「冷たい社会」と「熱い社会」
ぼくがこの言葉をしったのは、浅田 彰の著作『構造と力』をよんでのときだった。この文章をかきはじめている時点で、この本をよみおえてはいないが、自分なりに理解したことを記してみよう。
これらのことばを使ったのはレヴィ=ストロースである。未開社会のぶんかを研究している人間としてこの名をきいたことのあるひともいるかもしれない。かれはこの言葉をもちいて近代の社会と未開の社会について説明を加えている。浅田 彰は著作においてつぎのようなことばを記している
さて次に、レヴィ=ストロースの「冷たい社会」と「熱い社会」という理念型を導入しよう。「冷たい社会」-近代以前のほとんどの社会-は長期にわたって安定的な象徴秩序を維持しているが、そのための仕組みのひとつがトーテミスムである。
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言いかえれば、象徴秩序はコスモスとノモスが見合った形の二元構造をとるわけだ。この対応によって、本来は恣意的なものにすぎない各系列の分節化が、ある程度の安定性を得ることになる。ことにコスモスは「聖なる天蓋」(バーガー)となってノモスを支え、人間の社会の事とてどうしても変化にさらされやすいノモスの秩序を、激動から守るのである。
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「冷たい社会」は、周期的な祝祭における常軌を逸した放蕩によってこの過剰なる部分を処理し、そのことによって日常における象徴秩序の安定を維持していると言っていいだろう。一時的にカオスを導き入れ、放蕩することによって祓い清めてしまうしかけとしての、ハレの時空。
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近代の「熱い社会」は、多くの「冷たい社会」を次々と呑み込み、その各々のコスモス-ノモスの構造を解体することによって成立した社会だからだ。ドゥルーズ=ガタリにならって言えば、カオス的な流れをコード化することによって構成されたのが象徴秩序であるとすると、それを脱コード化することによって出現したダイナミックな社会が近代社会なのだ。
平易な言い方をするならば、変化を拒否したのが「冷たい社会」であり、変化を逐次取り入れていったのが「熱い社会」である。
社会とはおおかれすくなかれ規範による圧力である。せかいそのものが、真なるせかいが、あったとする。そのなかからなんらかの仕組みを分割して、きりわけてつくりあげられたものが、社会である。同調圧力などということばがあるが、それは良しかれ悪しかれ、社会というものをひょうげんしているだろう。なんらか無理を前提としているのが社会である、とも言える。たとえちいさなひずみであろうと時の流れのなかでは崩壊をうみうることはわたしたちのよく知る真理のひとつである。
社会とは必然的にほうかいのための種をみのうちにはらんでいる。しかし、しゃかいはほうかいをのぞみはしない。
「冷たい社会」はそのために祭りやサバト、乱交といった「常ではない」環境の場を用意する。社会の構築のためにせかいは切り取られる。それが社会の崩壊をうみうるのだ。ならば年に一度、そういうものをとり込んでやれる場をよういすればいい。それが「冷たい社会」の構造である。そうすることで「冷たい社会」は変化がなく存続し続けられる。
いっぽう「熱い社会」とは別のシステムによってほうかいを先延ばしにする社会のことである。「熱い社会」は「冷たい社会」とは異なり、変化を逐次とりこんでいく。「冷たい社会」はカオスをそのまま取り込むことで変化を拒否したままつづいていく。「熱い社会」はそのカオスを一部解体し、それを逐次のみこみ、べつの社会となって一時的にほうかいを先延ばしにする。
私見になるが、このように社会をりかいすることでぼくは近代というものをすこしだけ、理解できた気がする。また同時にじぶんの趣味/志向について理解できたとおもう。このことは別のところで語る、カオス・コスモスとよぶものにつながっていく。
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