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2011年8月18日 (木)

楢山節考

さて、ちょっと楢山節考についてのはなしをしておこう。楢山節考とは、山梨や長野それに新潟ではごく最近まで行われていた「姥捨て」を題材とした物語である。

最近、といっても明治ころまでであるが、日本には姥捨て山というものが存在していた。齢をとってもう稼げなくなった爺さまや婆さまををやまにすてていくことでコミュニティを維持していくシステム、といえば現代人には理解しやすいだろう。これを見て「辛い」とか「苦しい」ということばを耳にすることがある。かくいうぼくもこれを見ているのは辛い。しかしそれだけではない。それは僕達のメンタリティが現代社会、熱い社会に支配されて閉まっているからだ。この作品の美しさは死に対する姿勢、そして別のところで書いた、冷たい社会そのものにある。

ここでは楢山節考の有する美しさについて、システムとしての社会構造、それに死を見つめて生きていく精神を題材にかたってみようと思う。

姥捨てなどという残酷なシステムに美しさがあるのかっ! というひともいるかも知れない。それにたいしてぼくは答えよう。 あります と。それは感傷があるからではない。悲劇があるからでもない。実際的なシステムとしての美しさを姥捨ては有している。

このシステムを理解する前にわれわれは大なり小なり当時の感覚を身に宿さなければならない。なぜならその当時の環境、状況を想定できなければこれはどうやったところで悲劇の物語として語られてしまう。

さきほど楢山節考とは長野や新潟、山梨にあった姥捨てというシステムを題材にしたものがたりであると語った。これらの地域は山深く、生きていくに過酷な環境であった。たとえばぼくの実家の周辺のはなしをする。ここでは2mも3mも雪が降る。いえにかかる負担は2tにも3tにもなる。まともに人間が生きて行く環境ではない。そのうち祭りの項ではなしをすると思うが、この地域でコミュニティとは家族そのものである。あまりに過酷な自然に対してひとはひとりで立ち向かうことはできない。だから普通なら一つのいえを家族として外界にたちむかうのにたいして、コミュニテイじたいがひとつの家族として外界のぜつぼうにたちむかっていく。現代は通信移動といった技術が発展したおかげで家単体でもあるていど太刀打ち出来る。しかしそれはここ数十年のことで、それ以前からもひとはその地域に生きていたのだ。そうやって生きていくのに 姥捨て といシステムは実際的に働いていた。

稼げないものは種の存続に不適切である。山の奥深く、雪に閉ざされた資源の限られた地域ではおとなですらいきていくのはたいへんだ。ひとりでもたいへんなのになにもできない老人を抱え込んでしまえば破滅してしまう。姥捨てにはいくつか条件がある。そのひとつに歯が何本欠けたらお山にいくかというのがある。歯がなければひとはたべることができない。たべるためには食材をすりおろし、水に溶かし飲むようにして腹に入れざる負えない。その手間隙はいったいだれがおこなわなければならないのか。稼げなくなった老人にそんな体力はないだろう。あさからばんまで働き、ひとりですら生きて行くのはつらいのに、あいまに老人のめんどうを見て生きてくのは困難である。

つづいて死、そしてそのメンタリティの美しさについて言及してみる。

姥捨てとは 決められた死のシステム である。現在の父母はその父母を山に捨ててきた。いまの子どもは将来 目の前で笑っている父母を山に捨てるのだ。かれらは自分が屍の上にあり、じぶんが屍となってつぎをささえることを覚悟している。いや、覚悟といえば歪んでしまう。死はとなりにありあたりまえのものである。そういうふうに定められている。メメント・モリ 死を想え(このへんのはなしは少年魔法士でしようか)。だが勘違いしないで欲しい。そうであっても死が、別れが辛くないわけではないのだ。めのまえに苦しんでいるものがいれば痛々しく思う。それがにんげんだろう。ましてやそれがじぶんの家族であればなおさらである。

それでも捨てる。

そのようなことが何故起こるのか。それを理解するために 山に捨てる ということについて話さなければならない。

ぎもんにおもったことはないだろうか。なぜおやまに捨てるのだ。べつに殺したところで問題はなかろう。殺すのが嫌ならば家の隣に小屋を立ててすてたところで構わないはずだ。なぜわざわざ手間暇をかけておやまに捨てに行くのだ と。

それは別れのためである。

死にゆくものではなく生きてゆく者のためにひつような儀式なのだ。

ちょっと楢山節考のはなしに戻ってみよう。このものがたりのはじめ、ばばさまはまだまだ壮健である。稼ごうと思えば稼ぐことが出来る。しかし自分の死の支度をできる今だからこそと自らの死の準備を始め、歯を石で折り、じぶんをおやまに連れて行けと息子に言う。死にゆくものは自分で死にゆくことを定めている。

たいして息子は準備などできていない。まだ先だ、まだ先だと思っていた。現世の幸せが来世まで続くと思ってしまうのがひとの常であるように自分がばばさまをお山に連れていくときはまだ来ないと思っている。

だからこそのおやまである。

ばばさまは息子におぶさり、むすこはばばさまを担いでけわしく厳しいおやまを登っていく。その一歩一歩が息遣いが自然の険しさすべてがわかれのための対話である。家のとなりにおいては決別できない。生きていくものはそれほど強くはない。これから生きていくものが死にゆくものとわかれるために、おやまは立っている。

さらに言おう。そうして死にゆくものを見送ったものたちはそれから時をかけ、死と語らい合い死にゆく準備をはじめていくこととなる。そうして彼らが稼げなくなったその時、かれらはそのときが来たかと、散歩に出かけるようなこころもちでお山へむかうこととなる。そのようにして死はシステムと化しつぎの世代を生かしていく。死と生がからみあい支え合いうつくしい円環を構成する。これをもってうつくしいと表することはまちがいでないだろう。

これが冷たい社会であるとぼくは語った。進歩も発展もなく、なぜいきていくのかと動機すら失ったなかで気高くいきていくその魂。ひとの希望も絶望もなべのなかに放り込まれシステムを動かしていくためのエナジーとして連環していく。そとに向かず、永遠にうちを向いたそのなかで腐りもせず新鮮な熱い魂をいだいているそのかたちは すさまじくうつくしいものではなかろうか。

<補記1>

このシステム自体は冷たい社会であった。しかしこのシステムがつくりあげられたきっかけ自体は熱い社会にあることは面白い。聞いた話であるが、このような姥捨てという制度は平家の落人と絡んでいるとのことだ。そういう誇りを根底に抱いているかれらはこういうシステムを維持していくための動機を有している。しかし この動機ののそもそもの根本「平家の復興」という原始の動機は失われ、前に進んでいくための駆動材となることはない。真の動機は滅び去り、そこから派生した動機がシステムに取り込まれ生存のための変化のないシステムをつくりあげたというその構造はとてもおもしろいものにぼくは感じられたのだ。

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