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2011年9月

2011年9月 7日 (水)

コクリコ坂からがわからなかった世代に見てもらいたい「昭和元禄 落語心中」について(殴り書き)

これはホントに素晴らしい作品ですね。別のところで、コクリコ坂が上からの物語で、これが下からの物語だってかいたんだけれど、これは一人の人間が一人前になっていく物語なんですね。

これの素晴らしさは昭和のノスタルジーをうまく利用しながら、動機の調達や真摯に目の前の物事に向き合うということを、やれている点にあるんじゃないかと思います。

もちろんキャラクターが魅力的であるのは勿論ではある。しかしそれだけではなくて、昭和という時代を反映させた、今の時代に足りないところをきちんと示してくれているのだろうなと思うんですよね。

個人的にはコクリコ坂からと、これは同時に見てほしい作品。

コクリコ坂からという作品は、登場人物がみんな大人だったんですね。みんながみんな自分の足でたって、相対する人に敬意をもって接している。

尊敬スべき大人がいて、導いてやろうと思えるくらいに自立したこどもがいる。べつにできないことは恥ではないけれど、彼らには彼らなりの矜持があって、そういうプライドを保ちながら前へ進んでいる。

ぼくはコクリコ坂からの話題をする時に、年令によって差が出るのですよ、という話をするんですが、個人的な感覚からすると20代前半がコクリコ坂からを理解出来ない世代だったりするように想えます。

もちろんそれも生まれ育った環境とか地域によって差異が出るので、一概に言えることではないけれど。

ぼくの周辺で言わせてもらうと、その傾向が如実に現れていた。

この話については、海燕さんといろいろしたのですが、語っていいかわからないところもあるのでちょいと割愛。

ただ、なんでコクリコ坂からがわからないかというと、それは登場人物が「大人すぎる」ところにあるのではないかと思う部分が大きいです。

この辺については「踊るピングドラム」がいいともうのですが、あそこで出てくることばに

「きっと 何者にもなれないおまえたちに告げる」

というセリフがある。

これはホントに現代の状態を現しているのではないかと思っていて、コクリコ坂からでは「何者かになれる」のだけれど、そういう相手にたいして「何者にもなれない」ものたちは理解が及ばないんだと思います。

ここで海燕さんの「ブレイクスルー」を話題に出してみる。あそこでは主人公たる少年は「きみはエヴァに乗りますか?」という問をつきつけられるんですね。

昔だったら「当たり前じゃん。のるよっ」となるんですが、それが時代が下って行くのに連れて、「乗らなきゃいけないけれど、乗りたくない」とか「ノリません」とかになっていく。現代の30ちょい前の世代だとそれは「自分がエヴァにのるなんて話が来るとは思ってもみない」という世代で、おそらく20に行くかどうかという世代は「エヴァ?なにそれ」という世代なのかな、という印象があります。

現代というのは非常に鋭敏で、選択肢の多い時代なのですが、それゆえに迷いや停滞が多くなってしまう。(じつはそんなに多くはないと思うのだけれど、出だしはめちゃくちゃ多いのである一定のラインまでたどり着きヅライ)

ぼくはこれをイメージするときは、崖の上の町にある塔に登っていくイメージがあります。

むかしはその崖を登る手段が限られていたんだけれど、(まあ良くてはしごくらいかな)、現代はそれこそ無数にある。道が整備されているかもしれないし、電車があるかもしれない、ヘリやエレベータもあるかもしれない。

で、多少頭のいい僕らっていうのは、どれが効率的かじっくり考えようとするんですよ。

それがね、少なければそれでもいい。でも、現代はその選択肢が多すぎるんじゃないかと。

だからどのルートを選べばいいか考え始めた時点でもうタイムロス何ですよ。本当は早く崖を登り切って、町の中にある限られた(数本かなぁ)塔に登り始めないといけない。

そうして初めて「何者かになれる」

でも大半の人間は考え続けて、崖すら登れなくて終わるんじゃないかな。

ぼくが「ピングドラム」で素晴らしいと感じたのは。その言葉に「きっと」というワードがあることです。

「きっと」何者にもなれないかもしれない、というのは、何者かになれるかもしれないということの裏返しではある。

で、何者可になるためには何でもいいから、さっさと崖を登り始めないといけない。遠回りでもいいから始めないと到達できないんじゃないかと。

ここで「動機」がなければ、「なんで登らなければいけないの?」とか訳のわからないことを言い始めるので、動機の調達がポイントになると思うのですが、今回の話題は底にはないから省略。

で、繰り返していくと、コクリコ坂からを分かるためには「何者可になる」資格を持っていないとわからないんじゃないかと思います。そういう意味ではコクリコ坂からはスタート時点で「大人過ぎた」。

ただ、ノスタルジーを利用できるようにしたのは素晴らしいことで、それは、かれらが過去の幻想に守られて現代のわれわれの泥のついた手に汚されづらいからです。(ま、そのへんも機会があったら書きたいかな)

で、かれらはスタート時点で「大人過ぎた」ので現代の若者には受け入れられづらいのではないか。

そこでこの「昭和元禄 落語心中」という作品は、ノスタルジーの中にあって、立派なオトナに導かれて成長していく若者の物語をやっている。

これがほんとうに素晴らしいことで、もしコクリコ坂からがわからないならば、これを読むべきじゃないかと思います。

この作品の主役は22歳のダメな子どもです。元ヤクザだったり、頭も使えない、愛嬌だけのあるダメな子ども。簡単にいうならばてんで「子ども」なんですね。

でも彼が成長していくと、コクリコ坂の彼らに近い次元を通り過ぎていくのだろうと思います(矜持の問題があるから完全に同じとは言えないけれどね)

そう考えるとこの話っていうのは現代の若者に対してとても良い教科書になり得る作品じゃないかと期待しているんですよね。

追記

さっき読んだ「将国のアルタイル」もこの流れで受け入れられやすいと思うのだけれどね

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これはできれば8巻まで読んでもらいたい。(せめて5巻)

昭和元禄落語心中がいいね

という話を読んでいるんだけれど、これが結構いい感じです(いま1話の途中)。

さっきまで動機とかあこがれということについて話をしていて、今の時代はそれが難しいからコクリコ坂からとかのノスタルジーを感じさせる物語が出張ってきたのだろうという話をしていたんですが、ここに出てくる主役の兄ちゃん見ていると、まさに昭和な感じで気持ちがいいですね。

この話は主役の兄ちゃんの出所から始まっていて、なぜか彼は収監されていたんですね。


で、かれが出所してから一番先に向かったのは友達でも家族のところでもなく、寄席。落語の寄席に向かいます。

どうやら彼はそこで講演している落語家さんの弟子になりたいということで、後に支障になる人を出待ちをするんですね。

ここで彼が言っているセリフが印象的で

「ほう するってぇと お前さん 監獄帰りかい?」
「おうッ そうだよ!! 本日、出たてだいッ」
「それにしちゃあ随分 楽しげだね 呆れた男だよ」
「出てきたら いままで見た いちばん偉ぇ人についてこうって決めてたんだ  それがアンタなんだよ」「オイラ落語だって大好きなんだ もう弟子んなるしか道がねぇだろ なぁ 大先生」

このやり取りがとても好きです。

出てきたらいままで見た 一番偉い人についていこうって決める。だから弟子になるしか無い。

コクリコ坂は上からの話だったけれど、これは下からの話じゃないかな、なんて思って。すごくいいです。

かれがついていこうと決める動機のシンプルさとか、そういうのは、うん、すばらしいですね。まだ1話も読み切っていないけれど、この勢いで話が続いていくなら傑作になるんじゃないかな。ちょっと楽しみな作品が増えてきました。

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サイバーフォーミュラSIN(3話終了時点)のすばらしさ(ついでにバクマンとの対比)について

まあ、前回SINが素晴らしいと語ったけれど、どこがすばらしいかいい忘れていた。
サイバーフォーミュラシリーズで好きなのは何かと問われるならば、SINと11をぼくはあげるだろう。もちろん個別にすごく好きなものは各シリーズに存在している。しかし全体を通してみるとこの2つ、とくにSINは素晴らしい。
ぼくはサイバーフォーミュラシリーズとは、ダウンアップの歴史だと思っている。
TVシリーズからSAGAまでその歴史は下げて元の位置より高く上がるを繰り返してきたと言っていい。
TV版のハヤト、新条。ZERO、SAGAのシリーズ前半(約3,4話)のハヤト(あるいは新条)。これらは例外なくダメになっていく過程を描いている。
11(ダブルワン)は比較的下げ方がちいさいのだが、それでも1話目で多少下げて戻している。11ではその後ナイトシューマッハというライバルが登場するため、上がり続けていくのではあるが。
その点SINではキャラクターの恪が下がらないまま続いている。(4話見た時点で書き足し まあ京子さんはギリギリ下がってないでしょう)
これは上昇を続けていく物語をみているようなもので、絶え間なく高揚していくさまを眺めることが出来る。この点がSINのすばらしさのひとつである。
もうひとつSINの、というよりもサイバーフォーミュラのすばらしさについて話しておこう。
それはキャラクターの扱いである。
とても大事にされている。
たとえばTV版で出てきた場末の整備士のおっちゃん。かれがSINで登場するとは思わなかった。
それに南雲さんがいる。
ぼくはSAGA時点からかなり好きなキャラである。なぜならかれはその格をSAGAのなかでほとんど下げなかったからだ。最後の最後だけちょっと下がったかな、という思いはあるが、それ以外は見事なまでに恪を下げなかった。かれはかれなりの理屈で戦い、破れていった。かれは自らのルールで戦っておりそれを崩すことはなかった。
南雲はバクマンでいう七峰くんを思い起こさせる。
現時点8月22日時点では七峰は見事である。自身で金を用意して会社を立ち上げ、作家が面白い漫画を掛けるシステムを供給している。その漫画家が実力を発揮できるすばらしいシステムを構築している。
ただかれは失敗するだろう。
それはバクマンを見ている者にとっては自明な物語だと思う。彼のやっていることは、シュージンが原作者で絵はサイコーが書くということと、基本なんら変わりはない。しかし負けるのだ。
これは七峰自身に問題のあることではなく、バクマンというマンガの抱える致命的な傷のようなものである。
ぼくの予想では七峰は最初は成功する。しかしなにか些細な失敗をするだろう。その結果、何か悪いことが起こる。たとえば金の供給がされなくなるとかどうだろう。そのとき彼は暴走を始めるに違いない。手持ちの漫画家にヒットをだすように醜く汚く罵り格を下げていくことだろう。その結果人は離れ、会社は潰れ。サイコーたちに説教をされてしまうかもしれない。

「ぼくとおまえたちのなにがちがうんだっ! おまえだって原作者がいるじゃないか。ぼくはそれを数人のプロにやらせただけだっ。 この世は金と知恵だろう!!」
そう叫ぶ七峰。かれは地面にヘたりこみ立ち上がることすらできない。しかしサイコーたちを見上げる目だけは爛々と輝いている。
それにたいしてサイコーは応える。シュージンは横にいて、サイコーに力をあたえてくれる。
「ぼくたちはお前とはちがうっ!! おもしろいものを人に見てもらいたい。喜んでもらいたいと思っている。なんでもかんでも金と知恵で何とかできるなんておもうなよっ!!! 」

まあこんな展開になるんじゃないかとこころの底で思っている。どうだろう。
友人にはなしをしたら「ありそうだ」なんて2人で笑ってしまった。
七峰は負けるだろう。でもこれは七峰が悪いわけではない。
七峰は七峰が悪いから潰れたのではなく、現実世界から「勝ってはいけない」といわれるから潰れるのだ。
かれは、七峰くんは、かれ本来の個性をせかいの創造主に潰されこわされ、いいように操られて潰れていくのだろう。
ぼくはこれ(自分の妄想)を観ていて「しびとを見ているようだ」なんてつぶやいてしまった。
これは物語の項で語ろうと思うが、この物語の中でのにんげんは「生きている」のだ。それを見るという点において、現実とほんのなかに違いはない。
本には作者はいるかも知れない。人間にも作者はいるかも知れない。どちらでも、ぼくからしてみればおなじことだ。
物語のなかでいきいきと生きているキャラクターと作者は無関係ではない。しかし無関係といえば無関係である。
前回のはなしを思い出して欲しい。カオスのはなしでもいい。
物語のなかで生きているキャラクターとは作者の分身であると同時に、読み手の分身なのだ。作者は自分の一部をさくひんに投入したかもしれない。しかしそれを読むものたちは、そのキャラクターに自分の中にあるものを見るのだ。
「生きている」キャラクターは「生きている」人間と変わりはない。それはどちらもぼくたちをみているからだろう。
それでも生きているという意味がわかりづらいかもしれない。ならばこう考えてみればいい。

「その存在がその存在らしい行動を取るとき、ぼくはそれをいきてるというのだ」

ということだ。
ちなみに人間とキャラクターに大きな違いはない。ある意味では。
しかしそれでも大きな違いは存在する。
それは情報量である。
ひとはその存在そのものが膨大な情報集積体である。ぼくなりにいうならカオスな存在である。だからこそ目の前で誰かが裸になろうと、踊りだそうとあり得ないこととは言い切れない。
しかしキャラクターは情報が限られる。目の前にある紙に書かれたこと。それだけが情報である。ある意味コスモス的である。
だからその情報から判断できること。一般的に言うならば「そのひとらしい行動」をとれていなければ「生きていない」となる。
これが大きな違いである。
その点からいうなら、七峰は「らしくない」失敗をしている。かれはもっと狡猾だ。鋭敏だ。失敗してもその先を考えている。マイナスをプラスに転じる策くらい在るに決まっている。
しかしそれをしなかった。
創造主にいいように操られたと感じられてしまった。それをもって生きているけれど死んでいる。リビングデッドなキャラクターと感じられてしまった。
その点南雲さんは見事だった。かれは七峰くんと同じくらい狡猾で優秀だ。鋭敏で結果を出す。そして大人なのだ。
かれは理性の人である。理性を保ちながら狂える逸材である。
SAGAのラストでかれはその一線を、ギリギリ保った。そう感じられた。
南雲さんは「生きている」。
七峰くんは「生きているけれど死んでもいる」。
あくまでもそんな主観ですが、サイバーフォーミュラは特にキャラクターが大事にされているように感じます。

(追記)
とはいえバクマンは独自のすばらしさ。ユニークポイントをもっている。これはこれでひとがまねできるものでないように思える。技術とかものすごいよね。

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サイバーフォーミュラSIN(ブリード加賀篇)

現在2話を視聴終了。うわーこれはすばらしいなぁ。
以前サイバーフォーミュラではアスラーダさんを取り上げた。こんかいはブリード加賀さんを取り上げてみよう。
TV版では登場回数の少なかった彼(トーナメントに参加し始めるまで彼は5回しか登場していない)は、その真価をTV終盤そしてOVA版で徐々に表していくこととなる。
この物語の主人公、風見ハヤトは不完全なにんげんである。だからこそ迷いくるしみ成長していく。それはみているぼくらに快感と共感をあたえるだろう。
たいしてブリード加賀はハヤトより大人である。加賀はハヤトより前をあるき、TV、11(ダブルワン)では彼の導き手たる役割をはたす。ハヤトがブリード加賀に相対するにはOVA第2弾ZEROまで待たなくてはならない。ここにおいてハヤトははじめて加賀の領域、ZEROの領域へとあしを踏みいれていく。
結果としてハヤトは加賀を追い抜いていくことになる。OVA第3弾のSAGAではブリード加賀も勝つことをあきらめるかとおもわれた怪物アルザードを、伝説のチャンプ風見ハヤトが打ち負かしていくものがたりとして構成される。ZEROでハヤトは加賀の「疾さ」に追いついた。そしてSAGAでは加賀の「強さ」に追いついた。
SINはブリード加賀のちょうせんである。
いままでブリード加賀は前にいた。たとえチャンプを取られようと、疾さでおいつかれようと加賀はオンリーワンだった。かれの牙城をくずしたのは風見ハヤトである。
手のかかるかわいい弟分。ともにいてバカをやれる親友。それが最強のライバルへと成長していった。サイバーフォーミュラという物語はそういう意味では、風見ハヤトがブリード加賀に追いつき追い越していく物語だとも言えるのだ。
ブリード加賀はだれがチャンプであろうと構わない。疾いもの。真につよいものが自分であると知っているからだ。知っていたからだ。
ブリード加賀ほどじぶんにたいして誠実なものはいない。かれは自分をごまかさない。目を逸らすことはない。風見ハヤトがじぶんに並ぶものとなったとき、みずからの頂に迫ってきているとき、その事実に目をつむることはできない。かれはだれがチャンプになろうと構わない。自分がさいきょうであるならば。
こうしてみるとブリード加賀はサイバーフォーミュラの孤独の王だ。だれよりも先にあり独りで在る。
RPGでいうラスボス。魔王である。
最強にして最端。かれは進化の極地にある。
そのかれが勇者風見ハヤトに逆襲するためにSAGAにおけるラスボス南雲からオリジナルアルザードを受け取ったことは感慨深い。
ある文明において「進歩」があらわれるときその要因は「進化」か「異端」によるものが考えられる。進化とは歴史のつぎのステップである。人が4本足から2本足に、いどうを効率化するために自転車や自動車が作られる。これは進化である。一方異端とは異常な一歩である。進化の奇形といってもいい。2本足4本足自転車といった次にテレポートが出来るようになったようなものだ。
こういった人類が進歩するきっかけを描いた作品として『消閑の挑戦者』という作品がある。それは人類の進歩を促すのは「異端者たる魔王」か「進化の系譜にある勇者」かをきめる物語である。
ブリード加賀はまぎれもなく「異端」である。かれは進化の先端にある。そしてオリジナルアルザードもまた「異端」なのだ。「成長する機械」アスラーダにたいしてアルザードは「完成した機械」である。その生まれから完全である異形は異常だ。
完結した個と個がうみだすものはいったい何であろう。
ハヤトとアスラーダは2人で完結している。人馬一体。比翼の鳥、連理の枝だ。
加賀とアルザードは違う。
かれらは完成している。混じり合うことはない。
ぼくはこういったものを見ると心が踊る。
カオスとコスモスのはなしを思い出して欲しい。ぼくの思想の根本には「人は完全なものである」という思いがあるに違いない。いや、完全といえば誤解を産んでしまう。言い直そう。
ぼくは「ひとのなかにはあらゆるものが詰まっているかもしれない」と信じているのだ。
ひとは善も悪ももっているだろう。地獄を生み出すこともあれば天国を生み出すこともあるかもしれない。かれらは肉の牢獄の中にあらゆる種を潜ませている。
肉体を持っているということで必然的に限界を生んでいることはわかっている。ひとに無限の可能性があるなどとは言わない。
しかし欠けてしまったなにかを潜ませていながら、だからこそ個として他と混じり合うことなく、それでいてカオスへの扉を有しうる。
人間をそんな存在だと思っているのだろう。
アスラーダとハヤトは素晴らしい。かれらは欠けたところを補いあってああして在る。それは進化の正統な系譜といえる。欠けたところを補いあって前へすすむかれらは「王者」なのだ。
ブリード加賀はそうではない。別の可能性を提示してくれているように思える。かれはまえへ進もうとしているのではない。ただ独りで先端にあろうとしているのだ。
かれは欠けたところがあるまま完全なのだ。真なる玉がひび割れたところでそれが真なる玉であることに変わりはない。
その世界にあってはひび割れたかたちが真なる玉の真の姿であるのだろう(言っていることがわからないだろうことは理解している。敢えて言うならば、これは論理ではなくおそらく信念なのだ。イデアが信念であるように、これも信念なのだろう。)。
これと同じような感動をぼくはゴーストハントのラストに感じる。
「ひとりだって 恋はできるから」
そういう彼女はひとりで完結している

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2011年9月 6日 (火)

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