「カッコーの巣の上で」にどうして興味が持てなかったのか納得してきた
twitterで以下のようなことをつぶやいていました
terebinn | カッコーの巣の上でのBDをみた。面白く無い訳ではないが、胸には来なかったなぁ。やっていることは分からないでもないけれど、う~ん・・・http://goo.gl/0HJRi 観終えてからこの感想を読んだ。・・・うん、そうなんだけれどさ。わかるけれど感動とは別というかね | 2011/05/23(月) 04:09:32 | |
terebinn | 完成度は高いと思うよ。さりげなさという点は際立っていたと思う。http://goo.gl/WiZ26「この映画の伝えてくるメッセージについて、特に何事かを付け加える必要はないと思います。(中略)そもそもこの映画を実際に観れば、嫌でも伝わってきます。」というのには同意。 | 2011/05/23(月) 04:15:23 | |
terebinn | ある意味で、付け加える余地が無いから「はい、そうですね」となってしまったと言ってもいい。(自分の場合はね) | 2011/05/23(月) 04:17:11 | |
terebinn | 問題提起としてより事実提起という側面を強く感じたのかもしれないな。あと、提起された問題に(娯楽としての意味でそれほど)興味がない。これを倫理学とかの講義で見ていればまた少し違ったのだろうなと納得。・・・ああ、納得してきた。 | 2011/05/23(月) 04:20:43 | |
terebinn | 自分の中でこの作品は「別の問と共に見るもの」なんだな。いろいろなヒント(道具)はあるけれど、これ単品ではなくて類似の何かとの親和性が高いのではないか。ああ~、うん。そんな感じだろうな。 | 2011/05/23(月) 04:23:16 |
これを読んで思ったのは、「作品単体で見て(自分の中で)『意味ある』」ものと、「別の物事とつなげることで『意味ある』」ものは別じゃないかな、ということ。
べつに普遍化する気は無いんですけれど、あくまで「自分」としてはそういう方向性がある。
ここの感想のラストにもあるのですけれど、それこそ「倫理学」の授業なんかでみたらぼくは異なる発想を抱いたかもしれません。
つまりこの作品は「現在」ぼくにとって「道具」だけれど「使いどころのない道具」だということなのではないかな、と
「将来『何か』を説明するときには使うかもしれないけれど、それまでは「眠る」。いまはまだ役に立たない道具なんだろう」
ということです。
これは自分の中で納得した。
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<あらすじ>
ある男が精神病院に収監された。かれは決して狂っているとは言いがたい男なのかもしれない。むしろ正常なのかもしれない。
かれの精神は粗野で、下卑ているのかもしれない。
だけれど自由だ。
男はかつて収監されていた。わかりやすい牢獄に閉じ込められていた。
彼にはある嫌疑がかかっている。
狂っているのではなかろうか。
それは彼に選択を与える。
肉の牢獄と精神の牢獄。
かれは後者を選ぶ。当然だ。だってそちらには入ったことがないのだから。
そして、彼は囚われる。
たばこは吸えない。野球は見れない。自由に外にも出れないし、対話すらままならない。
彼の選んだ道は束縛の道だった。
しかし彼は自分の道を突き進む。
賭けをしてはなりません。
じゃあしよう。
日々のルーティーンは守られなければなりません。
じゃあやぶろう。
逃げ出してはいけません。
さぁ逃げ出そう。
彼の行動は周囲にも波及する。
その収容所では変化が起きる。
かれは、かれだった。
かれはきけんだった。
そうして、かれは最後の賭けに出る。
脱走だっ
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