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2016年4月

2016年4月13日 (水)

おっと、ブロマガで公式BANされたぞ。全文UPしてみよう。やはり幼女のパンツが悪かったのか・・・

さて、ブロマガで更新中の日記が公式BANされたようなので、全文UPしなおして見ます。文章が粗くてもがんばって書いたしね。

それにしても、これって原因はなんなのかなぁ。どうやら「性的な理由」でアウトらしいんだけれど。

やっぱ、幼女ってワードとパンツってのがまずかったのかなぁ。運営さんはここに性的な意図をよみっちゃったのかしら。

うーむ。せめてBANした明確なキーワードやBANした責任者の名前をしりたいなぁ。なんか気分でBANされたんじゃないかって気がしちゃうよね。

これマズイのかしら?いやね、別に怒ってはいないけれど、気にはなるね。あと1ヶ月使用禁止は流石にやめてほしいんだけれどなぁ。日記書けなくなる


ま。いいや。とりあえず公開してみます


(以下:公開記事部分)

なんか今日も忙しかった気がする。毎日夜になると疲れが吹き出るんですよね。なんだろ。病気じゃないと思うので食事や睡眠の質が悪いんだと思います。

だから今日は近所の野菜バイキングの店に行って来ました。

腹いっぱいに食べたからもっと疲れが出てる気がする。空腹のときが一番からだの調子がいいんですよね。ぼくだけかしら。
あるいは脂肪肝かな。食べると疲れが出るのは脂肪肝の証って聞く。やはりファッティな食事は控えて出来るだけ野菜を食べよう。

さて、そんなこんなで夕食後のだるい身体タイムがもったいないので映画を観てきました。タイトルは『ルーム』

部屋 上・インサイド (講談社文庫)

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物語はジャックが5歳になったところから始まります。ジャックの朝はいつも同じ。起きて、まずは母に挨拶をする。続いて挨拶をするのは母子二人で住むの”へや”の家具たち。椅子に、机に、キッチンに、天窓に、洋服ダンスにとジャックは挨拶をしていく。ひとつのベッドと限られたキッチンとトイレを備えた”へや”でジャックは昨日も今日も、明日も変わらない日々を過ごしていた。愛するママと、楽しいテレビがジャックの友達である。

ただ、普通と少し違うのは、ジャックが生まれてから一度も”へや”の外にでたことがないくらい。あと毎夜洋服ダンスの中で寝なければいけないこと。なぜかというと、夜になると”へや”には外からオールド・ニックがやってくるから。ママはニックとジャックを会わせたくないらしい。ニックは魔法の袋からジャックたちに食事やプレゼントを持ってきてくれるけれど、ジャックとニックは一度も話をしたことはない。

しかし、とある日にジャックはニックと触れ合う機会を得る。それは”へや”での日々を終わりに導く事件への引き金となる。その事件をきっかけとして、ママはジャックに真実を語る。

実はママにはママ以外にもう一つジョイという名前があること。元々は”へや”の外にいたけれど、7年前にオールドニックに”へや”に連れてこられてしまったこと。そして、”へや”の外には”世界”が広がっていること。

(あらすじ)

本作は、誘拐された17歳の少女が監禁された先で子どもを産み、その部屋から出る物語である。 前半一時間は”へや”とその脱出。後半一時間は”世界”での生活が描かれる。

結論から言うと、ぼくはこの映画を観始めたとき「”へや”に帰るんだろうな」と感じた。そして、それは間違いではない。

本作は複数の視点から語ることが出来る。

ひとつは誘拐されたジョイの再生の物語である。高校生の少女が監禁され、レイプされ、監禁先で子どもを産むことになる。逃げようにも逃げられず精神的に追い詰められた女の子が、機転をきかせ社会へと戻っていく。しかし戻った先は少女にとって新たな地獄だった。

帰還先は少女が元々いる世界だ。だがその世界は一変してしまっている。かつて存在したやさしさは失われ、好奇の目が向けられる。静寂の変わりに喧騒と様々な圧力が襲ってくる。監禁された少女が子どもを産んで帰ってきたことをマスコミは騒ぎ立てる。そして、自分も7年前の自分とは変わってしまった。

過去のイメージと現実のコンフリクトはジョイを圧倒する。徐々にジョイは子どもへと依存するようになる。しかし、それも一時のことに過ぎない。最終的に彼女はその圧力に耐えかねて倒れてしまう。

本作の見所は、そのようになってしまった彼女を子どもの献身が救うところにある。

子どもによって救われ。彼女は社会へと戻り。幸せになりました。

めでたしめでたし



・・・・・・

さて、これが一面の物語である。表と言い換えてもいい。

でも、ほんとうにめでたい?素直に感動できる?

本作を見終えた視聴者はこれで満足するのだろうか。物語をもう一度再構成してみよう。

本作においてジョイが子どもに真実を語るときに次のように言って聞かせるシーンがある。

壁がある。その壁には、表があれば裏もある。私たちは壁の内側にいて、外にも世界が広がっている。

ルームという映画は、ジョイの視点ではなく子どものジャックの視点から見ると別の様相をみせる。

先ほどのジョイからの視点の語りを一般的な視点の物語~インサイダーの視点~とするなら、ジャックから見ると物語はその外~アウトサイダーの視点~を有している。

ぼくはこの映画を観たときに、星の王子様を描いたサンテグジュペリを思い出した。世界の隅々を回ったことのない彼は、世界を巡る少年の物語を書き上げる。世界を描くのに実際の経験などは必要ない。人間精神とはそのような体験を上回る広大な力強さを持っている。

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本作ルームのもうひとりの主人公。いや、個人的には真の主人公と呼びたいジャックはそのような広大な精神を有した子どもである。

ところで、ぼくは今までジャックを「子ども」としか表現してこなかった。なぜだろうか。

じつは、本作ではジャックが男なのかどうかは明かされていないのだ。ジョイは一度としてオールド・ニックにジャックを触らせることはなかった。男の子だと語られるのは、あくまでオールド・ニックに対してのみであり、ジャックが”へや”の外に出たときジャックを見た男性や警官はジャックのことを彼女と呼んだり、ジャック以外に名前はないのかと尋ねている。また、ジャックが寝ている洋服ダンスのなかでジャックの履いているパンツが明らかに女性物だったのも、おや?と感じた一因である。

ジャックが女性である可能性を考慮すると、オールド・ニックとジョイ、ジョイとジャック、ジャックとオールド・ニックの非対称性も見えてくる。

ジョイはジャックにオールド・ニックはリクエストなど応えてくれないようなひどいやつだと語る。ジャックが5歳の誕生日にケーキにろうそくがないとき騒いだときも、オールド・ニックは面倒なものを持ってきてはくれないと言っている。

一方、オールド・ニックはジャックに乱暴な行為を働いたことはない。むしろ誕生日だと知ったら失業中なのにも関わらずおもちゃのクルマをプレゼントしてくれる。

ジョイの語るオールド・ニックと、オールド・ニックの行動に矛盾が存在する。

その矛盾を解消するひとつの案がジャックが実は少女である、ということだ。オールド・ニックから娘を隠すために男の子だと偽っていたと考えると、過剰なまでにジャックをオールド・ニックと遠ざけようとしたことに矛盾はない。

映画の間ずーーっと、この子が男の子かどうかは気になってみてたんだけれど一度もそれは明かされなかった。母子が保護された病院でも、当たり前だが下半身は隠され、真実は闇の中である。



・・・まぁ、ぼくの本当に話したいことは、ジャックが男だろうが女だろうが関係ないからどうでもいいんけどね。

折角なので、考察をしておいただけだ。

話を元に戻そう。



ジャックから見るとルームという物語はジョイから見たものと逆の物語になるとぼくは語った。

ちょうどジョイの物語を補助線にひくと理解しやすいと思う。

本作でジョイは「社会から切り離されて”へや”につれられてきた」少女である。だからこそ、先ほどの再生の物語という見方ができる。

しかし、ジャックから見たらどうだろうか。

ジャックからしたら、彼(彼女?)の世界は”へや”だけだったのだ。彼は母親の要望に従い、”へや”から”世界”へと移り変わる。

ジャックの視点からするならば、彼は元いたところから無理やり切り離されたと見ることが出来る。

母親と、”へや”のみんなに囲まれて平和に暮らしていた少女は他ならぬ愛する母親によってその場所を奪われてしまう。ジョイの視点からしたらオールド・ニックは平和な日常を壊した破壊者かもしれない。誘拐者である。しかし、ジャックの視点からしたらオールド・ニックは敵でも憎むべき相手でもない。むしろおもちゃのクルマをくれたやさしいおじさんともいえるかも知れない。

ジャックの側から見るなら、破壊者は母親のジョイである。

だからこそ、物語後半でジャックは母親が”へや”での母親と異なることを語っている。ジャックからしてみれば、彼の真の母親は”へや”のママだ。ジョイなどという存在ではない。だからこそ、からっぽだと表現したといえる。

ジョイもそれを理解しているのか、それでも私はあなたの母親だ、と述べている。

なんと歪な関係の物語だろうか。そして、なんと美しい物語なんだろうかと思う。

こういう構造を備え、自然とした物語を作り上げている本作は紛れもなく傑作だと思う。

そうやってみると、本作は本来あるべき場所から切り離された少女がもといる場所に戻る物語であると同時に、本来あるべき場所から切り離された少女の非対称的な物語であるといえる。

しかも、ジョイは救われるが、ジャックには救いがない。

彼は、”へや”にあったすべてのものを失い二度と取り戻せない。なにより、彼女の愛した母親は”からっぽ”になってしまったのだ。

”へや”と母親が揃ってこそジャックの原初は完成する。本作はジョイの再生であると同時に、ジャックの喪失の物語なのである。

それにしても、ぼくは本作をジャック視点で見ていると大林宣彦やホドロフスキーを想起してしまう。

ぼくは本作の一番の見所は人間精神の広大さが描かれていることにあると思っている。いきなり人間精神の広大さといわれてもわからないだろうと思うので、もう少し話をしよう。

たとえば映画の終盤あたりでジャックは



”世界”は忙しなくて早く早くと急かしてくる



と、言っている。

これは、”へや”と”せかい”を対比して「世界とはなんて生きづらいところなんだ」って告白しているシーンだとぼくは解釈している。ジョイにとっては”せかい”はあるべき場所なのかもしれないが、ジャックにとっては”せかい”は異郷なんですよね。ジャックが自分の魂を真に安らげられる場所は”へや”のなかなんですよね。

彼が何度も”へや”に戻りたいというのは、犯罪に巻き込まれた後遺症とかではなく、”へや”こそが彼にとって在るべき場所だからです。

ぼくがこの映画を観始めたときに「”へや”にもどるだろうな」って考えたのは、二通りの可能性を考えてのことでした。

ひとつは執着。さきほど否定しましたが、犯罪に巻き込まれた結果”へや”という狭い空間に魂を惹き付けられてしまうことがあります。例えとしてわるいかもしれないけれど、虐待をうけて育つとしたくなくても虐待をしてしまうというのに近いと思う。目を逸らそうとするほどに目を逸らそうとする場所に囚われる。ちょっと前までの物語はこういうものが、割と多かった。

きづきあきらさんの「いちごの学校」とかはそういうパターンですね。他にも、この人の作品はそういうエンディングが多い。あと、瀬戸口連夜さんの『カーニバル』とかにもそういうエンディングがあったような記憶がある。まぁ、エロゲはそういうエンディングが多かったとおもいます。目を逸らしたいのに、その闇に取り込まれてしまうエンディング。

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このような執着が描かれるなら、物語は最終的に”へや”に戻るはずです。そして、その”へや”で孤独に終わっていくことが想定される。

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もうひとつの可能性は、”へや”に希望を閉じ込めるパターン。さきほど話した星の王子様と同じです。べつに世界にでなくても、世界の広さを感じることができる。実際に行動したり経験することなどが世界の真実を実感する方法ではないという感性です。これはどうやらわからない人には徹底的に共感できない感覚らしい。

もうちょっと説明してみようかな。例えば、お坊さん。高僧ですね。高僧はなにをもって高僧と捉えられるのでしょうか。大きなお寺を管理しているとか、病を祈祷で治したとかでしょうか。

おそらくそうではなくて、僧侶自身の徳の高さこそが高僧たる所以です。たとえば、「あっかんべぇ一休」という漫画があります。ここで描かれる一休さんは決して立ち居振る舞いに優れた人物とはいえない。しかし、彼の生き方の気高さや奥深さなどが高僧たる所以であることを示している。ちなみに、一休さんの逆パターンの人間が良寛さんみたい。機会があったら調べてみるのも面白そうです。また、この系統でよく描かれているのは『阿吽』とかもそうですね。人間精神への深い信頼と教典に書かれていることから独自の悟りを得る過程が描かれています。別にお金があるからえらいとかではなく、自然と頭を下げたくなるほどに徳の高い精神性へと敬意を示して高僧と呼ぶのだとぼくは考えています。

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形のないものに価値を見出す・信頼を寄せる文化は世界中で見られることでしょう。それの物語版が星の王子様です。

前述の星の王子様以外にこのパターンの物語を作り上げる作家は何人か心当たりがあります。まずは大林宣彦作品が頭に思い浮かぶ。特に『ふたり』はまさにそのパターンの作品でしょう。また、同様に人間精神への強い希望を描くのがホドロフスキー。『ホドロフスキーのDUNE』『リアリティのダンス』は、人間の内的動力(精神の強さ)は外部の圧力に負けないということを端的に示している。

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ちょっと長くて大変かもしれないけれど、麻枝准による『AIR』もそのひとつでしょう。先ほど名前を挙げた瀬戸口さんの別作品である『SWAN SONG』もその一つ。

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これらの作品はカルト的な人気を誇っていて時として「なんかわからないけれど凄い」という評価を得て売れてしまう。

ところで、最近大林宣彦さんの『大林宣彦の体験的仕事論』というのを読んでいるのだが、そこに面白い一文がある。

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大林さんがHOUSEを作るときに、もうひとつ別の花筐というシナリオを抱えていた際のエピソードです。大林さんのHOUSEはあまりにめちゃくちゃで東宝の監督が全員「おれはこの映画を撮れない」とサジを投げたらしい。そこで台本を提示した大林さんが当時異例の抜擢で東宝で映画を撮ることになった。そのとき、花筐のほうのシナリオも東宝のひとに読んでもらったらしい。

すると向こうは「よくできたシナリオですが、これならうちの監督でも何とか撮れます」といった。

それを聞いた大林さんは「ああそうか、東宝の監督が撮る映画を僕がやってはいけないんだ」と気づいて、『こんなものは映画じゃないぞ』という映画を撮ろうと思ったらしい。

これは非常に良くわかる話なのだが、その話は別の機会に譲る。

とりあえず、「なんだかわからない」っていうのは「いまはまだわからない」というのに過ぎないんですね。

ホドロフスキーなんて本気で映像による人類の革新を狙っている大変態なんですが、彼の狙っていることも同じです。

「いまわからない」ことでもそれを出していれば反応をするひとがいる。その人がきっかけになって、あるいは「わからないけれどすごい」という感覚が人を引き寄せ、いつのまにかそれが「わかる」ことになる。

それこそが、人間の革新だといっているんだと思います。

ワンピースもそういう心意気の高さを感じる。「夢を語れ!」という黒ひげの言葉が表現しているのは、そういうものでしょう。

大林宣彦、ホドロフスキー、麻枝准などは、まさに「いまはわからない」ことを表現し続けた作家です。大半の人間には「まだ」わからないことを描き続けてきた。

しかしその作品が持つ「まだわからない」ところから来る凄みはひとを惹きつける。

カルト映画には、商業映画には持ち得ない未知の鉱脈が広がっています。

その考え方から言うなら「”へや”のなかから”せかい”を知る」ことが出来ることは、まったく不思議ではない。麻枝さんの作品のひとつ『CLANNAD』で、ヒロインのひとりことみが「わたしのお庭は広いから」というシーンがある。

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それは、家一軒程度の広さの狭いスペースで得られることは、世界の広さから得られることに負けないくらい素晴らしいものなのだ、という表明だ。

本作ルームの2つ目の可能性として、狭い”へや”は人間を閉じ込めるようなものではない。さきほどの「わたしのお庭」とおなじく、「わたしのお”へや”」となるかもしれないと思ってみていた。

その観点でいうなら、最終的にジャックは”へや”に帰り、幸せな終わりを迎えることになるだろう。

映画を見ていると、この映画が表現しているのはこのふたつ目の内容であることがわかる。

しかし、この映画は”へや”で終わることを許さない。

この映画は結果的に”へや”にお別れを言って去ってしまうことになる。

それはなぜか。

実は、ここに関しては2つの解釈がある。どちらでも納得はいくが、ぼくとしてはこれからいう内容での理解を推したい。なぜなら、そちらのほうが人間精神への深い感動を覚えられると思っているからである。

映画で母ジョイはジャックにたいして「それでも私はあなたの母」だと述べ、ジャックもそれを認める。

いままで述べてきたとおり、ジャックとジョイは互いに異なる価値観を有した人間である。ジャックを優先すればジョイが立たず、ジョイを優先すればジャックが立たない。

ここで、ぼくは、「ジャックはジョイのために”へや”という安住の地を捨てた」と考えたい。つまり、愛する者のために自らの魂の在りかへの帰還を諦めたという解釈を推したい。

ちなみに、もうひとつの解釈は「”へや”は喪われ、母は”からっぽ”になってしまったので『永遠に部屋は喪われてしまった』」という喪失が描かれているという解釈だ。

このふたつに大きな違いがないと感じるように思うかもしれないが、小さいが大きな差をぼくは感じる。

さきほどもいったが、人間精神というのは広大なものだ。その精神性の深さというのはじつは場所に依存しない。

いっていることがわかるだろうか。どこにいたって”へや”にいることはできるのだ。

”へや”で培った精神性を背景に「孤独」に生きる覚悟さえ出来るならば、”へや”を自分の内部に取り込むことが出来る。それこそが人間精神の奥深さだとぼくは思う。

しかし、この映画の場合は”へや”を内部に取り込むことすら出来ていないと解釈するのが妥当だろう。

解釈の仕方によっては、「”へや”を内部に取り込んだのだ」ということも出来るかもしれないが、それでは最後のエンディングの孤独感の説明がつかない。

だからぼくはあえて”へや”を捨てたのだ、という解釈を優先したい。

”へや”を捨てる最後のシーンがジャックがジョイに言う「お別れは言った?」という台詞である。この瞬間、ジャックは”へや”を捨て、真に孤独になった。

内部に”へや”をもたず、”せかい”のなかで異端の存在として生きていくことが決定ずけられたのだ。物語内で「ぼくはこの”世界”でずっと生きていく」というのは、部屋を捨てる覚悟を表明するシーンだったと考えられる。

すると問題はなぜ部屋を捨てたのかになる。

そこで、さっきのふたつの差異が重要になってくる。

「場所や人が喪われてしまってもう戻ってこない」という無常観をあらわしているという解釈なのか、「自分の意志をもって”へや”を捨てる」という孤独への道程を表現しているのか。

ぼくは意志をもって捨てたほうを推したいのだ。

ママのために、自分の安住の地を去り”せかい”で生きることを決意したと考える。

ジャックが”へや”に心を残せば、ジョイはそれを敏感に感じ取ってしまう。その結果、精神に過剰な圧迫がかかってしまう。

ジャックは愛するママ(たとえそれが”からっぽ”でも)のために、”せかい”のなかで生きることを決意したと解釈するほうが物語の深みを感じられる。より素晴らしい物語だと考えられる。

5歳の子どもが自分の意志で寄る辺なき道程を歩む苦難の始まりが、映画ルームのラストシーンなのだ。

そう考えていくと、この物語はなんと孤独でなんと恐ろしい決意を描いた映画なのだろう。

かつて愛したママがたとえ”からっぽ”になっても、その愛は喪われるものではない。そのために、自分のアウトサイダーとしての世界”へや”を捨ててでもインサイダー”世界”へと迎合する。

それはなんて孤独で尊い物語なのだろうか。

かつて、空の境界で奈須きのこが描いた「ああ、なんて孤独」というシーンを思い出す。

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空の境界を見たときに、さいごの台詞がわからなかったという人も多いのではないだろうか。あれはぼくなりの解釈では、今回のジャックの決意と同類の決意に対する台詞だ。自分の在るべき場所を捨て誰も隣に立てない領域にたってしまった黒桐のために、つぶやかれてしまった台詞だ。空の境界では、黒桐以上に孤独なものはいない。

かれが真に愛した式は、彼を愛し普段接する式ではない。真に求めているのは「両義」式ではなく、「肉体」の式だ。そのことを理解したうえで、「肉体」の式とは逢えなくなることを理解したうえで、黒桐は「両義」式の横にたつ。彼女のために身を捧げ、罪を背負い、癒す。しかし、真に黒桐を癒すものはどこにもいない。だれにも理解されず、誰にも知られないままに、黒桐幹也は孤独に生き孤独に死んでいくのだ。それはどれほどの孤独だろう。

「ああ、なんて孤独」

この美しい台詞と同じエンディングを、映画ルームは抱えている。

誰にも理解されず、誰にも知られないまま、孤独に生きて孤独に死ぬ決意をジャックはしたのだ。それはなんと恐ろしく、なんとも崇高な人間精神の働きだろうか。

あちこちに話がとんでしまってわかりづらいかもしれないが、出来る限りのちからでもって映画ルームで感じた内容を説明してみた。

読んでくれたが理解できないという方もいるだろう。それは実に申し訳なく感じる。

もっと短く出来たらよかったのかもしれない。しかし、これはまとめるとまた別のニュアンスをもってしまうような気がする。



どこが凄いのかというのは、ホントは口頭で説明するほうがいいのかもしれない。

しかし、口頭で伝えるには相手がいる。そして、人間は忘れてしまうものだ。何処かに記録を残しておいたほうがいいだろうとおもうのだ。

ひとりでも、少しでも伝わることがあったなら幸いだ。

2016年4月11日 (月)

【完全ネタバレ】映画『ルーム』にまとわりつく謎をネタバレ自重とか考えずに考察しまくってみた

お久です。そういえば、新しく日記を始めています。本記事の続きの内容を明日そこで公開する予定

なんか今日も忙しかった気がする。毎日夜になると疲れが吹き出るんですよね。なんだろ。病気じゃないと思うので食事や睡眠の質が悪いんだと思います。

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ただ、普通と少し違うのは、ジャックが生まれてから一度も”へや”の外にでたことがないくらい。あと毎夜洋服ダンスの中で寝なければいけないこと。なぜかというと、夜になると”へや”には外からオールド・ニックがやってくるから。ママはニックとジャックを会わせたくないらしい。ニックは魔法の袋からジャックたちに食事やプレゼントを持ってきてくれるけれど、ジャックとニックは一度も話をしたことはない。

しかし、とある日にジャックはニックと触れ合う機会を得る。それは”へや”での日々を終わりに導く事件への引き金となる。その事件をきっかけとして、ママはジャックに真実を語る。

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帰還先は少女が元々いる世界だ。だがその世界は一変してしまっている。かつて存在したやさしさは失われ、好奇の目が向けられる。静寂の変わりに喧騒と様々な圧力が襲ってくる。監禁された少女が子どもを産んで帰ってきたことをマスコミは騒ぎ立てる。そして、自分も7年前の自分とは変わってしまった。

過去のイメージと現実のコンフリクトはジョイを圧倒する。徐々にジョイは子どもへと依存するようになる。しかし、それも一時のことに過ぎない。最終的に彼女はその圧力に耐えかねて倒れてしまう。

本作の見所は、そのようになってしまった彼女を子どもの献身が救うところにある。

子どもによって救われ。彼女は社会へと戻り。幸せになりました。

めでたしめでたし

それが、一面の物語である。でも、ほんとうにめでたいのだろうか。本作を見終えた視聴者はこれで満足するのだろうか。物語を再構成してみよう。

本作においてジョイが子どもに真実を語るときに次のように言って聞かせるシーンがある。

壁がある。その壁には、表があれば裏もある。私たちは壁の内側にいて、外にも世界が広がっている。

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ところで、ぼくは今までジャックを「子ども」としか表現してこなかった。なぜだろうか。

じつは、本作ではジャックが男なのかどうかは明かされていないのだ。ジョイは一度としてオールド・ニックにジャックを触らせることはなかった。男の子だと語られるのは、あくまでオールド・ニックに対してのみであり、ジャックが”へや”の外に出たときジャックを見た男性や警官はジャックのことを彼女と呼んだり、ジャック以外に名前はないのかと尋ねている。また、ジャックが寝ている洋服ダンスのなかでジャックの履いているパンツが明らかに女性物だったのも、おや?と感じた一因である。

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一方、オールド・ニックはジャックに乱暴な行為を働いたことはない。むしろ誕生日だと知ったら失業中なのにも関わらずおもちゃのクルマをプレゼントしてくれる。

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その矛盾を解消するひとつの案がジャックが実は少女である、ということだ。オールド・ニックから娘を隠すために男の子だと偽っていたと考えると、過剰なまでにジャックをオールド・ニックと遠ざけようとしたことに矛盾はない。

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まぁ、ぼくの本当に話したいことは、ジャックが男だろうが女だろうが関係ないからどうでもいいんけどね。

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ちょうどジョイの物語を補助線にひくと理解しやすいと思う。

本作でジョイは「社会から切り離されて”へや”につれられてきた」少女である。だからこそ、先ほどの再生の物語という見方ができる。

しかし、ジャックから見たらどうだろうか。

ジャックからしたら、彼(彼女?)の世界は”へや”だけだったのだ。彼は母親の要望に従い、”へや”から”世界”へと移り変わる。

ジャックの視点からするならば、彼は元いたところから無理やり切り離されたと見ることが出来る。

母親と、”へや”のみんなに囲まれて平和に暮らしていた少女は他ならぬ愛する母親によってその場所を奪われてしまう。ジョイの視点からしたらオールド・ニックは平和な日常を壊した破壊者かもしれない。誘拐者である。しかし、ジャックの視点からしたらオールド・ニックは敵でも憎むべき相手でもない。むしろおもちゃのクルマをくれたやさしいおじさんともいえるかも知れない。

ジャックの側から見るなら、破壊者は母親のジョイである。

だからこそ、物語後半でジャックは母親が”へや”での母親と異なることを語っている。ジャックからしてみれば、彼の真の母親は”へや”のママだ。ジョイなどという存在ではない。だからこそ、からっぽだと表現したといえる。

ジョイもそれを理解しているのか、それでも私はあなたの母親だ、と述べている。

なんと歪な関係の物語だろうか。そして、なんと美しい物語なんだろうかと思う。

こういう構造を備え、自然とした物語を作り上げている本作は紛れもなく傑作だと思う。

そうやってみると、本作は本来あるべき場所から切り離された少女がもといる場所に戻る物語であると同時に、本来あるべき場所から切り離された少女の非対称的な物語であるといえる。

しかも、ジョイは救われるが、ジャックには救いがない。

彼は、”へや”にあったすべてのものを失い二度と取り戻せない。なにより、彼女の愛した母親は”からっぽ”になってしまったのだ。

”へや”と母親が揃ってこそジャックの原初は完成する。本作はジョイの再生であると同時に、ジャックの喪失の物語なのである。

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