キヅキアキラ作品の読後感がきになったひとたちへ
書店で見かけた『メイド諸君』が気になったので読んでみました。
大阪から東京に来た女の子がひょんな事からメイド喫茶で働くことになり、恋をして、結ばれる物語です。
こうしてことばにすると典型的な少女漫画な世界なのですが、キヅキアキラ+サトウナンキさんが描くとどうしてこうも妖しいせかいになってしまうのでしょうか。
ぼくは「いちごの学校」で彼らの作品を知り、それから地味~にこのコンビを追いかけています。
なんとなく気になるんですね。好きとか嫌いとかではなく、気になります。
目をそらしても恐る恐るもう一度みてしまう感じです。
惹かれてしまうといってもいい。
どうやら、ぼくにはそういう作品がいくつかあるようです。
パッとは思い出せないけれどそのひとつに『時計じかけのオレンジ』があります。
原作ではなく映画のほうです。スタンリー・キューブリックが映画化した奇妙にねじれた人間ドラマです。
少年は、レイプ、暴行、麻薬、殺人・・・ありとあらゆる犯罪の友だった。しかしあるとき仲間に裏切られ、投獄される。そこからかれの運命がはじまる。
刑期を短くするため、かれは国の実験台となる。こころを作り替え人格を矯正する実験。そして、堀の外に出た時かれの地獄ははじまる。過去の悪事は報いを与えにくる。過酷な現実は困窮を与える。そして物語は始まりの地、悪徳と強欲の転換点(ターニングポイント)に辿り着く。
時計じかけのオレンジを見て、咄嗟に感想が出る人は少ないだろう。なぜならこの物語はこのなかだけで完結している箱庭の物語だからだ。
ぼくはこのものがたりに美を感じるけれど、それは先端まで研ぎ澄まされた脆いもろい刀のような美しさである。
あといっぽで破綻するギリギリを歩いている危うい芸術である。
これを読んでいる人は『カラヤン』を知っているだろうか。クラシック音楽の音のみを追求したために批判された音楽家だ。
もともとクラシック音楽は歴史の積み重ねを音に託したものだ。その音を聞くものは音の響きを楽しむのと同時に、背景に描かれている歴史そのものを楽しむ。
平均法、対立法などのさまざまな技術を駆使して音楽はその世界を表現する。
音楽言語で描かれた歴史小説といえば、伝わりが良いかもしれない。歴史の流れはひとつである。しかしゴールに至るまでの詳細は描かれていない。
楽譜は年表であり、年表の中に隠れている苦悩や愛徳を創りだすのは演奏家である。だからこそ音楽家の楽譜への解釈は重要である。
しかしカラヤンはその歴史を破壊したと批判される。
いままで書いたように、クラシック音楽の『音』は小説でいう『言語』である。ことばを用いて歴史やそのなかの感情を伝える。しかしカラヤンは『音』に注目した。
『音』をより美しく魅せるために演奏をした。
音楽を通して壮大な歴史を感じさせるのがいままでの音楽であるならば、カラヤンは箱庭のなかだけで作動する精巧で閉じた音楽を作り上げた、といえるかもしれない。
時計じかけのオレンジはそういうものを感じさせる。
ただ美しく魅せるために美しい。そこに感想も、分析も存在しない。ただ美しさを感じるだけである。
そこで『メイド諸君』、あるいはキヅキアキラさんたちの作品へと話を戻そう。
かれらの作品はやはり美しい。しかし時計じかけのオレンジなどとは異なり、胸を締め付けるような痛ましいものをみるような、妖しい感情が立ち上ってくる。
結論から言うのならば、ぼくは彼らの作品は告発の物語なのではないかと思ってみています。
誰の、誰に対する何の告発なのかというと
「物語の登場人物」たちによる「読者」への「物語そのものの欺瞞」の告発
である。
キヅキ作品の多くはたしかに現実には存在するが少数である(と思われる)ファンタジーからはじまる。
教師と教え子が結ばれる、偶然訪れたメイド喫茶であらたな人生を発見する、愛する恋人のいる女性と結ばれる・・・
これらの起こりそうで起こり得ない物語をスタートとして、その物語が孕む矛盾を告発するのがキヅキ作品である。
教師と教え子が結ばれたあとに何が残るのか。少女漫画では教師と生徒が多くの苦難を乗り越えてハッピーエンドにいたる作品が多くある。しかし、その先にはなにがあるのだろうか。
教職を追われるかもしれない、子どもの未来を奪ったのかもしれない、手に入らなかったものへの憧れはどうなるのだろう。
そういうさまざまな矛盾を無視して物語はハッピーエンドへと辿り着く。
エンディングの先は断片的にしか語られない。
キヅキ作品ではそういう矛盾や欺瞞を登場人物が読者に提示してくる。
メイド諸君もそれに合致する。
物語ラストで愛する恋人を手に入れた者は、以下のような内容を独白する。
「なんと苦しい世界だ。不幸せであればそのことに苦しみ、幸せであればそれを失うことにおびえて苦しい。いつまでも幸せになれない」
詳細は異なるが、そんな台詞をつぶやく。
そうして恋人の膝枕のなかで物語は終了する。
そうなのだ。キヅキ作品のもうひとつの特徴に物語に回帰する性質が挙げられる。
ものがたりを通して嘘や欺瞞を告発した登場人物は、それでいて物語へと帰って行く。
外から見ている僕達はそこにねじれた感情を抱く。
これがキヅキ作品の面白い部分である。
登場人物たちは物語のなかから箱庭の欺瞞を提示するためにぼくたちのまえに現れる。しかし告発をしたあとはまた物語のなかへと帰って行くのである。
これが独特の読後感を与えるのです。
さて、おおまかな感想を終えたので今回はこれで終了とします。ではまた
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