漫画家赤松健さんが立ち上げた「Jコミ」が次の一歩を踏み出しました。
Jコミとは?
Jコミとは、「ラブひな」「ネギま」で知られる赤松健さんが立ち上げた絶版マンガ共有システムです。娯楽として消費されるマンガは、絶版になるものがとても多い。よっぽどのヒット作でもない限り重版が続くなどということはない(※1)。また、近年のインターネットの発達によってマンガはスキャンされ、データ化され、違法にネットにアップロードされてしまう。こういう事態は、漫画家にとって決して「良い」と言える事態ではない。我々は毎日働きその代価として収入を得ている。同様に漫画家は「マンガを書く」ことが仕事であり、その代価(つまり売上)に応じて収入を得る。一日一週間一ヶ月一年と毎日毎日マンガのことを考え、形とする。その「結果」としてマンガが認められ、売れるとそれに対する「代価」が手に入る。マンガが違法にアップされてしまえば、その「収入」は得られない。これは中古でも同様の話が言える。中古で買われた作品は作者に収入が入ることはない(※2)。これに対して「それは良くない」というのは簡単だ。とはいえ、現実に流出してしまったデータをすべて堰き止めるなどというのは事実上不可能に近い。ネットにデータを流出させるというのは、水に砂糖をとかすようなものだ。一度溶けてしまえば分離は難しい。赤松健さんはこのような状態に対して「正規のデータをネットに流出させる」という方法で対抗しようとしている。どういう事か?つまり、「作者主導のもとでもう手に入らなくなった絶版本をネットに流出させてしまおう」ということである。上述と※1でも語っていることだが、「絶版」になった本は作者に利益をもたらさない(特装版が出るなどという例外がない限り)。そして絶版になった本が本屋に並ぶということはまずない。わたしたちも新品で本を買おうとしても手に入れられない。読むにはブックオフなどを利用するか、「ネットに頼る」しかない。ならばいっそ「公式」にデータを流出させてしまうのだ。各絶版マンガはPDF化されて人々のもとに届くようにする(※3)。PDFにはアマゾンリンクが挟み込まれ、そこから商品が買われればアフィリエイト分のお小遣いが作者の手に入る。
「もう収入の見込めなくなった作品に光を当てなおしす」試みです。
作者には収入が入り、読者は無料でコミックを手に入れられる(※4)。そういう試みです
上記のようなコンセプトのJコミですが、一括りに「絶版マンガ」と言ってもその数は膨大です。ぶっちゃけそんな数のコミックをスキャンするのは大変です。人員を雇って取り込むとしてもその金額は膨大になるし、10年20年先でも絶版マンガは生まれてくるので将来のことも考慮に入れなければなりません。それに対して赤松さんが出した解答が
「読み手が読みたいものをアップロードできるようにする」
ということでした。
読者が読みたい絶版コミックをアップロードすると、Jコミが広告を入れてネットに流してくれる。こうすることで必要な人材を最小限に抑え、人件費を抑えました。
今回Jコミが踏み込んだのはその領域。「Jコミで公開して欲しい絶版マンガをアップロードできるようにした」のです。
昨年のベータ版開始以降、着実にステップを重ねてきたJコミは次の段階に進んだのでした。
Jコミは時代を変えるのか?
いままではシステム的なメリットとJコミの歩みを説明してきました。上記の説明でもしたように、Jコミは様々な点で新しい試みであり、同時に実現性のある解答の準備されている秀逸な試みです。
このような提案は作家からしても、読み手からしても、そして広告を出す企業からしてもメリットのあるシステムです。基本的にみんながウィンウィンの関係となるJコミは、そういう側面からも時代を変える可能性を秘めています。
とはいえ
今回語ってみたいのはそれではありません。
そうではなく、「マンガ」それ自体について話すことが出来ればいいと思います。
進撃の巨人に見る少年漫画
進撃の巨人とは現在『別冊 マガジン』で連載中の4巻で400万部をこす人気マンガである。
人類の衰退した未来。世界の頂点は「巨人」となっていた。食事、睡眠も必要としない巨人は人間を捕食する絶対者となっている。巨人が何故人間を食べるのかはわからない。彼らと対話はできない。彼らは人間が人間であるというだけで殺しにくる。そんな世界で人類は自らを守るために、自らの住処を世界から隔絶した。超巨大な壁に囲まれた「閉ざされた世界」へと引きこもった人類は、常に巨人の恐怖に怯えながら暮らしている。主人公エレンはそんな世界で生まれ、家族を巨人に殺される。その10年後、成長したエレンは巨人への憎しみを糧に自警団の一員として生活をしていた。そんななか、成長したエレンは再度巨人の進撃に巻き込まれてしまう。
この漫画は様々な面で特異な部分を備えている。それは現在の少年漫画とは異なる質に依るものだ。これに関していずみのさんがピアノ・ファイアで面白い記事を上げてくれているので、引用してみよう。
ぼくはこの「逆転エヴァ」という解釈を押さえた上で、別の印象を抱いていました。
その印象が確信に変わったのは、『進撃の巨人』を「王道少年漫画」としてプッシュしようとする別マガの編集部を知ってからです。
でも、その売り込み方、微妙に市場の反応とズレてる気がしませんか? まともにこのプレゼンを受け止めた評論を、まだ見たことがないですし。
レビュアーたちによる評価と、編集部による「王道少年漫画」というプレゼンの間にはズレがある。なぜでしょう?
王道少年漫画と聞いて、大抵のレビュアーが連想するのはジャンプ作品であって、ドラゴンボール・ワンピース的なものじゃないかと思います。
(中略)
しかしそうではなく、『進撃の巨人』で連想するのはオイルショックや冷戦期で象徴されるような70年代の少年漫画なんだと思います。
具体的には楳図かずおの『漂流教室』であり、永井豪の『バイオレンスジャック』でしょう。
(中略)
「『漫画』じゃなくて『ジャンプ』を持って来い」は皮肉な言葉です。
「80年代以降のジャンプ的王道」には当てはまらない「少年漫画」が『進撃の巨人』なのであり、そこをもって別マガ編集部は「王道」を自負するのかもしれません。
(中略)
以上、長々と書いてきましたが、結論はすでに書いた通りです。
まず、ミカサの可愛さによっても引き立てられるエレンの王道主人公らしさ。
そして「王道少年漫画」という売り文句は、そのままでは解釈しづらいものの、少年誌の歴史を振り返ってみれば伊達ではない……、という視点。
現代においてこのふたつの稀少性を備えた漫画だというのが、『進撃の巨人』をマンガランキング一位にまで押し上げる価値になっていると、ぼくは考えています。
かなり長い内容なので、随分とカットさせてもらった。是非ピアノファイアのサイトで内容を把握してもらいたい。一応今回注目すべき点は色をつけさせてもらった。
いずみのさんの言説はいずみのさん個人の知識に重きを置かれており、定量的なエビデンスのとられたものではない(※5)。その意味では仮説に近い立ち位置を有しているかもしれない。
しかしその言語には説得力があり、「納得させられる」。
これが正しいのだとするならば、「進撃の巨人」というのは根っこが70年代にあることになる。
爆発的なヒットの裏に「現代のマンガ」のロジックと根を異にしている(※6)という言説は興味深い。
ここで注目したいのは「旧い物が逆に新しい」(そういうと語弊が出るかもしれないが)という点である。
「歴史にはぶり返しがある」
という話を聞いたことがある人はいるだろう。最近で言うならば「旧エヴァ」「新エヴァ」の対比なんかは面白い(ここでは書かないけど)。
歴史的にもそうだろう。あるシステムが一時期もてはやされ主流を占める。いっときはそれが業界を支配する。しかしそれを打ち破るシステムが生み出される。
こういうのは実際の戦史や、身近なところで言うならば将棋や碁が有名だ。
聖の青春などにもそういう話は出てくる。また、銀河英雄伝説などもそこを軸にしている側面もある(だからこそ歴史を知るべきだという方向にもつながる)。
そんな話はごろごろしているので、殊更に上げる気はない。だが上記2つは傑作であるので、機会があれば読んでみて欲しい。
このようにして、「歴史というのは行きつ戻りつ」するものなのである。
現代のマンガ世界はジャンプ一元主義的な見方が広まってしまっているようにも見える。進撃の巨人というのは「それ」に対するぶり返しで、それこそが逆に「新しかった」のかもしれない。
温故知新「ふるきをたずねてあたらしきをしる」
考えてみるならば、小説などの文学の世界では「旧い物はいまでも最前線」をひた走っていたりする。新時代の書き手が昔の文学を研究などというのはあるだろう。
現代の最前線にいるからこそ遙か昔を学び、今に新たな息吹を吹きこんでいく。文学世界にはまがりなりにもそういうシステムが存在している。少なくとも利用しやすいようになっている。
ほかの分野でもそうだ。それなりの歴史と伝統を有しているものは、そういうことの繰り返しが可能なシステムを構築しているのだろう。
だとするならば、Jコミは現代の書き手に新たな視点を与える記録的なツールになる可能性を有している。現代では情報はすぐに移ろっていってしまう。だからこそ「現在」にばかり焦点が当たり、「大同小異」な作品群になってしまうのかもしれない。
「昔」を知る手段が足りないのだ。
Jコミはツイッターに連動している。PDFはネットとの親和性がものすごく高い。
ツイッター、フェイスブック、ミクシィ・・・新世代の「つながり」は遥か遠くに流れてしまった作品たちを現代に引き寄せてくれるかもしれない。
いつか、『Jコミで読んだ「旧い漫画」がぼくの原点です!』という作家が出てくるかもしれない。
Jコミはマンガの世界を新たに切り開く人材を創り上げていくかもしれない。
関連リンク Jコミ
※1スラムダンクやドラゴンボールのようなビッグタイトルくらいだろう。たまに例外はあるが。また、売れ方が微妙だったり古くなってしまえば絶版にせざる負えない(今でも売れるなら別だろうが)。そうしてしまえば後に出てくるブックオフのような中古店を活用せざる終えない。
※2中古作品でも作品の所有権は作者にある。売上に応じて作者に還元されるようなシステムを作るべきだという話題も記憶に新しい。これもブックオフなどが全国的に有名になったのがひとつの原因だろう。
※3絶版になってないマンガは当たり前のことだが、ネットに流すことはない。収入が見込める作品は正規に収入を得たほうが良いだろう。なんだかんだで違法アップはされるだろうが、そこを取り締まってしまうのは実際難しい。相対的に利益が見込めてしまう以上、そこに口をだすのはコンセプトではない。問題は「まったく利益の見込めない事態」に対処することだろう。
※4ちなみにJコミ自体の運営費は企業からの広告費で運営される。「絶版作品はJコミへ」の地位を確立出来れば、一定数の動員を見込める。そうすれば企業としても宣伝の価値が生まれる。
※5わたしは文学的な方向にたいして詳しくないので断言はできないのだが、たぶんevidenceのレベル規格はないのだろうと思う(少なくとも数学的に比較するなどといった)。ある言説に対して具体的な事例を当てはめていくことなどよって説得力を付け加えていくものなのだろう。論理的なつながりと説得力が重視される類の学問なのでしょう(たぶん)。ちゃんと調べるとルールはあるとおもう。勉強不足です、すみません。
※6同様の話は「魔法科高校の劣等性」にもあてはまるらしい。以下にいずみのさんがまとめたtogetterのリンクを貼っておく。「現代のライトノベル」のさらに前のソノラマとかの「ジュブナイル」にルーツがあるというお話に注目した。オンライン小説『魔法科高校の劣等生』が面白い
<4月15日(金曜)追記>
もしあなたが最近の漫画しか読んだことがないという人なら、今回公開された「プレイヤーは眠れない」などは読んでみてほしい。
まとはちょっと違う退廃的な世界観が描かれているので、逆に新鮮だろう。攻殻機動隊な世界観と通じるように感じられる。
<4月17日(日曜)追記)>
ただの日記さんで面白い記事があったので紹介。
Jコミが理想から一歩後退してしまった・・・ような(1)(2)
この方がツイッターで赤松さんと繰り広げた会話は本人がtogetterでまとめている。
「Jコミは理想を捨てたわけではないよ!」という話
うん、ここのコメントでもつぶやいているのですが、個人的異見は「まずはPDFが必要」という方向にあります。最終的にクラウド化するにしても所有の意識が変化するにはまだ時間が必要だと思います。ちょうどいま頃に生まれた子どもは、クラウドにデータを置いておく(共有する)ことが当たり前になっているかもしれない。
でも、その上の世代のわたしたちはまだ無理だろうな~とも思う。
それはネットでの共有が所有しているのに比して「不便」な面があるからだと思う。所有欲の根幹はさまざまな意識の背景があるだろうが、そのひとつに「いつでも見れる」「安定して見れる」という環境にあるだろう。
現時点では(たとえ都市部でも)ネットの接続にタイムラグが存在し、読みたいモノを読むのにはPDFのほうが便利であると思う。少なくともマンガを読むために一度「ネットにアクセスする」など間接的に何かを媒介するというのがストレスに感じない環境ができないと難しいだろうな、と思います。
そのためにはインターフェースの進化、日本中が常に安定してネットに繋がれる環境(所有と同程度か、それ以下の手間でネット上の漫画を読めるようになる)などが求められると考えます。だから、そこまでの場つなぎ的な意味でも「PDF配信」というのは重要だろうというのが私の意見。
とはいえ現時点が大変なのは仕方ないので事情を多くの人に周知し納得してもらい、具体的にいつごろからなら再開できるとかの見通しを報告というのは重要だと思います。
とにかくここで「な~んだ」と人が離れていかないようにして欲しい。
もし可能ならば数話までPDFで配信し、そこから1クリックでビューワーに飛ぶようにする(その場合、事情説明の文はあったほうがいいかもしれない)などしてくれるとありがたいな、と思います。
先ほど言ったように「マンガを読むため」に「ネットに繋ぐ」「Jコミまで飛ぶ」というのが知らず知らずにストレスの言ったんだろうと思いますので・・・(その場合、悪徳業者が真似して不法リンクつきのPDF流さないか不安だけどね・・・)
ちなみにわたしはPDFがダウンロード出来ないことに関しては「ん?へんだなぁ」くらいにしか思っておらず、アルセーヌ(ビューワー)でも満足して読めた。でもそれは「ツイッターで流れてきたから」というのがやはり大きい。1クリックでいけるしね。「ちょっと読みたいなー」というときにJコミまで行かなくてならないのは「めんどうくさい」という思いもある。何度となく読まれるためには個人所有のPDFは必要かなぁ、という思いがありますよ(現時点では)。
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