり強くなったのだろうか。

ぼくは違うとおもう。そうではなくて、力の調整が行われ、よりリアルな力関係に物語をシフトさせたのではないだろうか。

先ほどの千人のフリーザ軍の戦いを見直してみよう。

6人のZ戦士は大活躍をするのだが、同時に所々苦戦をしている。それは決まって数の暴力が襲ってきたときか、戦い続けて疲労したときに起こっている。

一騎当千のZ戦士にたいして戦略的な波状攻撃が有効な証だ。

数の暴力に苦しめられたZ戦士たちは、最終的に各々が連携してフリーザ軍を全滅させていく。

そこに全てを圧倒する個の暴力はない。

それだけではない。フリーザ様との闘いのときの悟空とベジータもそうである。

悟空がフリーザ様の奇策にハマること。ベジータがフリーザ様に出し抜かれ地球がなくなってしまうこと。ここには、ただ一人が強ければ事件を解決できる物語はない。

今まで個の暴力で解決していたドラゴンボールが新たな変革の時を迎えたのだ。

今までの圧倒的な敵の強さによりピンチに陥ってから覚醒しての逆転の物語もいい。しかしその物語構造はドラゴンボールは飽きるほどにやり尽くした側面があるように見える。

力のインフレ勝負の輪廻から降り、もっと冷静に彼我の戦力を測る物語が始まったのだ。今までの熱いドラゴンボールもいいが、今回のようにクールなドラゴンボールもいい。

終始どこかに余裕が残り、Z戦士は常時敵を圧倒している。

そのせいか勝利のカタルシスは昔に比べると少ない。しかし全編安心してみれる。手に汗握ることなくエンターテイメントを楽しみ続けられる。

ぼくはこれなら繰り返しの視聴を余裕でできる。

非常に現代的になってると思う。このようなドラゴンボールはどこからきたのだろう。ぼくはゲームから来てるのではないかと思う。ぼくはゲームをあまりしないので、そのうち誰かに教えてもらいたいくらいだ。

そのようなワケで、ぼくは今回のドラゴンボールに大きなセンスオブワンダーを感じた。

新たなドラゴンボールがみんなに受け入れられ、また毎年みれるようになったらいいなぁ

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2014年12月17日 (水)

もっともっと売りたい電子書籍がなんで売れてないのか(1)〜売れ方にもいろいろある〜ジャンプ漫画が売れるのと、なろう小説は売れ方が違ってる〜

電子書籍の売り上げを伸ばしたいならオンリーワンになるしかない

今回は、こういうテーマを記事にしてみたいと思います。

ところで皆さん電子書籍って買ってますか?

Kindle、ブックウォーカー、eブックス、Yahooブックス…etc

いろんな種類があります。この中で、どれかひとつでも使ってるひとはいるでしょうか。

ちなみにぼくは、Kindleとブックウォーカーを使っています。合わせて千冊は超えてる。使ってみると電子書籍はとても便利。すぐ買えるしすぐ読める。場所もとらない。でも、どうやら売り上げはそこそこらしいんですよね。

これがなぜかずーっと疑問だったのですが、やっとひとつの仮説が頭の中に思い浮かびました。

これって

【場が統一されてない】

せいなんだと思うようになってきた。

どういうことなのかをこれからご説明させてもらいたいと思います。

そのために次の幾つかの話題をお話しなければならない。さっくりテーマだけ羅列すると、

【本の売り上げは読者数✖︎完成度である】

【ジャンプの漫画の売れる理屈と、なろうの小説が売れてる理屈】

【電子書籍が売れないのは、コンテンツが統一されてないせいだ】

【絶版マンガ図書館をブックウォーカーに統一するべき唯一の理由】


この内容を読んでくれたら納得してくれるのではないかと期待してます。

それでは、順番にお話してみよう。

【本の売り上げは読者数✖︎完成度である】
そして
【ジャンプの漫画の売れる理屈と、なろうの小説が売れてる理屈】

これらは、同じ線上にあるので、まとめてお話します。

皆さんジャンプは知ってますよね?

ONE PIECEとかドラゴンボールを生み出した漫画界の巨大コンテンツです。最近はNARUTOが完結しました。

ジャンプ作品は総じて売れる傾向があります。ここをみてみるとわかるのですが、雑誌単体としてジャンプは他の追随を許さないことになってます。※1

あと、2013年オリコン漫画ランキングをみるとやはりジャンプの作品が上に多い。※2

ひとつの巨大コンテンツに掲載されていると、作品は売れやすくなります。これって当たり前のことだと思うのですよ。

めちゃくちゃ面白い作品だけど世の中に知られてないというときは、作品の問題ではなくて雑誌の問題であることも多いと思います。

ここでぼくは売上の大きい雑誌で連載しろと言ってるわけではありません。ただ、全体の傾向として見るなら、巨大コンテンツにある作品は総じて利益を生み出しやすいということを言っている。

そこで、次にこのブログで良くはなしをしている「小説家になろう」を話題にしてみよう。

小説家になろうって知ってますか?知らない?

知らないなら簡単にお話すると、小説の投稿掲示板サイトです。オリジナル作品ならなんでも投稿していい。※3

ここで面白いのは、このサイトのアクセス数は一日云千万らしいということ。※4

さらに、小説家になろう出身の作品はラノベの中でも売れる傾向がある。スレの引用で、信頼性が低いが申し訳ないが参考にして欲しい。

実際、平均的な売上からするとなろう出身の作品の売上は大きい。それは、そこらの書店の本棚みるとなろう出身のライトノベルが幅を利かせてることからも見て取れるだろう。

そこで、次のことを考えてみよう。

一週間に週刊少年ジャンプを見ているひとと、小説家になろうを見ているひとは単純にみて十倍くらいだということは想定できる。※5

では、ジャンプを読んでいる人がジャンプコミックを買う確率と、なろうを読んでいる人がなろう出身の小説を買う確率はどれくらいの差があるのだろうか。

ひとりの読者数に対してジャンプ作品となろうの作品ではどちらが売れているか考えてみよう。つまり、読者数にたいする売上効率を考えてみよう。

…まあ、ジャンプのほうが売上効率いいよね。

これは適当な例ですけど、百人のひとがジャンプを読んで一人がジャンプコミックを買うとするなら、なろうでは千人がなろうを読ん一人がなろう出身小説を買うイメージ。

この差がなにに由来しているかというと、それが「完成度」だと思う。

完成度というのは、作品の圧縮度や読みやすさ、完結させる保証…それらの総合としての指標です。

追記にも書いてあるけれど、ジャンプにジャンプメソッドがあるなら、なろうにもなろうのお約束というのがある。

ただ、そのクオリティに違いがあるので、ジャンプという場から産み出される作品と、なろうという場から産み出される作品のクオリティには違いが生まれてしまう。※6

ジャンプクオリティの平均が80点なら、なろうクオリティの平均が65点という塩梅だ。

作品の売上には

読者数で母数を増やして、次にクオリティをあげて一人あたりの購買確率を増やさないとならないのではないか。

ぼくはそう思う。

そして、その購買確率というのはひとつの作品の完成度を下地にしているというより、場全体の平均に由来するのではないだろうか。

あくまで仮説の段階だが、ひとつの示唆になるだろう。

次の記事ではこのことを下地にして

【電子書籍が売れないのは、コンテンツが統一されてないせいだ】

【絶版マンガ図書館をブックウォーカーに統一するべき唯一の理由】


という話をしていきたい。





※1 ここでホントは、雑誌ごとの漫画の売上ランキングとか見たかったのですが見当たらなかったので言及できなかった。つまり、漫画がジャンプから発表されるのと別の雑誌で発表されたときに平均的な作品の売上の違いを見たかった(例えば各25作品連載があったとして、13番目の作品の売上の差を見たかった)。ぼく個人の感覚としては、ジャンプのような大きな雑誌で発表されたほうが、平均的な購買部数は大きいのではないかという思いはある。ただ、実際には調べないとわかりませんので想像で言及してます。売上を自分で調べて表にすればいいというツッコミはあるのだけど、時間なくてやれませんでした^^;
すみません。もし調べて「お前は間違ってる!」というなら、謝るしかないっす。教えて下さい。

※2 ホントは各雑誌の真ん中の売り上げの作品を比べるのがいいのですが

※3 ただ、ランキング上位にくるのは転生ものなどの「お約束」を下地にした作品が多い。今回のテーマからズレるからお話しないが、このお約束がジャンプメソッド的になろう作品をまとめ上げているので、売れやすいというのはあるとおもう。場の統一性というのを頭の片隅において見て下さい。

※4 一億アクセスとか聞いたことあるが、覚えてないので曖昧に書かせてもらいました。とりあえず、一位の無職転生だけで、一日十万アクセス(更新してないときで)ということは記録にある。ちなみに日間百位の竜姫は一日一万前後らしい。…って、平兵士の丘さんかよ…(苦笑
適当に12/17の百位選んだら…偶然ってこわい

※5 ジャンプの発行部数が二百万にたいして、なろうは一日云千万。単純に比較はできないだろうが、場としてみると単純に十倍は余裕で超える。一位の無職が一日十万アクセス(更新なし)と考えると、十倍の差というのは遠くもないとは思う。

※6 なろうでクオリティを問うことがナンセンスではある。今回は売上という観点からみたらクオリティが大切という話をしてる。

2013年9月11日 (水)

映画『キャプテンハーロック』見てきました~福井晴敏と生きることの肯定~

人間は変わらない。世界が変わることもない。
そういう世界でひとはどうあるべきなのか。

この映画は松本零士の『キャプテンハーロック』の魂を受け継ぎ、福井晴敏なりに再構成されたいわゆる『キャプテンハーロック・ビギニング(ライジズ)』である。

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最初にネタバレをしておくと、『キャプテンハーロック』の主人公ヤムはハーロックに敵する地球連邦政府のスパイである。ヤムはかつて犯した過ちを償うためにアルカディア号に乗り込む。そこから物語がはじまる。
映画『キャプテンハーロック』の登場人物は皆なにかしらの後悔をかかえていきている。後悔を抱えているのは主人公ヤムだけではない。物語のキーパーソンたるハーロックもそうであり、ヤムの兄にして地球連邦政府の要人であるイソラもそうである。
このせかいでいきるものは全員なにかしらの後悔を抱えて生きている。

ぼくが最初にこの映画を見ていたときは、松本零士の『キャプテンハーロック』を想像していた。熱をもち義に厚い自由の使者たる英雄キャプテンハーロックが活躍する物語を想像していた。しかしその期待は裏切られる。この映画に登場するのは英雄キャプテンハーロックではない。かつて人類最大の過ちを起こた大罪人にして未だに支えきれないほど巨大な後悔を抱える人間キャプテンハーロックである。
松本零士版ハーロックを想像していたものはこの違いに驚くだろう。
この映画にでてくるのはひたすらまえを向いていきている人間たちである。洒脱なユーモアもなければ、友情になみだする姿もない。かつての後悔に涙して失敗をなかったことにしたがるありふれた人間のすがたである。
松本版と異なるハーロックであるが、唯一共通するものがある。
それが、生きることにたいするスタンスである。

生きることが一瞬のきらめきであるのならば、きらめきの交錯はひとつの奇跡である。一瞬のきらめきの連続で生が成り立っている。
これを松本零士風にいうならば「受け継がれた魂の中でひとは永遠に生き続ける」のである。そのことを異なるアプローチで描いたのが本作である。
本作のテーマを一言であらわすならば「生の肯定」である。
ひとの為す選択のひとつひとつは生の証となる。そして選択には結果がつきまとう。それが連続して人類という種の生がつくりあげられていく。
その意味でこの映画の主人公がヤムであることは納得できる。
物語の主人公が作品のテーマをあらわす存在であるならば、物語中で都合3回裏切る「スパイ」の青年はもっとも多くの後悔を抱えた(=選択の結果を手に入れた)ものであると見ることができる。
作品中でハーロックが世界最大の後悔を抱えていることが明かされる。
だからこそ『ハーロック』はヤムに継承される。
ラストでハーロックがヤムを『ハーロック』の継承者に任命するのは、この物語中でもっとも『生きた(=選択の結果を受けた)』のがヤムだからである。

ダークマターエンジンの停止とともに消滅するミーメは、作品中で自身が語る通り「ハーロックと共にあるもの」である。その「ハーロックとともにある」彼女(とトリ)が、作品のラストでヤムと並び立つのは、ヤムがハーロックの名を継いだ証である。
そうしてハーロックの魂は受け継がれ、ハーロックの生は続いていく。
松本零士風にいうならば「魂が受け継がれて永遠に生きる」ことである。
うろ覚えなのだが、物語の冒頭とラストで次のような問いかけがなされている
「人間はかわらない。せかいはかわらない。なにも変化せず膿み希望も何もみることができない。それでもなぜやつ(=ハーロック)は前に進むのか」
その答えは、「それが生きるということだから」なのだろう。
全体的に粗い部分も在ってひとには薦めづらいが、ぼくとしては楽しい作品だった。
いいものをみた。

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2013年8月30日 (金)

いま話題の『ガッチャマンクラウズ』をボードゲームのように考えてみたら思ったよりスッキリしてしまった件について

さいきん毎日はじめちゃんの『innocent note』を聞いています。(はじめちゃんについてはこちらで書いたので、はじめちゃん好きの方はこちらもどうぞ)

 
                                                      
          

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何回も何回もこの曲を聴き続けてます。それで、ちょっと気づいたことがある。

 

ぼくはこの気付きはぼくたちをガッチャマンクラウズのより深い理解へと導いてくれるのではないかと想っています。

 

そして、7話のベルク・カッツェの問のこたえにつながるのかもしれないとも感じています。

 

最近はぼくにしては文脈で読むことが多かった。現代のエンターテイメントがウンタラとか、これからのネットワークがウンタラとかである。でも、ここでもう一度、そこから離れて『ガッチャマンクラウズ』を見てみようとも思う。そこで、『ガッチャマンクラウズ』のEDを軸にこの記事をかくこととしました。

 

どうでしょう。よければもう一度『inncent note』聞いてみてください。新らしい発見があるかもしれません。前回の記事には歌詞の書き落としもあります。

 

 

さて結論へと至る前に、ぼくはちょっと聞いてみたいことがある。

 

ひとつ『ひとが捨てるに捨てられない本能とはなんだろうか』

 

ひとつ『ひとのもつ原罪とはなんなのであろうか』

 

どうでしょう?

 

ちょっと考えてくれましたか。      


 

 

日常のなかで原罪とはを、かんがえる機会はほとんどないでしょう。だからちょっと考えて見てもらいたかった。

 

ここに真摯にむきあうことが、クラウズのより深い理解につながる。そしてベルク・カッツェの中心へと至る道筋のひとつになりえると想っています。

 

正直ここにたいして懸命に向き合ってくれるのであれば、以下の文章などべつにいらないんじゃないかとおもうほどです。

 

せっかくの面白いアニメなんだから、真剣にむきあえばいろんな面を表してくれるのだと思います。      


 

 

とはいっても、はなしを書かないわけにはいきませんね。問を発したのだから、それにたいしていま出せる答えを示してみるのもこちらの誠意というものです。

 

では、はじめましょう。


 

きっかけは曲の途中でした。何度と無く聞いていたときに、ふいにアレっておもったところからはじまったんです。ぼくはなんでこの曲が好きなのかなって疑問が沸き上がってきた。

 

前回の記事やラジオでぼくは「はじめちゃんの曲だと思って聞くと、泣けるんですよ」って発言してます。

 

これは、なんでなのでしょうか。不思議になりました。だから考えてみました。

 

ひとつの理由は曲調です。どことなくしっとりとした、きめ細やかさをかんじさせるこの曲の調子がスキなんです。初めて聞いた時からこの曲の音は大好きでした。

 

でも、それだけではありません。それだけで、「はじめちゃんが歌っている」と「より感動する」とは言わないはずなんですよ。これが疑問でした。なんでなんだろう。

 

つぎに考えた理由が歌詞です。この曲を聞いたことのある人は分かるでしょうが『innocent note』の歌詞は聞き取りづらい。独特のテンポのために一度ですべてを聞き取るのは難しい。そんな「内容を把握しづらい歌詞」がぼくにどれほどの影響を与えたんだって思うひともいるかもしれない。でも、影響はあったのです。はじまりの「こころは どこへ むかうの」って言葉が耳に残って離れません。

 

いまだから分かるのですが、無意識に曲からいくつかのことを感じ取っていたんだと思います。だから、それをより深く知ろうとして前回の記事で歌詞を書き出してみたんでしょう。      


 

 

現時点でぼくは『innocent note』の歌詞(と曲)には、3つの要素が含まれていると考えています。

 

ひとつは『物語のテーマ』、ひとつは『はじめちゃんの内面』、ひとつは『ひとの原罪』

 

これらについてひとつずつ書いていきましょう。      


 

 

『物語のテーマ』

 

それは以前の記事でも書いたように、神山健治監督を代表とした「ひとの悪意」の物語です。あるいはヒーローのもつ限界。大衆の身勝手さによる圧力にたいしてひとどう対応してったらよいのだろうかということを論じた問題です。

 

これはこれでひとつの大きな記事になってしまいます。詳しくは海燕さんの記事などをみてください。       


 

 

『はじめちゃんの内面』

 

これはそのままの意味です。物語のなかではじめちゃんの内面にふれている場面は多くありません。なにを考えているのかわからないと言うひともいるかもしれない。それを補完するのがこの曲です。いつも笑顔のはじめちゃんのなかに隠れている諦念・希望の感情を描いているのかなと思います。      


 

 

『ひとの原罪』

 

これについては、ちょっと多くを語りたいところです。それこそこのものがたりの根幹を示す内容だと思います。

 

以下でより詳しく書いていきます。      


 

 

さて、そうしてぼくは何度と無く『innocent note』を聞きました。書き出して、抜き出して、没入して、考えて、そしてふと気付きました。

 

ああ、この曲ってものがたりのテーマやはじめちゃんの内面を説明しているだけでないのかもしれない。もっと大きな、それこそ、この世界の大きな制約にまで言及しているうたなのかもしれない。いいかえると、このせかいにいきるひとの原罪を唄っているのだなと。

 

その瞬間、ちょっとだけですが、この曲がぼくを惹きつける理由がわかりました。

 

この曲はひとの原罪を唄ったうたであり、ひとの剥き出しの精神に触れてくる。

 

だから波長のあうひとには、すごくマッチする曲なんだろうと。      


 

 

そう考えながらこの曲を聞いていると、次のようなフレーズに意識が向きます

 

『だれもきっとひとりじゃさびしい いきものさ つながっていたいのさ』      


 

 

これを見た瞬間思いました。おそらく、これがガッチャマンクラウズの世界の原罪なんだろうと。

 

さまざまな要因により切り離されていくせかいで、つながりあうことだけはやめられないひとの業がそこにあるのだと唄っている。

 

幸村誠の『プラネテス』に「愛しあうことだけはやめられないんだ」というシーンがあります。愛しあうことだけはやめられない。呪いに近いナニカ。

 

それが原罪です。

 

切ろうと思っても切り取ることのできないひとの業そのものです。

 

そう考えるとこの作品の別の側面が浮かび上がってくるように思えます。      


 

 

顔の見えない匿名の社会。でも、つながっている。ひとはGALAXというシステムを介して「だれでもない状態を保ちながらも、尚つながりを求めてしまう」。

 

たとえ高度に発達して他者とあわなくてもやっていける世界になろうとも、「何らかの形でひとはつながらずにはおれない」のかもしれない。それは何故か。理由は「さみしいから」。それがこの世界のひとに設定されたルールであり、限界なのです。

 

そこから考えていくと、この物語における「ただしさ」の方向性が見えてきます。「さみしさ」は埋めないといけない。それはせかいに設定されたルールです。      


 

 

つまりはゲーム盤なのです。      


 

 

このゲームはいくつかのクリア条件があります。「大衆の悪意からせかいを守りながら次のせかいへとアップデートさせる」とか「地球に侵入し迫り来る異星人から世界をまもる」とかです。ほかにも様々な条件があることでしょう。

 

ちなみに「地球に侵入し迫り来る異星人から世界をまもる」というゲームで「敵を倒す」というのはレベルの低いクリア方法です。そうすると「更なる敵があらわれた」というループシナリオが発生してしまうからです。根本的に解決(例えば「MESSと友達になる」)しないとクリアをしたとはいえません。

 

「大衆の悪意からせかいを守りながら次のせかいへとアップデートさせる」も同じです。「未来のおれたちがなんとかしてくれるぜ!」という具体性の全くない解決では、「~年後。さぁ世界をアップデートしてください」というループシナリオが発生してしまいます。      


 

 

このようなゲームですが、クリア条件とは別に「ゲームのルール」が存在しています。

 

ぼくたちは「人類」をつかって、さまざまなクリア条件を満たそうとしていきます。しかし、その「人類」は「さびしさを埋めてあげないと滅んでしまう」のです。だから定期的に「さみしさを埋めて」あげてください。

 

そういうルールのゲーム盤なのです。もしそのルールを満たさなければ「ベルク・カッツェ」があらわれて世界をほろぼしてしまうのです。      


 

 

ベルク・カッツェは「ひとのさみしさ」を利用して世界を滅ぼしていく。そういう存在です。もしカッツェが現れたならば、「さみしさ」を埋めて滅亡ポイントを減少させてくださいね。      

 

 

そう考えると、カッツェが塁くんのまえにすがたを現したのはすごくわかることです。

 

塁くんはクリア(世界のアップデート)のためにGALAXYを作りました。しかしそれは匿名性を高めて世界の「さみしさ」を強くしてしまう作用のあるアプリなのです。最初はいいですが、それだけをつづけて無理をすればとうぜんに歪が生じる。

 

そうして彼のまえに「ベルク・カッツェ」はあらわれた。

 

塁という少年は優秀なプレイヤーです。せかいをアップデートさせるためにはかれの協力が必要不可けるです。しかし、かれは常にコスプレをしてあらわれる。けっして本当のすがたではあらわれないプレイヤーなのです。

 

かれが登場するだけで「人類」の「さみしさ」は高まってしまいます。      


 

 

このものがたりでずーっと「かおを見せない」ことがマイナスであるように描かれていたのは、それが理由です。このせかいには「滅亡回避」のための隠しパラメーターがあるのです。

 

カッツェが7話でしている問もそこにつながってくると思います。

 

人類皆は「さびしい」ので、つながりを求めるのです。それが呪いでもあり、同時に救いでもあります。

 

だからEDのラストでは

 

「ぼくたちはわかっている かわすおもいがうんめいさえぬりかえることを」

 

といっているのです。

 

「つながり」が世界のアップデートの希望であり、滅亡のうんめいを回避するフラグなのです。

 

さて、ながくなりました。きょうはここまでにしましょう。

 

ありがとうございました。

2013年8月28日 (水)

『ガッチャマンクラウズ』のはじめちゃんは可愛いけれどその正体は何なんだってことについての覚書のようなもの

思うがまま書いてから、まったく修正していないけれどいいのかって内容を公開してみます。
まあ、ほとんど見ないだろうからいいよねって・・・
ガッチャマンクラウズみてますか?面白いです。はじめちゃん可愛いです。いまなら日テレオンデマンドで無料です。みんな見ましょう。今日ガッチャマンの映画みてきます。オンデマンドで流れるダメなCMみて凄く気になりました。
さてはじめちゃんです。ぼくははじめちゃんの話をしようと思ってました。忘れてた。海燕さんからは「てれびん系主人公」と言われるはじめちゃん。
ぼくがダメだと言うとはじめちゃんもダメだと言ってくれる。ぼくがうーんと唸るとはじめちゃんも何か違うんっすよーと言ってくれる。思考パターンをトレースされてるかのようで、とても不思議な気持ちになるキャラクターです。
いや、それにしてもはじめちゃん可愛い。
さて、そんなはじめちゃんですが彼女には欠点がある。海燕さんとみながらでもなーと言ってました。それがなんなのかと言うと、彼女の視点ですね。あと立ち位置。まず視点の話をしましょう。
視点。見え方。世界の捉え方。ザ・ワールド・オブ・ハジメ。いったいこれがなんなのかが問題なんだと思います。彼女は直観のひとなので常人とは異なる世界でものを捉えます。ひとによっては正解を選ぶと言うけど、ホントはそれは違うのかなと思います。
はじめちゃんの選択が正解なのかはじつは誰にもわかりません。はじめちゃんにもわかっているかは怪しいと思う。結果的には正解になってるから正しい。それだけのことです。でも、ぼくはその行動は価値のあることだと思います。彼女は世界の先の先までは見通すことができないと思います。その点は塁くんのほうが素晴らしい。
一番強いのは塁くんのような人間です。彼の系譜に連なるひとは、いつか世界を変えていくでしょう。より良い未来を目指してせかいをアップデートしていく。今回は塁くんは損な役割なんだと思いますよ。かれは、そういう意味では可哀想ではあります。物語のテーマから彼は苦悩を抱く役割に押し込められてしまう。はじめちゃんと塁くんは対照的です。
塁くんが先を見据えて世界の悪意を管理し世界を最終的にアップデートしようと望むのならば、はじめちゃんはその場その場での正解を選んでいきます。システムによる根本的な解決を望むのが塁くんならば、はじめちゃんはそれを望みません。
彼女にできるのは現状をちょっとだけよくすることだけだと思います。目の前の絶望を回避すること。ちょっとだけ幸せな未来を選ぶこと。はじめちゃんは世界などという大層なものは背負わず、自分に抱えられるものだけを守るのだと思います。
神山健治監督はそこに絶望をみました。すべてのものが世界をよくすることはできない。一握りの希望は大多数の悪意(無関心のほうが近いと思います)に握りつぶされてしまう。
ガッチャマンクラウズはそこに絶望をみません。絶望のわきには希望があり、希望のわきには絶望があります。
はじめちゃんの見ている世界とはひとつの虚無なのかもしれません。ナウシカでははじめちゃんのあり方を虚無と評しました。たぶんね。
彼女の裏はベルク・カッツェです。おそらく。かのじょはひとの絶対の悪意を信じません。彼女はひとの絶対の善意を信じません。ひとは良いこともすれば、悪いこともします。でもカッツェとはじめちゃんはちょっと違うと思います。何処が違うのでしょうか。
それはベーシックな立ち位置だと思います。
カッツェはたぶんひとが善きことをすることを知ってます。はじめちゃんはひとが悪しき行いをすることをしっています。
それでも、ひとは善なる行いをする。そう、はじめちゃんはおもってます。性善説です。
カッツェはまだわかりません。
彼が真になにをおもってるのかはまだ明かされてません。でもみていると、カッツェは愉快犯であるように思えます。
カッツェとはじめちゃんは似ています。
言葉は通じます。笑顔は交わせます。でも心が交わせるかはわかりません。
じつはいま書きながら改めて悩んでます。

はじめちゃんは心を交わしてるんですかね。人間と対話しているんですかね。言葉は通じても意図はわかってもらえているんですかね。彼女の胸の内は他者と共有するせかいがどれほどあるのでしょう。
彼女ははじめにまだまだ残ってるお弁当をわきにお腹減ったとつぶやきます。それは文字通りの意味ではありません。おそらく刺激をさしていっているのです。
もっと面白いことないかな。わたしの予想を超える出来事が怒らないかな。と。そう言っているのです。
ここから彼女の精神の一部が読み取れます。
彼女もまた愉快犯に近い。自らの愉悦に興じる悪魔のような精神の持ち主です。
七話で彼女は迷わずカッツェの元に向かいます。ジョーさんが傷つけられたことへの怒りは見えません。生命が救われたならば良いと考えたのかもしれません。しかし、普通なら彼女の行動は異常です。
仲間を、友を傷つけ殺しかけたものと平然と言葉を交わし、談笑?をする。
感情より先に理性があり、未知なるものへの興味が優先される。彼女はいったいなんなのだろう。
これがナウシカならばどうだろうか。痛みに対する共感から始まるだろう。信念のもとに言葉を紡ぐのだろうか。
しかしはじめちゃんにはそれがない。彼女には本性があり、彼女はそれに従う。
塁くんを代表とするキャラクターは理性のひとだった。ナウシカも基本はそうだと思う。
理性の信奉者は理性に裏切られる。理性の外にあるものに裏切られる。
だから東のエデンの滝沢は失敗をする。009の島村ジョーは神へと問いかける。
理性によらない集団の悪意に世界の革新を阻まれる。
塁くんはそれをシステムで管理しようとする。集団を集団として管理しつつ、個人を個人として管理する。ギャラクシーシステムには希望がある。システムを管理するエックスには希望がある。
この物語には四つの異物がある。
ひとつははじめ、ひとつはメス、ひとつはカッツェ、そしてエックスである。
かれらは人間にして人間ではのものである。人間の要素を持ち、人間の一部をもち、ある種人間であるのに、人間ではないもの。それが彼らである。
はじめは人間だ。しかし、人間とは異なる精神をもつ。ある種の本能の奴隷である。
カッツェは見た目は人間だ。まだ何者かわからない。
メスは人間ではない。人間とは異なるコミュニケーション形態をとる。はじめとは交流でき、人類との交流の可能性がある。
エックスは機械だ。塁が作った。人間を理解する。そして意思を持たない。彼女に真なる信念はもたず、それ故に「繋ぐ」可能性を秘めている。
ぼくはここにこの物語の可能性があるのではないかと思ってます。

いままではひとりに世界が背負わされてました。でもそれは失敗した。だから今度はそれを分散させた。でもそれは失敗した。集団の悪意に晒されるから。だからそれを複数の異なるものたちに分散させた。それがこの物語のひとつの可能性だと思います。
各レイヤーの代表者同士を通じ合わせて全体の連携をとる。
ひとりでもなく。全員でもなく。役割分担。
それがこの物語なのではないかと思います。
さて、散文ばかり書いてますね。
今夜これからLDさんとアッシュさんとラジオをやります。
この辺りの思考の泡がぼくの言動の根本になるはずです。ではでは、よろしくお願いします。

2012年8月10日 (金)

ドラゴンクエストモンスターズ+ 読み直し終了 クリオの物語は何処にむかっていたのだろうか

ドラゴンクエストモンスターズ+(1)新装版 [ 吉崎観音 ]

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感想(1件)

評価 3.5

個人的評価 3.5

新装版が出ているということで、ドラゴンクエストモンスターズ+全5巻を再読了しました。

この物語はけっこうきっちりできているから、こういう形で終了したのが残念な物語であります。こうやって新装版がでるということは、おそらく今だ人気の高い作品であり、続きを待ち望む声もそれなりに在るのだと思います。

ドラゴンクエストモンスターズ+という作品を考える際に注目すべきは「アンチドラゴンクエストモンスターズ」であるということだと思います。

つまりドラゴンクエストの裏に「まおゆう」があるように(あ、TVのPV公開したんですよね。おめでとうございます)、ドラゴンクエストモンスターズの裏に、それも公式で、ドラゴンクエストモンスターズ+がある。

まおゆう魔王勇者(2) [ 橙乃ままれ ]

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感想(3件)

あまりに強すぎる力のために化物と疎まれる勇者や、頂点へとたどり着いてしまったがためにラスボスへと転じてしまったテリー。

この物語は「強くなる」ということの裏を描いた物語であります。(無邪気に配合を繰り返して強くなっていく事に対する物語ともいえるかもしれません)

「大きな力はひとを孤独にする」

何の物語だったかど忘れしましたが、どこかでそういうセリフの物語を見た記憶があります。

これは暗に「何のために強くなるのか」を問うているため、少々対象読者の年齢が高めに設定してあります。

ガンガン系列の物語で言うと「トライピース」という戦争をどうしたらやめられるのかという物語がありましたが、テーマ設定に失敗したコレとは異なり、対象と条件を絞ったため問に答えやすいかたちに落とし込まれているのがドラゴンクエストモンスターズ+のよいところでしょう。(また元ガンガン・・・だったと思うのですが似たような系列に『PEACEMAKER クロガネ』があり、これも設定は良かったと思います)

トライピース(10) [ 丸智之 ]

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感想(1件)

ドラゴンクエストモンスターズ+では「その強さ故に孤独」になったものを支えてくれるのが「仲間」であり、それこそが自己を支える「理由」となるのだ、ということがこの物語で描こうとしていたことの一つだと思います。

4~5巻はそこに配慮して描かれており、「孤独なもの」がそうではなくなることを、マルモとロランの2者を通して描いている。

もし連載が順当に続いていたならば、これらの物語を受けてテリーがモンスターズによって救済される物語が描かれることになったのだろうと思います。

うーーーん。こういう終わり方もいいけれど、出来れば「この先」の物語をやはり見たいところですね。

最期に追記するならば、このクリオの物語は天才のものがたりではなく、むしろ凡才の物語なのだろうと思います。

一つの道を時間をかけながら進むことによって、遠回りをしながらたどり着くことによって、それらの過程を一足で飛び越えた天才が手に入れ忘れた「つよさ」を得るものがたりだとも言えます。

これはOVA版の「サイバーフォーミュラ」にも通じるはなしで、マルモとの物語が下地にあることとなったでしょう。

「せかいに選ばれた人間」を打ち倒す物語ともいえます。(そういう意味では、『惑星のさみだれ』『サイコスタッフ』にも通じるものがたりです)

惑星のさみだれ(4) [ 水上悟志 ]

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感想(6件)

サイコスタッフ [ 水上悟志 ]

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感想(2件)

もしドラゴンクエストモンスターズ+のそういう部分を好ましく思っているのならば、OVAの「サイバーフォーミュラ」を見ることをおすすめします。これはまさしく傑作なので、一度くらいは見てみてもいい作品だと思います。ちなみにぼくはDVDを持っていますよ(笑)

2012年8月 9日 (木)

強い願いが奇跡を起こす。『コイネコ』や『ネコあね。』5巻が日常と過去を積み重ねる理由について

ネコあね。(5) (講談社コミックス)

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奈良一平著。『ネコあね。』5巻を読了しました。

基本的には過去記事に書いている内容と共通していると思うので、そちらも参考にしてみて下さい。

過去記事

この物語は大きな物語とかがほとんどなく、その多くは日常的な積み重ねのみで構成されています。

物語的な嘘といえば「ネコが姉になる」という一点(チュー太郎もその流れ)のみであり、それ以外はダラダラとした日常が延々と続いていく。

「一年後にはネコの杏ちゃんは人間になれなくなる」という(物語上)大きな問題は立ちふさがっていますが、じゃあそのためになにができるかというと、別にできることは何もない。

ではそういう日常は無意味なのかというと、そうというわけではないはずなんですよね。

たとえば最近で同様の物語を思い浮かべると真島悦司著の『コイネコ』があります。『コイネコ』と『ネコあね。』ではキャラクターの中心にあるネコたちのプリミティブな衝動は異なるのですが、その物語の中心が「日常」に在る点では共通しています。

こういう日常の描写が多く取られる理由は、ひとつには「作者が描きたいから」というのは勿論あるのでしょうが、別な物語的な理由としては「絆の積み重ねを描きたいから」というのがあるかと思われます。

こういう奇跡の物語において、奇跡とは「与えられるもの」です。

なかには理由なく与えられるものもあるのですが(その場合は再契約がひつようになるかな)、理由があって与えられるものもあります。

『コイネコ』と『ネコあね。』の2作は理由があって与えられる物語となっています。

これらが奇跡を与えられた最たる理由に「何物にも代えがたい純粋な願いがあるから」というのがあります。

2作において、あえて単純化した公式を用意するなら、

奇跡を与えられる者=より強い願いをもつもの

という形になります。

そのため「日常」を強調して描くことは、キャラクターたちの強い絆を描くこととなり、それが「強い願い」の説得力となります。

特に『ネコあね。』は時折ものがたり中に過去の描写を差し挟みます。

これらの「時間の積み重ね」というのは、その願いが「時間という試練を経過したものだ」と読者にしらしめる効果があります。その結果、願いの強度はあがる。

今回の5巻で「頑張っている人は神様もみている」というラストのあとに、銀之介の過去のはなしを詰め込んだのも、演出上の効果で言うならばそういう意図を読み取ることができます。

ぼくはこの物語は、ネコの杏ちゃんの「感情」が好きなのですが、たまにはこんな事も書いておこうかなというのが今回の記事のコンセプトでした。

こういう「内的感情の発露」による物語はとても気持ちの良い衝動を放つ場合があります。

いやーー、今巻も素晴らしかった!

コイネコ(11) [ 真島悦也 ]

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感想(2件)

ネコあね。(2) [ 奈良一平 ]

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感想(1件)

2012年8月 6日 (月)

「これは恋です」が青空エールの河原和音の「先生」と決定的にちがうひとつの視点

これは恋です(4) [ 遊知やよみ ]

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感想(4件)

評価 3.0(中途評価)

個人的評価 3.5

遊知やよみ著の「これは恋です」を4巻まで読み終わりました。

教師と生徒の恋愛話なので、どういうはなしなのだろうとワクワクして読んでいました。

これを読みながら気にしていたのは「どういうことを描きたいのだろうか?」という、いつもどおりのこと。

少女漫画系にはこういう先生と生徒といった「禁断の愛」系のものがけっこうあります。

たとえば青空エールの作者さんのデビュー作「先生」とか

先生!(1) [ 河原和音 ]

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感想(5件)

花とゆめ系でいうなら最近完結した田中ロボ先生の「キスよりも早く」

キスよりも早く(第8巻) [ 田中メカ ]

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(2012/8/6 16:30時点)
感想(49件)

ほかにもいろいろな場所で使われている素材です。

先述の衝動と欲望系の少女コミックでもその題材はかなり使われているはずで、ちょっとぼくがそちらに詳しくないからタイトルとか思い出せないけれど「鬼畜な教師とそれに魅せられた女生徒」という題材でいくらかアルはずです。

というか、少女コミックの読者は基本学生なわけでして、彼女たちに一番身近な社会的空間は学校なんですよね。

だからそういう読者を対象にした少女コミックの舞台は古くから学校が舞台であることが多く。その多くが生徒同士の恋である一方、同時に禁断の恋である教師と生徒の恋愛が描かれるのは、まぁ必然かと。

ちなみに禁断の愛系統の別の作品をいうなら最近の話題作「僕は妹に恋をする」とか

僕は妹に恋をする(9) [ 青木琴美 ]

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(2012/8/6 16:30時点)
感想(16件)

北川みゆき著の「罪に濡れたふたり」とかがあります。

ぼくが好きな作品としては猫山宮緒著の「今日もみんな元気です」ってのもありまして、これは個人的に大好き。

そこで「禁断の愛」の系統である「これは恋です」なのですが、この系統の中でもこの作品はいったい何処に分類されるのだろうか。

べつにそういう分類をしながら見ていたわけではないんですけれどね。ついつい比較していたらああ、こういう分類になるのか、という。

これでスタート地点にはなしが戻るのですが、少女コミック系を分類すると「衝動・欲望系」と「乙女の恋系(心情寄り添い型)」、「ヒロイックサーガ型(客観視点の包含)」などに分類されると見ていて(べつにきちんと分けてきたわけではなく、所感として)、今回でいうなら2番目の亜系かな、と。

これのなかには「先生」や「キスよりも早く」とかも含まれるんだけれど、「これは恋です」ってのはそれらとはちょっと違っている。

ちょっと細かい分類のはなしは面白く無いので、結論から書くと

「これは恋です」という作品は「恥のない恋愛」を描こうとしている

作品なんだろうな、という印象です。

この「恥のない」というのをどういうことかというと、「周囲にきちんと認められる」恋愛と言い換えてもいい。

恋愛物の展開の多くは「あなたがいればそれでいいっ(ひしっ)」って内容が多く、場合によっては周囲に忍ぶ恋というのも珍しくはない。

まあ、互いに互いしか見れないそういうはなしも面白いといえば面白いのですが、決して世間に公開できないということで常にどこかしらの後ろめたさを抱えた作品となっていく。

「キスよりも早く」などはそういう部分をギャグにすることでガス抜きをしているのですが、「先生」は全編にわたってそういうほの暗さが漂っている。

そういう暗さの作品も面白いのではありますが、そうではなく、もっと健全なかたちってあるんじゃないの、ってのが「これは恋です」とかの系統だとみています(まぁ、結末見てないからなんとも言えないけれど)

まぁ、続きを読んでみるとします。

2012年7月31日 (火)

『おおかみこどもの雨と雪』 語ることはあるけれど語ることへの情熱が沸かない作品でした(決して悪い意味ではないが)

おおかみこどもの雨と雪 (角川スニーカー文庫)

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※ ちょこちょこ子どもの名前を間違えているみたいです(笑)

先生の跡を継いだのは雨で、人間なのは雪です。

個人的評価 2

客観的評価 5

この記事の続き、というか補足についてがここに書いてあります。内容としてはおおかみこどもの演出の巧さやそれによって批判が批判でなくなることについてとかです。

いやー、すごかった。こういう作品に出会ったのは久しぶりですね。

なんといっても物語のストーリーにまっったく興味が起こらなのがすごかった!

じゃあ、この作品が駄作なのかというとそういうわけではないんですよね。きっと。

間違いなくこの映画は日本の映画の最前線にある。

なんていうのかな、

何処がどうすごいってちょっっと言いづらい部分はある。たしかに映像は凄いし、いろいろな突っ込みどころに対するカウンターも用意してある。

でも、それがこの物語の評価を決定づける要因には思えないんですよね。

たしかに重要な要素なんだけれど、それが絶対必要なものであるとはいえないと思う。

それはこの物語が群像劇?であることが大きな理由でしょう。

この物語はずっとキャラクターに寄り添いながら同時に俯瞰して描いている。だから花にも感情移入しづらいし、相手の父親にも感情移入しづらい。

話の冒頭から「これは~~」というように、成長した雪がナレーションをしており、この物語は過ぎ去った過去の、いわば思いでとか昔語りであることように作られている。

こういうギミックを用いることでぼくたちはせかいの中のキャラクターに寄り添わなくていいようにサれている(逆に言うなら、はじき出されていると感じる人もいるかもしれない)

とはいえ実感を伴って見れる人は感情移入できる程度のよわい弾き方である。

だから感情移入した結果「なんでこうするんだよっ!」とか「否定された!」「そんなことになるわけがない!」という反応が出てくることもあるかもしれない。

しかしそういう反応はこの映画に対しては見当はずれな批判であると考える。

それは先述の通りこの物語がキャラクターをちょっと離れた外から俯瞰したものであるからである。

だからこそ個々の出来事に対してその理由は敢えて描かれることは少ない。同時にキャラクターが客観的に知り得ない事実は、ぼくたちも知ることは出来ない。

また同時に外から見ているのでその心情は推し量るしかない。内面描写などもないので、キャラの心情は外面から、ぼくたちが普段相手と相対するように外から見てエられた情報から判断するしかない。

父親がなぜ死んだのか。それは、キャラクターが知らないから僕たちも知ることは出来ない。

韮崎のおじいちゃんがなぜ花を気に入ったのか。それは内面を描かれないからぼくたちには知り得ない。ただ僕たちが知ることのできるのは、花が聞き得た情報である「おじいちゃんが周りに面倒を見てやれ」といった情報とかだけである。

また花の心情。それも推測である。

しかし物語冒頭で「常に笑っている」というはなしを恋人にし、父親の葬儀のときにも笑っていたとある。

常識に言って悲しくないわけない。花が笑う時ってのは、つまり「嬉しい」とき「悲しい」時である。

笑っているからといって「悲しくない」とはならない。だから花の感情はそういう情報から「推測」するしかない。

作物が枯れたとき。夫が死んだ時。

花は笑っている。しかしその笑みは弱々しいものであり、そういう情報を読み取ることをぼくたちは要求される。

そういう意味でこの物語はとても「わかりづらい」ともいえる。

少なくともエンターテイメントか、と問われると うーん としかならない。

でもそういう側面がこの完成度を生んでいるとも言える。

ちなみに物語ラストで雪が先生の跡を継ぐ決意をしているとき、「あなたはっ・・・・!!」といって言葉をなくすシーンがある。

これは物語序盤で、引っ越すときに「この子達が狼と人間のどちらの道も選べるように」と言っていることときちんと符合する。

だから、彼女は「あなたは人間なんだから」ということが出来ず、ただ雪に対して請い願うしかなかった。

こういう彼女の心情をたどることによって、ラストの雪に「生きてっ!」という言葉の意味を感じることができるんだと思います。これは物語のあちらこちらに散りばめられているヒントを用いないと「わからない」ことでしょう。

彼女にはいろいろな葛藤があり、それを押しつぶしながら生きている。だから外からみていると彼女の苦しみってのは「よくわからない」

でも、10年間育ててきた息子との別れの瞬間、彼女の人間としての「別れたくない」「そばに居てほしい」という感情と「自由に生きて欲しい」という複雑な、人間らしい「矛盾した」感情がそこに見て取れる。

そして片方の感情に流されない、狼も人間も自由に選べるようにという、賢明な人間としての花をそこに見ることができる。

一方この物語の群像劇としてのはなしとして、同時進行の物語に「雪の物語」がある。

しかしこの物語もやはり俯瞰して描かれている。

キャラクターの内面に深く踏み込みすぎず、そして淡々と進む。

転校生の少年の家族は雪の知り得る範囲でしか知り得ない。これらの物語は基本的に「終わってしまった」物語であり、どうしようもすることが出来ないものである。。

このどうしようもなさに、むかつく人もいるだろうし、分からないでもない。だからボク個人も評価はそこまで高くはない。だって物語に興味が持てないのだから仕方ない。

あ、ちなみにカーテンを用いての「おおかみこども」をばらすシーンは素晴らしかったですね。

カーテンが雪を包むシーンは3度あり。

1度目は狼

2度目に人間に戻り。

3度目に、狼にも慣れる状況で人間のままである。

これは狼を選んだ雨と対比的である。

また、家の前の道、学校に行く(=人間を選ぶ)のは左、森(=狼を選ぶ)のは右になるようになっている。

こういう描写を繰り返したあと、雨と雪のケンカによって「狼」としての差を明確にしている。

人間を選ぶ雪が雨に勝てるわけはないんですよね。風呂場に逃げて鍵をかける文明をもちいた逃げが良かったです。

逆に学校のシーンでは学校に適応できる雪とできない雨が対比的に描かれている。一枚綴りでシーンをつないでいるのは、凄いと思いました。

もうひとつだけオマケを書くなら、この物語で「雨」ってのは別れの描写であるんですよね。夫との別離、雨との別れ。これらは雨のシーンに起こります。

うん。感情的には興味がないので、まったく熱がこもらない文章です。

しかし、一度は見ておくと言い映画ではあると思います。なんか、数年後にはトトロのように金曜ロードショーで定期的に放映されるようになりそうな気がします。

いや、子どもはおもしろくないだろうなぁ。見てみてよくわかった。

また細田監督の小説版と見比べると、映像のうむ効果がわかっていいと思います。

ちなみにぼくは、小説でのストーリーにはまぁぁったく興味がわきませんでした笑

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時をかける少女 や サマーウォーズ をみていると、ああ、こういうところを延ばしたのか。。。すっごいなぁ、と監督の変化に興味が持てるのも面白かった。

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追記

ちなみにぼくが感情的に嫌だな、と思うところはシナリオ的に旦那さんが「殺される」ところですね。

これはね、ちょっと嫌なんですけれどね。

でもそれを批判するのは「意味が無い」んでしょう。

そしてこの物語で「こうではなかったIFの物語」というのは、語ることの意味があまりないだろうと思えるし、そうでなかった物語というのは「ありえない」話なんでしょうね。

見てて、そういうのがわかりました。その作品を嫌だと思うところは、その作品への突っ込むところではない。。。というか評価を下げるものではない部分や、評価をうむために用いられた部分だと思われます

2012年7月20日 (金)

銀の匙4巻と選択肢のおはなし

銀の匙 Silver Spoon 4 (少年サンデーコミックス)

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評価 5.0

個人的評価 5.0

銀の匙の4巻を読み終えました。

いやー、素晴らしかった。

この胸の内をうまく表現する術がないのが口惜しいですね。

今回は八軒くんの「豚肉」問題の解決編。それとエゾノー祭の準備の物語ですね。

4巻はいろいろなところが素晴らしかったのですが、その中でも目を引くのは校長先生が八軒くんに語る「逃げる」についてのはなしです。

八軒勇吾はエゾノーに「逃げて」きた少年です。

だから彼が「逃げる」ことに対して否定的なのはわからないでもありません。「逃げなかった」未来を「選べなかった」ということは、かれの未練です。

いまがどれほど良かったとしても、ありえたかもしれない未来に対する未練を断ち切るのは難しいことではありません。

そういう彼に対して校長先生は「逃げるのはアリです。アリアリです」と言い放つ。

生きている以上逃げることの何処が悪いというのか。身を脅かす危険に対して立ち向かうことだけが正しいことではありません。

ぼくはこの話を雑誌で読んでいるときに、そのすばらしさに暫く棒立ちになっていました。

このシーンの素晴らしさは、語られることの持つ重みとそれを感じさせない気負いのないセリフとキャラの在り方にあるのだと思います。

校長先生はそのセリフを「あたりまえ」に語れている。

剣道の達人が自然体であることの美しさのような何かを感じた気がします。

校長先生の言う「逃げる」ことへのスタンスはぼくとしてはとても納得のできるものです。それはこのブログの何処かで書いたはなしでもあるでしょう。

こういう「逃げる」というはなしを書いていると二つの名作を思い出します。

一つが「3月のライオン」

3月のライオン 7 (ジェッツコミックス)

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「でもききたかったんです 桐山さんはプロになってから一年遅れでまた学校に行かれてますよね

あの… それはどうしてですか?」

「…えーと 僕は本当に将棋にしか特化してないんです 人付き合いも苦手だし

勉強は好きだけど 学校にはなじめませんでした

人生を早く決めたことは後悔していません…

でも 多分 「逃げなかった」って記憶が欲しかったんだと 思います」

これは3月のライオンのワンシーンです。ポンコツ山田.COMさんがセリフを文章化して下さってたので使わせていただきました。

ぼくは、これはこれで一つの正解であると持っています。僕にも「逃げなかった記憶」というのは、覚えのある部分があります。ある意味とても重要な感覚であります。

で、こういう「逃げない]ことを主眼にした際に問われるのは「逃げないほうがいいのか?」ということ。

正直こういう二者択一の問というのは単純にすぎるだろうと思います。3月のライオンの作者である羽海野チカさんも、そういうことを説いたわけではないでしょう。

ここに道があるとします。青い道と赤い道です。

あなただったらどちらを選びますか?

これはいま適当に作った問ですが、こういう問答を書いていると「ひぐらしのなく頃に」を思い出します。

やったことがあるでしょうか。

物語中の選択肢に「赤い箱」と「青い箱」を選ぶシーンがあります。

どちらを選んでも結末は変わりません。

まぁ、要するにそういうことなんじゃないかなと思うんですよ。

ぼくが3月のライオンと銀の匙を両方見たほうがいいだろうと思うのは、両者の選んだ道が一見逆なのに同軸上にあると思うからです。

八軒は「逃げる」道を選び、零くんは「逃げなかった」道を選びました。

それで彼らは何を手に入れていくのか。

友人を手に入れたり、愛する人、家族、栄誉、さまざまなものを手に入れて同時に失っているでしょうね。

いろいろ細かい所に違いはあるけれど、彼らが最終的に見出すのは大きく括って「自分」なのだと考えています。

自分の本性と向きあって、再構築、再発見する物語と読むことができます。

別にどちらを選んだっていいんだと思うんですよね。

それと、もう一つ思い起こされるのが『CARNIVAL』です。

CARNIVAL 

CARNIVAL ダウンロード料金 2800円

おそらく『SWAN SONG』もここで語れる内容なのでしょうが、、、ぼくはまだやっていません(汗)

SWAN SONG 廉価版

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『CARNIVAL』は、いうなれば「逃げ過ぎなかった」物語です。

あらゆる困難を身の内に内包し、許容した果ての物語です。

自らの罪と向き合い、他者の罪を見つめ続ける。常人ならば目をそらしてしまうことを見つめ続けてしまった少年の物語です。

もう少し鈍感であったならば気づかなくて住んだでしょうね。もう少し弱くあったら壊れることができたでしょうに。もう少し愚かならば失敗できただろうに。もう少し、泣くことができたら助けを求めることもできたのかもしれない。

ぼくは以前の記事で「こんなに強くなくてもいい」とあげた記憶があります。

『CARNIVAL』という物語はとても美しい物語なのです。

おそらく瀬戸口さんの作品の人間はとても高潔で、ある種の人間の理想のひとつなのだと思います。

しかし、そこにはさまざまな困難や障害があって僕なんかからみるとそれは「しあわせ」には見えない。(ある意味幸せなのかもしれないのですが)

ただ、この道を選ぶのも勿論「あり」なんです。

ただ、決断の先にどういう物語が転がっているのだろうか。それをこれらから知ってほしい気もします(全員に当てはまる物語ではないでしょうが、参考くらいにはなるんじゃないかな)

まぁ、そんな小難しい、どうでもいい話は抜きにしても物語として「おもしろい」のでこれらは見て欲しいですね。

傑作ですよ

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