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2011年9月 7日 (水)

サイバーフォーミュラSIN(3話終了時点)のすばらしさ(ついでにバクマンとの対比)について

まあ、前回SINが素晴らしいと語ったけれど、どこがすばらしいかいい忘れていた。
サイバーフォーミュラシリーズで好きなのは何かと問われるならば、SINと11をぼくはあげるだろう。もちろん個別にすごく好きなものは各シリーズに存在している。しかし全体を通してみるとこの2つ、とくにSINは素晴らしい。
ぼくはサイバーフォーミュラシリーズとは、ダウンアップの歴史だと思っている。
TVシリーズからSAGAまでその歴史は下げて元の位置より高く上がるを繰り返してきたと言っていい。
TV版のハヤト、新条。ZERO、SAGAのシリーズ前半(約3,4話)のハヤト(あるいは新条)。これらは例外なくダメになっていく過程を描いている。
11(ダブルワン)は比較的下げ方がちいさいのだが、それでも1話目で多少下げて戻している。11ではその後ナイトシューマッハというライバルが登場するため、上がり続けていくのではあるが。
その点SINではキャラクターの恪が下がらないまま続いている。(4話見た時点で書き足し まあ京子さんはギリギリ下がってないでしょう)
これは上昇を続けていく物語をみているようなもので、絶え間なく高揚していくさまを眺めることが出来る。この点がSINのすばらしさのひとつである。
もうひとつSINの、というよりもサイバーフォーミュラのすばらしさについて話しておこう。
それはキャラクターの扱いである。
とても大事にされている。
たとえばTV版で出てきた場末の整備士のおっちゃん。かれがSINで登場するとは思わなかった。
それに南雲さんがいる。
ぼくはSAGA時点からかなり好きなキャラである。なぜならかれはその格をSAGAのなかでほとんど下げなかったからだ。最後の最後だけちょっと下がったかな、という思いはあるが、それ以外は見事なまでに恪を下げなかった。かれはかれなりの理屈で戦い、破れていった。かれは自らのルールで戦っておりそれを崩すことはなかった。
南雲はバクマンでいう七峰くんを思い起こさせる。
現時点8月22日時点では七峰は見事である。自身で金を用意して会社を立ち上げ、作家が面白い漫画を掛けるシステムを供給している。その漫画家が実力を発揮できるすばらしいシステムを構築している。
ただかれは失敗するだろう。
それはバクマンを見ている者にとっては自明な物語だと思う。彼のやっていることは、シュージンが原作者で絵はサイコーが書くということと、基本なんら変わりはない。しかし負けるのだ。
これは七峰自身に問題のあることではなく、バクマンというマンガの抱える致命的な傷のようなものである。
ぼくの予想では七峰は最初は成功する。しかしなにか些細な失敗をするだろう。その結果、何か悪いことが起こる。たとえば金の供給がされなくなるとかどうだろう。そのとき彼は暴走を始めるに違いない。手持ちの漫画家にヒットをだすように醜く汚く罵り格を下げていくことだろう。その結果人は離れ、会社は潰れ。サイコーたちに説教をされてしまうかもしれない。

「ぼくとおまえたちのなにがちがうんだっ! おまえだって原作者がいるじゃないか。ぼくはそれを数人のプロにやらせただけだっ。 この世は金と知恵だろう!!」
そう叫ぶ七峰。かれは地面にヘたりこみ立ち上がることすらできない。しかしサイコーたちを見上げる目だけは爛々と輝いている。
それにたいしてサイコーは応える。シュージンは横にいて、サイコーに力をあたえてくれる。
「ぼくたちはお前とはちがうっ!! おもしろいものを人に見てもらいたい。喜んでもらいたいと思っている。なんでもかんでも金と知恵で何とかできるなんておもうなよっ!!! 」

まあこんな展開になるんじゃないかとこころの底で思っている。どうだろう。
友人にはなしをしたら「ありそうだ」なんて2人で笑ってしまった。
七峰は負けるだろう。でもこれは七峰が悪いわけではない。
七峰は七峰が悪いから潰れたのではなく、現実世界から「勝ってはいけない」といわれるから潰れるのだ。
かれは、七峰くんは、かれ本来の個性をせかいの創造主に潰されこわされ、いいように操られて潰れていくのだろう。
ぼくはこれ(自分の妄想)を観ていて「しびとを見ているようだ」なんてつぶやいてしまった。
これは物語の項で語ろうと思うが、この物語の中でのにんげんは「生きている」のだ。それを見るという点において、現実とほんのなかに違いはない。
本には作者はいるかも知れない。人間にも作者はいるかも知れない。どちらでも、ぼくからしてみればおなじことだ。
物語のなかでいきいきと生きているキャラクターと作者は無関係ではない。しかし無関係といえば無関係である。
前回のはなしを思い出して欲しい。カオスのはなしでもいい。
物語のなかで生きているキャラクターとは作者の分身であると同時に、読み手の分身なのだ。作者は自分の一部をさくひんに投入したかもしれない。しかしそれを読むものたちは、そのキャラクターに自分の中にあるものを見るのだ。
「生きている」キャラクターは「生きている」人間と変わりはない。それはどちらもぼくたちをみているからだろう。
それでも生きているという意味がわかりづらいかもしれない。ならばこう考えてみればいい。

「その存在がその存在らしい行動を取るとき、ぼくはそれをいきてるというのだ」

ということだ。
ちなみに人間とキャラクターに大きな違いはない。ある意味では。
しかしそれでも大きな違いは存在する。
それは情報量である。
ひとはその存在そのものが膨大な情報集積体である。ぼくなりにいうならカオスな存在である。だからこそ目の前で誰かが裸になろうと、踊りだそうとあり得ないこととは言い切れない。
しかしキャラクターは情報が限られる。目の前にある紙に書かれたこと。それだけが情報である。ある意味コスモス的である。
だからその情報から判断できること。一般的に言うならば「そのひとらしい行動」をとれていなければ「生きていない」となる。
これが大きな違いである。
その点からいうなら、七峰は「らしくない」失敗をしている。かれはもっと狡猾だ。鋭敏だ。失敗してもその先を考えている。マイナスをプラスに転じる策くらい在るに決まっている。
しかしそれをしなかった。
創造主にいいように操られたと感じられてしまった。それをもって生きているけれど死んでいる。リビングデッドなキャラクターと感じられてしまった。
その点南雲さんは見事だった。かれは七峰くんと同じくらい狡猾で優秀だ。鋭敏で結果を出す。そして大人なのだ。
かれは理性の人である。理性を保ちながら狂える逸材である。
SAGAのラストでかれはその一線を、ギリギリ保った。そう感じられた。
南雲さんは「生きている」。
七峰くんは「生きているけれど死んでもいる」。
あくまでもそんな主観ですが、サイバーフォーミュラは特にキャラクターが大事にされているように感じます。

(追記)
とはいえバクマンは独自のすばらしさ。ユニークポイントをもっている。これはこれでひとがまねできるものでないように思える。技術とかものすごいよね。

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