google+のストリーミングが如何に優秀であるかについての私見(未完)
最近google+を使っています。
twitterとは違っていてなかなか面白いシステムを持っています。基本はtwitterと同じようにつぶやきが流れていきます。
しかしこのgoogle+の面白い特徴の一つに「サークル機能」と「ツリー表示」というのがあります。前者は自分でフォロワーをカテゴリ分け出来る機能。後者はある意見に対するコメントをツリー上に表示するシステムです。twitterでは流れていってしまうコメント群に対して「ツリー機能」は会話の流れを作ってくれます。一つの議論に対してコメントが連続していくので話がブレることが少なくなります。
そして「サークル機能」は見るコメントや投げる相手を選ぶことができる。今回このことについてちょっと話をしてみようと思います。
基本は以下のgoogle+での議論に対してまとめをかねた自分のコメントにあります。
いま「主張を選別して議論の場に上げる」という話をしていた。
ネットはその性質上必然的に「公共の場に挙げられた意見」という形になってしまう。これは普遍性を目指すならば「批判の目にさらされることも必要」だ ろうが、そうではなく個人の内面の追求(何者にも侵されるべきではない部分の成熟)には問題が出てくるのか もしれない。
さきほどぼくは「言葉がなにか削る」ということをコメントしたのだが、その理由の一端には「論理の追求」があるかもしれない。普遍性を目指すならばある程度の「論理の整合性」が求められる。
しかし、もしそれが「普遍性を目指すものではない」のならば「論理の整合性がない」ということは批判の形足りえな いのかもしれない。
ただしこの意見が公共の場にある以上(ネットの性質上)「論理の破綻」は批判の対象であり、ブラッシュアップされる(もしくは断罪される)対象となる。そうすることで論理の外にある曖昧な輪郭 は明確にされたり消されてしまうかもしれない。
そうして出来上がった意見は論理的には正しいけれど、人によっては(元々の主張者にとっては)どこか首を傾げるものになる可能性はあると思う。
だからこそ議論の場に上げる意見は選別されなければいけないのかもしれないし、そこに対処するツールとしてgoogle+は優 れているのかもしれない。
下記に挙げたtwittreやGoogle+の形はコレに対して考えるヒントになるのかもしれない。
コレがどういう事なのか。もう少し話をしてみましょう。
意見には「普遍性を目指すもの」と「極限を突き詰めたもの」があると思っています。
前者は上記のコメントにあるように「批判の目」にさらされる必要があると思います。時間の選別などによって生き残ってきた猛者たちです。
対して後者はそうではない「異物」です。時の選別なんか必要としないし普遍などとは程遠いかもしれない物。
ぼくの好きな作品で言うならば猫山宮緒さんの「今日もみんな元気です」なんかは例としてあげられるかもしれない。
もっとメジャーなものでいうならば高河ゆんの初期作品『源氏』『恋愛-REN-AI-』の主人公達なんかもそうだろう。
ぼくは前者を否定しているわけでもなければ後者を賛美しているわけでもない。ただその性質上ネットでは「公共の場」という暴力によって「批判されるべきではないかもしれない」主張が傷つけられているかもしれないという話をしている。
ぼくはエヴァのATフィールドというのは重要な要素だと思う。なぜならそれは「だれに批判されるべきではない自分の核」だからだ。そこを傷つけられたからアスカは傷つき、倒れた。
自分の核というのは純粋な論理ばかりで構成されているとは限らない。
それを「論理」という枠で狭めることで「歪めてしまう」場合がある。
だからこそ「俎上」にあげるには選別が必要かもしれないし、それに対してgoogle+は優秀なのかもしれない。
(時間が来たので中途だけれど記事としてあげます。後ほど改変します)
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