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2010年3月29日 (月)

『いつか勇者だった少年』

新刊で買ってたんだけどずっと読んでなかった本をやっと読みました。(まぁ。友達んちに買った直後のこの本を置き忘れて海外にいっちまったとかの諸要因はあるんですけどね。ほかにも数点置き忘れていて、それらはほとんどいずみのさんが読んでたらしい(笑))実家に持ってきてはいたけどまだ読む気はなかったのね。零崎シリーズ4冊とかあるしさ。

じゃあなぜ読もうと考えたのか。そのきっかけがこれhttp://kiicho.txt-nifty.com/tundoku/2010/03/post-8091.htmlわたしがよく行くブログ『積読を重ねる日々』の記事。

ここまで酷評されていると逆に読みたくなっちまったよ。

ただ酷評されているといっても、作品の完成度は高いとは思うのですよ。吉兆さんもブログで

つまらなかったとか、上手い下手の話をしているのではなく、とにかく”不愉快”であり”不快”であり”生理的嫌悪”を呼び覚まされました。

この作品については、本当に心の底からおぞましいと思う作品だと思います。そして、その点はおそらく作者も意識して描いているのだと思います。ファンタジーの無力さ、身勝手さを意識的に描いており、作者の意図をきちんと反映させた優れた作品であるのだと思います。個人的には怒りさえ覚える作品ですが、その意味では非常に完成された作品であるということは認めないわけにはいかないと思います。

という旨を書いている。

そしてこの感覚は正しいと思う。あくまで私見で申し訳ないが、現実に生きている人のなかの多くはこういう人間をみて不快に思うのではないだろうか。たぶんこの主人公をほんとうに嫌いな人間は、こういうのをとことん嫌い抜くだろう。

かくいうわたしもtwitterで次のような発言をしている

  • 『いつか勇者だった少年』読書中。徐々に気分が悪くなってくる。

わたしの場合は「嫌い抜く」ほどのレベルではない。それでも読んでみて言っている意味がわかる。主人公の思考、行動を知れば知るほどに気分が悪くなってくるのだ。

この物語は主人公が思考を空転させたまま進んでいく物語なのだろう。

この物語に対して吉兆さんは次のように書いている

この作品にはあらゆるフィクションやファンタジーと、それを愛好する人々に対する悪意に満ちています。あくまでも私見ですが、フィクションと言うものの本来あるべき姿は、現実に対する杖であり、現実を生きるためにこそ必要とされるものだと僕は思います。現実ではどうにもならないものを、ファンタジーという形で受け入れることで、現実を生きる支えとする。しかし、それがファンタジーの持つ正の側面であるとするならば、勿論、負の側面もありえることになります。それは現実に対する拒否としてのファンタジー。逃亡のためのフィクション。

ファンタジーに対して現実のわたしたちがどのようにあるべきか。それには議論の余地もあるだろうし、個々人で対応は変わってくるものだろうとは思う。わたし個人の意見としては、『ファンタジーは現実の鏡』であって欲しいと思う願いと同時にそうであってほしくないという感傷もある。現実がなくては虚構は存在しない。それでも常に現実へのフィードバックを前提に虚構をみたいわけではないという思いがある。虚構を虚構として、現実は現実として捉えたいという感覚があるのだ。

話題がそれた。本題に戻ろう。

このような感覚を前提につぎのように書かれている

この作品は、まさにファンタジーのダークフォースを描いた作品と言えるのでしょうね。正確には、ファンタジーの暗黒面に堕ちた少年が主人公となる。彼は非日常を愛し、日常を嫌悪している。過去、異世界に召喚されたと言う非日常的な体験をしており、その後、使命を果たして現実に帰還した後も、あくまでも非日常の世界こそが自分の生きる世界であると信じている。だが、それだけならば、別におかしなことではないと思います。ここではないどこかへの憧れ。それはこの世に生きることが困難な人々が、だれもが救いを求めてすがるものですからね。そうした人々の苦しみの受け皿として、ファンタジーは確かに機能してきたと言えます。現実だけでも、ファンタジーだけでも、世界はバランスは取れない。現実を生きるためにファンタジーを必要とし、ファンタジーが存在するためには現実が存在していなくてはならない。そのバランスが重要なことなのだと思います。

そして次のように分析している

だが、彼は違う。この主人公は違う。なぜなら、彼は異世界に対する憧れは実は無い。現実において、なにか苦しみを感じているとか、違和感を覚えるとか、そういうものはなにもない。生きることに苦しんでいるわけでもない。ここではないどこかへ行きたいとも思っていない。ただ、”異世界ならばもっとスリルのある、楽しい人生が送れるだろう”と思っているだけなのです。言うなれば、ただ面白いゲームをプレイするときのような期待感しか、彼は異世界に持っていない。自分を気持ちよくしてくれる非日常。それこそが彼が求めているもの。それゆえに、彼は自分を不快にする存在を許さない。なぜなら、非日常、すなわちファンタジーは、”自分を楽しませるために存在する”と考えている、否、認識しているからだ。

すなわち、本質的に、彼にとっては非日常であることは重要ではない。彼はただ、”自分が楽しむことの出来る世界”が欲しいだけ。

うん。この感覚は共感できる。キャラクター紹介で「「非日常」に強い憧れをもつ」とあるが確かにそれは正確ではない。かれにとって「非日常」か否かは正直どうでもいいのだろう。憧れはない。ただ物語のテーマに沿うさいに「非日常」という用語が伴うイメージが重要だから用いられたのではないか。

ただ主人公を突き動かしている動機に関しては、すこしニュアンスの異なる感想を抱いている。

主人公は”自分が楽しむことのできる世界”を求めていることは確かだと思うんです。でもその用語の内実はわたしたちの感覚とは、ちがう。

すなわち彼がいう「楽しい」世界と、現実に生きるわたしたちのいう楽しい世界というのはじつは違うのではないかと言っているんです。この作品を読んでいて、主人公が「たのしい」世界を求めていることはよくわかるんです。でも、わたしはこの「楽しい」世界が本当にたのしい世界だとは感じられないんですね。正確には感じられなかった。

これは「楽しい」世界というのが、「苦しいことがない」世界とか「現実を感じさせない」世界と同質であるためだと思っています。

つまり。わたしたちの世界での楽しいというのは「苦しさ」や「現実」が前提にあっての楽しさなんですね。これは壁と表現してもいいと思うんだけど。この超えるのが難しい「壁」をどのように超えていくか、対処していくかが楽しい世界に求められていくんですね。そういう達成感のある楽しさがわたしたちにはあると思います。でもかれの「楽しい世界」にはそれがない。

それが大きな違いだと思います。

補足

↑ここではこう書いたけど、もっと正確に書くと。わたしたちの世界にも達成感のない楽しみはいくらでもあります。しかしこの世界での楽しいという感覚は「『壁』があるうえでのアンチテーゼ」と表現するべきものです。「現実はこうだけど・・・」という前提条件が必ず付随するんですね。だからどれほど虚構に耽溺しても、というかすればするほど、鏡面の存在である現実は求められるんです。でも「いつか、勇者だった少年」の主人公はその「現実」から離れていく方向離れていく方向へと向かっている。字面だけ見ればわたしたちのいう楽しさの一形態に見えなくないが、前提条件(現実という壁が前提におかれているかどうか)が異なる以上、相似の別物という認識をしたんですね(…これでニュアンスの違いが伝わるかなぁ…)

このような条件に立つと、この主人公は「ファンタジー」を求めているわけではないと思います。ただ「現実ではない」世界が欲しいんです。だから彼は物語のラストで「異世界へ行かない」という選択や「魔法を解析されるといやだ」という感情をいだくのですね。だって、異世界に行ったところでそこでの生活は「現実」なんですね。現実を上滑りして、空転した思考を用いて生きていくには十分ではないところだからです。

だから読み終えた直後にわたしはこんなことを思っているんですね。ちょっとtwitterからの発言を流用。

  • 『いつか勇者だった少年』読み終える。ある意味秀作、なのか?主人公の好き嫌いは別にして、物語の軸はぶれてないと思う。主人公の空転した思考が徹底して描かれていると思う。現実からの純粋な逃避が延々ある。世界からの倫理的制裁がない点は評価しよ。だが売れるんだろうか、これ。気になるわ。
  • それとこの主人公見てて『かんなぎ』のナギが非処女騒動で騒いでた事態を思い起こす。『エロゲのヒロインは主人公に会うまで清廉でなければならない』感覚が下地にあるんだろうな。この作品続巻が出るんだろうか?ちょっと続きみたいかも。好きではないけど、だから逆に見たいというか・・・

この「ヒロインは処女では無ければならない」という話は以前のエントリhttp://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-275e.htmlにある「主人公たる条件」とかに関わっているとは思います。このあたりのはなしは数日以内に一度まとめたいとは思っています。

世界からの倫理的制裁というのは、簡単にいうと、「これだけひどい奴が幸せになるわけがない」という道徳的観点から不幸な結末が決定するものがたりです。デスノートのラストとかもその点からみると妥当なんですね。物語の作り手は物語外部からの道徳的制裁に対してどうリアクションするかが重要になります。「こいつはひどい奴だけど、もしかしたら、幸せになるかもしれない」と思わせられるように作らなければなりません。ちなみにこの場合の幸せとは、好きな人と平和な家庭を築く、とかに限定されません。たとえ人類が滅びようとも、キャラクターが「幸せ」であることが重要なんです。先のデスノートの例をとるならば「ライトが新世界の神になる」(第2部も勝利して終了)とかですね。

物語途中でわたしがこのように言っているのもそこに由来します

  • もう少しで読み終える。これで主人公が死んでのエンドだったりすると評価が下がりそう。いっそのことマイナスの道を突っ切って欲しいきもするな。

すなわち道徳的制裁を受けてしまうと「残念」なんです。(これについてはhttp://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-846f.htmlここではなしをしています。次の次のくらいのエントリで一度まとめる予定……)

…ちょっと、長くなりそうなんで2回に切ります。この小説のレビュー(?)のつづきは次のエントリで書きます。もしかするとそれに絡めて「ヒロインの処女性」とか「はじまった時点で終わりのものがたり」とかも書くかもしれません。あと「この主人公の求める世界」のはなしについてとかをもうちょっと・・・

 

 

今回のはなしに絡むと思われるエントリ(大雑把にだけど)

それと『積読を重ねる日々』へのリンクhttp://kiicho.txt-nifty.com/tundoku/2010/03/post-8091.html

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コメント

主人公が倫理的制裁を受けなかったのは自分も評価したい点ですね。あれで作者は凡百の物語にこの作品を落とし込むつもりは無いんだ、と言う確信を得ました。

コメントありがとうございます。

そうですね。この物語の場合それをやられると興ざめになるところでした。

物語外部からの作品干渉は物語を定型化してしまうところがあるので、こういう作品は必要だとは思います。もちろん読んでいて気分のいい主人公ではありませんけどね(笑)

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