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2010年3月26日 (金)

なんで君はそんなに信頼されるんだい?

この記事はもともと以前の記事『作品のレベルを高める要素(2)』のために用意した内容です。ただ前回の(1)からずいぶん間隔が空いてしまったことと昨日の記事との関連が見えたため独立した記事として改編しました。

作品のレベルを高める要素(1)→http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/1-f3d9.html

さて。とはいえアクセルワールド4巻の感想にはかかわってきます。だからここでアクセルワールドを知らない人用の解説を以下に用意しておきます。知ってる人は読まなくてもいいですよ。基本的にはwikiから引用しておくだけなので。

  • アクセル・ワールド』は、川原礫による日本のライトノベル。イラストはHIMAが担当。電撃文庫(アスキー・メディアワークス)より、2009年2月から刊行されている。
  • あらすじ:
    ニューロリンカーという携帯端末を用いることにより、生活の半分が仮想ネットワークで行われる近未来。
    太ったいじめられっ子ハルユキは、現実を呪いながら学内ローカルネットの片隅でスカッシュゲームのスコアを伸ばすだけの日々を送っていた。 そんなある日、ハルユキは美貌の上級生黒雪姫から謎めいた言葉を告げられる。
    「もっと先へ――『加速』したくはないか」
    黒雪姫の誘いに応じたハルユキは、有線直結通信で「ブレイン・バースト」というプログラムを受け取る。それは、ニューロリンカーの量子接続に作用して思考を一千倍に加速するという驚くべきアプリケーションだった。これを用いて仮想世界で自分の化身(アバター)を用いてデュエルをするものたちを「バーストリンカー」という。こうして「バーストリンカー」になったハルユキは、デュエルアバターを操り戦いに身を投じていく。(ぶっちゃけ、アバターを用いたレベル制の対戦格闘ゲーム(ドラゴンボールのゲームで似たのあったよね))。ちなみに「バーストリンカー」というゲームの(基本的な)最終目的は「敵を倒して経験値をかせぎレベル10に到達する」こと。

わたしはこの作品が好きなんですね。エンターテイメントとしての質も高いし、主人公が「太ったいじめられっ子」というところに可能性を感じているからです。(ラノベ・マンガの主人公は「平凡」が平凡ではないから幅が狭くなりがちという話題もしたいけど、いつか別の機会にします)。今回話題となる4巻は3巻からの続編となっています。以下は1~4巻までのネタばれを含んだあらすじ。(今回のはなしに関わる部分だけ凝縮します)

  • ここで重要なのは「バーストリンカー」の世界では「空を飛べる」アバターがいなかったということ。「バーストリンカー」世界を統べる7人の「王」たちですらそういう能力を有する者はいない。1巻の後半では主人公のアバターは世界で「唯一」の「空を飛べるアバター」であることが判明する。
  • 3・4巻では物語の根幹にかかわる心意システムというものが明かされるが今回は省略。物語の概要としては3巻で主人公に新たな敵が登場する。その敵(能美誠二)は主人公を卑劣なわなに陥れ、主人公から空を飛ぶ能力をうばってしまう。(敵の能力をドレインする能力を有している)。4巻ではその敵を新たに身に付けた心意システム等を用いて倒す。

概要としてはこれだけわかれば次のはなしについていけるでしょう。はい。あらすじ終了。

そこでわたしはこの作品が好きだけど気になる部分もある。それはこの作品の端々に「もしかしたらあなたならこの閉塞的な世界を変えられるかも知れない」という話題がでるところなんです。

記憶が確かならばこのセリフを言ったのはメインヒロインの黒姫が最初だったと思う。この世界のアバターというのは、キャラクターの心の傷の表れとして描かれます。たとえば物語キャラのチユという少女のアバターは「時間操作」(4巻ラストに明かされる。当初は回復能力者と思われてた)なんだけど、これは彼女の心に秘められた「昔にもどりたい」という願いの表出と見ることができます。

そこで主人公のアバターの持つ能力「飛行」というのも主人公のトラウマに根ざしているのね。つまり「能力」をしれば相手のこころがある程度、わかるということ。

それらを把握したヒロイン黒姫は主人公に言うわけなんです「君ならもしかして・・・」って。この話題は4巻でも繰り返されている。「飛行」能力を失った主人公をきたえてくれる人も「きみならば・・・」という話題を繰り返すんです。

そこが個人的にはここがよく分からないんです。理性的に整合性をつけようと思えばつけられるんだけど、納得がいかないんです。わたしなりの言い方をするならばそう言われる「必然性」が分からないんです。

おそらく物語の筋としては「(トラウマを抱えながらもまっすぐ前へ進む少年)かれならばもしかしてこの世界を変えられるのではないか?」という筋立てだと思うんです。

でもこれはそれほど特別なことではないと思うんですね。いじめられていたという経験とか、心折れてもう一度立ち上がるというイベントは確かに人を成長させると思います。

でもね。それが一つの世界を改編可能にする説得力とはなりえないと思うんですよ。

きつい言い方をするならば、彼がトラウマをのりこえていく行為そのものは「尊い」んだけど、それでも多かれ少なかれみんなが経験していくものの一つという見方もできるんですね。かれは「当たり前」の成長をしているだけと見えるんです。

これは「強い」人間の理屈で弱さを理解していないとかの各人の反発はもちろんあるとは思うんですけどね。で、その反応自体は正しいとは思います。「当たり前」の成長をすること自体は難しいんです。とくにこういう時代では。でもだからと言ってそれが「外部」を変えてしまう理由には直結していくかどうかというと疑問をさしはさみたいということ。

それならば「主人公」が「特別視」される理由はないじゃん!

ってそういうはなしをしたいんですよ。

で、次に出てくる可能性は「主人公が空を飛べるから」なんです。世界で唯一の飛行能力を有した主人公というまぎれもない「特別性」。

ただ。これにも「能美」というファクターを考えると反論可能なんです。

能美の能力は「他者の能力を自分のものにする」こと。これは出てくる登場キャラがかなり驚いていることを見ると、「バーストリンカー」世界で「唯一」の能力なんですね。

「じゃあなんで他のキャラは能美に、「お前ならばもしかして…」とか思わないんだよ!」って疑問が当然出てきます。

そうはいってもわたしも能美に可能性を感じているわけではないんですけどね(汗)

その理由に「能美が自分の格を下げていた」というのがあるんですね。ひとを陥れて(女子更衣室に監視カメラとかしかけて主人公を覗きの犯人に仕立てる)、踏みにじって(そのネタを脅しにして主人公を意のままにする)、高笑いする。これは明らかに「ダメ」だろうということですね。これには未来を感じさせない。

でも条件が同じならば別のだれかでも主人公を代替可能であることを否定はできません。

それこそ「時間操作」なんてトンデモ能力をもつチユが主人公の代わりに世界を変えてもおかしくないわけです。

だからね。この世界はある意味でチート世界なんですよ。ほんとうに「主人公に優しい世界」なんですね。同じことを成したなら称賛はすべて主人公のものなんです。

そう考えていくと前回の「残念」を語った記事と同じなんですね。

http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-846f.html

このアクセルワールドは明らかに、面白い。作品の質とかもじゅうぶんに、高い。

でも。それでも、「残念」という部分は出てしまうんですね。

主人公の主人公たる所以がでてくればさらにおもしろくなることが分かってしまうと残念に感じられてしまうんです。

前回の記事で、作品の質が高いとか低いとか「関係なく」残念なものは残念になるという例の一つとなると思うんです。

とはいえまだ未完の作品ですからね。さらに飛躍する可能性は十分にあるとは思うんですね。応援してます。

追記

能美が3・4巻で出てきたのは「特別でも志が低ければ未来を感じられない」という、主人公との対比で出た可能性はあるんですね。そうはいっても、チユの志が高ければ代替は可能なんですが・・・

アクセル・ワールド 1
どんなに時代が進んでも、この世から「いじめられっ子」は無くならない。デブな中学生・ハルユキもその一人だった。彼が唯一心を安らげる時間は、学内ローカルネットに設置されたスカッシュゲームをプレイしているときだけ。仮想の自分を使って“速さ”を競うその地味なゲームが、ハルユキは好きだった。季節は秋。相変わらずの日常を過ごしていたハルユキだが、校内一の美貌と気品を持つ少女“黒雪姫”との出会いによって、彼の人生は一変する。少女が転送してきた謎のソフトウェアを介し、ハルユキは“加速世界”の存在を知る。それは、中学内格差の最底辺である彼が、姫を護る騎士“バーストリンカー”となった瞬間だった。ウェブ上でカリスマ的人気を誇る作家が、ついに電撃大賞「大賞」受賞しデビュー!実力派が描く未来系青春エンタテイメント登場。
599円

アクセル・ワールド(4) 蒼空への飛翔 590円 (税込 620 円) 送料無料

2010年3月25日 (木)

これ最高

基本的にボーカロイド曲って好きではないんですが、これは大好きです。

わたしは別にボーカロイドが嫌いって言ってるわけではないのよ。こういう無機質な、機械的な音にメロディタイプの曲を無理やり合わせるのはどうかと思ってるだけです。(既存の歌い手さんの曲を初音ミクに歌わせるとか。歌わせるなら相応の必然性があってしかるべきだと感じてます)

やっぱり「声」も楽器の一つなのでね。適切な使いどころが求められると思います。

感情を込めるのが重要な曲はまだ「人間」が歌い。逆に、こういう人間では出せない歪なものはボーカロイドがやればいいと思ってる。互いに優れている部分が違うので、同じ土俵で争わなくてもいいじゃないとは思うんです。

まぁ。金銭的な関係もあるのである程度は仕方がないとは思うんですけど、可能ならば使い分けるのが最善だと思ってます。

ちなみにこの曲の場合。「ナゾトキ」という非感情的要素が声とひどくマッチしているんですね。人間が歌うとこうまで「感情」をかくすことはできません・ミステリー仕立てで大好き。もう『うみねこ』で使われてもおかしくないレベルでないかと(個人的に)思います。

※ 「商品」としての範疇での意見です。売り物である以上、「人間の声」と比べて使う必要のない「機械音」ならば、ないほうがいいという事。個人で単純に楽しむレベルには意見してませんよ。念のため。

2010年2月24日 (水)

PSYRENの構造がおもしろい。

PSYREN?サイレン? (1)
410円

 今日の夜のラジオのためにマンガ喫茶でPSYREN(週刊少年ジャンプ連載中 現在9巻まででている)を読んできた。面白いのだが、これが週刊連載(特にジャンプ)向けかと言うと、正直う~んと唸るような内容である。個人的には雑誌連載より単行本でまとめて読んだ方が面白いのではないかと感じた。それはこの作品がそれなりにややこしい構造を内包しているからだ。これを分解していくとおおまかに2つの要素に分けられる。(じっさいには不可分なまでに結び付いているので明確に2つとはいえないのだが……)
 一つは異世界設定である。類型としては『マブラブ・オルタ』*1や『時空のクロスロード』*2を思い起こしてもらえればよい(じつはてれびんはマブラブをやったことはないのだが)。突然異世界(荒廃した世界)に飛ばされてしまった主人公たちがの物語だ。
 もう一つがタイムワープ。主人公たちの行っていた荒廃した世界がじつは未来だったことがのちに明かされる。それをどうにかできたら主人公たちの物語は完結する。未来の危機を救う物語(予知された絶望の回避)としては、CLAMPの『聖伝』や『カードキャプタ―さくら』『X』*3が思い起こされる。(じつはもうひとつ思い当たるものはあるのだが、タイトルと内容を微妙に思い起こせないため書けなかった)
 物語の序盤(1巻から2巻)主人公たちはわけのわからない怪物の跋扈する世界に飛ばされる。どのような世界かもほとんど分からない中で、手探りで進んでいく物語は『漂流教室』や『コープスパーティ』*4を思わせる。容赦なく人が死んでいく中で主人公たちは元の世界に戻るために全力を尽くす。
 その内容がシフトするのは、その世界がじつは未来の日本であることが明かされてからである。未来の日本が荒廃することを知った主人公たちは、物語の目的が徐々にシフトしていく。つまり元々の目的「わけのわからない世界に飛ばされるゲームをクリアする」から「未来の荒廃を食い止める」に変化する。そうすることで物語の舞台が『異世界』から『現代』と『未来(異世界)』へと変化する*5。個人的にはこのシフト(正確には、10週打ち切りを免れられたから、当初予定の物語に戻したのではないかと予測している)がじつに興味深かった。
 わたしはこの世界がじつにゲーム的(とくにPCのノベルゲーム的)であると感じた。その一因の一つにこの『現代』と『未来』の相互干渉という要素がある。これがどういう事かと言うと、この世界はらせん構造を備えているということだ。このような要素は扱いが難しいのでマンガよりゲームなどで見受けられる(あくまで印象だが)。
 最初現代にいた少年は『未来A』へと飛ばされる。そこで得た情報をもとに『現代を改変』、同時に彼らは『未来B』へと行くこととなる。この構図が螺旋的に連なりあって『荒廃した未来』を『危機が訪れなかった未来』へとたどり着くように作られている。(このような相互干渉の要素もゲーム的な要素であることを思わせる)
 しょうじき、このような作品がジャンプで連載しているとは思わなかった。
 自分としてはもうそろそろ物語後半に差し掛かってきたような気もする。とにかく、きっちり物語を構成していることにひどく好感を持てる作品だった。

  *1マブラブ・オルタ=アダルトゲームメーカーageのアドベンチャーゲーム『マブラブオルタネイティブ』のこと。並列世界をタイムループしていく構造。http://ja.wikipedia.org/wiki/マブラヴ_オルタネイティヴ
*2時空のクロスロード=自称雑家の鷹見一幸のデビュー作。現代に生きる少年たちが並行世界の未来に飛ばされ、将来起こることが予測される世界崩壊の危機を救う物語。http://ja.wikipedia.org/wiki/時空のクロス・ロード
*3『カードキャプタ―さくら』では、クロウリード。『聖伝』『X』では夢見と呼ばれる夢を通して未来視する者たちが描かれる。『X』が完結していないから確定的なことは言えないが、これらの作品では『運命は変えられない』『いや変えられる』というテーマが物語の両方の手綱を握っている。ちなみに『さくら』と『聖伝』では『未来は変えられる』という結論に至っている。(『さくら』ではギミックとして用いられているだけなので、このテーマを背負っているのはむしろ『聖伝』や『X』ではないかと思われる。『X』では『未来は決まっている』というセリフが出ているが、現在連載が中止になっているので保留せざる負えない)
*4『コープスパーティ』=夜の学校に忍び込んだ少年少女たちが魑魅魍魎が跋扈する荒廃した学校に巻き込まれてしまうPC用のホラーRPG。現在リメイクされている。
*5このようなシフト変化が行われるため、雑誌には向かない題材なのではないかと思ったというのもある。シフト変化についていけない読者(シフト変化に気付かないため「急に面白くなくなった」と感じるものが出るなど)や、後から入ってくるのがつらい読者がいるのではないかと感じたため。

放送URL:http://std1.ladio.net:8010/mangaRadio.m3u

2010年2月23日 (火)

告知

24日(水)の夜、22:00頃から『今何処』の管理人LDさんと、『kande-takumaの別所』のかんでさんとネットラジオをします。お題は『黒子のバスケ』です。具体的なURLは『今何処』のサイトで紹介されますので、良ければ聞いてみてください。

2010年2月10日 (水)

作品のレベルを高める要素(1):『アクセルワールド』4巻感想

やっぱりレベルが高いですね。この作品は。

何がこの作品のレベルを支えているのかは分からないのですが。うん、おもしろかった。

ただ「わからない」というのもなんです。せっかくなのでこの「レベルを支えるもの」をもう少し考えてみましょう。

この作品を見ていて思うのは、ひどく「王道」な道筋をたどっている作品だということ。いじめられっ子の少年の成長物語。マイナスからプラスへの旅路と言ってもかまわないでしょう。

わたしは恩師の先生に「小説ってのは変化を追うものだ」と教えられて国語という科目を解いていました(あくまで大学受験という枠組みではなんですがね)。これがどういうことか。ちょっと具体的に話をしてみましょう。物語において2人の人間が出たとしますね。すると物語の結末ではこの2人が「仲良くなるか、別れてしまうか」のどちらかになるということなんです。もちろん例外はあるんですが、「王道」と呼ばれる作品はこの形式に乗っていることが多いのは確かでしょう。いわゆる、ボーイミーツガールものは「仲良くなる」形式です。仮に小説を「情景・人物の行動などを通して登場人物の心の変化を追うもの」と定義するならば、この作品は「少年の成長物語」として見ることができます。

『アクセルワールド』の場合は、「主人公のこころの変化がマイナスからプラスへ転化する」作品でしょう。さまざまな人や出来事、考え方、それら多くの物を経験して主人公の内面が成長する(たぶん外見は変わらないと思うんで)。その結果なにをなすかを楽しむ作品と言えます。(あくまでこの作品の楽しみ方の王道の一つとして)

言い方を変えれば、「主人公の成長の結果が『何かをなしたという事象』のあらわれ」として物語を読めます。マイナスからスタートした主人公(レベル1)は、成長してプラスになりました(レベル10)。という見方です。

さて(閑話休題)。ここから何が言いたいのか。

それはこの作品がそういう「変化」の要素を多々含んでいるということです。それも一つ一つの要素がそれなりに「深く」描かれているんですね。心の傷というのを物語のギミックに組み込んでいるせいで、各個人の物語が比較的描かれやすいようになっています。そして「バトル」という要素を盛り込むことで「個人」の物語で完結しないようにもしているんですね。

先ほどの変化のはなしに戻ると。一人には一人の変化、二人には二人の変化、多数なら多数の変化があります。2人の人がいればそこには三通りの変化を見ることができます。すなわち「Aの心の変化」「Bの心の変化」「AとBの関係の変化」です。人が増えれば「関係」も増えるので、いろいろな「変化」が増えるということです。「心の傷」が可視化するので、よりコアな関係の物語を書くことができます。それが物語の「深み」に一役をかっているのでしょう。というはなし。

とりあえず中途ですが、時間の都合で今日の記事はここまでにします。(だって、4巻の感想まだ書いてないしね。「お前ならもしかして…」とかのはなしの思いつきを書くつもり。)

アクセル・ワールド(4) 蒼空への飛翔 590円 (税込 620 円) 送料無料

2010年2月 6日 (土)

『魔法戦記リリカルなのは Force』と『サマーウォーズ』2巻の(かんたんな)感想

両方読みました。

個人的には結構好きな両者です。『魔法戦記』のほうは物語初の男性主人公とのことですが・・・・・・インパクト自体は少ないかな(好きなんですけどねこういう作品)。ただ、どうしても『RPG』みたいなイメージをもって見てしまいます。『スターオーシャン』とか『ワイルドアームズ』の雰囲気です。とはいえまだまだ一巻にすぎません。ここから、さまざまな思惑がうごめきだし。一つの物語が展開されていくでしょう。それに今作は『魔法戦記』ということなのでね。今までよりも、もう少しだけワイド視点(キャラクターの内面に寄り添わない視点)で描かれているのかもしれないのかな、なんて印象をつらつら感じてみたり。それにしても『vivid』と見比べてみると物語の描かれ方の違いがはっきりしていて面白いですね。縦(れきし)のつながりと横(せかい)の広がりや、狭い地域でキャラクターの関係を見るもの(ナロービュー)と広い地域でキャラクターの連動をみるもの(ワイドビュー)の違いとかが見て取れます。

つぎに『サマーウォーズ(2)』。

これはマンガとして再構成してあって面白いですね。映画版では群像劇、主役のいない物語という様相もありました。たいして今回は『主人公の成長物語』として描かれ直しています。「栄ばあちゃん」が主人公になにを残して逝ったのか。補足がなされています。他のキャラ達も健二君の行動に言及しており、『ケンジ始点のサマーウォーズ』が確立していますね。これだけで十分わかるようになっています。『映画版は好きではないけどマンガ版は好きだ』という人もいると思います(逆もありそうだけど)。さてさて、次で完結だそうです。どのようにまとめてくれるのかが楽しみですね。

追記

それにしても。以前も書いたが、翔太の行動には怒りしか感じられん。かれにはかれの理屈があって行動しているのはわかるのだが・・・・・・それでも、軽挙にすぎるとしかとらえられないよ。それが何故かというと。彼の行動が年少三人組の行動とかぶるから。キング・カズマの最初の敗北の一因である『子どもの邪魔』とラブマシーン封じ込め計画の破たん原因『翔太の邪魔』が同じように見えるんですね(そういう風に作られているのかもしれないけど)。うん。だから、彼のことはあまり好きになれませんね。残念ながら。

2010年2月 4日 (木)

『読み方』のHow to 講座

とはいえ大した話ではありません。おそらくこのブログを読んでいる方には、その人なりの『読み方』があるでしょう。ここで言うことが、正しいわけではありません。ただ『読んで』ください。と言われても「どう読めばいいかわからないっ!」という場合もあるので、その一助になればと思い書いています。(実際的なやり方のはなしはLecture 3だけしかやりません)

cf.さいきん学校の授業で「この映画を親子というテーマで読み解いてください」という課題が出ました。そこで途方に暮れていた友人に語ったことをそのまま記事にしてみました。課題を解く手がかりが思いつかないと嘆いていたので、「ああ。そういう人もいるんだな」というのが記事を書く一つの理由にあります。

Lecture 1

まず言いたいことは『絶対』に正しい読み方はおそらくないだろう。ということです。

もちろん間違った読み方というのはあります。それは論理矛盾をきたしている場合ですね。わたしの場合もちょこちょこあるような気がします(検証してないからなぁ。注意しよっ)。そこで『論理矛盾』とはなにか?これを適当に説明してみたいと思います。

たとえばあなたがある物語を『読んだ』とします。そうですね。ファンタジーの王道「魔王を勇者が倒す話」を題材にしてみましょう。あなたは「この勇者は王女のことが好きだから魔王を倒しに向かった」という風に読んだとします。しかし、別の場所で「勇者は別のおんなのこと恋仲にある」描写があればどうでしょうか?あるいは「うらで勇者と魔王が結託していた」などという展開だったらどうでしょうか?あなたの論理の正当性を訴えるには「別のおんなのこと恋仲にあろう」と「うらで魔王と結託」してようと。「勇者は王女が好き」という根拠を示さなくてはなりません。そのロジックエラーの回避が『読み』と『妄想』をわける一因でしょう。

※これは要するに「あいてに『そうかこういう言い方もできるね』といわせなければならない」とも言えます。この先が、相手を説得できるほどのレベルとも言えるでしょう。(自分で言っていて、思い当たる節が多すぎw言ってて胸が痛い(笑))

Lecture 2

物語の読みには少なくとも2種類の『読み』があることを意識する。

一つは『物語自体の解釈』。もうひとつが『物語の内容を加工した解釈』。

この区分は曖昧な領域もある。しかし、おおまかにいうと、前者は『キャラクターのことばや身振りの「わからない」部分の解釈』ということもできる。一般的な『読み』はこちらが該当することが多いのではないだろうか。なぜなら我々が学校で経験した「この時のキャラクターの心情・行動の意味を答えなさい」の延長にあるからだ。学校と違うのは「複数の答えが存在しうる」ことや「物語の外部(外伝・作者の性格・インタビューetc)を用いて考えてもいい」ことなどが挙げられる。

たいして後者は『物語を通じて自分の言いたいことを言う。現実にフィードバックする』。前者は(自分の主観が入るとはいえ)「キャラクター・作者の在りよう」にたいする言及だといえる。あくまで主は「作品」にある。しかし後者はそれが逆転する。「自分の言いたいことを作品のなかから見出す」タイプである。主は「じぶん」にあり、作品はそれの補助とも言える。この場合は、現実に対するフィードバック率がそれなりに高いように思える。

このことをもう少し具体的に書いてみるとしよう。ドラえもんを取り上げてみよう。

いつもどおり「のび太」はジャイアンたちにいじめられた。そこでドラえもんに助けを求めたけど、ドラえもんは道具を貸さない。自分のちからで何とかしなさいという。

このような話を前者、後者の両方の『読み』で見てみることとする。

前者の場合「ドラえもんはのび太に自分のちからで困難に乗り越えられる人間になってほしくてこう言った。なぜならドラえもんの目的は・・・」や「ドラえもんはのび太の行動に嫌気がさしているからこういったのだ。なぜなら毎回毎回・・・」という形になる。

後者の場合「ここでドラえもんは『こうする必要がある』からこう言ったんだよ。だってここでのび太を甘やかしてもいいことないもん。前の回で・・・。だからここでドラえもんはこうしなければならなかった。」とかの形になる。あるいは『ドラえもんのこの行動に自分は凄く感動した!なぜなら・・・』というのもこのタイプである。

『作品』を主にするか、『自分』を主にするかで作品の読みの形は変わってくる。ただし、感想などを書かれる際は両者がクロスオーバーしていることが多い。

つまり。「~の理由でAはこういうことをした(前者)。それは感動するポイントなんですよ。なぜなら~(後者)」という形式になるからだ。

前者で「物語」をどう「見たか」を提示することと、後者でそこから自分が「何を」感じたかは実は別のことなのだ。

Lecture 3

ではどのように『読む』という行為に取りかかるのか?

その一つの方法は「引っかかるところを見つける」です。「感情」に訴えてくるところに注目をすればいいんです。これはLecture 2の後者を始点に考えるタイプの考え方です。

人間というのは「個別の経験」を備えています。これはその人たち独自のもので、似たような経験をしていてもまったく別の形として精神に宿るものです。それが「個性」や「興味」の違いを生むのです。「感情」も同様です。

「感情」につよく訴えかけたところというのは、あなたが「興味」を抱いたところです。「大切にしているもの」や「弱点」だったりします。そこを深く考えていき「自分はなぜここに、これほどきになったのか?」という思考の流れをたどることです。

逆に前者を中心とした見方としては「わからないところ」をみつける。という方法があります。ことばや行動の意味が「わからない」。ここを「なぜわからないのか。どう考えたらわかるようになるのか」ということが思考の端点です。そのヒントをさまざまなところから持ってきて「意味が通るようにする」というのがこのやり方です。こういう疑問の抱き方をするマンガでは『Landreaal』とかが筆頭に挙げられますね。前後の文脈を用いると意味が通る部分が浮かび上がってくる、そういう作品です(なにも考えず読んでもおもしろいけどね)。

ほかに後者のタイプの考え方に「自分の特技などを始点にする」という方法もあります。自分は「ピアノ」をしていたから「音」をポイントにしてコレを見てみよう。「政治」に興味があるから、社会構造を中心に見てみよう。などという考え方もできます。

「自分にしかできない見方」は後者よりで、「誰にでもできる(?)もしくは条件をそろえれば解ける。パズル的な見方」は前者よりです(繰り返すけど、両者の境界はけっこうあいまいです。だから一義的にはこういえない。あくまで「そういう感じがある」)。

こうしていくと『どう読むか』という一助になりえるのではないかと思う。

前者の勉強になりえるタイプの作品

前者と後者の両方のタイプに勉強になりそうな作品

※ふぅ、自分でもできていない自信があります。ちなみに友人に語ったのは「お前は音楽をやっているから『音』を題材に見ていくという手もある。大事なのは『お前でなければ見えない見方』だよ」といって伝えた。映画のタイプが「パズル」的ではなく、ヒントがほとんどないタイプの作品なんです。しょうじきどう読んでも『妄想』と『読み』の差がつきづらい(ように感じる)作品。「根拠」が見いだせないタイプの映画です。だから後者タイプの方法を教えた。

2010年1月31日 (日)

まぁ、キャラが可愛いからいいんだけどね。『なのは The movie 1st』と比較検証してみる。―『魔法少女リリカルなのは vivid』

魔法少女リリカルなのはViVid(1)

じつはこれ、劇場版みた当日に買いました。だらだらしているうちに、感想がこんなに遅れてしまった(笑)

結論から言うと。全体的にはおもしろかったです。出てくるおんなのこたちの姿はみんなかわいいし、キャラの立ちも十分だと思います。

前作までのさくひんを知らない人がどれくらい楽しめるのかは分からないけど。前作まで一通り見た人なら十分楽しめる仕上がりになっております。

ちょっと書き込みが過剰かな、と思う部分はあるのですが。これはエース系の作品の色だからしょうがない気もします。

ほかにもいろいろ楽しめる作品だからファンの人には是非見てほしい作品だとはおもいます。ですが、個人的に気になる部分がいくつかあることも事実です。

けっして、批難とかいうつもりではありません(まぁ、やってくれたらうれしいけど)。

それが何かというと、一つは『ユーノの不在』です。

うん。あきらかにユーノがいないんですね。

見落としているのかもしれないんですけど。一話の『お世話になった人たち』のシーンにすら登場しないとは如何なものなんでしょう?高町家の人々ですら出ているのに(笑)

あくまで私的な思いを言えば、「ユーノはどこいったぁ!」「なのはとの関係は進展してるのかぁ?というか、しててよっ」という思いはあるんですね。

ただそこらへんの感想を差し引いても、ちょぉっと、出てきてなさすぎです。2巻以降にでるのかもしれないのですが、すくなくとも、1巻に関しては「ユーノがいない」と言ってもかまわないでしょう。

で、わたしとしてはこれは、わざとかなという気もしているんです。

どういうことかというと。劇場版の『なのは』を思い出してもらえればわかるかと思います(見てない人はすみません。ネタばれはしないんで、基本的には)。劇場の感想を見ても『ユーノが空気』という発言はちょこちょこ見られます。しょうじき『空気』は言いすぎな気もするんですが、それでも、テレビ版に比べれば活躍をしていないのは事実でしょう。

もちろん、尺の都合、というものもあるでしょう。「なのは」と「フェイト」の物語をやるので精いっぱいだった。それもあるのかもしれません。

ただ、それを考慮しても、ユーノの行動は割愛されています。具体的にいうと、テレビ版にあった「なのは」とのフラグが立てられていない。そう、見ることができるんですね。

こういう「誤差」とも言えない「誤差」。しかし、見方によってはとても大きい「誤差」が『劇場版』と『テレビ版』に横たわっていると思います。

これがどういうことか?ちょっと紙面(?)を割いてみましょう。

まず「フラグ」というものを考えてみればいいでしょう。有名な死亡フラグに「おれ、この戦争が終わったら彼女と結婚するんだ」というものがあります。また「登場初回は『いやな奴』だった異性がどんどん気になっていく」という、『彼氏彼女の事情』『姫ちゃんのリボン』タイプの恋愛フラグというものもあります。

ここで、重要なのは、「フラグ」とは実現されなくてもいいものである。ということです。もちろんそれが作品のテーマにかかわるフラグであるならば、実現するなり、へし折るなり、何らかの回答を出さなくてはいけません。そうしなければ話が進まないのだから仕方がありません。

しかし、「匂わせる」だけで終わるタイプのフラグというものも確かに存在します。主人公の脇役のフラグなどは好例の一つです。「脇役とわき役がくっつく」というのは、マンガ、テレビ問わずにちょこちょこ見ることではないかと思います。小説でもあるでしょう。

そしてその、多くの場合、彼らの恋愛は描かれないんですね(とくに主人公キャラをおう作品だと)。ふとしたポイントで「おれ、君が傷ついていないか。心配で」とか「ばかっ!なんて、あぶないことをするんだ」などといった「フラグ」をだして。「あいつらくっつくんじゃないのか?」という思いを読者に抱かせる。

しかし、その後描かれるのは主人公たちの物語のみ。場合によってはまったく描かれません。

そして、エピローグあたりで「くっついている二人」をだす。こういうタイプが「実現されなくてもいいフラグ」の一つです(いや、実現はしているけど、ラストまでにちょいと回収すればいい。過程を描かなくていいフラグとも言える)。

とはいえ、これは「くっつく」ということは作品で提示されるんですね。しかしそれをさらに突き進め。「作品中でくっつかなくてもいい」フラグというのが確かにあります。

それが「年齢」です。

「幼い恋のものがたり」みたいな感じで、読者が「あの子たち大きくなったら一緒になるんだろうな~」と思うように作るということです。(ちょっとわたしは見ていないんですが)「北の国から」もそんな感じではないでしょうか(紆余曲折はあるけど)。

この場合。物語終了時までに「子どもが大人になる」ことはあまりありません。だから、「くっつくとは思う」けど「くっつくところは出ない」というパターンになるわけですね。

で、このことを延々と語ってなにが言いたいかというと。

これ、なのはテレビ版も同様だよね。ということを言いたいんですね。

もちろん「ちがーうっ!「なのは」は「フェイト」とくっつくんだー」とか「「なのは」は誰とも一緒にならないっ!」という意見もあるでしょう。

しかし、フラグ的に見れば、1期と2期のかんじでは「ユーノとなのは」はそのパターンにはまっているとは言えるんです。

しかし、3期、4期と行くごとにユーノは登場しなくなってくる。たいして「なのは」の横には「フェイト」が登場してくるんですね。歪んだ見方をすると、フェイトは「男性役」を兼ねているという見方もできるんじゃないかと思います(すくなくとも同人誌のかんじからすると、そう見ている人は相当数いるのではないか)。

とにかく。ここで言いたいのは、「フラグ」は「描かれない未来を規定する」(あくまで仮ではあるけど)。そのさいに重要なのは「フラグが立つ」ということ、そのものである。そういうことなんです。

テレビ版を見る限りでは「「なのは」と「ユーノ」はくっつく」(少なくともそうなってもおかしくないほどの信頼関係、つながりがあることを示す)そういうフラグが立っています。しかし映画版ではそれが「ない」んですね。

もちろん物語的にはそれほど重要ではありません。あくまで「映画」の中では。

しかし、物語のそとの「未来」を見てみるとそれは一変します。

「なのは」の「ユーノ」とくっつくという物語は、白紙になってしまっているんですね。

これが、ある意味での、「大きな誤差」です。

一人のキャラの未来が一変してしまっているんですね。しかもこの場合は主人公です。これが小さいはずはありません。

この影響は「未来」に響きます。そうです。3期と4期に響きうるんです。

テレビ版の「未来」なら、「「なのは」と「ユーノ」はくっつく確率が高い」。たいして劇場版の「未来」なら、「どうなるかわからない」んです。

わたしは、これを原作者の都築さんが意図的にやった可能性があると思っています。

なのはテレビ版の時ですら「ネットの反響を見ながら物語のさきを決めていた」方です。いまの「なのは」と「フェイト」のカップリングの反応を見て、「はじまり」を作り変えた可能性はあるのではないかという気はするんですね。

「同じ」だけど「違う」。すると、そういう物語を作ったのではないかという、そんな邪推ができるんですね(笑)

追記

それにしても4期の感想では、なかったようなぁ・・・

2010年1月30日 (土)

言葉でしか表現しえないもの

入江さんの新作『神さまのいない日曜日』と同時に発売された、『夏海紗音と不思議な世界①』を読了しました。

うん。おもしろかったですよ。

ちょっと変わった世界と奇想天外な女の子。紙一重の現実と、もしかしたらありえるかもしれないと思わせる世界観。ひと夏のボーイミーツガールという、典型的だけど、心にくるストーリーが良かったです。

まぁ、本の感想はちょいと後にしましょう。

ここで書きたいと思ったのはタイトルにあるように『言葉でしか表現しえないもの』のことについてです。

これは別にこの本限定のことではありません。たまたまこの本を読んでいるときに感じたことであり、おそらく別の本でも同様の現象は起こっているに違いありません。

この違いを端的に表現すると『動画と言葉のちがい』とでもいうべきかもしれません。比較対象としても、比較材料としても一番適しているのはやはり、動画です。

これがどういうことかというと、言葉は『省略』を内部に含んでいる表現形式だということなんです。これだけでは伝わりづらいから、もう少し言葉を連ねてみましょう。

たとえば「てれびんは銃弾をよけた」という文章があったとします(・・・・・・いや、どんな状況だよソレ)。文章だとこの一文で「銃弾をよける」という所作は全て終了してしまいます。頭をひねってよけたのか、体全体をずらしてよけたのか。はたまた、灘神影流の奥義『たま滑り』のようにしてよけたのかもしれませんw

言葉だけでは「どのように」よけたのかということは表せないんですね。それを表現するには、体勢なり動作なり、場所なりの新たな言葉を要します。

このような『省略』の特性を持つため、『文章はむずかしい』などということも言われるのでしょうね。

しかしこれは、けっして、わるいことばかりではありません。

たしかに状況をつぶさに表現するには言葉を連ねることが求められます。ときとしてそれは、読み手に苦痛を強います。だけどそれは「全て」を「詳細」に描写しようとしたために起こってしまった、不幸な事故と言えます。

動画と小説を見くらべてみてください。動画には膨大なまでの情報が込められています。そこには、小説としては、いらない情報までもがあることが分かるでしょう。砂の質感、太陽の強さ。何気ない日常のシーンであろうと、それを微に入り細にいり語る必要は求められません。ここを語る時に読者は「だらだらとなげぇ」などという感想を抱きがちです(ちなみに、こういうところを語るおもしろさもありえることは付記しておきます)。

このことは「小説と動画の面白さは異なる」ことの一端を表していると思います。同様のことはわたしの以前の記事『見なくてもいい「Fate劇場版」。・・・』http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/fate-999d.htmlでも言及しました(『メディアの違いを理解せよ』http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/by-0717.htmlでもすこし話していますね)。この場合は「ゲームと映画」の差なので、完全に同一の事柄ではありませんが、質的には同一のことも語っています。

そこで、言葉の『省略』という特性はけっしてわるいものではないという話に戻りましょう。

ここで感じるのは『省略』が故に生まれる「おもしろさ」についてです。

ここも多少具体例を用いてみましょう。さきほどの『てれびんは銃弾をよけた』というシーン。これを変更し『てれびんは降り注ぐ銃声の嵐から逃げ惑った』にしてみましょう(いや、だからどんな状況だろう、ソレ)。物語にもよるんですが、これを動画で表現してもおそらく面白くないでしょう。なぜなら、てれびんは、当然のことながら、映画のヒーローではありません。こんな銃撃現場にいても情けなく逃げ惑うか、おろおろしているのが関の山に違いありませんw

このような映像を見せられてもそれほど面白くはないでしょう。しかも、このシーンがクライマックスならなおさらです。物語の盛り上がりに水を差す主人公。あり得ませんね。

この、おそらく動画で見ればかったるいシーン。しかし、これが文章だったらどうでしょうか。

『てれびんは降り注ぐ銃声の嵐から逃げ惑った』

この一文ですべて。完了してしまいます。

ここの文章に「どう」逃げ惑ったのかや「どれほど」情けないのかは描写されえません。ただの「事実」としてあるだけなんですね。

情報が『省略』され、物語は保たれる。これが『省略』が故に生まれる「おもしろさ」の欠片だと思います。

これは物語が書きこまれるほど強くなる側面があるでしょう。たとえば、この、『夏海紗音と不思議な世界①』でも同様です。

未読の方がいるだろうから、ネタばれはしませんが、この物語の主人公はそれなりに情けない。いわゆる普通の少年です。その彼が最後の方で出くわす乱戦。これは、動画で描写すると面白くないと思うんですよ。すくなくとも主人公をクローズアップしてはいけない。

なぜなら主人公は、ここではかなり情けない闘いを繰り広げているはずなんです。銃を撃ったことがない。撃っても当たらない。こんなことを繰り返すやつの闘いがクライマックスでは盛り上がるとは思えません。

しかし、小説では『逃げ出した』『応戦した』という一言で片づけてしまっています。もちろん所々では主人公の情けないエピソードが盛り込まれているのですが、その場合は会話形式(もしくは一人語り)になっていて、会話の面白さというものに転換されているんですね。

そして、こういう面白さは『言葉でしか表現しえない』かもしれない。そんなことを思ったんですよ。

まぁ、そんなかんやのことが語ってみたかった(・・・・・・わぁお。なんて尻すぼみな文章だ)。

追記

夏海紗音と不思議な世界①』とあるけど②はでるのだろうか?

追記2

作品自体は、「ボーイ・ミーツ・ガール」の典型として面白かったよ。ただ大絶賛とまではいけないのが残念。もう少し面白さを詰め込んでもいいかな、とは思うんです。まとまりとしてはいいし、キャラも受けるとは思うので、それなりに多くの人が楽しめると思います。そういう意味では、ライトノベルとして優秀な作品だとは思うし、お勧めはできます。

2010年1月29日 (金)

一杯の紅茶に、おいしいスコーン。そして安らぎを。

一杯のお茶のおともにふさわしい一冊だ。タイトルの通り『お茶が運ばれてくるまでに』、ちょっといい。

オープンテラスのカフェに、おいしい紅茶。ホイップクリームを添えた焼きたてのスコーンを待ちながら、静かに、この本を読むのも乙だろう。

一本一本の短編は長くなく。本を読みなれていない人でもさらりと読めるに違いない。

まるでおとぎ話のような、ファンタジーのような、説話の、寓話のようなお話がいっぱい詰まっている。何度でも読めるし、誰でも読める。

あさに読んでも、ひるに読んでも、よるに読むのもいい。その時その時の気分、天気、一緒にいるひと。すこぉし、条件が異なるだけで違う読みができるだろう。

あなたはこの本をどう読むだろう?

ファンタジーだろうか。童話だろうか。寓話だろうか。警句だろうか。

くすりと笑い。おだやかにぞっ、として。少しだけ考え込む。

18編の小さな掌編があなたをまっている。

おいしい紅茶に焼きたてのスコーン。ジャムにホイップのある、午後のひと時。

そこに、ちょっといつもと違う、アクセントを加えてみるのはどうだろうか。本のあるひと時も、わるくはない。

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