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2015年4月25日 (土)

映画『セッション』はテニプリと同じありえへん音楽映画である。しかし、テニプリはテニス人口を増やしたがセッションはジャズ人口を減らすのかもしれない。セッションとは何だったのか

セッション

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ノラネコさんの批評raneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-824.htmlを見て、映画『セッション』をみてきました。

折角東京に来たのだから山梨ではやっていない映画を見たいというのが人情でしょう。空き時間を如何に過ごすかで人生のクオリティオブライフは変わって来るのですよ。戯言なんですが。

さて映画『セッション』ですが、僕としては「コ、コメントしづれ〜」というのが正直なところ。

まず、大前提としてこの映画が「面白い」というのは確かです。全く見たことのない映画だ。戸塚ヨットスクール式熱血音楽指導とでも言えばいい。

異常なまでの熱が潜んでいる作品なんです。

しかし、その熱に対してコメントする言葉がない。何故コメントする言葉がないかというと、この映画を作られた理由が個人的経験の昇華にあるからだとぼくはみている。

本作では、過剰と言われるようなシゴキが行われる。音楽大学の教授フレッチャーは全米一のジャズチームを指導してる人物だ。そして、その指導は苛烈を極める。才能を感じられる若者を連れてきては偏執的とも言えるハートマン軍曹式熱血指導を行う。

相手の人格攻撃は基本だ。ミスがなくても怒鳴る。ミスがあれば更に怒鳴る。ありとあらゆる手段で若者の精神を削っていく。狂的なまでの人格矯正指導に耐え兼ねて自殺するものもいるほどだ。

そのフレッチャーが新たに選ぶのが主役のニーマンというドラマーだ。フレッチャーはニーマンを抜擢し、ひたすら厳しく指導をする。愛はない。ひたすら厳しく指導するだけだ。

フレッチャーの目指すのは見果てぬ夢だ。

本作において、フレッチャーはニーマンに自分は天才を産み出したいのだと語る。ありとあらゆる理不尽に耐え自らの限界を超えて後世までに語られる天才を産み出したいという趣旨を語るのだ。

フレッチャーの、そして後にニーマンの目指すのは第二のチャーリー・バード・パーカーである。ありとあらゆる理不尽を超えて音楽を後世に残していく大天才だ。

確かに見果てぬ夢だ。

幾つかの映画批評ブログでは、本作は音楽映画というよりボクシング映画に近いと語られている。ぼくもそこに同意する部分はある。理不尽こそが強い人間性を作り上げる不合理のメソッドがそこにはある。

これをもって音楽世界において一流となるのは如何に過酷なのかと語ることはできる。この厳しい姿勢にたいして尊敬をもって見ようということもできる。

しかし僕はそこには反論したい。

騙されるな。勘違いするなと言いたい。

繰り返すが、本作は面白い。しかしこの面白さは現実の過酷さにあるからではない。理不尽を乗り越えて超人になるから面白いのでもない。

本作が面白い理由は作り手の内面の吐露と激情がマッチしたから面白いのだ。

今回は面白さを議論する場ではないので面白さとは何なのかを議論するのは置いておこう。もし気になるなら明日4/26のニコニコ超会議の海燕さんのニコ生がそのテーマらしいので見てみると良いかもしれない。

今回は面白さには様々な要素があること。そして内面を吐露されることは「面白さを含有している」ことだけ語れれば良いと思う。

その観点からいうなら、今回の面白さは個人的体験を前提にしてるのだろう。シゴキに耐えきって成功を掴んだ人は共感しやすい部分もあるかもしれない。

しかし、本作はそれだけではないと思う。成功体験を語ってるわけでもないのだ。ぼくは先ほどこの作品は見果てぬ夢を描いてると語った。本作の理不尽体験は作り手の経験に依るものだとは思う。しかしその理不尽体験は実を結ばなかったのだろう。

シゴキに耐えることと成功は本質的には関係がない。ぼくは努力を否定しているわけではない。努力は大いにしたら良い。努力は確かに成功する確率をあげるだろう。しかし努力しても報われないこともある。理不尽だ。

そういう理不尽な体験をした時に人に出来るのはその無駄を受け入れることと昇華することのどちらかである。

本作は作品を作ることで昇華をしようとしたのだろう。そして、作っているうちに自分がもし諦めなかったら何処に辿り着けたのかが見えてしまったのかもしれない。

作り手の見えた果てはニーマンとフレッチャーの対幻想の果てと同じだ。ニーマンとフレッチャーは最終的にカーネギーホールで一流の演奏家と演奏する。しかし、作品をみている僕たちにはその場がカーネギーホールには見えない。そして演奏している者も一流の演奏家と見ることはできない。

作り手の体験を無意味にしないための儀式と現実がコラボレーションした結果の姿である。

別の観点からも似たようなものがみてとれる。

先ほど、騙されるな。勘違いするなと語った。

本作のすべてを信用してはいけないとぼくは言いたい。

フレッチャーは天才を作り上げたい教師ではない。口ではそう言っているが、実は違う。彼の本質は自己を偏愛し肯定を求める器の小ささだ。物語ラストで自身を告発したニーマンへの復讐心は純粋なものだ。自己を偽り後付けで肯定していく器の小さい男なのだと思う。ニーマンがラストでフレッチャーに反旗を翻したとき彼はその9分19秒に自己肯定を再構成していく。

はじめは自分の復讐に反旗を翻したニーマンへの怒りがあった。しかし自分では止めることの出来なくなったニーマンを見て考え方を変える。俺はこの反発をこそ待っていたのだと後天的に自己を偽るのだ。偽りの信念はいつの間にか本物と入れ替わり、ニーマンこそが自分の作り上げたかった超人なのだと思い込むようになる。

この自己を後天的に肯定してしまう姿勢は一見すると天才を生み出そうとする狂気にみえる。しかし違うのだ。これはフレッチャーのミニマムな王国を作ってしまう自己顕示欲と、フレッチャーの狂気に感化されて自己を肥大化させてしまったニーマンの狂気が並列に存在してるだけの現象に過ぎない。この天才を生み出そうとした狂気は、自分に制御できない怪物をフレッチャーが見たときに後天的に自己肯定をしてしまったが故に産まれた錯覚だ。

フレッチャーは作り手のエゴを体現した存在だ。もし自分が諦めなかったら音楽の極地に辿り着けたのではないかという無念を体現している。しかし同時に器の小ささ故に理想に身をさらけ出すことを許さない。フレッチャーは他者への指導にテンポの追求を求める一方、自身のピアノ演奏は非常にリリカルになっている。同時に自分の王国を自分の小さな手の中に置いておきたいのだ。

そこにはエゴしかない。自己のみを見ている。肥大化した自己は自分の小さな王国を作りだす。自分の小さな王国を完成させたなら、次は自分の創り出した天才を産みたいという偽りの欲求を充実させる番となる。

グロテスクで醜悪にして器の小さなモルモット実験である。

この姿こそがセッションという映画の一つの真実なのかもしれない、とぼくは思ってる。

とても珍しい映画を観た。通常では見れないものだろう。観て後悔はない

(4/25 てれびん 著)

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