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2013年8月30日 (金)

いま話題の『ガッチャマンクラウズ』をボードゲームのように考えてみたら思ったよりスッキリしてしまった件について

さいきん毎日はじめちゃんの『innocent note』を聞いています。(はじめちゃんについてはこちらで書いたので、はじめちゃん好きの方はこちらもどうぞ)

 
                                                      
          

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何回も何回もこの曲を聴き続けてます。それで、ちょっと気づいたことがある。

 

ぼくはこの気付きはぼくたちをガッチャマンクラウズのより深い理解へと導いてくれるのではないかと想っています。

 

そして、7話のベルク・カッツェの問のこたえにつながるのかもしれないとも感じています。

 

最近はぼくにしては文脈で読むことが多かった。現代のエンターテイメントがウンタラとか、これからのネットワークがウンタラとかである。でも、ここでもう一度、そこから離れて『ガッチャマンクラウズ』を見てみようとも思う。そこで、『ガッチャマンクラウズ』のEDを軸にこの記事をかくこととしました。

 

どうでしょう。よければもう一度『inncent note』聞いてみてください。新らしい発見があるかもしれません。前回の記事には歌詞の書き落としもあります。

 

 

さて結論へと至る前に、ぼくはちょっと聞いてみたいことがある。

 

ひとつ『ひとが捨てるに捨てられない本能とはなんだろうか』

 

ひとつ『ひとのもつ原罪とはなんなのであろうか』

 

どうでしょう?

 

ちょっと考えてくれましたか。      


 

 

日常のなかで原罪とはを、かんがえる機会はほとんどないでしょう。だからちょっと考えて見てもらいたかった。

 

ここに真摯にむきあうことが、クラウズのより深い理解につながる。そしてベルク・カッツェの中心へと至る道筋のひとつになりえると想っています。

 

正直ここにたいして懸命に向き合ってくれるのであれば、以下の文章などべつにいらないんじゃないかとおもうほどです。

 

せっかくの面白いアニメなんだから、真剣にむきあえばいろんな面を表してくれるのだと思います。      


 

 

とはいっても、はなしを書かないわけにはいきませんね。問を発したのだから、それにたいしていま出せる答えを示してみるのもこちらの誠意というものです。

 

では、はじめましょう。


 

きっかけは曲の途中でした。何度と無く聞いていたときに、ふいにアレっておもったところからはじまったんです。ぼくはなんでこの曲が好きなのかなって疑問が沸き上がってきた。

 

前回の記事やラジオでぼくは「はじめちゃんの曲だと思って聞くと、泣けるんですよ」って発言してます。

 

これは、なんでなのでしょうか。不思議になりました。だから考えてみました。

 

ひとつの理由は曲調です。どことなくしっとりとした、きめ細やかさをかんじさせるこの曲の調子がスキなんです。初めて聞いた時からこの曲の音は大好きでした。

 

でも、それだけではありません。それだけで、「はじめちゃんが歌っている」と「より感動する」とは言わないはずなんですよ。これが疑問でした。なんでなんだろう。

 

つぎに考えた理由が歌詞です。この曲を聞いたことのある人は分かるでしょうが『innocent note』の歌詞は聞き取りづらい。独特のテンポのために一度ですべてを聞き取るのは難しい。そんな「内容を把握しづらい歌詞」がぼくにどれほどの影響を与えたんだって思うひともいるかもしれない。でも、影響はあったのです。はじまりの「こころは どこへ むかうの」って言葉が耳に残って離れません。

 

いまだから分かるのですが、無意識に曲からいくつかのことを感じ取っていたんだと思います。だから、それをより深く知ろうとして前回の記事で歌詞を書き出してみたんでしょう。      


 

 

現時点でぼくは『innocent note』の歌詞(と曲)には、3つの要素が含まれていると考えています。

 

ひとつは『物語のテーマ』、ひとつは『はじめちゃんの内面』、ひとつは『ひとの原罪』

 

これらについてひとつずつ書いていきましょう。      


 

 

『物語のテーマ』

 

それは以前の記事でも書いたように、神山健治監督を代表とした「ひとの悪意」の物語です。あるいはヒーローのもつ限界。大衆の身勝手さによる圧力にたいしてひとどう対応してったらよいのだろうかということを論じた問題です。

 

これはこれでひとつの大きな記事になってしまいます。詳しくは海燕さんの記事などをみてください。       


 

 

『はじめちゃんの内面』

 

これはそのままの意味です。物語のなかではじめちゃんの内面にふれている場面は多くありません。なにを考えているのかわからないと言うひともいるかもしれない。それを補完するのがこの曲です。いつも笑顔のはじめちゃんのなかに隠れている諦念・希望の感情を描いているのかなと思います。      


 

 

『ひとの原罪』

 

これについては、ちょっと多くを語りたいところです。それこそこのものがたりの根幹を示す内容だと思います。

 

以下でより詳しく書いていきます。      


 

 

さて、そうしてぼくは何度と無く『innocent note』を聞きました。書き出して、抜き出して、没入して、考えて、そしてふと気付きました。

 

ああ、この曲ってものがたりのテーマやはじめちゃんの内面を説明しているだけでないのかもしれない。もっと大きな、それこそ、この世界の大きな制約にまで言及しているうたなのかもしれない。いいかえると、このせかいにいきるひとの原罪を唄っているのだなと。

 

その瞬間、ちょっとだけですが、この曲がぼくを惹きつける理由がわかりました。

 

この曲はひとの原罪を唄ったうたであり、ひとの剥き出しの精神に触れてくる。

 

だから波長のあうひとには、すごくマッチする曲なんだろうと。      


 

 

そう考えながらこの曲を聞いていると、次のようなフレーズに意識が向きます

 

『だれもきっとひとりじゃさびしい いきものさ つながっていたいのさ』      


 

 

これを見た瞬間思いました。おそらく、これがガッチャマンクラウズの世界の原罪なんだろうと。

 

さまざまな要因により切り離されていくせかいで、つながりあうことだけはやめられないひとの業がそこにあるのだと唄っている。

 

幸村誠の『プラネテス』に「愛しあうことだけはやめられないんだ」というシーンがあります。愛しあうことだけはやめられない。呪いに近いナニカ。

 

それが原罪です。

 

切ろうと思っても切り取ることのできないひとの業そのものです。

 

そう考えるとこの作品の別の側面が浮かび上がってくるように思えます。      


 

 

顔の見えない匿名の社会。でも、つながっている。ひとはGALAXというシステムを介して「だれでもない状態を保ちながらも、尚つながりを求めてしまう」。

 

たとえ高度に発達して他者とあわなくてもやっていける世界になろうとも、「何らかの形でひとはつながらずにはおれない」のかもしれない。それは何故か。理由は「さみしいから」。それがこの世界のひとに設定されたルールであり、限界なのです。

 

そこから考えていくと、この物語における「ただしさ」の方向性が見えてきます。「さみしさ」は埋めないといけない。それはせかいに設定されたルールです。      


 

 

つまりはゲーム盤なのです。      


 

 

このゲームはいくつかのクリア条件があります。「大衆の悪意からせかいを守りながら次のせかいへとアップデートさせる」とか「地球に侵入し迫り来る異星人から世界をまもる」とかです。ほかにも様々な条件があることでしょう。

 

ちなみに「地球に侵入し迫り来る異星人から世界をまもる」というゲームで「敵を倒す」というのはレベルの低いクリア方法です。そうすると「更なる敵があらわれた」というループシナリオが発生してしまうからです。根本的に解決(例えば「MESSと友達になる」)しないとクリアをしたとはいえません。

 

「大衆の悪意からせかいを守りながら次のせかいへとアップデートさせる」も同じです。「未来のおれたちがなんとかしてくれるぜ!」という具体性の全くない解決では、「~年後。さぁ世界をアップデートしてください」というループシナリオが発生してしまいます。      


 

 

このようなゲームですが、クリア条件とは別に「ゲームのルール」が存在しています。

 

ぼくたちは「人類」をつかって、さまざまなクリア条件を満たそうとしていきます。しかし、その「人類」は「さびしさを埋めてあげないと滅んでしまう」のです。だから定期的に「さみしさを埋めて」あげてください。

 

そういうルールのゲーム盤なのです。もしそのルールを満たさなければ「ベルク・カッツェ」があらわれて世界をほろぼしてしまうのです。      


 

 

ベルク・カッツェは「ひとのさみしさ」を利用して世界を滅ぼしていく。そういう存在です。もしカッツェが現れたならば、「さみしさ」を埋めて滅亡ポイントを減少させてくださいね。      

 

 

そう考えると、カッツェが塁くんのまえにすがたを現したのはすごくわかることです。

 

塁くんはクリア(世界のアップデート)のためにGALAXYを作りました。しかしそれは匿名性を高めて世界の「さみしさ」を強くしてしまう作用のあるアプリなのです。最初はいいですが、それだけをつづけて無理をすればとうぜんに歪が生じる。

 

そうして彼のまえに「ベルク・カッツェ」はあらわれた。

 

塁という少年は優秀なプレイヤーです。せかいをアップデートさせるためにはかれの協力が必要不可けるです。しかし、かれは常にコスプレをしてあらわれる。けっして本当のすがたではあらわれないプレイヤーなのです。

 

かれが登場するだけで「人類」の「さみしさ」は高まってしまいます。      


 

 

このものがたりでずーっと「かおを見せない」ことがマイナスであるように描かれていたのは、それが理由です。このせかいには「滅亡回避」のための隠しパラメーターがあるのです。

 

カッツェが7話でしている問もそこにつながってくると思います。

 

人類皆は「さびしい」ので、つながりを求めるのです。それが呪いでもあり、同時に救いでもあります。

 

だからEDのラストでは

 

「ぼくたちはわかっている かわすおもいがうんめいさえぬりかえることを」

 

といっているのです。

 

「つながり」が世界のアップデートの希望であり、滅亡のうんめいを回避するフラグなのです。

 

さて、ながくなりました。きょうはここまでにしましょう。

 

ありがとうございました。

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