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2010年7月

2010年7月29日 (木)

悩み

てれびんはmixiとtwitterの両方を連動させて使っています。

すると先日友人から「お前のつぶやきでまわりの人間のつぶやきが追いやられている」との一言を冗談交じりに言われたのですが…

うーん。どうしようかなぁ。解除した方がいいのだろうか。

いまのところ被害者はリアルの友人が主なので(ネット関連はむしろ連動させている人が見受けられる)、てれびん名義のためにmixiを用意した自分としては「このままでもいいかなー」とかは思うんだけど…

あと、どちらもつぶやきのための場所だから連動させるのはむしろ自然な気もする

…悩むなー

2010年7月27日 (火)

「小さな、だけど大きな奇跡の物語」―借り暮らしのアリエッティをみて―

精巧な作品に心惹かれます。ビスクドール、機械式の時計、そしてオートマタ。

天才が作る劇的な作品とは違うけど、丁寧に、一つ一つ作り上げてきた積み重ねに感動を覚えます。

そしてその積み重ねが結実したとき、天才が作るのとは違う、でもそれに比する大きなものを完成させた時、それは何物にも代えがたい価値あるものだと思います。

「借り暮らしのアリエッティ」とはわたしにとってそういう位置づけの作品だ。

この作品には素晴らしい部分が数多くある。映像、音楽、ストーリー構成。

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それら一つ一つを細かく語ってしまってはずいぶんと長い文章になってしまうだろう。それでは読む人がつらいだろう。なによりわたしがそんなに長くは書きたくない(笑)

だから今回は「借り暮らしのアリエッティ」という作品のストーリー、そして映像効果を中心にちょいちょいと書いておきたいと思う。

わたしがこの作品をみて感動を覚えた第一のポイントはその「丁寧さ」にある。この作品は「ポニョ」のようにめまぐるしく動く代わりに粗さを感じさせるところはない(それが商業的にどういう差を生むかはわからないが、個人的にはこういう作品もないとつらい)。あらゆる行動や動機には理由があり、小さな積み重ねが一つ一つ細かく描かれている。この作品を精緻に見ていけば理解できないところはほとんどないように作られている。(※1)

アリエッティと人間の翔にはそれぞれの視点と理由があり、それらの積み重ねがラストの奇跡(後に述べる)につながる。

そこ以外に読み手に疑問を抱かせる部分はほとんどなく、たとえ分からないように思えても考えると理由が分かるように作られている。

またこの丁寧さにからんでのことだが、これから見るあるいはもう一度見る視聴者は是非この作品の「視点移動」に気を配ってもらいたい。

この作品ではアリエッティと翔の視点が交互に描かれている。人間の何気ない行動はアリエッティから見るとどう映るのか?その対比が意図的に描かれている。

さらに、出来るならばその「視点移動」は「主観の移動」であるのだということも注意して見てもらいたい。実はわたしはこの作品を2度見た。火曜にいずみのさんや海燕さんたちとみて、日曜日に確認したいことがあってもう一度。

そこで確認したのは「アリエッティから見た視点の変化」である。このことは作品をみた人間にはよくわかるのではないかと思う。

たとえば、一番最初にアリエッティが「かり」をする時を思い起こしてほしい。アリエッティが翔に話しかけられるときに、アリエッティから映る翔の恐ろしさ(※2)。しかし物語が進むにつれてその「恐ろしさ」はなりをひそめていく。例外的に、翔がアリエッティの家を○○するときはあるが、それは「なにか恐ろしいことがおこっている」という描写であるにすぎず(人間の何気ない善意と思われる行動が、他の生き物にはとてつもない災厄となりえる)、けっして「アリエッティからみて『翔が』恐ろしい」というわけではない。(※3)

ちなみにこれを補強する部分が「アリエッティの母と翔のシーン」(助けるところ)である。アリエッティ視点から見ているので翔が穏やかな顔をしているのはわかる。しかしアリエッティの母は終始翔をおびえ続けている。これは、最初の”かり”のシーンで「ただ翔がしゃべるだけで恐ろしい」という感覚を母が覚えているからだろう。(※4)

このように「主観的視覚移動」が描かれているのは実に丁寧な仕事であろう。(※5)

さいごに奇跡のはなしをして終ろう。

わたしは先ほど、奇跡以外は理解できるように作られている。と述べている。

いままで述べてきたように、翔とアリエッティは種族の違いをこえて心の交流を図る。これがまず第一の奇跡である。本来交わるはずのない直線上にいた2人が出あい、認め合う。偏見によるバイアスや状況によるマイナスを乗り越えてそのような関係を築けた「偶然の積み重ね」そのものが一つの奇跡として描かれている。

そして第2の奇跡が猫のニーアである。さいごにニーアは重要な役割を果たす。ここにもまた「種族をこえた交流」というもう一つの奇跡が描かれている。(※6)

そういう意味ではこの作品は「小さな、だけど大きな奇跡の物語」とも言えるのかもしれない。

是非お勧めなので見てほしい映画です。

※1 この丁寧さの所以の理由がパンフの中に書いてあった。プロデューサーの鈴木さんの記事を読むとよくわかる。この作品の米林監督は、最初宮さんと鈴木さんに「お前が監督をやれ!」といわれたときに「ぼくには作品の中で訴えたい思想とか主張がない」と返した人である。この答えに対して2人が返したのは「そんなものは原作に書いてあるっ!」という言葉。その言葉通り米林監督は「原作の通り」丁寧に忠実に作品を作り上げたであろうことは想像に難くない(もちろん舞台を日本に移すにあたりかえた部分はあるだろう)。このことは後に述べる「視点移動」のところにも絡む。

※2 この作品を「恋愛物語」だと考えているヒトがいるみたいだが、見方を間違えているとおもう。ただ、そう見えてしまう事はじつはわからないでもない。この「アリエッティと翔の邂逅」シーンでうつるアリエッティの姿のかわいらしさは、どうみても「男の子に一目ぼれしたシーン」のように見える。恥じらう姿がかわいすぎるでしょう。パンフとかをみると、宮さん的には「小さな恋の物語」として予定していたため、このようなシーンの描かれ方をしているのだと思われる。おそらく宮さんが絡まなくなってきた(だろう)中盤以降から、監督のストーリー変更がなされている。つまり、「恋愛物語」としてみた人は、最初の宮さんの(監督とは異なる)意図によるノイズにだまされたという形が近いのではないかと思う。

※3 この主観による視点移動を観点にしてみると、翔の「君たちは滅びゆく種族なんだよ」というシーンの倒錯的な恐ろしさも見て取れる(のではないかと思う)。このシーンでの話しで、「おまえは魔王かっ」とかんでさんが冗談で話していたけど、アリエッティ達から見れば翔たち「人間」は明らかに「魔王」であり、ある意味適切な見方ではないかと思われます。

※4 まぁ、「人間に怖い思いをさせられたから人間すべてにおびえている」という解釈でもいいんだけどね。ただ”そう”も見えるよってことです。実際、翔の「怖さ」が物語前半と後半では違うし。

※5 同じ対象をみていても異なるように見えるという話をテーマにしているのが『紫色のクオリア』である。ライトノベルなので簡単に読めるから、興味を持った人は読んでみてほしい。

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※6 ちなみに火曜にみんなで見終えた後の話に「無私の愛を示したのは猫のニーアだけ」とかあったのだけど、今回は取り上げなかった。ちょっとだけ書いておくと、この話は基本的に「相互の不通」という前提がある作品なんですね。たとえば翔は「良かれと思って」アリエッティの家にたいへんなことをするし、アリエッティだって翔の体調を考えないで「お願い」をする。だいたい事態の悪化を招いたのもアリエッティのそういう部分が大きく寄与しています。またおばあさん(貞子)さんだって、翔と同じように「相手のことを考えない」で自分の思い(小人さんに家を渡してあげたい)で動いています。それの典型がお手伝いのハルさんなんですね。だからこそ、起こった奇跡がより貴いんです。

<補足>

最初に「現代を写すことで」そして「アリエッティの側の世界を精巧に作りこむ」ことで、翔の側の人間の世界のリアリティーとかが保障されるという話をしようとしていたの忘れてたorz

ここで書いておくからよしとするか。

あと、いままで読んでもらえば分かると思うけど、この物語は「種族をこえた交流」の物語なんですね。けっして恋愛ではないし、そういう「世界」が描かれた作品であるにすぎないといってもいいかもしれません。

<補足の補足>

ついでに加えておくと、宮さんは「絵からストーリー」を作る人で、米林さんはたぶんそうではないので、従来通りの「絵ではない」からジブリ的ではないという批判はジブリ作品を画一的に見すぎている気がすると思いましたマル

記事を書いた後に、面白そうなほかの記事あったら下に貼っておきます。言い忘れとか思いつかなかったことのの補足代わりですね。ちなみに、紹介するからといって=同じ見方とは限りませんよ。念のため。

借りぐらしのアリエッティ 感想 ~これは小人と人間の物語~

借りぐらしのアリエッティ 感想(ネタバレ)

借りぐらしのアリエッティ感想

Togetter 『借りぐらしのアリエッティ』鑑賞直後のツイート

2010年7月16日 (金)

いやぁ、ほのぼのするなぁ

カンピオーネ特設サイト

カンピオーネ特設サイトにある「噂のカンピオーネ」読みました。いやぁ、こういうほのぼの(?)した話読むと落ち着くなぁ。

カンピオーネを知っている人も知っていない人も読んでみてくださいな。読んだことない人は、気にいったら本編もどうぞ。

神を殺して神殺しになった少年の物語が幕をあけますよ。

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すばらしすぎるっ

見てみて!すごいよっ、これ!

『宇宙ショーへようこそ』を見てきたんだけどね・・・

友達に誘われて、テスト直後の勢いに乗って見に行ってきました。さいたままで。

出発午後4時、帰宅午前5時って、どうよ一体…次の日は9時から実験なんだぜ。

そこで、感想なんですが、ひとことで言うと「見なくてもいいです」。

勘違いしないでほしいのは「見ても後悔する」とかそういうわけではないことです。見ていて面白かったし、楽しめました。

ただ、それを見たから何かを得れるという事はないでしょうという事なんです。だから、この作品は「万人に見てほしい」作品ではなく、「それを楽しめる嗜好の方々」に見てほしい作品だということです。

わたしの感想をみる前に。たまごまさんの感想がいい記事だと思うので、紹介しておきます。

たまごまごはん ■[宇宙ショーへようこそ][映画]私たちの、大きくて小さな修学旅行に旅立とう!「宇宙ショーへようこそ」

…うん。こういう人に見てもらいたい。

もし、たまごまさんの作品評論にすごく共感を得る人は見に行った方がいいかと思います。じっさい、映画を見ながら「ああ。たまごまさんなら絶賛するんだろうなぁ、この映画。女の子かわいいし」とか思いながらてれびんは見ていました。(帰って調べてみたら、やっぱり大絶賛)

余談ですが、「脚に注目!」は同意。目を奪われたね。むしろ「下半身に注目」といってもいいよ。あと、見えそうで見えないちらリズムとか。

(閑話休題)

そこで、この作品の「なに」が「みなくていい」とてれびんに思わせたのか。それを今回の話題としてみましょう。

ストーリーがあってないようなもの

これがどういう事なのかというと、作品全体を貫くストーリーが見えてこないという事です。もちろん話の整合性が取れていることは分かるんです。でも、そのストーリーから「何を伝えたいのか見えてこない」。

これは、わたしが見えないだけで実はあるのかもしれないけど、わからなかった。

ドラえもんとかは物語を通して子どもたちに伝えたいテーマとかが見えるんです。でも、この作品には見えなかった。横にいた友人もそれは同意見で、「最後まで探してみたけど分からない」というのが互いの共通認識でしたね。

何のためにストーリーテリングはあるのか?

いろいろな答えがこの問いにはあると思うのですが、その一つに挙げられるのが「物語を通して伝えたいことを、よりリアルに読者に伝えたい」ということがあげられると思います。

「人間は○○な△△だ」(空欄には好きな言葉を入れてください「自由な存在」でも「いつもエロい事を考えている変態だ」とか)という主張があるとします。これを只伝えるならば、このように一行で済みます。しかしそれを相手に読ませたところで、主張者のもっている具体的なイメージを共感させるのは難しいでしょう。

だから人は言葉を費やし、例をあげることで「主張者が真に意図した主張を、その主張の裏っかわまで共有しよう」とするんです。

ストーリー、つまり物語も同じです。擬似的なキャラクター達が動き、考え、苦しむことを追体験することで、主張者の「哲学」ないしは「伝えたいこと」の詳細を感じとっていかせる。

物語の書き手が「伝えたいことがあるから書く」というのは、いわばこういう事なんだと思います。

しかし、その点『宇宙ショーへようこそ』はそれがない。少なくともわたし(とその友人)には分からなかった。

極端な話、「物語をみている」というより「妄想をみさせられている」というほうが(個人的には)スッキリする表現です。

そこから「得るものがない」というのはそういうことです。

しかし

ただ、そこでこの作品が「駄作」なのかというならば、それは少し違うと思う。この作品は、一面では「ものすごい駄作」であると同時に、ある人間たちには「傑作」なのではないだろうか。

どういうことか?

それは作品の見かたの問題だと思う。前述でわたしは「ストーリーとは作者の想いを乗せる媒体である」という趣旨を述べた。そう見てしまうとこの作品は「全く見るにあたししない駄作」となってしまいかねない。なぜなら作者の想いは「ストーリーに乗っていない」からだ。

ここで、先ほどの妄想を見せられるというのは、我ながらふに落ちる表現である。この作品のストーリーはたしかに整合性はあるのかも知れない。しかし、それは妄想(「おれはかわいい○○がみたい」「ここで○○が勝っていたらストーリーはこうなる」)れべるでの、貼り合わせの整合性に見える。

わたしがそう思うのは、作者の「想い」が別のところにあるんではないかと感じるからだ。具体的には「画」。

たまごまさんの絶賛記事でも注目は「女の子のかわいさ」と「宇宙人たちの絵とか動き」に向けられています。

これはたまごまさんが作者の意図を忠実に受け取った結果ではないのか。作り手の目的、伝えたいことは極論すると。

「この女の子かわいいよねっ」 「こういう宇宙人すごいだろう」

というものなのではないか。

そういうことを言いたかったのではないか。だからこそ、ストーリーには伝えたいものはほとんどなく(あえていうならば「日常」というのは伝えたいことの中にあったのかもしれないが、作品全体を通じてのテーマかというと首をかしげてしまう)、画を中心に見る者には伝えたいことが伝わってしまう。

そんなことを感じた作品だった。

余談

べつに統計を取ったわけではないから、何とも言えないが。『いばらの王』と『宇宙ショーへようこそ』を見ていると「これが最近の流行なのかなぁ?」と疑問に思う事がある。

それは「語りたいことのためにストーリーを語る」従来の物語りとはことなり、「見せたいものがあるから、(あるいみ無理やりにでも)ストーリーを用意する」傾向である。

あくまで個人の感情なのだが、『いばらの王』も『宇宙ショー』もストーリーとは根本的に無縁のものを描くためにストーリーが用意されているように見える。

『いばらの王』は、ようは『出題』が目的なのではないかと感じる。最後のわけのわからなさ。これを提示するためにだけストーリーがあるのではないか(その意味では、映画すべては『出題時間』であり、ストーリーには気を使っている。しかしそこに乗せるべき想いはない。なぜなら乗せるべき想いは『出題する』という点に向けられているから)

『宇宙ショー』は前述での『画』だ。変な話、「見せたい絵をまず用紙して」それを見せるために「ストーリーを用意した」(絵を並べ替えてストーリーとしての体裁を整えた)ように見えてしまう。

ここにもまたストーリーに乗せない想いが主眼となっている。

しかも『宇宙ショー』の場合は『出題』のようにストーリーに気を使う必要がない。だからこそ、はたから見ていて「いいのかこれ?」と思うような出来事もストーリーに乗せられるのではないか(例 「わからないけど がんばるっ」ってシーンとか。これで子どもたちがあまねを助け出す決意につながるとは、あんまり思えないんだけど…)

まぁそんなことをつらつら妄想したよって余談。

追記

最初、この作品のご都合主義の理由は「発展とは悪いことではない」という思想の裏付けなのかと見ていたが……ないわ。(月へロケットを飛ばしていた時代の人たちの思想ね)

この「上滑りなストーリーテリング」はわざとなのか悩むところなんだが。これがあることで「ストーリーに気を使う事なし」に「画だけに集中」していける側面がある。へたにきっちりストーリーを作っていくと「画を見せる」ことができないから、「画だけを見れる」貼り合わせたようなストーリーを「意図的」に作ったのだろうか?疑問だ。意図的でもおかしくないとはおもうんだよね。

(ちなみに、『いばらの王』の予告で流れたこの予告で「まさかポチですべて引っ張らねぇよなぁ」と思ったが、ある意味引っ張ったんで驚いたよ)

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<補足>

この記事の後、twitter経由で「この作品の最後をみると、宇宙ショーは主人公たちのために道を譲るという祝福にみちている。そういうのって優しくてうれしい」(だから、書きたい絵だけを書いた作品だとは思えない)というコメントをもらって、そういう感じはあるなぁと納得したことを付記する。

わたしはこの作品は「表現したい話」がある、のではなく。「表現したい画像(場面)」(もちろん絵も含む)をみせたいから「話」があるのではないかと感じたんですね。

でも、改めて指摘されて考えてみると「優しいものが書きたかった」という観点から作品を作っている可能性はたしかにありますね。すると、ストーリーの不備と感じられた部分は、作品の中で互いに優しくあるためのギミックととらえることができるのかもしれない。もう一度見直してみると、印象が違うのかもしれないな。

機会があれば見直してみたい気もする。

2010年7月14日 (水)

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ああ。これすばらしい。

最近は実験の毎日のてれびんです。週末は島根まで友人とクルマを走らせてきました。石見銀山で道に迷って山を越え(徒歩)、出雲大社でそばをくい、鳥取砂丘で砂と戯れて次の日の早朝に伊勢神宮にいたてれびんです。

さいきんうえおさんが凄いなぁと思います。もちろん完成度で言うなら『紫色のクオリア』のほうがはるかに上ですし、感動したというなら『レンタルマギカ』の最新刊のほうが感動しました。

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でもね。この作品はさまざまなものに答えを出そうとしているところがすばらしい。

この辺は言葉にするのが難しいんだけど、というかわたしが言葉にできない部分がすばらしいと感じているんだけど、少しだけ書いてみたいと思います。

まずは、キャラクターについて話をしましょう。これを考えるときにわたしが立てる問は『人間は機械なのか』、という問いです。

これは敢えて言うならNOです(見方によっては逆にもなるけど、今回はこのように答えましょう)。機械かと見まがうような精巧な構造を備えていますし、電気刺激や反射など無条件な条件設定は存在しています。しかし、そのようなプログラムのようなルールでははかれない部分が人間にはあります。このような部分が人間の中の「カオス」として、常に曖昧な境界を作っています。

ところが、キャラクタライズ化された登場人物にはその「ルールから外れた部分」というのがほとんどなくなってしまうんですね。これは考えてみれば当然のことです、「言葉にする」ということは「理解する」という事です。言葉で表現されているキャラクターは基本的には「なんでそうするのか(物語中の登場人物からはわからないにしても)のルールがある」ということです。

これは「物語の外」からの要請も関与しているでしょう。つまり「いきなりこんなことをされたら物語が破綻してしまう!」という文句が付けられないようにしないといけません。ヒロインが主人公をとつぜん刺す、などというイベントには理由が必要です。あるいは、物語の真ん中で理由なく主人公が死んでしまって物語はおわり、のこりは全部白紙のページですなんていうのは許されません。

多かれ少なかれ「行動や動機に理由が求められる」のが物語なんです。

それにたいして、今作では物語が破綻しないレベルでの「理由のなさ」というものが存在しています。

で、そこだけでは終わらないで、それを「人間としての尊厳」にまで繋げている。これは「まおゆう」のメイド姉の発言とリンクするところがあります。

ちなみに以下の引用は、文脈があってこその感動であると思うので、まだ読んでいない人は読んでからの方がいいかと思います。



メイド姉「わたしは……。  わたしは、魂持つ者として皆さんに語らなければならない  ことがあります」

 
ざわざわざわ、ざわざわざわ

メイド姉「……わたしは。
 わたしは、農奴の子として生まれました」

  
学士様が!? そ、そうなのかやっ!?
  おらたちといっしょの農奴だって!?

メイド姉「農奴の生活は苦しいものです……。
 もちろん地域や地主、貴族などによって違うのでしょうが
 少なくともわたしが過ごした幼少期のそれは苦しいものでした。
 わたしは七人の兄弟姉妹の三番目として生まれました。
 ある兄は農作業中、腕を折り、
 そのまま衰弱して捨て置かれました。
 ある姉は、ある晩地主に招かれ、帰りませんでした」

 
ざわざわざわ、ざわざわざわ

メイド姉「冬の良く晴れた朝、
 一番下の弟は、とうとう目を覚ましませんでした。
 疱瘡にかかった姉妹も居ます。わたしは何も出来ませんでした。
 生き残ったのは、わたしと二つ下の妹くらいのものです……。

   あるとき逃げ出したわたし達に転機が訪れ
 それは運命の輝きを持っていましたが
 わたしはずっと悩んでいました」

メイド姉「ずっと……」

 
ざわざわざわ、ざわざわざわ

メイド姉「運命は暖かく、わたしに優しくしてくれました。
 あんなにも優しい言葉を聞いたのは初めてです。
 ――安心しろ、と。何とかしてやる、と」

メイド姉「しかし、みなさん。

 貴族の皆さんっ。兵士の皆さんっ。
 開拓民のみなさんっ。そして農奴の皆さんっ。

 わたしはそれを拒否しなければなりません。
 あんなに恩のある、優しくしてくれた手なのに。

 優しくしてくれたのに。
 優しくしてくれたからこそ。

 拒まねばなりませんっ」

 
ざわざわざわ、ざわざわざわ

メイド姉「わたしは、“人間”だからですっ。

 わたしにはまだ自信がありません。この身体の中には
 卑しい農奴の血が流れているじゃないかと、
 そうあざ笑うわたしも確かに胸の内にいます。

   しかしだからこそ、だとしてもわたしは“人間”だと
 云いきらねばなりません。なぜなら自らをそう呼ぶことが
 “人間”である最初の条件だとわたしは思うからです」

メイド姉「夏の日差しに頬を照らされるとき
 目をつぶってもその恵みが判るように、
 胸の内側に暖かさを感じたことがありませんか?
 たわいのない優しさに幸せを感じることはありませんか?
 それは皆さんが、光の精霊の愛し子で、人間である証明です」

使者「い、異端めっ!」 ビシィッ!

メイド姉「異端かどうかなど、問題にもしていませんっ。

 わたしは人間として、冬越し村の恵みを受けたものとして
 仲間に話しかけているのですっ!!」 きっ

メイド姉「みなさんっ。
 望むこと、願うこと、考えること、働き続けることを
 止めては、いけませんっ。
 精霊様は……精霊様はその奇跡を持って人間に生命を
 あたえてくださり、その大地の恵みを持って財産を与えて
 くださり、その魂のかけらを持ってわたし達に自由を
 与えてくださいました」

  
自由――?

メイド姉「そうです。それはより善き行いをする自由。
 より善き者になろうとする自由です。
 精霊様は、まったき善として人間を作らずに、
 毎日、ちょっとずつがんばるという
 自由を与えてくださった。それが――喜びだから」

メイド姉「だから、楽だからと手放さないでくださいっ。
 精霊様のくださった贈り物は、

 たとえ王でも!
 たとえ教会であっても!

 犯すことのない神聖な一人一人の宝物なのですっ!」

使者「異端めっ! その口を閉じろっ」 ビシィッ!

メイド姉「閉じませんっ。
 わたしは“人間”ですっ。

 もうわたしはその宝物を捨てたりしないっ。
 もう虫には戻りませんっ。たとえその宝を持つのが辛く、
 苦しくても、あの冥い微睡みには戻りはしないっ。

 光があるからっ。
 優しくして貰ったからっ!」

使者「この異端の売女めに石を投げろ! 何をしているのだ。
 民草たちよ、この者のに石を投げ、その口を閉じさせよっ!
 石を投げない者は全て背教者だっ!!」

 
ざわざわざわ、ざわざわざわ

メイド姉「投げようと思うなら投げなさいっ。
 この狭く冷たい世界の中で、家族を守り、自分を守るために
 石を投げることが必要なこともあるでしょう。
 わたしはそれを責めたりしないっ。
 むしろ同じ人間として誇りに思うっ。

 あなたが石を投げて救われる人がいるなら、
 救われた方が良いのですっ。
 その判断の自由もまた人間のもの。
 その人の心が流す血と同じだけの血をわたしは流しますっ」きっ

冬寂王「……っ」ぎりっ

メイド姉「しかし、他人に言われたからっ
 命令されたからと云う理由で石を投げるというのならばっ!
 その人は虫ですっ。
 己の意志を持たない、精霊様に与えられた大切な贈り物を
 他人に譲り渡して、考えることを止めた虫ですっ。

 それがどんなに安逸な道であっても、
 宝物を譲り渡した者は虫になるのですっ。

   わたしは虫を軽蔑しますっ。
 わたしは虫にはならないっ。
 わたしは“人間”だからっ」

つまり、「背負うものを選べる自由」があるというところにリンクさせてあるんですね。「理由がない」ことをマイナスではなく、プラスに転化して物語を閉めようとしている。このようなところをみて、すばらしいな、と思ったんですね。

まぁ、まだかけることはあると思うんですけど、久しぶりの更新という事もあって、今回はここで終了とします。

ちなみに、この作品を見て、『ネギま』を思い出していたのはわたしだけではないと思う。『ネギま』の理解にも繋がれる本であると思う事を付記しておきます。

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2010年7月 5日 (月)

お久しぶりです

ほんとにご無沙汰しています。てれびんです。何週間ぶりでしょうか?ちょっと調べてみます。・・・えーと、前回から3週間くらいですね。まともな記事ということを考慮に入れると1ヵ月ぶりです。

ちょっと、なにも書けなかったので最近の近況をさらっと書いてみたりします。

①骨を書いていました

けっして骨を眺めるのが趣味。とかいう話ではありません(実話 そういう勘違いを受けかけたことがあります)
骨学実習で泊まり込みながら骨を延々と書いていました。
正直果てがありませんでした。書いても書いても終わりません。気力の勝負を続けておりました。

②レポート書いていました

毎週提出される組織学のレポートを書いていました。ちょっと尋常でない量が毎回提出されます。気力がここで失われかけます。

③ひとをさらっていました

男友達を車に乗せて毎週末あっちこっちへ行っていました(もちろん相手の許可などとらない)。「この道をまっすぐ行くとどこにつくのだろう?」とか言いながら、海にたどりついたりしていました。「夜のうみこえーよぅ」とか叫んだり、仮眠をとっていたら警察さんに職務質問されたりしていました。ここで気力を回復させます。

④①へ戻る

だいたいこのサイクルで余ってる時間がすべて食われていました。

なんとか通常授業は終了したので前よりは書けるようになると思います。

(そういいながら、今週末は島根に行き、来週はsomething orangeオフ会、そしてその数日後追試だが。)

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