さぁ、久しぶりの更新だっ!!(でも扱う内容なネガティブなので注意)
お久しぶりです。
ホントに、お久しぶりです。
てれびんです。
1ヶ月もの間ブログの更新をサボっていました。
サボっている間は「あの花」観たり、「星を追う子ども」をLDさんたちと観たり、東洋医学の勉強したり論文読んだりしていました(英語は苦手ですっ)。
「あの花」に関しては書いておきたいこともあるのですが、記事は中途で止めたままです。まぁ、そう遠くないうちに書ききれたらいいかなと思います。
(閑話休題)
と、いうわけでリハビリがてらに記事を徒然なるままに書いてみようかなと思います。
内容は結構ネガティブです。
現在この記事を書きながら見ている「NHKスペシャル~虐待カウンセリング~作家柳美里 500日の記録」が話のテーマです。
芥川賞作家の柳美里さんの子どもに対する虐待カウンセリングです。
親から受けた虐待は子どもに連鎖していく。柳美里さん視点のため「親から虐待を受け、子に虐待をするもの」という視点のためバイアスはかかっているでしょう。それを考慮しても面白い番組です。
ちなみに番組は現在、柳さんが父のルーツを知るために父と長谷川さんというカウンセラーと父の母国の韓国に行くところです。
「知る」ということは「明かりを照らす」と例えることも出来る行為です。見えるようになった反面、見えない部分も出てくるかもしれません。それでも、「ここはわかった」と確定できます。それは「想像の幅を狭めてくれます」(※1)。
現在(書いている間も番組は進行)この番組は父の兄嫁が「父の父(要は祖父)も子どもを叩いたり、刃物で刺したりしていた」ことが語られています。そうして父もそれに怯えていた。
そうすることで柳さんのなかでの「むやみに怖かった父親」(もしかすると完璧に近い存在と捉えていたのかもしれない)を、「自分と同じ弱い人間」とすることが出来る。
こういう積み重ねが「無限の恐怖への直視」、その「乗り越え」を可能としているということなのでしょう。
番組は柳美里さんが「一歩前へ進んだ」ところで番組が終わっています。
こういう積み重ねがあって虐待という連鎖は封じられていくというお話でみていました。
番組自体については「面白かった」というに留めておきましょう。本人たちも望んでいることなので、虐待という連鎖は是非乗り越えて頂きたいものです。
さて、ここからはわたし個人の思いをちょっとだけ話してみることとしましょう。
わたしはこういう番組や物語を見ると、物語で語られる次のような趣旨のセリフが頭をよぎります
苦しみを乗り越えたものは、乗り越えた分だけより良くなれる
これの類型として「より優しくなれる」とか「より強くなれる」とかいろいろあります。
ジャンプによくある「危機を乗り越えるとより強くなる」というのもその類型かもしれません。
わたしはこの意見に(そこそこ)賛成はします。
苦労したならその分何かを得るのでしょうから。
ただ、そこから安易に「マイナスを乗り越えてプラスにすること」のみを取り上げるのには疑問があるのも確かです。
これの極論の一つとしては「恵まれているものは恵まれていないものには及ばない」というものです。
さて、本当にそうなのだろうか?
違うと思います。
「恵まれているから強い」とか「恵まれているから優しい」というのもあるでしょう。
もちろん「苦しみを乗り越えたから得られる物」もあって、それは上記のものと優劣を競うものであるとは思えません。
こんなのは「当たり前」っちゃ当たり前の話だとおもいます。
「恵まれていていけない」なんてことはない。(まぁ、恵まれているからこそどこかを踏みつけにしているってのは当然ありえるので、その点から一概にいいとは言えないのも確かなのだけれどね)
まぁ、たまにはこんな話もしてみようかという今日の雑談。
(補足~一応ね~)
苦しみを乗り越えたものは、乗り越えた分だけより良くなれる
この言葉は「恵まれている」とか「恵まれていない」とか関係ないよね、という指摘が出た人そのとおりです
この言葉は「恵まれているものには恵まれているものなりの苦しみが存在し、そうでないものにはそうでないものなりの苦しみが生まれる」という前提でも成り立ちます(というか、ソッチの方が自然だろう)
もうひとつ言うならば、「優しさ」や「強さ」などを比べる際に(名前が同じでも)「同じ質」のものを比べているのか(同列に並べていいのか)というのも正しい指摘だと思います。
今回のわたしの話には突込みどころは相当にあります。書き終えてから読むと、自分でも「う~ん」となるところは絶対あります。
それでもこう言うことを書いたのは「恵まれていないものが努力して得たものは恵まれているもののものより尊い(同じ深みに到達しない)」という言説を耳にすることがあるからです。
そういうのがポーンと、軽く、語られるたびに「う~ん?」となるのもあってこんな話をしてみました。
ちなみにわたしが「苦しみ~(云々)」と「恵まれた~(云々)」というものを関連付けたイメージを持っているかというと、おそらく持っているのではないかと思います。(つまりわたし自身がバイアスを持ってこの文章/意見を語っているということ)
理由の一端にフィクションがあるでしょうね(あと親の影響)。
フィクションで出てくる際に「おれはどん底からはいあがってきたからあいつに勝る」とか「~を知らないからああいう行動を取るんだ」という風に描写されるため、「恵まれているアイツと恵まれていないオレ」という構図が出来上がります。これは理由の一端に「強さの理屈付け」というのがあるのでしょう。ボクシングを題材にしたときに「練習もしないけれど体格がいいから強い」なんてキャラを主人公にするのは、ちょいと難しい。
だから「恵まれていない体でもこれだけのマイナスを乗り越えてプラスを手に入れた」という描写が生まれているのかもしれない。
恋愛ものならば「貧乏な彼のほうが心がやさしい」とかも類例でしょう。
こういうふうに「比べられない物を比べる」(スポーツなら勝敗、恋愛でも恋の勝負とかね)のを見ているうちに、自分で変なバイパスを作っている可能性は十分あります。
そういう意味では、これは「自分と同じような相手」に向けた話とも言えるでしょう
※1 「夜の闇が妖怪を生んで、都会の光がその生息の幅を狭めた」みたいな理屈と同じこと。わからないところがわかれば、そこに対して「こうかもしれない」なんて夢想は起こりづらいだろう
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