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映画・テレビ

2010年10月18日 (月)

いい感じに実写化している 映画版『男女逆転 大奥』感想

この記事は3分45秒程度の記事です(動画除く)

先週の金曜日に大奥の映画版を見てきたので、その感想を。

私個人としてはこの映画をかなり楽しめました。もちろん演技の欠点とか私ですら目につくかなぁというところはあるんだけど、その辺りを見るつもりで行った映画ではないから十分楽しめました。メンズデイということで1000円で見れたというのも大きかった!

そこで『大奥』の基本的な説明をしておきましょう。基本的にはマンガの1巻の内容を映画化したものなので、マンガを読んでいる方は読み飛ばしてもらって構いません。

江戸時代。男ばかりがかかってしまうという『赤面疱瘡』という疫病がはやってしまった時代のこと。これにかかってしまうと全身が赤くはれ上がり確実に死ぬ。疫病の流行を抑えようとしたが止まらず、結果として男の人口は女の人口の1/3にまでなってしまった。このときになって従来の男性社会は崩壊する。『力はあるけど体は弱い』男にたいして女がすべてをまかなう。商売をするのも、コメを作るのも、火消しですらすべて女。それは武家社会にまでおよび、将軍たちですらすべてが女性になってしまった江戸の世界のこと。そして『大奥』に集められるのは、男ばかりなり。

基本設定はこういう話でした。

ネタばれになるといけないから話の内容でなく、映画それ自体についての感想としましょう。

まずこの設定とジャニーズの相性がめっちゃいい!というのは感じましたね。

大奥は将軍のために見目麗しい男性の集められる世界です。しかし女性は将軍一人。もちろんあぶれる男子はちょこちょこいる。その中で築かれるのは『男の園』。イメージとしては女子高(『マリア様が見てる』『処女はお姉さまに恋してる』)のノリに近い。かっこいい男が現れればキャアキャア騒ぐんですね。んで、ジャニーズ系の若手がこれをやるとなんと違和感のない事か(笑)

さらにこの設定だと、美形ばかりが出てきても視聴者の『こんなに美形ばかり集まるわけがないじゃん!』というツッコミが出てこない。なぜなら大奥では集まったのではなく集めたから。

しかも先ほどの『男の園』の話に戻れば、大奥の中で『衆道』が流行るのは当然。一見なよっとした男性が出てきても違和感を感じない。それに大奥は元々女性の園ですからね、筋肉隆々なガタイのいい漢のイメージがそぐわないってのもある。ここら辺の設定の妙が映画版といい具合にマッチしてたかなぁ、と。

ついでに言うと『男女逆転』という設定だと『格の高い』女性がいっぱい出せるというのは個人的にうれしい。『サマーウォーズ』の栄ばあちゃんがいっぱいいると思うと分かりやすい(全員がそうではないけど)。『家』を支えていく女性がごろごろしていますからね。

まぁ、そんな感じで見ていて損した感じはなかったな。十分楽しめました。

追記

最後まで見ると「シリーズ通しての主人公は(一応)吉宗公だよねぇ」とか思って見ていた。

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2010年7月16日 (金)

『宇宙ショーへようこそ』を見てきたんだけどね・・・

友達に誘われて、テスト直後の勢いに乗って見に行ってきました。さいたままで。

出発午後4時、帰宅午前5時って、どうよ一体…次の日は9時から実験なんだぜ。

そこで、感想なんですが、ひとことで言うと「見なくてもいいです」。

勘違いしないでほしいのは「見ても後悔する」とかそういうわけではないことです。見ていて面白かったし、楽しめました。

ただ、それを見たから何かを得れるという事はないでしょうという事なんです。だから、この作品は「万人に見てほしい」作品ではなく、「それを楽しめる嗜好の方々」に見てほしい作品だということです。

わたしの感想をみる前に。たまごまさんの感想がいい記事だと思うので、紹介しておきます。

たまごまごはん ■[宇宙ショーへようこそ][映画]私たちの、大きくて小さな修学旅行に旅立とう!「宇宙ショーへようこそ」

…うん。こういう人に見てもらいたい。

もし、たまごまさんの作品評論にすごく共感を得る人は見に行った方がいいかと思います。じっさい、映画を見ながら「ああ。たまごまさんなら絶賛するんだろうなぁ、この映画。女の子かわいいし」とか思いながらてれびんは見ていました。(帰って調べてみたら、やっぱり大絶賛)

余談ですが、「脚に注目!」は同意。目を奪われたね。むしろ「下半身に注目」といってもいいよ。あと、見えそうで見えないちらリズムとか。

(閑話休題)

そこで、この作品の「なに」が「みなくていい」とてれびんに思わせたのか。それを今回の話題としてみましょう。

ストーリーがあってないようなもの

これがどういう事なのかというと、作品全体を貫くストーリーが見えてこないという事です。もちろん話の整合性が取れていることは分かるんです。でも、そのストーリーから「何を伝えたいのか見えてこない」。

これは、わたしが見えないだけで実はあるのかもしれないけど、わからなかった。

ドラえもんとかは物語を通して子どもたちに伝えたいテーマとかが見えるんです。でも、この作品には見えなかった。横にいた友人もそれは同意見で、「最後まで探してみたけど分からない」というのが互いの共通認識でしたね。

何のためにストーリーテリングはあるのか?

いろいろな答えがこの問いにはあると思うのですが、その一つに挙げられるのが「物語を通して伝えたいことを、よりリアルに読者に伝えたい」ということがあげられると思います。

「人間は○○な△△だ」(空欄には好きな言葉を入れてください「自由な存在」でも「いつもエロい事を考えている変態だ」とか)という主張があるとします。これを只伝えるならば、このように一行で済みます。しかしそれを相手に読ませたところで、主張者のもっている具体的なイメージを共感させるのは難しいでしょう。

だから人は言葉を費やし、例をあげることで「主張者が真に意図した主張を、その主張の裏っかわまで共有しよう」とするんです。

ストーリー、つまり物語も同じです。擬似的なキャラクター達が動き、考え、苦しむことを追体験することで、主張者の「哲学」ないしは「伝えたいこと」の詳細を感じとっていかせる。

物語の書き手が「伝えたいことがあるから書く」というのは、いわばこういう事なんだと思います。

しかし、その点『宇宙ショーへようこそ』はそれがない。少なくともわたし(とその友人)には分からなかった。

極端な話、「物語をみている」というより「妄想をみさせられている」というほうが(個人的には)スッキリする表現です。

そこから「得るものがない」というのはそういうことです。

しかし

ただ、そこでこの作品が「駄作」なのかというならば、それは少し違うと思う。この作品は、一面では「ものすごい駄作」であると同時に、ある人間たちには「傑作」なのではないだろうか。

どういうことか?

それは作品の見かたの問題だと思う。前述でわたしは「ストーリーとは作者の想いを乗せる媒体である」という趣旨を述べた。そう見てしまうとこの作品は「全く見るにあたししない駄作」となってしまいかねない。なぜなら作者の想いは「ストーリーに乗っていない」からだ。

ここで、先ほどの妄想を見せられるというのは、我ながらふに落ちる表現である。この作品のストーリーはたしかに整合性はあるのかも知れない。しかし、それは妄想(「おれはかわいい○○がみたい」「ここで○○が勝っていたらストーリーはこうなる」)れべるでの、貼り合わせの整合性に見える。

わたしがそう思うのは、作者の「想い」が別のところにあるんではないかと感じるからだ。具体的には「画」。

たまごまさんの絶賛記事でも注目は「女の子のかわいさ」と「宇宙人たちの絵とか動き」に向けられています。

これはたまごまさんが作者の意図を忠実に受け取った結果ではないのか。作り手の目的、伝えたいことは極論すると。

「この女の子かわいいよねっ」 「こういう宇宙人すごいだろう」

というものなのではないか。

そういうことを言いたかったのではないか。だからこそ、ストーリーには伝えたいものはほとんどなく(あえていうならば「日常」というのは伝えたいことの中にあったのかもしれないが、作品全体を通じてのテーマかというと首をかしげてしまう)、画を中心に見る者には伝えたいことが伝わってしまう。

そんなことを感じた作品だった。

余談

べつに統計を取ったわけではないから、何とも言えないが。『いばらの王』と『宇宙ショーへようこそ』を見ていると「これが最近の流行なのかなぁ?」と疑問に思う事がある。

それは「語りたいことのためにストーリーを語る」従来の物語りとはことなり、「見せたいものがあるから、(あるいみ無理やりにでも)ストーリーを用意する」傾向である。

あくまで個人の感情なのだが、『いばらの王』も『宇宙ショー』もストーリーとは根本的に無縁のものを描くためにストーリーが用意されているように見える。

『いばらの王』は、ようは『出題』が目的なのではないかと感じる。最後のわけのわからなさ。これを提示するためにだけストーリーがあるのではないか(その意味では、映画すべては『出題時間』であり、ストーリーには気を使っている。しかしそこに乗せるべき想いはない。なぜなら乗せるべき想いは『出題する』という点に向けられているから)

『宇宙ショー』は前述での『画』だ。変な話、「見せたい絵をまず用紙して」それを見せるために「ストーリーを用意した」(絵を並べ替えてストーリーとしての体裁を整えた)ように見えてしまう。

ここにもまたストーリーに乗せない想いが主眼となっている。

しかも『宇宙ショー』の場合は『出題』のようにストーリーに気を使う必要がない。だからこそ、はたから見ていて「いいのかこれ?」と思うような出来事もストーリーに乗せられるのではないか(例 「わからないけど がんばるっ」ってシーンとか。これで子どもたちがあまねを助け出す決意につながるとは、あんまり思えないんだけど…)

まぁそんなことをつらつら妄想したよって余談。

追記

最初、この作品のご都合主義の理由は「発展とは悪いことではない」という思想の裏付けなのかと見ていたが……ないわ。(月へロケットを飛ばしていた時代の人たちの思想ね)

この「上滑りなストーリーテリング」はわざとなのか悩むところなんだが。これがあることで「ストーリーに気を使う事なし」に「画だけに集中」していける側面がある。へたにきっちりストーリーを作っていくと「画を見せる」ことができないから、「画だけを見れる」貼り合わせたようなストーリーを「意図的」に作ったのだろうか?疑問だ。意図的でもおかしくないとはおもうんだよね。

(ちなみに、『いばらの王』の予告で流れたこの予告で「まさかポチですべて引っ張らねぇよなぁ」と思ったが、ある意味引っ張ったんで驚いたよ)

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<補足>

この記事の後、twitter経由で「この作品の最後をみると、宇宙ショーは主人公たちのために道を譲るという祝福にみちている。そういうのって優しくてうれしい」(だから、書きたい絵だけを書いた作品だとは思えない)というコメントをもらって、そういう感じはあるなぁと納得したことを付記する。

わたしはこの作品は「表現したい話」がある、のではなく。「表現したい画像(場面)」(もちろん絵も含む)をみせたいから「話」があるのではないかと感じたんですね。

でも、改めて指摘されて考えてみると「優しいものが書きたかった」という観点から作品を作っている可能性はたしかにありますね。すると、ストーリーの不備と感じられた部分は、作品の中で互いに優しくあるためのギミックととらえることができるのかもしれない。もう一度見直してみると、印象が違うのかもしれないな。

機会があれば見直してみたい気もする。

2010年3月 1日 (月)

回復不可能という視点から見た『涼宮ハルヒの消失』

前回の記事で書いたように『消失』の感想です。(上の画像は『消失』ガイドブックへのリンク)

この『消失』のおもしろさを探るのに役にたつのは、海燕さんたちとした話、『回復不可能な物語』という観点からみるとわかりやすいのではないかと思う。

ではこの『回復不可能な物語』とは何なのか?2/27(土)夜のSomething Orange(さむ☆おれ)のニコ生で海燕さん、かんでサンとともにした話だ。簡単に概略を説明すると以下のようになる。

僕たちが物語を見るときに物語が「すすむ」とは何を前提にしているのだろうか?もちろん物語は、ストーリーを持っている以上すすまないということはない。しかしそのような作品の中にも「巻数が積み重なっても話が進んでいるように思えない」物語があることも事実である。それは状況が『違う』とか、出てくる人間が『違う』から解消されるわけでもない。『水戸黄門』などはいい例だ。あの作品は、主要キャラ以外出てくる人間は毎回『違う』。状況もやはり『違う』。しかし同じような(というか同じ)物語が毎回展開される。各期ごとに『水戸黄門』には「大きな」目的が設定されている(○○へ行く、誰誰を届ける)が、それが『差』を生むことはない。

その理由の一端が「どうせこうなるんでしょっ」という意識、コンセンサスである。状況やギミックが違おうが、起こる出来事の質や解決法が『同じ』であれば、見ているものたちにとってはやはり『同じ』物語として映る。このような物語を指して『回復可能な物語』と評しよう。つまり質的に同じようなポイントまで戻ってこれてしまう物語のことだ。

そのように『戻ってこれる』ことが物語に停滞感を与えるならば、逆もまた同様である。すなわち。物語を「すすめる」ときに重要なのは『もう戻ってこれない』という感覚である。

無限にある選択肢が万に、千に、百になることを示して『物語がすすむ』と評することができる。その繰り返しが行われ、最後に一になることで物語は『完結』する。

他の可能性の否定が逆説的に物語に『ベクトル』を生み出す*1。

ニコ生ではこのようなことを、例を交えながらはなしをした*2。

さて。以上のようなことを踏まえて『消失』の感想に入ろう。

結論から言うと、この消失が物語の一大転換点になりうる理由は『キョンの決断』にある。この行為そのものが『回復不能な物語』を指し示している。いままでシニカルに「俺とあいつらは違う」というスタンスをとっていたキョンが『決断』し、『ハルヒのいる世界を選ぶ』。この能動的行為が物語が「すすむ」感覚をわたしたちに与える。作中でもキョンの独白がそのことを良く示している。「もう選んでしまったら、選ぶ前には戻れない」「当事者になってしまった」*3。ここで言うように「選んでしまったら選ぶ前には戻れない」。とくに、このハルヒの世界におけるこの『決断』は、「やっぱやーめた」ということが起こり得ないように描かれている。*4

これが「物語がすすんだ」感覚を与える。前半のキョンが独り空転しているような物語に対して、後半が違うのはそのような理由もあるのではないかと思う。

また、別の要素が物語のおもしろさを支えている*5。

その一つがテレビ版からの積み重ねである。エンドレスエイト*6などはいい例だろう。同じ夏休みを一万五千回も繰り返す経験を筆頭とした、さまざまな事例が下地にある*7。そのような「表に出てはこない裏付けが支えるおもしろさ」も今回の映画にはあったことだと思う。このようなおもしろさは世界の奥深さを見ているものたちに感じさせる点で優秀である。人間は眼でみて、音で聴くものだけで物語をみているわけではない。言語にならない領域でも無意識に物語を判断、検証しているのではないかと感じる(あくまで所感だが)。言葉の端々、描かれ方、そのような些細な部分からでもわかることはかなりあるはずである*8。

映画版独自の要素ということならば、最後の、鏡面のキョンとの対峙というのが挙げられるだろう。あのような『もう一人の自分』からの問いかけというのは、存外物語に説得力をうむ。とくにアニメやマンガのような画を前提とした作品では効果的であろう。あのシーンがあるからこそ、キョンの『決断』により強い説得性が生まれたのだろう。同時に動きが加味されることから、動的な決断を表現できていたようで見ていてとても楽しかった。

原作つきの作品の場合、『映像でなければ表しえないこと』が必要であるとわたしは考えている。わざわざ別の媒体で表する以上、『原作の完全な焼き直し』では見ていて興がさめてしまう。なざなら、原作がライトノベルならば、映像のような『音と動き』を前提に物語は書かれていない。マンガであるなら『音や連続的な動き』がそうである*9。

その点今回は『映像では無ければ表現しえない世界』を十分に描いていたと思う。音楽や映像手法などもそうである。(個人的には、最後の朝倉さんのくるくるのあたりが好き。間の取り方とか描写の仕方とか)そういう意味でも個人的には良くできた作品だと思った。見に行ってきてよかったですね。

*1これは『自身の物語の肯定』=『他の物語の否定』という図式になっている。そのため物語上で主人公が「これでいいんだっ」ということも同じ作用を生みだすと思われる。ちなみに否定の連続の物語と、肯定の連続の物語にどのような違いがあるかないかは検証していない。

*2ニコ生で出した例としては、コードギアス、三月のライオン、ヴィンランド・サガなどがある。ほかにも、「すすんでない」感覚の物語の一例として『ナルト』が挙げられた。

*3記憶を元に書いているのでまんまの台詞かは保証できない。

*4ここの感覚を与える要素の一部としては『長門の世界の否定』『物語上のテーマ』『ラブ要素』(?)などがあげられる。『一つの世界の否定』(とそれにともなったキョンの苦悩)が、見ている我々に「もう戻ってこれないほど重要な決断をした」と認識させる側面もあるだろう。物語上で「人が死ぬ」ことが感動を生む理由に「死んだら人は生き返らない」という「回復不可能な物語」を描けるところにある(ニコ生より)が、「一つの世界の否定」もまた同様の感覚を有するような気がする。

*5『回復不可能な物語』だけが、「おもしろさ」を支えるわけではない。あくまで重要な一要素に過ぎない。そうでなければ、ドラゴンボール有する『ドラゴンボール』の世界が「おもしろくない」という結論に陥ってしまいかねない。そうではなく、いくつもの要素のうちの『重要』な部分の一つとして認識してほしい。

*6てれびんはエンドレスエイトを見ていません。(というか一期の途中でハルヒを見るのとまってます)友人から説明を聞いただけ。

*7キョンの言うとおり『長門が疲れた』から世界を改編したのかどうかは、証明がないので何とも言えない。ただ、エンドレスエイトのような『膨大な積み重ねのうちのなにか』が今回の事態を引き起こしたことは想像に難くない。そういう意味で下地になっているといえる。

*8ようは『ハンター×ハンター』で王がネテロの戦闘の『クセ』を読むようなことを、わたしたちは多かれ少なかれやっているということ。

*9意識していないとまでは言えないかもしれないとは思うが、媒体が違う以上用いる手法に差は確実に出るだろうということ。その差の補てんなり、修正を行わなければ、原作に比べて「何かが足りない」作品と評されてしまいうるのではないか。

↑オリジナルサントラ

↑原作のダウンロード販売

↑『消失』原作ラノベ

『消失』感想の序盤

はい。というわけで『涼宮ハルヒの消失』を見てきました。おもしろかったですねー。美麗な映像と優美なサウンドの組み合わせが素晴らしかったと思います。原作をいい具合に忘れているのも大きかったです。「次こうなるんだろ。どうせ」とかいう斜めな見かたをしないでいけたのが良かった。純粋に楽しめたって気がします。(まぁ、そういう『先』を知って見るのは見るのでおもしろいんですけどね)

追試が終わってやっと見に行けたのも喜びの理由の一つですね。

そのように喜びいっぱいで語っている『消失』ですが、映画が始まってしばらくは困りました。なぜかっていうと、「おもしろいんだけど語ろうと思うことが思い浮かばない」って感じだったからです。なにが「おもしろさ」を生み出しているのかをイメージできなかったんです。このままでは、一言「おもしろかった」で終わってしまいます。べつにそれが悪いわけではないけど、感想としては(個人的に)不満だったんですね。感想を語る以上、すべてとは言わないまでも、一部くらいは『なにがこの物語におもしろみを生んでいるのか』を語っておきたいところです。そのように(自分の中で)悶々としながら映画を見ていたんですが、途中から「これなら語れるな」ってことが見つかったんで一満足。

次の記事はそのことを書いておこうかなと思います。

http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-2fd2.html

↑これが続き

2010年1月24日 (日)

公開初日に『なのは劇場版』と『Fate劇場版』を見てきた!

はい。わざわざ見てきました。片道150km、往復300kmかけてさいたま新都心まで行ってみてきましたよ。

個人的には大満足な一日でした。たとえ帰ってきたのが翌日の2時過ぎであろうと、帰ってきてお家がめちゃくちゃ冷えていようと、満足した一日でした。

で、感想ですが今回はネタばれなしの方向で行きます。ネタばれありの感想はもう少ししてから(具体的にはひと眠りして気が向いたら)書きます。

個人的には両方けっこう満足しました。たぶんどちらもDVD買うでしょう。しかしそれとおススメ出来るかどうかは別です。

簡単にいって、『Fate』は見なくてもいいけど、『なのは』は見てください。

『Fate』いいんですけどね、物語としては不完全な部分が多いんですよね。でも映像はキレイだし、戦闘の数々は素晴らしいので、「おれは格好いい闘いが見たいんだ!」「アーチャーや、ランサー、おまけに史郎の雄姿が見たいんじゃー」って方は行っても損はないでしょう。

出来としては『そこそこ』だけど、突出してる部分もあるのでそこを評価するかどうかで感想は別れるのではないかという気がします。

次に『なのは』です。これはいいですよ!物語の再構成もしっかりしているし、テーマもはっきりしてます。テレビ版の単なる焼き直しでは済まないようになっていますね。戦闘もパワーアップしています。『Fate』と『なのは』のどちらをみるか悩むなら『なのは』を見る方を、断然、お勧めします。これはいい出来だわ―。

2009年9月14日 (月)

地味に書き足されてます

この記事の一つ前に書いた 『サマーウォーズ』 カズマの性別について の記事が地味に書き足されています。現時点でもコメントを含めて二三度加筆してます(修正はなし)。

9/14午前5時、午後2時半ごろに(比較的)大きく書き加えられたかと思います。

だからどうしたということはないんですが、午前3時ころに見てくれた人はいろいろ見れてないかも知れないから興味が沸いたら加筆をチェックしてくださいね、ということだけです。

2009年9月 7日 (月)

戻ります

明日、実家から今の住処に戻ります。チケットも取りました。

……荷物の片づけが面倒くさい。

2009年8月19日 (水)

『サマーウォーズ』感想(仮?)

ばあちゃ~ん!!!

……いや、何をとち狂ったかっていう一声で始まりましたが、別にとち狂ってはいません(たぶん……)

この映画見終わっての感想がまずこれだったんですよ。いや、時間があったから見に行っただけの作品だったけど、マジにすごかった。確かにエヴァ破を見るの一回減らしてでも見るべき映画(カイエン氏曰く)だわ、コリャ。

もちろんいろいろ欠点はあるよ。展開が唐突だったり、重要人物が都合よく主人公のそばにいたり……って感じのわざとらしさは感じた。その点ではエヴァとは違うと思う。エヴァは一度完結した作品だから、見る方も事前情報などは持っていて、映画の違和感を補う情報を持っている。そういう意味での完成度という点では上回っていると思うしね。でもこの映画はエヴァが(現時点では)持ってないものを持っている。それはテーマ性だったり、登場するキャラクターが「大人」ということもあるかもしれない。両者は比べるものではないけれど、この時期にほぼ同時にこういう映画が公開されているというのは(偶然なんだろうけど)それにしても意義深い。個人的には両方を同時期に見てもらいたい。

僕はこの作品を事前情報なしに見ました。聞いていたのは「面白いらしい」ということだけ。それでとても面白かった。どんな内容なのかもわからないで映画を見に行ってあたりを引くのはとてもラッキーな気持ちでした。SFなのかファンタジーなのか、学園ものなのかロボットものなのか、格闘アクションなのか推理物なのか……etcそれすら知りませんでした。だからもしこれを読んでいる人で事前情報を持たないで映画を見たいと思った人はこの先を見ないでその足で映画館に行ってください。そのためにしばらく下は空白にしておきます。

   

   

  

  

  

  

   

   

   

  

 

   

  

  

……それでは、感想を書きましょう。ちなみにこの感想タイトルに(仮)ってついているのは、この書いている時間で感想がすべて書けるかわからないからです。ちょっと用事があってこれから地元に戻ってその足で中国にいってこないといけないから。感想を書く時間が限られてしまうからね。場合によっては途中で書くのをやめて、10日あと位に改めて感想を書くかもしれない(中国でネットつなげたらそこで書くけど……どんな宿かすら知らないしなぁ……)

……うん。それでとにかく面白かった

まさかあんな映画だとは想像すらしていなかった。ホント映画を見ていて泣いたのなんて初めてじゃなかろうか(一筋の涙だけだけど)。普段どんな感動の名作といわれる映画を見ても泣けなかったのに、ばあちゃんが各方面に電話をしながら「あんたならできる」「ふんばらないでどうするんだい」とか言っているときになんかすごく感動してしまった。

ばあちゃんの懐の広さ、経験、人とのつながり。こういうモノが組み合わさってああいう各方面の人と電話をしているんだと思うとなんだか泣けてきた。しかもその会話の端々に人間的な会話が組み込まれているから、機械的な人間同士のつながりではないことを感じて「あったかい」人間関係を久しぶりに画面で見た気がする。

しかも物語ラストの方のナツキの花札対決のシーン。あそこもばあちゃんのこのシーンがあったからより際立ったんじゃないかと感じた。あれを見て、巷で言われる「ネットが普及することで人間関係は希薄になってしまう」という言説以外の可能性はやはりあるんだろうなという感想を抱いた。多くの人間がつながることができるから「人間関係の濃度が薄くなってしまう」という側面はたしかにあるのかもしれない、しかしその一方「どこからでもつながれる」からといって一概に人間関係の密度が薄くなると言えるのだろうか?手紙では直筆だから人間的「あったかさ」にあふれていて、メールでは「つめたい」のだろうか?

それ以外の可能性もあるんだろうよ、とこの映画は言っているように私には見える。もっと考えを詰めないと詳しくは書けないのでこの辺に関しては時間のある時にもう少し考えておきたい。

……あっ、時間だ。やっぱりもう少し時間のある時にきちんと書こうと思う(……できればだが)。

とにかくばあちゃんに感動した。

追伸 主人公の健二についての言及ゼロだった(汗)

参考URL

2009年7月26日 (日)

もう一回エヴァ破見てきた

朝遅く起きて、ふと思い立ってもう一度エヴァンゲリオン新劇場版:破を見てきました。もう一度見ようとは思っていたけど、まさか今日行くとは自分も予想もしていなかった。ほとんどレポートもテストも終わったからできることですね。久しぶりにだらけた一日を堪能できました。

じゃあ感想を書きましょうか。今回は2回目の視聴なので1回目の時みたいに興奮しすぎることなく、比較的冷静に見ることが出来ました。だからと言って前回の感想に比して何か付け加えることがあるかというと……特にないなぁ~。それでも前回の感想記事の文章が荒れに荒れていたので、それの補足みたいなことを書きながらつらつらと行きましょう。

①まずはシンジの行動について

今回改めてシンジくんの行動を眺めて「変わってないな~」と思った。これは前回の感想でも書いたことだが、碇シンジという人間は前作と根本は同じであろうという印象がやはり私の中にある。前作では内に向けていた感情を今回は一部外に向けた。それだけの違いです。根本的には彼は変わってはいないと思う。

で、改めてシンジくんの行動に思いを巡らせよう。まず私が「かれは変わっていない」と考える一つの理由が、彼の行動のほとんどがreactなものになってしまう点にある。彼は己の意思で「これを為す」といって行動することがほとんどない。親父が自分の言うことを聞いてくれない(他にもいくらか理由あり)→エヴァに乗りたくない、綾波が使途に喰われた→取り返す、といったように思考がひどく短絡的です。この辺が僕の危惧するところで、またわけのわからない終りになるんじゃないかという懸念を補強するものです。

「碇シンジの行動がreactive」なものであるということは、当然ながら、彼自身はストーリーを生み出していかないということです。誰かが敷いたレールの上で彼は足掻いているにすぎないのです。もちろん時としてそのレールを踏み越えることもあるでしょう(前回の映画や今回の映画のラストの暴走)。しかし、大局が決してしまっているからその誤差は物語全体のバッドエンドをハッピーエンドに持っていくほどの力はありません。結局のところ、「誰かがハッピーエンドの可能性」を提示してくれないと何もできないのが現状です。

せっかく前回の記事で「エヴァ」と「ひぐらし」を結んで話をしたので今回もそこに触れておきましょう。

要は「碇シンジ」は「物語最初の梨花ちゃん」とおなじなんですよ。「物語全体がハッピーエンドになる目」を待っているだけ。「周囲の環境に合わせて行動している」にすぎない。基本的に「周りの人間」に依存しすぎです。周囲の人間が動いた結果「偶然」ハッピーエンドの可能性が出てくるのを待っているだけです。そう考えると「あまり変わってないな~」と親戚の子どもを見るような気持ちになってしまいます。

ああそうそう、前回見たときに”どの部分”で上記のようなことを特に強く思ったのか思い出したので記しておく。

それは最後の綾波を助け出して2人で見つめあっているシーンです。いいシーンなんですけど、「君だけがいればそれでいい」みたいなあれにちょっと……。実際助け出す前に「世界が滅んだっていいけど、綾波を返せ!」みたいに言ってましたし。確かあそこ見て「オイオイもうチョイ視野を広く持てよ」と突っ込みを入れたような気が……

②マリについて

①でシンジくんについて言ったので、②ではマリについて。とはいっても、相互リンクする感想もあるからまずはそこから。

いきなり何ですが、最後のマリの一言について。

「都合のいいやつだな~。やっぱ匂いが違うからかな?」

ええ吹きました。笑わせてもらいました。周りが静かだったから迷惑にならないようにですけどね。

これ結構的確な一言だと思うんですよね。①でも言いましたけど「シンちゃん働かない子」です(物語中においてね。日常パートでは素晴らしい。手料理パない、食いたい)。今回の物語でもそうです。なのに特に伏線もなく最後の「アレ」です。あの暴走です。あれ何でしょう?いきなり目が赤く光ったかと思うと「綾波を返せ」ですよ。そして動き出す。物語中のどこであれを支える要素があったんでしょう?

冷静に考えてみればおかしいですよ。だってシンちゃん何もしてないんですもの。

  • 直前につらい目にあった?―いやいや、もっと大変な人いっぱいいましたって。特にアスカとか酷いじゃないですか。それとも何でしょうか。次回では彼女もシンちゃんみたいなことができるようになるとでも言うのでしょうか?
  • とてもおこった?-いや、それもどうでしょう。怒りでエヴァがあんな活躍できるなら毎回使途が出るたびにやりゃーいいじゃないですか。まぁ、そうじゃなくてもアスカをヤッチャッタ時もシンちゃん十分怒っていた気がします。それともアスカでは不満だとでも?

とまあ色々ありますよね。ちなみにシンちゃんの怒り(感情)の質の違いに着目すれば一応説明はつくんですが……正直どうだろう?

感情の違いにリンクして特別なことをするってのは、冷静に考えると、説明になってないんだよね。すると、シンちゃんのような感情状態になると誰でもできるの?なんか腑に落ちない部分があるよ。それならよっぽど「シンちゃんが特別」とか「初号機の中の母親のせい」とかの方が説明がつく気がする。ちなみに「シンちゃん特別」説は次の映画見ないと何とも言えないけど、「母親」説を考えると正直「お母さんシンちゃんに過保護ね~」とか思ってしまう。ちなみに「匂い」云々考えると「母親」説に今のところ一票かな。

そろそろマリの感想に戻りましょうか。

やっぱり凄いな。この映画の中で最も完成されているキャラの一人の気がする。個人的には加持さんも評価が高いんだけど、なんか「エヴァの世界に取り込まれている」感がぬぐえないのでマリの方の評価がどうしても高くなってしまう。マリを作ったのは鶴巻監督じゃあないかと思うんだけど、がんばれ!とエールを投げかけたい。できることならエヴァの世界に呑みこまれてしまわないことを祈る。

基本的に書きたいことは前回の記事でほとんど書いたんだけど、いくつか補足を入れておこう。

  • 吉兆さんのブログを読んでなるほどな~と思ったのだが、マリは確かに「自立」している。悪い意味ではなく「完結」しているように見える。他者と強調して動ける「完結」さみたいなものか(利用しているとの言えるかもしれないけど)。きっと精神的な[完結」なんだと思う……それにしても、彼女の望みって何なんだろう?
  • 前回の記事で僕はマリとカオルを「ひぐらし」の梨花と羽生の役割を果たしてほしいと書いた。でもそれは基本的に「謎解き」を考えて言った要素が強かった。「物語」の中ではむしろ「圭一」のような要素も備えてほしい。もしシンちゃんが変わらないままだったとしたら、誰か能動的に動く役が必要。で、それを果たせる人間といったら彼女しかいなかった。
  • 「裏コード、ザ・ビースト!」って完全に視聴者サービスな気がする。だって物語の本筋に絡んでないし。レイの行動の助けという役割があったのかもしれないけど、別に通常状態でやったところで問題ないシーンだったと思う。きっと視聴者が映画を見ていて中だるみしないようにつけたものじゃないかと思う。あるいは驚きの連続で視聴者の思考を停止させる役目を持っていたとか。ってことであまりこれについて考えるのはやめよう。

③アスカとその他

正直アスカがなぜ「惣流」から「式波」に変わったのかはわかりません。名前自体に意味があるのか?それとも変えたかっただけなのか?詳しい実情は映画を見て、後で監督のインタビューとかでも見て知るしかありません。

それでもアスカは以前とちょっと違うかな~と思うんですよね。これはほとんど直観で書いているので上手く言葉にできないんですけど、アスカは以前に比べるとエヴァの黒い部分に取り込まれていない気がするんですよね。気のせいかな?どうだろう?なんかそう思ったから書いてみました。名前が変わって、なんか前とは違う気がするから。基本シンちゃんが前のまま(のように私は思っている)なのに対していい意味でちょっと違う気がする。人との協調に関して昔とは違う気がする。少なくともミサトさんに行ったみたいな感想は昔では抱かなかった気がする。ちなみにレイもいい方向で違うんだけど、その方向がシンちゃん中心の一方向に対してアスカは(少なくとも)シンちゃんとミサトさんの二方向以上な感じ。その辺が絡んで名前違うのかも~とふと思った。

以下感想の羅列

  • エロい
  • へ~、大尉なんだ。予想以上に偉かった。
  • 最初に出てきたシーンの立ち居振る舞いが何となく”軍人”って感じで納得してしまった
  • 独眼竜?

ゲンドウがシンちゃんに言った言葉「自分の望みをかなえるために、何物をも犠牲にする」みたいな趣旨の発言。あれ自分に言い聞かせているみたいだった。発言内容に対しても思うところはあるんだけど、それよりも思ったことが一つ!「別にシンちゃんゲンドウの親父さんが言うような望みないよね~?」ちなみに親父さん。そういう風にして望みをかなえようとするのはなんかちょっと違う気がするよ。もちろん望みをかなえるってのは「相手の願いを叩き潰す」って側面もあるけど、それだけじゃないよ。私はエゴイストがそこまで悪いとは思わないけど、それも程度というのがある。ただ「自分」の望みだけ見て「他人」を考慮しないのは、ちょっと……。「相手」がいて、「望み」は成立するんだと思うしね(たった一人なら完結してるから望みはほとんどない。神様と同じ。……だから神様は「人間をつくって」「自分の望み」を叶えたのかもしれないけど)。それを考えると彼の主張は完全には受け入れられないな~。

④全体の感想

冷静に映画を見直してみるとその内容の薄さに驚いた。いや、もちろんアニメ映画史上に残るすばらしい作品だし。細かなレトリックもいっぱいちりばめられているから一概に薄いと言っていいかは微妙だってのはわかるんだけど、それでも2回目の視聴で私は物語が「薄い」と感じた。

1回目に見た時は2時間とは思えないと思ったけど、今回は確かに2時間なんだな思って見ていた。

例えば、戦闘シーンにおいてもそれは表れている。「ザ・ビースト!」というシーンも性急にものを進めようとしているせいか、説得力のある行動選択肢ではなかったように映った。

また、物語全体を通してみると、「状況」は変わったけど決して大した「成長」はしていない。シンちゃんが親父に「エヴァに乗せてください!」と言って、親父がひるんだシーンぐらいしかシンちゃんの成長を感じられない。むしろ成長したというならレイとアスカの方。ただ、2人とも日常の変化であって、物語の本筋に一気に切り込めるものかはまだちょっと判断がつかない。

”仮”に今作を「前回のバッドエンドを回避してハッピーエンドに持っていく物語」としてみたなら、やっぱり本筋を動かすような成長とかはあまりなかったように思う。映像の凄さと予想できない展開・驚きに圧倒させられて気付かなかったけど、実は「内容は薄い」んじゃないかと思った。

だからと言ってそこまで価値が下がる映画だとは思わないし、それはこの感想の量を見て納得してほしい。2回目以降は後から思い返してじわじわ楽しむのが良な気がする。

……基本的に言いたいことは大まかに書いたかな?

まぁいいや。なんかあったら書きます。質問とか答えられる範囲なら書きますんで。(それにしても感想長いな~)

オマケ

④でシンちゃんの「エヴァに乗せてください!」発言を書いた時、パソコンが勝手に「エヴァに載せてください!」と変換して吹いてしまった。それ別のアニメだから、きっと。

参考URL(書きながら見てました)

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2009年7月 6日 (月)

付け加え

エヴァの映画の後の人も観察してみた。

みんな戸惑った感じで、隣の友人にまずどう話しかけようか戸惑っていた。それほどの衝撃だった。

すぅんごい気持ちがわかった。

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