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2011年8月18日 (木)

カオスとコスモス

ぼくはこれを人間の志向する方向の一要素と考えている。すなわちカオスを志向する人間と、コスモスを志向する人間というように。この概念は自分の性向をあらわすのにとても有用な道具となってくれるにちがいない。
カオスとは文字通りごったまぜである。良いも悪いもなく全てが等価値である。未分化な状態である。対照的にコスモスとは整理された状態である。ものごとには価値があり、順番がある。言葉や社会とはコスモスから生み出されたものであり、現代社会に生きるものはコスモス的意識にさらされて生きていかざる負えない。
このはなしをする時に、前提となる知識は「冷たい社会と熱い社会」という概念だ。
カオスは冷たい社会を維持していくものであり、コスモスとは熱い社会を維持していくのに用いられているだろうとぼくは考える。
冷たい社会がその社会にかけたあらゆる部分をカオスから取り込みそのまま維持していくのに対して、熱い社会はカオスから一部をコスモスとして取り込んで形態を変化させながら社会が崩壊しないようにしている。
だがこれは社会だけに限ったものであるのだろうか。
人間にもそういう志向は有るのではなかろうか。
進歩を望む人間はコスモス型の人間である。外界からの無形の情報などから必要な部分を身のうちに取り込んで、自身のほうかいを先延ばしをしていく。それに失敗したものは魂を腐らせ、腐臭を放ち、周囲に絶望を与えるやもしれない。
反対にカオス型の人間はそれとはことなるロジックを有しているのかもしれない。かれらはせかいから分割された欠けたものたちである。決して完全ではない。だが狂騒や混乱、祭りやサバトなどをとおして欠けたるものの充足を行う。それがうまくかなければ、やはり腐り落ち熟した果実のごとく下に落ちて潰れてしまうかもしれない。可能性の一端としてコスモス型に転向するということもあり得るかもしれないが、ここではそのはなしは論じない。しかし本来はカオス型であるが、環境がそれを許さず、コスモスの形態しかとれなかいものがいるだろうというのは想像に容易い。
カオスの概念の理解には西田幾多郎の純粋経験が有用であるように思われる(2011年8月18日現在きちんと勉強しきれてないけれど…)。
てれびんはカオス型の人間であり、どちらかというとミクロよりの人間じゃあないかと自己判断しています。
カオス型とコスモス型という分類をすることでその人間がなにを求めているかということを、なんとなく、理解できるようになるかもしれない。
また自己整備の際に有用な基準となるかもしれない。個人的な意見としては、カオス型の程度がつよい人間は東京とかの都会で仕事を探さないほうがいいやもしれぬ(条件に依る)。

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