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2011年8月

2011年8月23日 (火)

サイバーフォーミュラSIN感想~最強の主人公を倒すブリード加賀とは何者なのか?~ (400字)

最高だった!!史上最強のチャンプとなったハヤトに挑んでいく加賀の物語があまりに美しい。物語の最後に加賀のいうセリフ「ブリードじゃねえ 城太郎だ」ここを契機にして途切れてしまうこの結末は ある意味サイバーフォーミュラの裏の主人公がブリード加賀であったことを暗示させる。全編を通してみるとハヤトと加賀がいかなる関係でもってこの世界を構成したのかよくわかる。サイバーフォーミュラとはハヤトが加賀に追いつき追い越す物語であり、同時に加賀が自分に追いつき追い越す物語でもあった。ZERO SAGAを通して加賀に追いつき追い越し誰でもない自分を手に入れたハヤト。SINとは加賀城太郎がブリード加賀を追い越していく物語であった。物語の表面上でハヤトは加賀の最大の敵であったが、そうではない。ハヤトは既にブリード加賀の先にありそれは象徴だ。その意味でシリーズにおける主人公にして最大の敵はブリード加賀であったのだろう

バンダイチャンネルの感想で書いたコメント。

これは面白かったからバンダイチャンネルで見るといいと思うよ。

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2011年8月18日 (木)

ことば

ことばとは世界を分断する最高の道具のひとつである。生を定義したら死が定義される。このようにしてせかいというのは分割されていく。これは四方世界の王でもはなしをした。
でも裏を返すと、言葉に出来ない部分は切り捨てているのです。
アカギは死を選ぶときに生に対して3%未練があると言っている。でも死ぬ、と。
ことばも、何かを定義することでことば以外のなにかを切り捨てることになるだろう。でもそこを切り捨てても前へ前へ駆動してきたのが現在の世界である。
ちなみに切って切って切りすぎてもったいないから、未練が強い部分が多いので、曖昧な領域から更に切り分けて取り込み直す。西洋の概念に東洋の概念を組み込みなおすなどは、その一例だろう。
ある種のリサイクルです。

四方世界の王

これは個人的に傑作ではないかと思う。それは未分化な状態の世界をわかりやすく描いている点にある。そしてそれが分化していく分岐点を描いているところもとても好きだ。
この世界では生と死の領域が曖昧だと明言されている。それを胞体といった超常の力を用いてわかりやすく現している。この世界ではせかいは未分化だ。だからこそあるひとつのせかいの王になることで四方世界(すべての世界)の王になることが出来る。そういうさいごの時代を描いている。
この物語は何人か主人公格の人間がいる(まあ、主人公はひとりだが)。以下偏見を交えて紹介する。
まず主人公の少年。かれは境界の存在である。こどもで、ちからも無い。持ちうるのは許容の広さ。これは見方によってはカオスの程度が深いともみえる(穿ち過ぎかもしれないが)。なにものにでもなれるし、なにものにもなれないかもしれない曖昧な存在。
つぎは傭兵王。ありとあらゆる存在を、それが超常のものであっても、もちいて四方世界(全世界)の王を目指すもの。カオスからコスモスを取り込んでいくことを想像させる。
そのつぎは暴虐の王。世界のほとんどを手にしているが、てに入れ切れないもの。手に入れられないものをすべて消滅させることで自らがせかいを手にしようとしている。切り取られたものには曖昧な領域が存在する。ことばで切り取られたならば、ことばで(未だ)表せない部分である。そこは消滅させざる負えない。必然を思わせる。
最後に人間の王。少女にしか見えない、超常の力などを要せず、「人間の力」で前へすすむまさに「人の子」の化身たる存在。せかいを切り開いて世界にしたのは、こういう存在たちだったのだろう。

(補記1)
生と死が曖昧というのはじつに面白い。この物語では、だからこそ生と死の両方を統べられる最後の王になれる可能性が描かれている。これは人間の王と神話の王の両方になれると解釈することも出来る(思いつきで話してます)。
まあ、生と死が曖昧なくらいなのだから、相当未分化な世界なのだろうと想像できる点が素晴らしいと思います。
死を思わなくてはならない楢山節考と対比しても面白そうです。

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ポテトとアスラーダやレイジングハート

ぼくは物語中の動物が好きです。どうように無機物も大好きです。喋らない、言葉が通じないと最高だと思っています。
ものがたりのなかで共にあることが最高です。
なんでこんなことを思うのか、それはぼくがカオスを志向しているからでしょう。
どういうことだろうか。
ことばの項で語りますが、真のせかいそれ自体はきっとカオスでしょう。それを分割して分割して分割していくことでぼくたちは今の世界をてにいれました。これを切り取ったものは何でしょう。まずことばがあります。そうすることで死と生も分けられたでしょう。四方世界の王の項でそのことについては話したいですね。
このようにして切り取ったものを「世界」としてぼくたちは見ている。でもそれは「世界」の一部でしか無い。それに気づいたとき僕たちは「西洋」「東洋」とわけていった。どんどんせかいと世界の間隙は大きくなっていく。よけいなものが挟まってく(カオス志向からすると)。
だからこそポテトなどは最高の存在となりえます。
ポテトとは名作ゲームAIRのなかにでてくるいぬ(?)です。その形状はいぬと言われればそうとも見えなくはないが、いぬに見えぬと言われればそうだろうとうなずく形状。なきごえは「ピコピコ」であり、二本足で歩いたりする。一般的にはUMAかなんかでなかろうかという生物である。
かれは「なにものでもない」
だからこそ なにものにもなれる
物語をみるときぼくたちは、おおかれすくなかれ、自分を投影して世界を見つめます。わけが分かる存在というのは、分かるように切り取られて閉まっているのでしょう。間隙が多く、言葉に出来ない部分を切り捨てられてしまう。
その点ポテトは喋らない(コミュニケーションできているとは限らない)、いぬかどうかすら怪しい。つーか既存の生物なのだろうか?といった存在である。
そこに自己を投影したときに得られるのは「ありとあらゆる可能性」である。ことばとは存在を定義する。他者からわかる外見をしていれば同様に規定される。そこが曖昧だからこそ、なにものでもない(なにものでもある)自分を見ることが出来る。
この点はアスラーダやレイジングハートにも似た点がある。かれらは機械の枠を半歩超えでた存在であるため、領域があいまいな部分が存在している。
レイジングハートには異なる理由もあるので割愛するが、アスラーダの場合、周囲のマシンとアスラーダが違いすぎるために機械から半歩踏み越えている存在だろうという思いを抱かせてくれる。
TV版のアスラーダの変化と、SAGAの「ぉぉっと!」は最高でした。アスラーダさんは大好きです。

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西田幾多郎

ぼくはこの人についてまだ勉強が足りないので書くことはそれほどない。しかしこの人の主客未分という考えを習った時の、恩師の恩師の言葉を覚えている。
「絵の前に立つでしょ、そこでじっと絵を見つめるのです。そうすると絵とわたしの境がなくなっていき、ただ涙が流れる」
せかいというものが切り取られて現在がある。ことばはせかいを分断する。分断することで理解出来るようになったが、かわりにかけてしまったものも出てきただろう。主と客が未分であるものを志向するのはカオスであり、その分化を志向していくのはコスモスである。

祭り

祭りとはいいものです。ひさしぶりに精神がリフレッシュした気がする。(2011年8月 地元のお祭に参加した)
コスモスとカオスのはなしをの際にでたことだが、コスモス型は自己を進化させることで崩壊を防ぐ。カオス型はカオスを取り込むことで崩壊を防ぐ。
もちろん人間をそのように二元的に分類するものではない。程度ではないかと思う。ただ、自分がカオス型で何段階にありコスモス型で何段階にあるのかを意識することは、自己のメンテナンスにも有用であるだろうというのがてれびんの印象。
たとえばカオス型の程度が強い人間は、システマティックな近代的なお祭りでは自己をメンテナンスしきれない。出店も何もない祭祀と踊りのみのひどく小さい、それでいて未分化な曖昧なものにこそ癒されるやもしれない。または山を登るときを考えてみてもいい。山にのぼり自然に触れることで心身を鍛えるというならば道ある道を歩き最終的にキャンプ場までたどりつけばいいかもしれない。だがそうではないならば別の手段を考えなければいけないかもしれない。ただ山にいて道も人工物もなにもない有りの侭のしぜんのなかで寝る それだけで癒されるやもしれない。

カオスとコスモス

ぼくはこれを人間の志向する方向の一要素と考えている。すなわちカオスを志向する人間と、コスモスを志向する人間というように。この概念は自分の性向をあらわすのにとても有用な道具となってくれるにちがいない。
カオスとは文字通りごったまぜである。良いも悪いもなく全てが等価値である。未分化な状態である。対照的にコスモスとは整理された状態である。ものごとには価値があり、順番がある。言葉や社会とはコスモスから生み出されたものであり、現代社会に生きるものはコスモス的意識にさらされて生きていかざる負えない。
このはなしをする時に、前提となる知識は「冷たい社会と熱い社会」という概念だ。
カオスは冷たい社会を維持していくものであり、コスモスとは熱い社会を維持していくのに用いられているだろうとぼくは考える。
冷たい社会がその社会にかけたあらゆる部分をカオスから取り込みそのまま維持していくのに対して、熱い社会はカオスから一部をコスモスとして取り込んで形態を変化させながら社会が崩壊しないようにしている。
だがこれは社会だけに限ったものであるのだろうか。
人間にもそういう志向は有るのではなかろうか。
進歩を望む人間はコスモス型の人間である。外界からの無形の情報などから必要な部分を身のうちに取り込んで、自身のほうかいを先延ばしをしていく。それに失敗したものは魂を腐らせ、腐臭を放ち、周囲に絶望を与えるやもしれない。
反対にカオス型の人間はそれとはことなるロジックを有しているのかもしれない。かれらはせかいから分割された欠けたものたちである。決して完全ではない。だが狂騒や混乱、祭りやサバトなどをとおして欠けたるものの充足を行う。それがうまくかなければ、やはり腐り落ち熟した果実のごとく下に落ちて潰れてしまうかもしれない。可能性の一端としてコスモス型に転向するということもあり得るかもしれないが、ここではそのはなしは論じない。しかし本来はカオス型であるが、環境がそれを許さず、コスモスの形態しかとれなかいものがいるだろうというのは想像に容易い。
カオスの概念の理解には西田幾多郎の純粋経験が有用であるように思われる(2011年8月18日現在きちんと勉強しきれてないけれど…)。
てれびんはカオス型の人間であり、どちらかというとミクロよりの人間じゃあないかと自己判断しています。
カオス型とコスモス型という分類をすることでその人間がなにを求めているかということを、なんとなく、理解できるようになるかもしれない。
また自己整備の際に有用な基準となるかもしれない。個人的な意見としては、カオス型の程度がつよい人間は東京とかの都会で仕事を探さないほうがいいやもしれぬ(条件に依る)。

キリンヤガ

いずみのさんに借りっぱなしのままで実に申し訳ない。こんど機会があったら返しに行こうと思う。

これは以前はなしをした冷たい社会と熱い社会の対立をみごとに語っている作品ではないか。この作品の代表作である「空にふれた少女」はいずみのさんの語るとおり「停滞と進歩」を題材にした傑作だ。同様のテーマには、獣の奏者でも触れることは出来る。

この物語の主人公である老人は円環のうちにある冷たい社会を作り上げたかったのだろうと思う。しかし幾度と無くせかいは進歩を望む。浅田彰はレヴィ=ストロースの熱い社会は冷たい社会を併呑しておおきくなっていったと言っている。駆動し始めたシステム自体をまえにもどすことは きっと 不可能なのだろう。

楢山節考のような条件でも揃わない限り老人の思いは成功しない。

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楢山節考

さて、ちょっと楢山節考についてのはなしをしておこう。楢山節考とは、山梨や長野それに新潟ではごく最近まで行われていた「姥捨て」を題材とした物語である。

最近、といっても明治ころまでであるが、日本には姥捨て山というものが存在していた。齢をとってもう稼げなくなった爺さまや婆さまををやまにすてていくことでコミュニティを維持していくシステム、といえば現代人には理解しやすいだろう。これを見て「辛い」とか「苦しい」ということばを耳にすることがある。かくいうぼくもこれを見ているのは辛い。しかしそれだけではない。それは僕達のメンタリティが現代社会、熱い社会に支配されて閉まっているからだ。この作品の美しさは死に対する姿勢、そして別のところで書いた、冷たい社会そのものにある。

ここでは楢山節考の有する美しさについて、システムとしての社会構造、それに死を見つめて生きていく精神を題材にかたってみようと思う。

姥捨てなどという残酷なシステムに美しさがあるのかっ! というひともいるかも知れない。それにたいしてぼくは答えよう。 あります と。それは感傷があるからではない。悲劇があるからでもない。実際的なシステムとしての美しさを姥捨ては有している。

このシステムを理解する前にわれわれは大なり小なり当時の感覚を身に宿さなければならない。なぜならその当時の環境、状況を想定できなければこれはどうやったところで悲劇の物語として語られてしまう。

さきほど楢山節考とは長野や新潟、山梨にあった姥捨てというシステムを題材にしたものがたりであると語った。これらの地域は山深く、生きていくに過酷な環境であった。たとえばぼくの実家の周辺のはなしをする。ここでは2mも3mも雪が降る。いえにかかる負担は2tにも3tにもなる。まともに人間が生きて行く環境ではない。そのうち祭りの項ではなしをすると思うが、この地域でコミュニティとは家族そのものである。あまりに過酷な自然に対してひとはひとりで立ち向かうことはできない。だから普通なら一つのいえを家族として外界にたちむかうのにたいして、コミュニテイじたいがひとつの家族として外界のぜつぼうにたちむかっていく。現代は通信移動といった技術が発展したおかげで家単体でもあるていど太刀打ち出来る。しかしそれはここ数十年のことで、それ以前からもひとはその地域に生きていたのだ。そうやって生きていくのに 姥捨て といシステムは実際的に働いていた。

稼げないものは種の存続に不適切である。山の奥深く、雪に閉ざされた資源の限られた地域ではおとなですらいきていくのはたいへんだ。ひとりでもたいへんなのになにもできない老人を抱え込んでしまえば破滅してしまう。姥捨てにはいくつか条件がある。そのひとつに歯が何本欠けたらお山にいくかというのがある。歯がなければひとはたべることができない。たべるためには食材をすりおろし、水に溶かし飲むようにして腹に入れざる負えない。その手間隙はいったいだれがおこなわなければならないのか。稼げなくなった老人にそんな体力はないだろう。あさからばんまで働き、ひとりですら生きて行くのはつらいのに、あいまに老人のめんどうを見て生きてくのは困難である。

つづいて死、そしてそのメンタリティの美しさについて言及してみる。

姥捨てとは 決められた死のシステム である。現在の父母はその父母を山に捨ててきた。いまの子どもは将来 目の前で笑っている父母を山に捨てるのだ。かれらは自分が屍の上にあり、じぶんが屍となってつぎをささえることを覚悟している。いや、覚悟といえば歪んでしまう。死はとなりにありあたりまえのものである。そういうふうに定められている。メメント・モリ 死を想え(このへんのはなしは少年魔法士でしようか)。だが勘違いしないで欲しい。そうであっても死が、別れが辛くないわけではないのだ。めのまえに苦しんでいるものがいれば痛々しく思う。それがにんげんだろう。ましてやそれがじぶんの家族であればなおさらである。

それでも捨てる。

そのようなことが何故起こるのか。それを理解するために 山に捨てる ということについて話さなければならない。

ぎもんにおもったことはないだろうか。なぜおやまに捨てるのだ。べつに殺したところで問題はなかろう。殺すのが嫌ならば家の隣に小屋を立ててすてたところで構わないはずだ。なぜわざわざ手間暇をかけておやまに捨てに行くのだ と。

それは別れのためである。

死にゆくものではなく生きてゆく者のためにひつような儀式なのだ。

ちょっと楢山節考のはなしに戻ってみよう。このものがたりのはじめ、ばばさまはまだまだ壮健である。稼ごうと思えば稼ぐことが出来る。しかし自分の死の支度をできる今だからこそと自らの死の準備を始め、歯を石で折り、じぶんをおやまに連れて行けと息子に言う。死にゆくものは自分で死にゆくことを定めている。

たいして息子は準備などできていない。まだ先だ、まだ先だと思っていた。現世の幸せが来世まで続くと思ってしまうのがひとの常であるように自分がばばさまをお山に連れていくときはまだ来ないと思っている。

だからこそのおやまである。

ばばさまは息子におぶさり、むすこはばばさまを担いでけわしく厳しいおやまを登っていく。その一歩一歩が息遣いが自然の険しさすべてがわかれのための対話である。家のとなりにおいては決別できない。生きていくものはそれほど強くはない。これから生きていくものが死にゆくものとわかれるために、おやまは立っている。

さらに言おう。そうして死にゆくものを見送ったものたちはそれから時をかけ、死と語らい合い死にゆく準備をはじめていくこととなる。そうして彼らが稼げなくなったその時、かれらはそのときが来たかと、散歩に出かけるようなこころもちでお山へむかうこととなる。そのようにして死はシステムと化しつぎの世代を生かしていく。死と生がからみあい支え合いうつくしい円環を構成する。これをもってうつくしいと表することはまちがいでないだろう。

これが冷たい社会であるとぼくは語った。進歩も発展もなく、なぜいきていくのかと動機すら失ったなかで気高くいきていくその魂。ひとの希望も絶望もなべのなかに放り込まれシステムを動かしていくためのエナジーとして連環していく。そとに向かず、永遠にうちを向いたそのなかで腐りもせず新鮮な熱い魂をいだいているそのかたちは すさまじくうつくしいものではなかろうか。

<補記1>

このシステム自体は冷たい社会であった。しかしこのシステムがつくりあげられたきっかけ自体は熱い社会にあることは面白い。聞いた話であるが、このような姥捨てという制度は平家の落人と絡んでいるとのことだ。そういう誇りを根底に抱いているかれらはこういうシステムを維持していくための動機を有している。しかし この動機ののそもそもの根本「平家の復興」という原始の動機は失われ、前に進んでいくための駆動材となることはない。真の動機は滅び去り、そこから派生した動機がシステムに取り込まれ生存のための変化のないシステムをつくりあげたというその構造はとてもおもしろいものにぼくは感じられたのだ。

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「冷たい社会」と「熱い社会」

ぼくがこの言葉をしったのは、浅田 彰の著作『構造と力』をよんでのときだった。この文章をかきはじめている時点で、この本をよみおえてはいないが、自分なりに理解したことを記してみよう。

これらのことばを使ったのはレヴィ=ストロースである。未開社会のぶんかを研究している人間としてこの名をきいたことのあるひともいるかもしれない。かれはこの言葉をもちいて近代の社会と未開の社会について説明を加えている。浅田 彰は著作においてつぎのようなことばを記している

さて次に、レヴィ=ストロースの「冷たい社会」と「熱い社会」という理念型を導入しよう。「冷たい社会」-近代以前のほとんどの社会-は長期にわたって安定的な象徴秩序を維持しているが、そのための仕組みのひとつがトーテミスムである。

(省略)

言いかえれば、象徴秩序はコスモスとノモスが見合った形の二元構造をとるわけだ。この対応によって、本来は恣意的なものにすぎない各系列の分節化が、ある程度の安定性を得ることになる。ことにコスモスは「聖なる天蓋」(バーガー)となってノモスを支え、人間の社会の事とてどうしても変化にさらされやすいノモスの秩序を、激動から守るのである。

(省略)

「冷たい社会」は、周期的な祝祭における常軌を逸した放蕩によってこの過剰なる部分を処理し、そのことによって日常における象徴秩序の安定を維持していると言っていいだろう。一時的にカオスを導き入れ、放蕩することによって祓い清めてしまうしかけとしての、ハレの時空。

(省略)

近代の「熱い社会」は、多くの「冷たい社会」を次々と呑み込み、その各々のコスモス-ノモスの構造を解体することによって成立した社会だからだ。ドゥルーズ=ガタリにならって言えば、カオス的な流れをコード化することによって構成されたのが象徴秩序であるとすると、それを脱コード化することによって出現したダイナミックな社会が近代社会なのだ。

平易な言い方をするならば、変化を拒否したのが「冷たい社会」であり、変化を逐次取り入れていったのが「熱い社会」である。

社会とはおおかれすくなかれ規範による圧力である。せかいそのものが、真なるせかいが、あったとする。そのなかからなんらかの仕組みを分割して、きりわけてつくりあげられたものが、社会である。同調圧力などということばがあるが、それは良しかれ悪しかれ、社会というものをひょうげんしているだろう。なんらか無理を前提としているのが社会である、とも言える。たとえちいさなひずみであろうと時の流れのなかでは崩壊をうみうることはわたしたちのよく知る真理のひとつである。

社会とは必然的にほうかいのための種をみのうちにはらんでいる。しかし、しゃかいはほうかいをのぞみはしない。

「冷たい社会」はそのために祭りやサバト、乱交といった「常ではない」環境の場を用意する。社会の構築のためにせかいは切り取られる。それが社会の崩壊をうみうるのだ。ならば年に一度、そういうものをとり込んでやれる場をよういすればいい。それが「冷たい社会」の構造である。そうすることで「冷たい社会」は変化がなく存続し続けられる。

いっぽう「熱い社会」とは別のシステムによってほうかいを先延ばしにする社会のことである。「熱い社会」は「冷たい社会」とは異なり、変化を逐次とりこんでいく。「冷たい社会」はカオスをそのまま取り込むことで変化を拒否したままつづいていく。「熱い社会」はそのカオスを一部解体し、それを逐次のみこみ、べつの社会となって一時的にほうかいを先延ばしにする。

私見になるが、このように社会をりかいすることでぼくは近代というものをすこしだけ、理解できた気がする。また同時にじぶんの趣味/志向について理解できたとおもう。このことは別のところで語る、カオス・コスモスとよぶものにつながっていく。

構造と力―記号論を超えて

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