青空エール1巻読んでの覚え書き。青空エールのエールは僕たちへのエールでも在るんだ!・・・って何処かに有りそうなタイトルが思いついた
河原和音さん著の青空エールの1巻を読了しました。これは文句なしに満足っ。
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評価 5(5.0かな)
個人的評価 5(5.2)
ぼくはこの作家さんを先生全20巻から読んでる(もってる)んですが、そのときは「面白いんだけれど・・・ん~・・・」って状態になってしまったんですよね。
それがなぜかというと同じところをグルグル回り続ける主人公と、教師なのに生徒に手を出してしまった先生を見て「あなたその子じゃなくてもいいんじゃない!?」というツッコミが入るようになってしまって。やっぱり20巻ってのは長すぎるんじゃないかな~ってのがおおよその感想だったんですね。だから幼なじみの妹みたいなひとに「なんかおもしろいのな~い?」って聞いたときに「高校デビュー!」って答えられて「そのひと先生の人だよねッ」ってちょっと尻込みしてしまってました。たしかあのとき5巻くらいまで読んだんですが、それから読んでないですね。偏見の入った目で見てたからかもしれないけれど「あ~先生とまあ同じようなものかな」って感想を抱いた記憶があります。
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で、今回の青空エールを読んでみたけれどこれはいいですね!これを読んで先生の時からのモヤモヤってのがやっと納得言った気がします。
どういうことかというとこの作家さんは先生で、成長しきれないでもがいている女の子を書いてたんだなぁと納得がいったんですね。つまり先生の時は「ぐるぐる悩みをいだいてしまう女の子」を描いて、それの相手役に「包容力のある自立している大人」ってのを用意した。でもあのシチュエーションだとああこの子は同じ悩みを抱いちゃうだろうなぁ、また繰り返すだろうなぁってのはすごくよく分かるんですね。
いや実際分かるかどうかは分からないんだけれど、正確には分かる気がします。だって片方は冷静なんですから一方は距離感を感じてしまっているから。『先生』ででてくる「先生」ってのはどこか冷めた男なんです。よもちろん熱情も持っているけれど、仕事もあるし分別もあるちゃんと仕事のできる大人。夢に向かってただ邁進していくような人間ではないんですよね。別にこれを悪いと言っているんじゃないんです。が、生徒であって恋人である少女に対してもそういう分別を働かせてしまうこれをみていると、ああ~悩みを繰り返してしまうな、という風に思っちゃうんですね。だからやはり同じような悩みを抱いてしまって「おまえなぁ・・・またかっ!」ってツッコミが入ってしまう。
でも、あの関係だとやっぱりそうなるよなぁってのはあります。あの女の子が成長するとしたら先生の物語の後だと思います。もっと先生と親密に時をすごして立場を同等にして・・・
(あ、書いててもしかして無理かなって、ふと思っちゃった。立場の違いからどこか距離感を生んでって、それが成長できない原因のひとつだろって思ったので「じゃあ卒業してもっと先生と距離感縮めたらなんとかなるんじゃね?」と思ったのですが。考えてみたら「守る守られるの関係」に収まってしまうなって・・・うーん、どうしようも無いですかね。まあ、新しい関係を築いて幸せな生活をおくるとは思うのですが・・・)
ちょっと仕切りなおしましょう。
結局何が言いたいかっていうと先生の関係ってのは「どこか距離感ができてしまったぼくたちが成長できない」って悩みと同じじゃないかなってこと。この距離感を作る要因ってのはいくつか在ると思うんです。
例えば現代の並列化する世界。東浩紀さんがいうシミュラークルな世界っていうのはぼくたちの価値観を相対化してしまうって側面が存在する。相対化ってのは絶対の価値が無いってことなんですよね。だから今までだったら「最高ッ!」って思ってたことが「まぁまぁかな」ってなってしまう。相対化ってのはその前提に「評価」ってことがある。そこで「くだらないこと」に力を費やすにはそれなりの条件が必要なんですね。だってつまらないことはやりたくないでしょう。同時にくだらないことに全力を傾けたくないじゃないですか。それが相対化の大きな問題点だし、これから生まれてくる世代とぼくたちが必然的に抱えていかなければならない問題だと思います。
何かを選択した瞬間から「同じ事をするのにもっと効率良くやる手段を剃る方法ないかな~」って探しだすことができてしまうし、してしまう。タイムイズマネーってことばは時は金なりって訳されるけれど今の時代相対化しなくてすむ時を稼ぐってのは、お金をかけても難しいことになってしまってます。このブログを見てくれてたひとやsomething orangeラジオで海燕さんとぼくが喋ってた話を聞いてくれたひとは知っているかもしれませんが「もっといい方法ないかなって探してるその時間がタイムロスだよっ」ってことなんですね。相対化ってのは良くも悪くも横の道が見えてしまうんです。だからもっといい道を見つけたらそっちに移ってしまう。でもそのうつる道を見つけるにかかった時間があれば、元々の道を一歩でも突き進むことがでできる。だから史上最強の弟子ケンイチとかをみて「君は才能がない。だけれど安心しろ君にはもう達人になる道に向かって落ちていくしか道はない諦めろ」ってことばにおお~ってなってしまうんです。ケンイチくんは才能もないし到達もひとの2倍も3倍もかかってしまう子だけれど「おまえこれやりなさいね」ってことに一心不乱に打ち込んで成長していくんです。かれには横の人の成長は見えないし実際序盤で彼のそばにいるのはかれを遥かに上回る「達人」ばかりですから見渡しても意味が無い。かれはどの道が正しいかの「頭のよい」選択は選べないし、仮に「いやだっこんなの拷問だからもっと効率のいい方法が在るはずだっ」とか言っても師匠たちは「よーしそんだけ元気があるならもっとメニュー増やせるな」と返されてしまう。実際最新刊ではかれは成長し、マンガの開始時点では雲の上の「達人」と大差ない存在に勝てるようになっている。これは「よそ見をしない(できない)」で成長せざる負えなかった必然なんだと思うんです。
で、ぼくは成長するためにはある種の視野の狭さってのは必要だと考えるようになっていて、それは「無駄な時を産まない」ということにつながっている。
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例えば以前紹介した「昭和元禄落語心中」なんてのは主人公が単純であるからこそ成長せざる負えないシステムが出来上がってしまっている。かれは「こんなすごいひとを見つけたんだからついてくっきゃ無いでしょう当たり前ですよね」という風情で相手の懐に飛び込んでいってしまう。このようにしてケンイチも落語心中も形は違えどじぶんたちの成長に対して相対評価を取れないかたちを用意してしまっている。とはいえ現代で「そう」あれるには相当の才能や条件が必要ではないかと思います。才能とか能力で言うならそれは「こうと決めたらやるしかない」と自分をカスタマイズするってことだったりすると思うんですね。
しかしそれは現代の人たちに共感してもらうのはすごく難しいと思う。これの類型というのはワンピースのルフィだったりするんですが、描かれ方としては「未知の生物」という描きであって大多数の人間にはそれは「ファンタジー」の領分に感じられているのだと思います。そこで青空エールの物語ってのはそれとは異なって「共感できる主人公」が設定されている。これはこの漫画が少女漫画で中高生を対象に描かれているというのも理由の一つでしょう。
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この物語の1巻では主人公の恋の相手である大介君が「やりたいって思うことが第一歩なんだ」ってヒロインの女の子に語りかけています。ここで言いたいのは「やりたい」と思うのは誰にだって在るだろってことですね。例えば周辺の20代の友達とかに話をしていても「将来音楽をやってみたい」「小説を書いてみたい」ってアレしたいコレしたいってひとはちょこちょこいます。でもたいていは「でもこういう仕事があるから」とか「才能がなければ。。。」ってなってしまいがち。そういうのがリアルなんだとは思うんです。でもこの漫画ではそういう人はもう一歩住みだしているよ。あともう一歩なんだ、と語っている。青空エールってタイトルは読んでいる僕たちに対するエールなんだ、とかそんなことも想像してしまいます。
・・・おっと。ちょっと話がとっちらかっているのでここで書くのをやめておこう。実はコレ以外にもエールを贈ることが逆に自分に返ってくるってはなしとか。贈る相手を間違えるってイベントは無いのかな、とかの話はしたいのですが続巻を買って書く気が起きたら書いてみたいと思います。
(思いつきで書いているのですが、どこか引っかかるところでもあったらクリックしてやって下さい↓)
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