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2013年8月

2013年8月31日 (土)

借りてきた

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ちゃんと見れるか心配ですが、借りてきた。
ハウルは『風立ちぬ』以来観直したかったってのもあるので。

『未来の働き方を考えよう』とするため『かんがえる場』があるといいのではないかというおはなし

ちきりん氏の『未来の働き方を考えよう』をよみおえました。
いくつもの重要なポイントがあるのですが、特に気になったのは以下のポイントです

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

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・お金と寿命に関する発想の転換について
・本気のワークライフバランスを実現


以下箇条書きのようにして書いていきます。ホントは何度と無く読み返して思考を整理してから書くべきだと思うのですが、ちょっと面倒臭い(笑)ので、、
えーと、まず思ったのは「人間のもちえる資産ってなんだろうな」ということ。頑健な身体や、明晰な思考、それこそ時間や性格などもあると思うんですよね。
これらを使い潰しながら生きていくのがじんせいだと思うのですが、じぶんがなにを使い潰しているのかぼくはよくわかっていないよなぁって思うのですよ。うーーーん。

ひとつの重要な要素は「時間」であるのは確実です。
時間をどのように配分するのかは重要な要素です。『未来の働き方~』のなかでも「人生のどの期間に、仕事と家庭と個人の趣味のどれに、どの程度ずつ時間を割り当てるか」って言っている。
これは、どのくらいまでじぶんの持っている資産を使い潰すか考えようってことだと思うのですよ。

それを考えていくと、ぼくは、なにを持ってて、どこでどう使い潰せばいいのだろうな、などという疑問が浮かびます。
いや、ホントにぼくが持っているものって何なんだろう。
ぼく自身にはなにかを持っている感覚はないのですが、それでも、おそらく持っているのだと思うんですよね。それこそ「人格」だって使い潰すものなんだと感じています。
どこでじぶんを出していくのか。どこでインパクトを与えていくのか。
資産の運用は計画的に、、ってCMがむかしありましたが。まさにまさに。

ぼくなんて、持っている資産を使い潰してばかりいるので、計画的につかうってことが肌に馴染んでいない。実感できないんですよね。
いやぁぁぁ、ほんとになにを消費してぼくはじんせいを歩んでいるんだろう。
ちょっと疑問に思ったので、書いてみてます。

さてさて、なんのはなしをしてたっけ?わすれた・・・

ああ、えーっと、『未来の働き方~』ですよね。
えっとね、他に考えていたのは


「これからの未来を5通りくらい提示する」ってはなしはおもしろいなぁってことですね。


ぼくはおそらく、このまま医療業界に進むのですが、そのなかでもいろいろな未来があるんですよね。
それは大学に入るまではまったくわからなかったことで、じぶんが中にいるからはじめてわかることがあります。


それこそ
・臨床医になるや
・研究者になるや
・厚生労働省などにはいって医療政策に関わっていく
・あるいは逆に在野に出て行って地方都市。町村の活性化に関わっていく
という選択肢もあります
・医学専門予備校の講師になる方法もあれば
・病院バイトを繰り返すフリーター
のようになることもできます。
『医龍』にでてきた麻酔科医のような生き方ですね。


こういう、さまざまな選択肢を与えてもらえるってのは、ラッキーな事なんだろうとおもいます。そして、なにをやっていいかわからない人の「ロス」をへらすことになるんだろうなっておもいますね。
ちなみにこれを読みながら思ったのは。こういう「選択肢」を集約する「場」はあってもいいんじゃないだろうか?ということ


名もない人々からちょっとずつ力を借りるなんてどうだろう

たとえば、『Chikirinの日記』に「未来の選択肢」に関するメールフォームを用意する

そうだな
現在の職業:医者
経歴(匿名):A高校を卒業。B大学C学部に入学卒業。D社に入るが、5年で辞職。E大学医学部に入学して医師となる。現在医師~年目
C学部からのライフプラン1:
C学部からのライフプラン2:
 ・
 ・
D社からのライフプラン1:
 ・
 ・
医学部からの(以下略)
こういうフォーマットを用意して書き込む場所を用意する。職業などは選択式でもいいかもしれない。


そうしたら、それを参考にして別の誰かがライフプランを書き込んで、その結果や、その先を描いてみる。個人的にはチャートでみられると嬉しい。
具体的にどうしたらいいのかってのはかんがえる必要はあるが、ひとつの方法論としてはアリなんじゃないかと思う。


そうやって『場』を構築すれば、『場』の責任者にもなんらかの見返りはあるだろう。放っておいても情報が集まるなんてのも大きなメリットだ。
そういうふうにして、社会人や主婦、大学生や老人、それこそ高校生から小学生までが人生の設計を考えるための情報が集まるフリーな場所を作ってもいいのではないのだろうか。
そんなことをつらつらとおもいながら。そろそろ締めます。
んではでは。またよろしくお願いします。

とある科学のフェブリちゃんかわいいなぁ

撮りためてた録画見て。かわいいなぁ。それだけです

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2013年8月30日 (金)

たのしいまいにち

まいにちまいにち『そだシス』をよんでいます。とってもとってもしあわせなまいにちです。たまにじけんやかなしいできごともおこるけど、ジャスくんとセーレちゃんはげんきにげんきにまいにちをすごしています。
280話をこえてもまだふたりともななさいです。かれらのあかるいみらいにさちあれ!
ってな、感覚でそだシスを読んでいます。超日常系幼児による幼女子育て小説『そだシス』小説家になろうにて絶賛公開中。

クラウズの向こう。シンフォギアのかなた。(疑問のみ)

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さいきん見れていなかったシンフォギアGの8話をみています。
こうやって改めてみていると、シンフォギアって旧いつくりなのだなぁという印象がぬぐえません。ガッチャマンクラウズを見た後だから余計にそう感じるのかもしれないけれど、両作品の差異が気にかかってます。
ぼくの見た感じだと、ガッチャマンクラウズは余計なものをそぎ落としたのにたいしてシンフォギアは余計なものを盛り込んでいっているようです。クラウズは登場人物の生々しい日常が排除されていったのにたいして、シンフォギアは取り込み圧縮していった。
そのあたりがクラウズの洗練された様相とシンフォギアにつきまとう泥臭さの差になっているのかもしれません。
いやぁ、このあたりは面白いですね。
シンフォギアの方向性とクラウズの方向性。
両作品ともに同じような技術で逆のベクトルに突き進んでいるようにみえます。
ここに何かあるんじゃないかなぁ、って気がしているんですよね。
うーーん、なんなのだろう。
うーーーん。『里山資本主義』の里山と都市部の違いだろうか・・・。ちょっと気にかかる。
シンフォギアの先と、クラウズの先。このへんは赤松先生の新作『UQ QUEST』に続いているんじゃないかなぁ。
。。。まぁ、そんな疑問だけブログに残し
ここはおわりましょう。

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どうでもいいのだが

この曲がすきでしてねぇ。。。おちつく

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いま話題の『ガッチャマンクラウズ』をボードゲームのように考えてみたら思ったよりスッキリしてしまった件について

さいきん毎日はじめちゃんの『innocent note』を聞いています。(はじめちゃんについてはこちらで書いたので、はじめちゃん好きの方はこちらもどうぞ)

 
                                                      
          

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何回も何回もこの曲を聴き続けてます。それで、ちょっと気づいたことがある。

 

ぼくはこの気付きはぼくたちをガッチャマンクラウズのより深い理解へと導いてくれるのではないかと想っています。

 

そして、7話のベルク・カッツェの問のこたえにつながるのかもしれないとも感じています。

 

最近はぼくにしては文脈で読むことが多かった。現代のエンターテイメントがウンタラとか、これからのネットワークがウンタラとかである。でも、ここでもう一度、そこから離れて『ガッチャマンクラウズ』を見てみようとも思う。そこで、『ガッチャマンクラウズ』のEDを軸にこの記事をかくこととしました。

 

どうでしょう。よければもう一度『inncent note』聞いてみてください。新らしい発見があるかもしれません。前回の記事には歌詞の書き落としもあります。

 

 

さて結論へと至る前に、ぼくはちょっと聞いてみたいことがある。

 

ひとつ『ひとが捨てるに捨てられない本能とはなんだろうか』

 

ひとつ『ひとのもつ原罪とはなんなのであろうか』

 

どうでしょう?

 

ちょっと考えてくれましたか。      


 

 

日常のなかで原罪とはを、かんがえる機会はほとんどないでしょう。だからちょっと考えて見てもらいたかった。

 

ここに真摯にむきあうことが、クラウズのより深い理解につながる。そしてベルク・カッツェの中心へと至る道筋のひとつになりえると想っています。

 

正直ここにたいして懸命に向き合ってくれるのであれば、以下の文章などべつにいらないんじゃないかとおもうほどです。

 

せっかくの面白いアニメなんだから、真剣にむきあえばいろんな面を表してくれるのだと思います。      


 

 

とはいっても、はなしを書かないわけにはいきませんね。問を発したのだから、それにたいしていま出せる答えを示してみるのもこちらの誠意というものです。

 

では、はじめましょう。


 

きっかけは曲の途中でした。何度と無く聞いていたときに、ふいにアレっておもったところからはじまったんです。ぼくはなんでこの曲が好きなのかなって疑問が沸き上がってきた。

 

前回の記事やラジオでぼくは「はじめちゃんの曲だと思って聞くと、泣けるんですよ」って発言してます。

 

これは、なんでなのでしょうか。不思議になりました。だから考えてみました。

 

ひとつの理由は曲調です。どことなくしっとりとした、きめ細やかさをかんじさせるこの曲の調子がスキなんです。初めて聞いた時からこの曲の音は大好きでした。

 

でも、それだけではありません。それだけで、「はじめちゃんが歌っている」と「より感動する」とは言わないはずなんですよ。これが疑問でした。なんでなんだろう。

 

つぎに考えた理由が歌詞です。この曲を聞いたことのある人は分かるでしょうが『innocent note』の歌詞は聞き取りづらい。独特のテンポのために一度ですべてを聞き取るのは難しい。そんな「内容を把握しづらい歌詞」がぼくにどれほどの影響を与えたんだって思うひともいるかもしれない。でも、影響はあったのです。はじまりの「こころは どこへ むかうの」って言葉が耳に残って離れません。

 

いまだから分かるのですが、無意識に曲からいくつかのことを感じ取っていたんだと思います。だから、それをより深く知ろうとして前回の記事で歌詞を書き出してみたんでしょう。      


 

 

現時点でぼくは『innocent note』の歌詞(と曲)には、3つの要素が含まれていると考えています。

 

ひとつは『物語のテーマ』、ひとつは『はじめちゃんの内面』、ひとつは『ひとの原罪』

 

これらについてひとつずつ書いていきましょう。      


 

 

『物語のテーマ』

 

それは以前の記事でも書いたように、神山健治監督を代表とした「ひとの悪意」の物語です。あるいはヒーローのもつ限界。大衆の身勝手さによる圧力にたいしてひとどう対応してったらよいのだろうかということを論じた問題です。

 

これはこれでひとつの大きな記事になってしまいます。詳しくは海燕さんの記事などをみてください。       


 

 

『はじめちゃんの内面』

 

これはそのままの意味です。物語のなかではじめちゃんの内面にふれている場面は多くありません。なにを考えているのかわからないと言うひともいるかもしれない。それを補完するのがこの曲です。いつも笑顔のはじめちゃんのなかに隠れている諦念・希望の感情を描いているのかなと思います。      


 

 

『ひとの原罪』

 

これについては、ちょっと多くを語りたいところです。それこそこのものがたりの根幹を示す内容だと思います。

 

以下でより詳しく書いていきます。      


 

 

さて、そうしてぼくは何度と無く『innocent note』を聞きました。書き出して、抜き出して、没入して、考えて、そしてふと気付きました。

 

ああ、この曲ってものがたりのテーマやはじめちゃんの内面を説明しているだけでないのかもしれない。もっと大きな、それこそ、この世界の大きな制約にまで言及しているうたなのかもしれない。いいかえると、このせかいにいきるひとの原罪を唄っているのだなと。

 

その瞬間、ちょっとだけですが、この曲がぼくを惹きつける理由がわかりました。

 

この曲はひとの原罪を唄ったうたであり、ひとの剥き出しの精神に触れてくる。

 

だから波長のあうひとには、すごくマッチする曲なんだろうと。      


 

 

そう考えながらこの曲を聞いていると、次のようなフレーズに意識が向きます

 

『だれもきっとひとりじゃさびしい いきものさ つながっていたいのさ』      


 

 

これを見た瞬間思いました。おそらく、これがガッチャマンクラウズの世界の原罪なんだろうと。

 

さまざまな要因により切り離されていくせかいで、つながりあうことだけはやめられないひとの業がそこにあるのだと唄っている。

 

幸村誠の『プラネテス』に「愛しあうことだけはやめられないんだ」というシーンがあります。愛しあうことだけはやめられない。呪いに近いナニカ。

 

それが原罪です。

 

切ろうと思っても切り取ることのできないひとの業そのものです。

 

そう考えるとこの作品の別の側面が浮かび上がってくるように思えます。      


 

 

顔の見えない匿名の社会。でも、つながっている。ひとはGALAXというシステムを介して「だれでもない状態を保ちながらも、尚つながりを求めてしまう」。

 

たとえ高度に発達して他者とあわなくてもやっていける世界になろうとも、「何らかの形でひとはつながらずにはおれない」のかもしれない。それは何故か。理由は「さみしいから」。それがこの世界のひとに設定されたルールであり、限界なのです。

 

そこから考えていくと、この物語における「ただしさ」の方向性が見えてきます。「さみしさ」は埋めないといけない。それはせかいに設定されたルールです。      


 

 

つまりはゲーム盤なのです。      


 

 

このゲームはいくつかのクリア条件があります。「大衆の悪意からせかいを守りながら次のせかいへとアップデートさせる」とか「地球に侵入し迫り来る異星人から世界をまもる」とかです。ほかにも様々な条件があることでしょう。

 

ちなみに「地球に侵入し迫り来る異星人から世界をまもる」というゲームで「敵を倒す」というのはレベルの低いクリア方法です。そうすると「更なる敵があらわれた」というループシナリオが発生してしまうからです。根本的に解決(例えば「MESSと友達になる」)しないとクリアをしたとはいえません。

 

「大衆の悪意からせかいを守りながら次のせかいへとアップデートさせる」も同じです。「未来のおれたちがなんとかしてくれるぜ!」という具体性の全くない解決では、「~年後。さぁ世界をアップデートしてください」というループシナリオが発生してしまいます。      


 

 

このようなゲームですが、クリア条件とは別に「ゲームのルール」が存在しています。

 

ぼくたちは「人類」をつかって、さまざまなクリア条件を満たそうとしていきます。しかし、その「人類」は「さびしさを埋めてあげないと滅んでしまう」のです。だから定期的に「さみしさを埋めて」あげてください。

 

そういうルールのゲーム盤なのです。もしそのルールを満たさなければ「ベルク・カッツェ」があらわれて世界をほろぼしてしまうのです。      


 

 

ベルク・カッツェは「ひとのさみしさ」を利用して世界を滅ぼしていく。そういう存在です。もしカッツェが現れたならば、「さみしさ」を埋めて滅亡ポイントを減少させてくださいね。      

 

 

そう考えると、カッツェが塁くんのまえにすがたを現したのはすごくわかることです。

 

塁くんはクリア(世界のアップデート)のためにGALAXYを作りました。しかしそれは匿名性を高めて世界の「さみしさ」を強くしてしまう作用のあるアプリなのです。最初はいいですが、それだけをつづけて無理をすればとうぜんに歪が生じる。

 

そうして彼のまえに「ベルク・カッツェ」はあらわれた。

 

塁という少年は優秀なプレイヤーです。せかいをアップデートさせるためにはかれの協力が必要不可けるです。しかし、かれは常にコスプレをしてあらわれる。けっして本当のすがたではあらわれないプレイヤーなのです。

 

かれが登場するだけで「人類」の「さみしさ」は高まってしまいます。      


 

 

このものがたりでずーっと「かおを見せない」ことがマイナスであるように描かれていたのは、それが理由です。このせかいには「滅亡回避」のための隠しパラメーターがあるのです。

 

カッツェが7話でしている問もそこにつながってくると思います。

 

人類皆は「さびしい」ので、つながりを求めるのです。それが呪いでもあり、同時に救いでもあります。

 

だからEDのラストでは

 

「ぼくたちはわかっている かわすおもいがうんめいさえぬりかえることを」

 

といっているのです。

 

「つながり」が世界のアップデートの希望であり、滅亡のうんめいを回避するフラグなのです。

 

さて、ながくなりました。きょうはここまでにしましょう。

 

ありがとうございました。

2013年8月29日 (木)

有頂天家族の無常の感覚がはじめちゃんをれんそうさせるというおはなし

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録画してみていなかった有頂天家族をみている。大学で発表しなければいけないこともあるので、いちおう同時作業になる。まぁ、ぼくはシングルタスクの人間なのでひとつをやればひとつがとまるので、どうじとはいいがたいのではあるが。
それにしても有頂天家族は好きです。いやぁ。CMからして好きなんですよ。
おやじ様をくってしまった弁天様をどうしてすきになってしまうのかねぇ
ってこの無常の感覚がたまりません

ものすっごい、めちゃくちゃ面白いわけではないのですが、でもとても楽しんでみています。

この物語の根底にはどうしようにもならないひとのこころってのが隠れてたり、世の無常を受け入れてみたりする諦念が見え隠れしてて、、これがエンターテイメントとはちょっと違うよなって見え方をサせてくれます。
これねぇ、なんなんでしょうね。ただ淡々とせかいが紡がれて、ひととひとが縁をつないでいくのをみているだけでたのしいってこの感覚。

Twitterでも書いたのですが、はじめちゃんの感覚にも通じている部分があると想うんですよね、
なんていうか、せかいを受け入れて淡々と生きていく

くわれるとわかっても

おれはむすこたちを育て上げてたぬきとしての生はじゅうぶんに全うした そこから先は天からの授かりものであるからにしてひとに食われるということもあるであろう
っていうおやじ様の精神。

これがいきづいているこの物語の精神性というのは、どことなくはじめちゃんにつながっているんじゃないかなって思います。
うーん、、、どこなんだろう、
たとえば、はじめちゃんはくわれるのは嫌でしょうね、
でも、いざというときになったら受け入れてしまう感覚があると想うんですよ
ひととしての持てる最善を尽くし、それでもどうにもならないものは、どうにもならないとして受け入れていく

これはひとではない。たぬきの精神なんですよね
ふつうはそこまで到達できません。
いや、じっさいはじめちゃんがそこにいるのかはわからないのですが、いまの状態をみるとそこにいてもおかしくないと想う

バックボーンのわからないままにそこに到達されるのもどうかとはおもうのだけれど
それこそがイノセントのありかたなんだとはおもいます
生と死が交じり合って彼岸を此方からながめている感覚ですね
うん。そういうと朝霧の巫女をおもいだします。
なるほどなるほど。
ちょっとつながってきた気がしますね
まぁ、そんなかんじで今回は失礼します。
有頂天家族おもしろいなぁ。いや、ふしぎだ

ガッチャマンクラウズED『innnocent note』の歌い手がはじめちゃんだったので歌詞を抜き出してみた。あー、イイ曲だ

毎日innnocent noteを聞いています。はー、泣ける。
ガッチャマンクラウズの曲が好きなのでiTunesで曲を買ったら、はじめちゃんが歌ってるってなっているんですもの。
そうやってきくと
ホーリュ(?ききとれない)
こころはどこへとむかうの
たのしくしててもかなしくなる きえてしまいたいよ
なにがほんとでなにがうそか あやつられているこのせかい
かきかけのノートに 言えないおもいあふれている
無邪気なこころがくりかえし さけぶこえがぼくをよぶから
だれもきっとひとりじゃさびしい いきものさ つながっていたいのさ
たいせつなひびをまもるそんなねがいが いまちからにかわるよ
たとえじだいが手と手つなぎあうことさえ とおいきおくにしても
ぼくたちはわかっている かわすおもいがうんめいさえぬりかえることを

(inncent  note)

ひとつわかるたびひとつなくす こぼれてゆく じゆう
なんにもしらないあのひのまま わらいあえたら いいのにね
じかんさえわすれて きみとちゃんとはなしがしたい
リセットできないときの矢が むかうばしょにまつものはなに
あしたがどんなフォルムをえがきだしたって ほほえんでうけとめる
ひとりじゃつかめないほんとうのじゆうは きみとつくるみらいにあるはず

(inncent note)

そのえがお くもるよるは ぼくがひかりにかわるよ
つたえあう きせきをしんじて
belive
だれもきっとひとりじゃさびしいいきものさ つながっていたいのさ
たいせつなひびをまもる そんなねがいが いまちからにかわるよ
たとえじだいがてとてをつなぎあうことさえ とおいきおくにしても
ぼくたちはわかっている かわすおもいがうんめいさえぬりかえることを

これですよ!
ちょっとネットに歌詞がみつからなかったので聞いて書き出しています。
この物悲しいかんじとあわせて、いやーいいなぁ。
あ、ちなみにはじめちゃんがどんな存在かを書き連ねた前回の記事もご参考にくださいませ。

2013年8月28日 (水)

『ガッチャマンクラウズ』のはじめちゃんは可愛いけれどその正体は何なんだってことについての覚書のようなもの

思うがまま書いてから、まったく修正していないけれどいいのかって内容を公開してみます。
まあ、ほとんど見ないだろうからいいよねって・・・
ガッチャマンクラウズみてますか?面白いです。はじめちゃん可愛いです。いまなら日テレオンデマンドで無料です。みんな見ましょう。今日ガッチャマンの映画みてきます。オンデマンドで流れるダメなCMみて凄く気になりました。
さてはじめちゃんです。ぼくははじめちゃんの話をしようと思ってました。忘れてた。海燕さんからは「てれびん系主人公」と言われるはじめちゃん。
ぼくがダメだと言うとはじめちゃんもダメだと言ってくれる。ぼくがうーんと唸るとはじめちゃんも何か違うんっすよーと言ってくれる。思考パターンをトレースされてるかのようで、とても不思議な気持ちになるキャラクターです。
いや、それにしてもはじめちゃん可愛い。
さて、そんなはじめちゃんですが彼女には欠点がある。海燕さんとみながらでもなーと言ってました。それがなんなのかと言うと、彼女の視点ですね。あと立ち位置。まず視点の話をしましょう。
視点。見え方。世界の捉え方。ザ・ワールド・オブ・ハジメ。いったいこれがなんなのかが問題なんだと思います。彼女は直観のひとなので常人とは異なる世界でものを捉えます。ひとによっては正解を選ぶと言うけど、ホントはそれは違うのかなと思います。
はじめちゃんの選択が正解なのかはじつは誰にもわかりません。はじめちゃんにもわかっているかは怪しいと思う。結果的には正解になってるから正しい。それだけのことです。でも、ぼくはその行動は価値のあることだと思います。彼女は世界の先の先までは見通すことができないと思います。その点は塁くんのほうが素晴らしい。
一番強いのは塁くんのような人間です。彼の系譜に連なるひとは、いつか世界を変えていくでしょう。より良い未来を目指してせかいをアップデートしていく。今回は塁くんは損な役割なんだと思いますよ。かれは、そういう意味では可哀想ではあります。物語のテーマから彼は苦悩を抱く役割に押し込められてしまう。はじめちゃんと塁くんは対照的です。
塁くんが先を見据えて世界の悪意を管理し世界を最終的にアップデートしようと望むのならば、はじめちゃんはその場その場での正解を選んでいきます。システムによる根本的な解決を望むのが塁くんならば、はじめちゃんはそれを望みません。
彼女にできるのは現状をちょっとだけよくすることだけだと思います。目の前の絶望を回避すること。ちょっとだけ幸せな未来を選ぶこと。はじめちゃんは世界などという大層なものは背負わず、自分に抱えられるものだけを守るのだと思います。
神山健治監督はそこに絶望をみました。すべてのものが世界をよくすることはできない。一握りの希望は大多数の悪意(無関心のほうが近いと思います)に握りつぶされてしまう。
ガッチャマンクラウズはそこに絶望をみません。絶望のわきには希望があり、希望のわきには絶望があります。
はじめちゃんの見ている世界とはひとつの虚無なのかもしれません。ナウシカでははじめちゃんのあり方を虚無と評しました。たぶんね。
彼女の裏はベルク・カッツェです。おそらく。かのじょはひとの絶対の悪意を信じません。彼女はひとの絶対の善意を信じません。ひとは良いこともすれば、悪いこともします。でもカッツェとはじめちゃんはちょっと違うと思います。何処が違うのでしょうか。
それはベーシックな立ち位置だと思います。
カッツェはたぶんひとが善きことをすることを知ってます。はじめちゃんはひとが悪しき行いをすることをしっています。
それでも、ひとは善なる行いをする。そう、はじめちゃんはおもってます。性善説です。
カッツェはまだわかりません。
彼が真になにをおもってるのかはまだ明かされてません。でもみていると、カッツェは愉快犯であるように思えます。
カッツェとはじめちゃんは似ています。
言葉は通じます。笑顔は交わせます。でも心が交わせるかはわかりません。
じつはいま書きながら改めて悩んでます。

はじめちゃんは心を交わしてるんですかね。人間と対話しているんですかね。言葉は通じても意図はわかってもらえているんですかね。彼女の胸の内は他者と共有するせかいがどれほどあるのでしょう。
彼女ははじめにまだまだ残ってるお弁当をわきにお腹減ったとつぶやきます。それは文字通りの意味ではありません。おそらく刺激をさしていっているのです。
もっと面白いことないかな。わたしの予想を超える出来事が怒らないかな。と。そう言っているのです。
ここから彼女の精神の一部が読み取れます。
彼女もまた愉快犯に近い。自らの愉悦に興じる悪魔のような精神の持ち主です。
七話で彼女は迷わずカッツェの元に向かいます。ジョーさんが傷つけられたことへの怒りは見えません。生命が救われたならば良いと考えたのかもしれません。しかし、普通なら彼女の行動は異常です。
仲間を、友を傷つけ殺しかけたものと平然と言葉を交わし、談笑?をする。
感情より先に理性があり、未知なるものへの興味が優先される。彼女はいったいなんなのだろう。
これがナウシカならばどうだろうか。痛みに対する共感から始まるだろう。信念のもとに言葉を紡ぐのだろうか。
しかしはじめちゃんにはそれがない。彼女には本性があり、彼女はそれに従う。
塁くんを代表とするキャラクターは理性のひとだった。ナウシカも基本はそうだと思う。
理性の信奉者は理性に裏切られる。理性の外にあるものに裏切られる。
だから東のエデンの滝沢は失敗をする。009の島村ジョーは神へと問いかける。
理性によらない集団の悪意に世界の革新を阻まれる。
塁くんはそれをシステムで管理しようとする。集団を集団として管理しつつ、個人を個人として管理する。ギャラクシーシステムには希望がある。システムを管理するエックスには希望がある。
この物語には四つの異物がある。
ひとつははじめ、ひとつはメス、ひとつはカッツェ、そしてエックスである。
かれらは人間にして人間ではのものである。人間の要素を持ち、人間の一部をもち、ある種人間であるのに、人間ではないもの。それが彼らである。
はじめは人間だ。しかし、人間とは異なる精神をもつ。ある種の本能の奴隷である。
カッツェは見た目は人間だ。まだ何者かわからない。
メスは人間ではない。人間とは異なるコミュニケーション形態をとる。はじめとは交流でき、人類との交流の可能性がある。
エックスは機械だ。塁が作った。人間を理解する。そして意思を持たない。彼女に真なる信念はもたず、それ故に「繋ぐ」可能性を秘めている。
ぼくはここにこの物語の可能性があるのではないかと思ってます。

いままではひとりに世界が背負わされてました。でもそれは失敗した。だから今度はそれを分散させた。でもそれは失敗した。集団の悪意に晒されるから。だからそれを複数の異なるものたちに分散させた。それがこの物語のひとつの可能性だと思います。
各レイヤーの代表者同士を通じ合わせて全体の連携をとる。
ひとりでもなく。全員でもなく。役割分担。
それがこの物語なのではないかと思います。
さて、散文ばかり書いてますね。
今夜これからLDさんとアッシュさんとラジオをやります。
この辺りの思考の泡がぼくの言動の根本になるはずです。ではでは、よろしくお願いします。

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