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2010年3月

2010年3月29日 (月)

『いつか勇者だった少年』

新刊で買ってたんだけどずっと読んでなかった本をやっと読みました。(まぁ。友達んちに買った直後のこの本を置き忘れて海外にいっちまったとかの諸要因はあるんですけどね。ほかにも数点置き忘れていて、それらはほとんどいずみのさんが読んでたらしい(笑))実家に持ってきてはいたけどまだ読む気はなかったのね。零崎シリーズ4冊とかあるしさ。

じゃあなぜ読もうと考えたのか。そのきっかけがこれhttp://kiicho.txt-nifty.com/tundoku/2010/03/post-8091.htmlわたしがよく行くブログ『積読を重ねる日々』の記事。

ここまで酷評されていると逆に読みたくなっちまったよ。

ただ酷評されているといっても、作品の完成度は高いとは思うのですよ。吉兆さんもブログで

つまらなかったとか、上手い下手の話をしているのではなく、とにかく”不愉快”であり”不快”であり”生理的嫌悪”を呼び覚まされました。

この作品については、本当に心の底からおぞましいと思う作品だと思います。そして、その点はおそらく作者も意識して描いているのだと思います。ファンタジーの無力さ、身勝手さを意識的に描いており、作者の意図をきちんと反映させた優れた作品であるのだと思います。個人的には怒りさえ覚える作品ですが、その意味では非常に完成された作品であるということは認めないわけにはいかないと思います。

という旨を書いている。

そしてこの感覚は正しいと思う。あくまで私見で申し訳ないが、現実に生きている人のなかの多くはこういう人間をみて不快に思うのではないだろうか。たぶんこの主人公をほんとうに嫌いな人間は、こういうのをとことん嫌い抜くだろう。

かくいうわたしもtwitterで次のような発言をしている

  • 『いつか勇者だった少年』読書中。徐々に気分が悪くなってくる。

わたしの場合は「嫌い抜く」ほどのレベルではない。それでも読んでみて言っている意味がわかる。主人公の思考、行動を知れば知るほどに気分が悪くなってくるのだ。

この物語は主人公が思考を空転させたまま進んでいく物語なのだろう。

この物語に対して吉兆さんは次のように書いている

この作品にはあらゆるフィクションやファンタジーと、それを愛好する人々に対する悪意に満ちています。あくまでも私見ですが、フィクションと言うものの本来あるべき姿は、現実に対する杖であり、現実を生きるためにこそ必要とされるものだと僕は思います。現実ではどうにもならないものを、ファンタジーという形で受け入れることで、現実を生きる支えとする。しかし、それがファンタジーの持つ正の側面であるとするならば、勿論、負の側面もありえることになります。それは現実に対する拒否としてのファンタジー。逃亡のためのフィクション。

ファンタジーに対して現実のわたしたちがどのようにあるべきか。それには議論の余地もあるだろうし、個々人で対応は変わってくるものだろうとは思う。わたし個人の意見としては、『ファンタジーは現実の鏡』であって欲しいと思う願いと同時にそうであってほしくないという感傷もある。現実がなくては虚構は存在しない。それでも常に現実へのフィードバックを前提に虚構をみたいわけではないという思いがある。虚構を虚構として、現実は現実として捉えたいという感覚があるのだ。

話題がそれた。本題に戻ろう。

このような感覚を前提につぎのように書かれている

この作品は、まさにファンタジーのダークフォースを描いた作品と言えるのでしょうね。正確には、ファンタジーの暗黒面に堕ちた少年が主人公となる。彼は非日常を愛し、日常を嫌悪している。過去、異世界に召喚されたと言う非日常的な体験をしており、その後、使命を果たして現実に帰還した後も、あくまでも非日常の世界こそが自分の生きる世界であると信じている。だが、それだけならば、別におかしなことではないと思います。ここではないどこかへの憧れ。それはこの世に生きることが困難な人々が、だれもが救いを求めてすがるものですからね。そうした人々の苦しみの受け皿として、ファンタジーは確かに機能してきたと言えます。現実だけでも、ファンタジーだけでも、世界はバランスは取れない。現実を生きるためにファンタジーを必要とし、ファンタジーが存在するためには現実が存在していなくてはならない。そのバランスが重要なことなのだと思います。

そして次のように分析している

だが、彼は違う。この主人公は違う。なぜなら、彼は異世界に対する憧れは実は無い。現実において、なにか苦しみを感じているとか、違和感を覚えるとか、そういうものはなにもない。生きることに苦しんでいるわけでもない。ここではないどこかへ行きたいとも思っていない。ただ、”異世界ならばもっとスリルのある、楽しい人生が送れるだろう”と思っているだけなのです。言うなれば、ただ面白いゲームをプレイするときのような期待感しか、彼は異世界に持っていない。自分を気持ちよくしてくれる非日常。それこそが彼が求めているもの。それゆえに、彼は自分を不快にする存在を許さない。なぜなら、非日常、すなわちファンタジーは、”自分を楽しませるために存在する”と考えている、否、認識しているからだ。

すなわち、本質的に、彼にとっては非日常であることは重要ではない。彼はただ、”自分が楽しむことの出来る世界”が欲しいだけ。

うん。この感覚は共感できる。キャラクター紹介で「「非日常」に強い憧れをもつ」とあるが確かにそれは正確ではない。かれにとって「非日常」か否かは正直どうでもいいのだろう。憧れはない。ただ物語のテーマに沿うさいに「非日常」という用語が伴うイメージが重要だから用いられたのではないか。

ただ主人公を突き動かしている動機に関しては、すこしニュアンスの異なる感想を抱いている。

主人公は”自分が楽しむことのできる世界”を求めていることは確かだと思うんです。でもその用語の内実はわたしたちの感覚とは、ちがう。

すなわち彼がいう「楽しい」世界と、現実に生きるわたしたちのいう楽しい世界というのはじつは違うのではないかと言っているんです。この作品を読んでいて、主人公が「たのしい」世界を求めていることはよくわかるんです。でも、わたしはこの「楽しい」世界が本当にたのしい世界だとは感じられないんですね。正確には感じられなかった。

これは「楽しい」世界というのが、「苦しいことがない」世界とか「現実を感じさせない」世界と同質であるためだと思っています。

つまり。わたしたちの世界での楽しいというのは「苦しさ」や「現実」が前提にあっての楽しさなんですね。これは壁と表現してもいいと思うんだけど。この超えるのが難しい「壁」をどのように超えていくか、対処していくかが楽しい世界に求められていくんですね。そういう達成感のある楽しさがわたしたちにはあると思います。でもかれの「楽しい世界」にはそれがない。

それが大きな違いだと思います。

補足

↑ここではこう書いたけど、もっと正確に書くと。わたしたちの世界にも達成感のない楽しみはいくらでもあります。しかしこの世界での楽しいという感覚は「『壁』があるうえでのアンチテーゼ」と表現するべきものです。「現実はこうだけど・・・」という前提条件が必ず付随するんですね。だからどれほど虚構に耽溺しても、というかすればするほど、鏡面の存在である現実は求められるんです。でも「いつか、勇者だった少年」の主人公はその「現実」から離れていく方向離れていく方向へと向かっている。字面だけ見ればわたしたちのいう楽しさの一形態に見えなくないが、前提条件(現実という壁が前提におかれているかどうか)が異なる以上、相似の別物という認識をしたんですね(…これでニュアンスの違いが伝わるかなぁ…)

このような条件に立つと、この主人公は「ファンタジー」を求めているわけではないと思います。ただ「現実ではない」世界が欲しいんです。だから彼は物語のラストで「異世界へ行かない」という選択や「魔法を解析されるといやだ」という感情をいだくのですね。だって、異世界に行ったところでそこでの生活は「現実」なんですね。現実を上滑りして、空転した思考を用いて生きていくには十分ではないところだからです。

だから読み終えた直後にわたしはこんなことを思っているんですね。ちょっとtwitterからの発言を流用。

  • 『いつか勇者だった少年』読み終える。ある意味秀作、なのか?主人公の好き嫌いは別にして、物語の軸はぶれてないと思う。主人公の空転した思考が徹底して描かれていると思う。現実からの純粋な逃避が延々ある。世界からの倫理的制裁がない点は評価しよ。だが売れるんだろうか、これ。気になるわ。
  • それとこの主人公見てて『かんなぎ』のナギが非処女騒動で騒いでた事態を思い起こす。『エロゲのヒロインは主人公に会うまで清廉でなければならない』感覚が下地にあるんだろうな。この作品続巻が出るんだろうか?ちょっと続きみたいかも。好きではないけど、だから逆に見たいというか・・・

この「ヒロインは処女では無ければならない」という話は以前のエントリhttp://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-275e.htmlにある「主人公たる条件」とかに関わっているとは思います。このあたりのはなしは数日以内に一度まとめたいとは思っています。

世界からの倫理的制裁というのは、簡単にいうと、「これだけひどい奴が幸せになるわけがない」という道徳的観点から不幸な結末が決定するものがたりです。デスノートのラストとかもその点からみると妥当なんですね。物語の作り手は物語外部からの道徳的制裁に対してどうリアクションするかが重要になります。「こいつはひどい奴だけど、もしかしたら、幸せになるかもしれない」と思わせられるように作らなければなりません。ちなみにこの場合の幸せとは、好きな人と平和な家庭を築く、とかに限定されません。たとえ人類が滅びようとも、キャラクターが「幸せ」であることが重要なんです。先のデスノートの例をとるならば「ライトが新世界の神になる」(第2部も勝利して終了)とかですね。

物語途中でわたしがこのように言っているのもそこに由来します

  • もう少しで読み終える。これで主人公が死んでのエンドだったりすると評価が下がりそう。いっそのことマイナスの道を突っ切って欲しいきもするな。

すなわち道徳的制裁を受けてしまうと「残念」なんです。(これについてはhttp://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-846f.htmlここではなしをしています。次の次のくらいのエントリで一度まとめる予定……)

…ちょっと、長くなりそうなんで2回に切ります。この小説のレビュー(?)のつづきは次のエントリで書きます。もしかするとそれに絡めて「ヒロインの処女性」とか「はじまった時点で終わりのものがたり」とかも書くかもしれません。あと「この主人公の求める世界」のはなしについてとかをもうちょっと・・・

 

 

今回のはなしに絡むと思われるエントリ(大雑把にだけど)

それと『積読を重ねる日々』へのリンクhttp://kiicho.txt-nifty.com/tundoku/2010/03/post-8091.html

2010年3月26日 (金)

なんで君はそんなに信頼されるんだい?

この記事はもともと以前の記事『作品のレベルを高める要素(2)』のために用意した内容です。ただ前回の(1)からずいぶん間隔が空いてしまったことと昨日の記事との関連が見えたため独立した記事として改編しました。

作品のレベルを高める要素(1)→http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/1-f3d9.html

さて。とはいえアクセルワールド4巻の感想にはかかわってきます。だからここでアクセルワールドを知らない人用の解説を以下に用意しておきます。知ってる人は読まなくてもいいですよ。基本的にはwikiから引用しておくだけなので。

  • アクセル・ワールド』は、川原礫による日本のライトノベル。イラストはHIMAが担当。電撃文庫(アスキー・メディアワークス)より、2009年2月から刊行されている。
  • あらすじ:
    ニューロリンカーという携帯端末を用いることにより、生活の半分が仮想ネットワークで行われる近未来。
    太ったいじめられっ子ハルユキは、現実を呪いながら学内ローカルネットの片隅でスカッシュゲームのスコアを伸ばすだけの日々を送っていた。 そんなある日、ハルユキは美貌の上級生黒雪姫から謎めいた言葉を告げられる。
    「もっと先へ――『加速』したくはないか」
    黒雪姫の誘いに応じたハルユキは、有線直結通信で「ブレイン・バースト」というプログラムを受け取る。それは、ニューロリンカーの量子接続に作用して思考を一千倍に加速するという驚くべきアプリケーションだった。これを用いて仮想世界で自分の化身(アバター)を用いてデュエルをするものたちを「バーストリンカー」という。こうして「バーストリンカー」になったハルユキは、デュエルアバターを操り戦いに身を投じていく。(ぶっちゃけ、アバターを用いたレベル制の対戦格闘ゲーム(ドラゴンボールのゲームで似たのあったよね))。ちなみに「バーストリンカー」というゲームの(基本的な)最終目的は「敵を倒して経験値をかせぎレベル10に到達する」こと。

わたしはこの作品が好きなんですね。エンターテイメントとしての質も高いし、主人公が「太ったいじめられっ子」というところに可能性を感じているからです。(ラノベ・マンガの主人公は「平凡」が平凡ではないから幅が狭くなりがちという話題もしたいけど、いつか別の機会にします)。今回話題となる4巻は3巻からの続編となっています。以下は1~4巻までのネタばれを含んだあらすじ。(今回のはなしに関わる部分だけ凝縮します)

  • ここで重要なのは「バーストリンカー」の世界では「空を飛べる」アバターがいなかったということ。「バーストリンカー」世界を統べる7人の「王」たちですらそういう能力を有する者はいない。1巻の後半では主人公のアバターは世界で「唯一」の「空を飛べるアバター」であることが判明する。
  • 3・4巻では物語の根幹にかかわる心意システムというものが明かされるが今回は省略。物語の概要としては3巻で主人公に新たな敵が登場する。その敵(能美誠二)は主人公を卑劣なわなに陥れ、主人公から空を飛ぶ能力をうばってしまう。(敵の能力をドレインする能力を有している)。4巻ではその敵を新たに身に付けた心意システム等を用いて倒す。

概要としてはこれだけわかれば次のはなしについていけるでしょう。はい。あらすじ終了。

そこでわたしはこの作品が好きだけど気になる部分もある。それはこの作品の端々に「もしかしたらあなたならこの閉塞的な世界を変えられるかも知れない」という話題がでるところなんです。

記憶が確かならばこのセリフを言ったのはメインヒロインの黒姫が最初だったと思う。この世界のアバターというのは、キャラクターの心の傷の表れとして描かれます。たとえば物語キャラのチユという少女のアバターは「時間操作」(4巻ラストに明かされる。当初は回復能力者と思われてた)なんだけど、これは彼女の心に秘められた「昔にもどりたい」という願いの表出と見ることができます。

そこで主人公のアバターの持つ能力「飛行」というのも主人公のトラウマに根ざしているのね。つまり「能力」をしれば相手のこころがある程度、わかるということ。

それらを把握したヒロイン黒姫は主人公に言うわけなんです「君ならもしかして・・・」って。この話題は4巻でも繰り返されている。「飛行」能力を失った主人公をきたえてくれる人も「きみならば・・・」という話題を繰り返すんです。

そこが個人的にはここがよく分からないんです。理性的に整合性をつけようと思えばつけられるんだけど、納得がいかないんです。わたしなりの言い方をするならばそう言われる「必然性」が分からないんです。

おそらく物語の筋としては「(トラウマを抱えながらもまっすぐ前へ進む少年)かれならばもしかしてこの世界を変えられるのではないか?」という筋立てだと思うんです。

でもこれはそれほど特別なことではないと思うんですね。いじめられていたという経験とか、心折れてもう一度立ち上がるというイベントは確かに人を成長させると思います。

でもね。それが一つの世界を改編可能にする説得力とはなりえないと思うんですよ。

きつい言い方をするならば、彼がトラウマをのりこえていく行為そのものは「尊い」んだけど、それでも多かれ少なかれみんなが経験していくものの一つという見方もできるんですね。かれは「当たり前」の成長をしているだけと見えるんです。

これは「強い」人間の理屈で弱さを理解していないとかの各人の反発はもちろんあるとは思うんですけどね。で、その反応自体は正しいとは思います。「当たり前」の成長をすること自体は難しいんです。とくにこういう時代では。でもだからと言ってそれが「外部」を変えてしまう理由には直結していくかどうかというと疑問をさしはさみたいということ。

それならば「主人公」が「特別視」される理由はないじゃん!

ってそういうはなしをしたいんですよ。

で、次に出てくる可能性は「主人公が空を飛べるから」なんです。世界で唯一の飛行能力を有した主人公というまぎれもない「特別性」。

ただ。これにも「能美」というファクターを考えると反論可能なんです。

能美の能力は「他者の能力を自分のものにする」こと。これは出てくる登場キャラがかなり驚いていることを見ると、「バーストリンカー」世界で「唯一」の能力なんですね。

「じゃあなんで他のキャラは能美に、「お前ならばもしかして…」とか思わないんだよ!」って疑問が当然出てきます。

そうはいってもわたしも能美に可能性を感じているわけではないんですけどね(汗)

その理由に「能美が自分の格を下げていた」というのがあるんですね。ひとを陥れて(女子更衣室に監視カメラとかしかけて主人公を覗きの犯人に仕立てる)、踏みにじって(そのネタを脅しにして主人公を意のままにする)、高笑いする。これは明らかに「ダメ」だろうということですね。これには未来を感じさせない。

でも条件が同じならば別のだれかでも主人公を代替可能であることを否定はできません。

それこそ「時間操作」なんてトンデモ能力をもつチユが主人公の代わりに世界を変えてもおかしくないわけです。

だからね。この世界はある意味でチート世界なんですよ。ほんとうに「主人公に優しい世界」なんですね。同じことを成したなら称賛はすべて主人公のものなんです。

そう考えていくと前回の「残念」を語った記事と同じなんですね。

http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-846f.html

このアクセルワールドは明らかに、面白い。作品の質とかもじゅうぶんに、高い。

でも。それでも、「残念」という部分は出てしまうんですね。

主人公の主人公たる所以がでてくればさらにおもしろくなることが分かってしまうと残念に感じられてしまうんです。

前回の記事で、作品の質が高いとか低いとか「関係なく」残念なものは残念になるという例の一つとなると思うんです。

とはいえまだ未完の作品ですからね。さらに飛躍する可能性は十分にあるとは思うんですね。応援してます。

追記

能美が3・4巻で出てきたのは「特別でも志が低ければ未来を感じられない」という、主人公との対比で出た可能性はあるんですね。そうはいっても、チユの志が高ければ代替は可能なんですが・・・

アクセル・ワールド 1
どんなに時代が進んでも、この世から「いじめられっ子」は無くならない。デブな中学生・ハルユキもその一人だった。彼が唯一心を安らげる時間は、学内ローカルネットに設置されたスカッシュゲームをプレイしているときだけ。仮想の自分を使って“速さ”を競うその地味なゲームが、ハルユキは好きだった。季節は秋。相変わらずの日常を過ごしていたハルユキだが、校内一の美貌と気品を持つ少女“黒雪姫”との出会いによって、彼の人生は一変する。少女が転送してきた謎のソフトウェアを介し、ハルユキは“加速世界”の存在を知る。それは、中学内格差の最底辺である彼が、姫を護る騎士“バーストリンカー”となった瞬間だった。ウェブ上でカリスマ的人気を誇る作家が、ついに電撃大賞「大賞」受賞しデビュー!実力派が描く未来系青春エンタテイメント登場。
599円

アクセル・ワールド(4) 蒼空への飛翔 590円 (税込 620 円) 送料無料

2010年3月25日 (木)

ある日のスカイプ会話

ある日の友人とのスカイプ会話

てれびん(以下T):最近これ聞いているんだ。

友人(仮名でSくん):へー

T:出来がいい。基本的にボーカロイドは好きではないけど。こういう使い方はおk。

S:?

T:いやね。例えばこれを見てみて

 出来はかなりいいんだよね。レベルが高いと思う。

S:そうだね。

T:ただね。ボーカロイドが歌う必然性の感じられる曲は少ないかなーと。もしプロが歌うのと比較すればどうだろうと見るとねー。声質に合わせた曲を作っているから違和感が少ないけど、最高レベルを目指すなら人間が歌った方がいいのではないかという気がするのが・・・

 とはいえ。100点と92点くらいの差だと思うからね。些細っちゃ些細なんだけど。しかしねー。伸びしろが感じられるの見るとどんなにレベルが高くても残念に感じてしまうな~。

S:曲のクオリティとしては前衛的でクオリティの高いのもあるけど。焼き直しっぽいのも・・・

T:あと発音が気になるんだよね。ちょっとだけ。全部発音しちゃうから一部が早送りみたいになったりね。それに、一音一音が切れるから、なだらかなメロディがすこしだけ断絶した感じになる。

 誤差で済むレベルだけど。人間が歌えば対処できる部分でねー。

S:気持ち隙間がある感は・・・

T:だからねー。ちょっと残念感がある。もちろん聞き流すならいいんだけど…真面目に聞こうとするとね・・・気になるんだわ

S:素人目にもこれはちょっと惜しい

T:うん。作品を出す(売る)場合は

「なにぃぃぃぃ!これ以上上はあるのかよっっ!」

ってレベルで仕上げてくるべきだと思うのね。さらに上があることを感じさせた時点で負けというかね…

S:まだまだどんぐりの背比べ感が

T:うん。ちなみにJポップとかにも「まだ上があるぜ」感の作品はあるんじゃないかなという気が・・・

S:Jポップは分からん。

T:まぁ。わたしも分からんけどさ(笑)

S:ああ。でも、優劣比較より。個性の違いで処理されるような気はする。

T:なるほどね。ボーカロイドは基本同じ媒体を用いているからねぇ。Jポップでは「個性」の差と認識されるのが、「残念」な要素となりえる場合もあるってことか。

S:ちょっと優劣のフィルター通して評価される面は強そうね

(会話終了)

ちょっと長かったけどこんな会話があったんですね。

以下は上記の会話の補足。

これ結構おもしろい話なんですよね。早稲田文学増刊U30のいずみのさんの『ギフトとしての物語』第一部でしている話と同じだと思います。



どんなにレベルが高くても「さらに上」が感じられてしまえばその作品は「残念」という評価をいただいてしまうんですね。これは考えてみれば至極当たり前の感情です。

だってね。作品を見ている読者(視聴者)は「ここまで行くだろー」という読みをしてしまっているんですね。それがその手前で止まってしまえば、そりゃまぁ、「残念」ですわな。

昨今ささやかれている「ライトノベルが面白く感じられない」「掛け値なしに面白い作品がすくない」という
話もここと関連しているかもしれません。

ここからちょっと長い話が出るので面倒な人は読み飛ばしてください。


情報伝達技術の発達でわたしたちは、多くの物語類型をみることが可能になりました。

するとわたしたちの中に「ここまでいくんじゃないかな」という予測のデータが蓄積されるんですね。トライアンドエラー。物語をみれば見るほどラストが想定される。

で、みている方としてはこころのなかで「おれの予測をこえてくれっ!」って思いがあります。せっかく時間やお金をかけて作品を見ているのだから「想定の範囲内」では見返りが、ない。だから本心では、自分の予想を上回る部分が作品には求められます。いわば自分の予想した範囲は「最低ライン」なんですね。

その「最低ライン」ギリギリ、もしくは到達できない作品は「残念」なんです。

だが今の時代では情報伝達速度の発達が原因でその「最低ライン」のレベルが高い。読み手には「積み重ね」がありますからね。みんなの予想を上回るというのは難しいんです。

そこで出てくるのが「軸をずらす」という手法です。

これは「本来予想されるエンディング」とは別の「予想外のエンディング」を目指す方法です。その一つがTV版の『エヴァンゲリオン』をはじめとした「相手の隙を突く」タイプの物語です。

このタイプの物語の目的は、「どれだけ予測の斜め上」を目指すかです。

「なにぃぃぃぃ!そんな展開がぁぁぁ!」とか「おぃぃぃぃ!見たことねぇよっ!」とか言わせたものが勝ちの「視聴者どっきり対決」のようなものです。

そしてそんなことをエヴァ以降10年間続けたわけですね。脅かし続ければ、おどかされる方もなれてしまいます。

じっさい物語の類型なんてそんなパターンもないので「はいはい。今回はこういう驚かし方出来たんだ。へー。あたらしいね」という反応がかえってくるようになった。

そこで新劇の『エヴァ破』が正面突破のような作品を作ってしまった・・・という話はあるんですが、今回は本題からずれるので割愛しましょう。(エヴァ破は「真正面から相手の予想を上回っていくタイプの作品」「怒涛の物量展開で視聴者の予測しようという思考を断つ」タイプの作品ともいえるでしょう。)

とにかく。そういう蓄積が作品を「残念」にするんですね。とくに後者の「驚きになれる」というのは致命的です。「これから驚かすからねー」といってから驚かされるようなものですからね。これは別に「作品のレベルが高い低い」という次元の話ではないんです。「もし『驚かす』ということを『知らなければ』より驚けた」という仮定の条件があることが問題なんです。

「いまより上がある」ことが如実に実感できてしまうんですね。そして作品は「そこに到達できなかった」。だから「残念」という理屈です。

こうして「常に上がある状態」だから総じて「残念」な作品が多く感じられる。


こういう理由で「上を感じさせたら負け」なんですね。

だから作品を出す以上は「これ以上はない!」と思わせるように出さなければいけないんですね。

ボーカロイドを用いる以上は「人間がやってもこれより質が落ちる」とおもわせる使い方をしなくてはならないという事です。そうでなければ「人間が歌ってなくて」「残念」となってしまうという話。

追記

「個性」と「残念」の話も面白い。人間が歌う場合は「唯一」の存在が歌っているから「より高い次元」が存在しないんですね。比較の対象がなければ山は測れません。対してボーカロイドは「比較対象」が膨大にいるんですね。verの違いから、「人間」まで幅広いんです。そのため「個性」とはならず「残念」と認識されてしまう。などという話。

これ最高

基本的にボーカロイド曲って好きではないんですが、これは大好きです。

わたしは別にボーカロイドが嫌いって言ってるわけではないのよ。こういう無機質な、機械的な音にメロディタイプの曲を無理やり合わせるのはどうかと思ってるだけです。(既存の歌い手さんの曲を初音ミクに歌わせるとか。歌わせるなら相応の必然性があってしかるべきだと感じてます)

やっぱり「声」も楽器の一つなのでね。適切な使いどころが求められると思います。

感情を込めるのが重要な曲はまだ「人間」が歌い。逆に、こういう人間では出せない歪なものはボーカロイドがやればいいと思ってる。互いに優れている部分が違うので、同じ土俵で争わなくてもいいじゃないとは思うんです。

まぁ。金銭的な関係もあるのである程度は仕方がないとは思うんですけど、可能ならば使い分けるのが最善だと思ってます。

ちなみにこの曲の場合。「ナゾトキ」という非感情的要素が声とひどくマッチしているんですね。人間が歌うとこうまで「感情」をかくすことはできません・ミステリー仕立てで大好き。もう『うみねこ』で使われてもおかしくないレベルでないかと(個人的に)思います。

※ 「商品」としての範疇での意見です。売り物である以上、「人間の声」と比べて使う必要のない「機械音」ならば、ないほうがいいという事。個人で単純に楽しむレベルには意見してませんよ。念のため。

2010年3月24日 (水)

ずいぶん久しぶりの更新

ふー。ずいぶんと久しぶりの更新と相成りました。この連休中はいろんなところに行ってきたりしたので更新がさぼりがちですね。

・・・けっしてネタがないわけではないんですけどね。

まぁ。今回は近況を伝えていきましょうか。

1.東洋医学の勉強会に行ってきました。

 通称「はるかん」というらしいんですけどね。春と夏にやっているらしい。そこでもらってきた『東洋医学概説』(仮名称)を現在ちびちび読んでます。歴史的背景から実用まで書かれている優れた一冊です。ちなみに製作者はある学生さん。3年で作ったとのことですが、どこにそんな余裕があったのだろうというほど出来が良いです。ぶっちゃけ売れるレベルです。

2.実家に帰ってます

 だらだらマンガやラノベを読んでおります。

3.クルマがトラブった

 高速道路でスピードメターがゼロに!しばらくするとクルマのエンジンが吹けなくなりました。仕方なくJAFのお兄さんに来てもらうも原因は不明。とにかく走れるという事なので走って帰ってきました。

 追記

 友人のところのクルマ屋さんに相談したところ「レブリミッターが原因」とのことでした。要は「スピードメーターが見れないので、クルマのコンピュータが安全装置みたいなのを働かせたので一定速度(80km)以上でないようになった」とのこと。現在そこのとこでクルマは修理中。

4.海燕さんに会ってきた

 近くまで行くので「会おうか」ということであってきました。

5.進級

 進級できたぞぉぉぉぉ!


まぁ。こんな感じですね。

次の更新は23日以内にやるつもりなんですが・・・・・・予定は未定。

2010年3月15日 (月)

ネトラジの告知

たまには事前に告知をしておきたいと思います。

3月18日(木)の22:00くらいからネットラジオをやる予定です。

共演者は、かんでたくまさんとLDさん。この二人のマンガラジオのゲストに呼ばれております。(ネパールにいるときにオファーが来たw)

題目は『サイレン』です。週刊少年ジャンプで連載しているアレですね。

以前記事を書いたので、気が向けば読んでみてください。

ラジオの放送場所などは、LDさんの『今何処』のサイトで紹介する予定です。(ここでも紹介はするつもりですが、ギリギリになるかもしれません)

放送URL http://std1.ladio.net:8090/mangaRadio.m3u

2010年3月14日 (日)

ただいま!にっぽん!!

ただいま~。やっとお家にかえってきました~。

12日に帰国はしてたけど、その足で知り合いの家でドミニオンをしてたので、帰ってきたのは13日の夜になりました。

そこから丸一日寝てました。うん。けっこう疲れたてたのね。

追記

ドミニオンの海辺がおもしろかった~。

2010年3月11日 (木)

12日に帰国します

え~。今日の深夜に日本に向けて出発します。というわけで、ネパール現地での記事は今回がラストになるのではないかと思います。とはいえ、ほとんど更新できてなかったですけどね。

まぁ、忘れないうちにネパールの写真をのっけておくだけのための記事なので、大したことは書けないと思います。

Dscn0034

これは、ポカラで最大の病院、マニパルホスピタルでの写真です。これが正面ロビー。うん。正直めちゃくちゃでかくて驚いた。うちの大学とかより立派な感じでした。(トイレの汚さは個人的に難点だとは思うが)私立の医科大学付属の病院で、オーナーはインド人とのこと。さすが金があるなと思ったり。

Dscn0026_2

これが、サランコットの丘で撮った朝日の写真ですね。朝5時に起きて、山に登って撮ったもの。

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んで、これがカトマンズの王宮見学の時撮った写真。こうやって台座を回転させた後、土を変形させて壺をつくる。ろくろです。おっちゃんの腰のはいりように注目してください。

Dscn0067

そして、犬。ネパールではどこでも犬や牛がうろついてます。都市部ではワクチンが配られているから、狂犬病はない(というはなしなのだが・・・真偽は定かではない)。

写真では分からないけど、それなりにキレイとは言い難い環境であることが分かるかと思って採用。合わない人は徹底的に合わないと思われる。(合う人はそれなりに合うだろうが)

今日は、マタニティホスピタル(国立の産婦人科病院)と学校(小~中)をまわってきました。よるは、ネパールで味噌を作っている方の家でお食事。8階建ての家で、現地の人の生活が垣間見えた。(とはいえ、それなりの富裕層っぽいから、貧困層はわからないけど)

明日はカトマンズ医科大学を見学の後、観光。そして夜に機内の人となる予定です。

おみやげは茶にしよう。

2010年3月10日 (水)

ポカラからの帰還

やったー。ねっとにつなげたぞー。

え~。しばらくカトマンズを離れてポカラにいました。日にち的には以下のような感じですね。この間ネットにつなげなかったので久々の更新となります。写真はとっているんだけど、省略。次回の更新に回します。(なぜなら現地時間で、もう夜も遅いから。明日もあさ早いしね)

3/4カトマンズ到着

3/5鍼灸の病院見学

3/6ポカラへ移動(車で6時間)。ちょっと観光。

3/7朝5時に起きてサランコットの丘という高台に行く。その後マニパルホスピタルというネパール最大の病院見学。正直めちゃくちゃでかかった。そのうちこの辺は写真のっけます。医科大学付属らしくておもしろい話をちょこちょこと聞きました。

3/8午前中は観光。午後はカトマンズへの移動。

3/9カトマンズのリハビリテーションセンターみたいのを見学。CBRというところです。その後、Norvic Hospitalというカトマンズ最大の病院見学。日本語ぺらぺらの女医さんがいてくれたので、楽だった―。

そんな感じで、今回の更新は終了。

帰国は3/12となっています。ではー。

2010年3月 5日 (金)

死ぬほど遅いです

ネパールにつきましたよー。うん。無事につけてよかった。

飛行機の中で男がずーっと絡んできたので、へとへとでした。(日本~香港間の6時間くらい)

で、一日過ごしてブログの更新。

ええ。異常にネットが遅いです。日本は神の国かと思うくらいに、ネットが早い。

なにせスカイプの音声通話ができないくらい。チャットも、2分遅れでくることあるくらい。

ちなみに。デジカメをホテルに忘れたので、写真は載せられず。

簡単に、今日やったことを記述しましょう。

午前中。鍼灸の学校兼病院を訪問。つぼの勉強とかしました。仲間の一人が、腹を壊しているので、サービスで治してくれたw。いい人たちでした。

昼めしに、日本食を食い。

午後。保健省でなんか偉い人(大臣とか何とか云ってた気もするが…良く聞いてなかった)と会談。

その後、王宮見て現在ホテル。

ああ。もう少しネットが早ければ・・・(泣)

2010年3月 4日 (木)

ちょっとネパールに行きます

4日の10時ころに成田から飛び立ちます。向こうでもネットはつなげるらしいんだが、更新できるだろうか?さいあく写真のアップだけになるかもしれない(今日秋葉原でデジカメ買ってきたんで)

2010年3月 1日 (月)

回復不可能という視点から見た『涼宮ハルヒの消失』

前回の記事で書いたように『消失』の感想です。(上の画像は『消失』ガイドブックへのリンク)

この『消失』のおもしろさを探るのに役にたつのは、海燕さんたちとした話、『回復不可能な物語』という観点からみるとわかりやすいのではないかと思う。

ではこの『回復不可能な物語』とは何なのか?2/27(土)夜のSomething Orange(さむ☆おれ)のニコ生で海燕さん、かんでサンとともにした話だ。簡単に概略を説明すると以下のようになる。

僕たちが物語を見るときに物語が「すすむ」とは何を前提にしているのだろうか?もちろん物語は、ストーリーを持っている以上すすまないということはない。しかしそのような作品の中にも「巻数が積み重なっても話が進んでいるように思えない」物語があることも事実である。それは状況が『違う』とか、出てくる人間が『違う』から解消されるわけでもない。『水戸黄門』などはいい例だ。あの作品は、主要キャラ以外出てくる人間は毎回『違う』。状況もやはり『違う』。しかし同じような(というか同じ)物語が毎回展開される。各期ごとに『水戸黄門』には「大きな」目的が設定されている(○○へ行く、誰誰を届ける)が、それが『差』を生むことはない。

その理由の一端が「どうせこうなるんでしょっ」という意識、コンセンサスである。状況やギミックが違おうが、起こる出来事の質や解決法が『同じ』であれば、見ているものたちにとってはやはり『同じ』物語として映る。このような物語を指して『回復可能な物語』と評しよう。つまり質的に同じようなポイントまで戻ってこれてしまう物語のことだ。

そのように『戻ってこれる』ことが物語に停滞感を与えるならば、逆もまた同様である。すなわち。物語を「すすめる」ときに重要なのは『もう戻ってこれない』という感覚である。

無限にある選択肢が万に、千に、百になることを示して『物語がすすむ』と評することができる。その繰り返しが行われ、最後に一になることで物語は『完結』する。

他の可能性の否定が逆説的に物語に『ベクトル』を生み出す*1。

ニコ生ではこのようなことを、例を交えながらはなしをした*2。

さて。以上のようなことを踏まえて『消失』の感想に入ろう。

結論から言うと、この消失が物語の一大転換点になりうる理由は『キョンの決断』にある。この行為そのものが『回復不能な物語』を指し示している。いままでシニカルに「俺とあいつらは違う」というスタンスをとっていたキョンが『決断』し、『ハルヒのいる世界を選ぶ』。この能動的行為が物語が「すすむ」感覚をわたしたちに与える。作中でもキョンの独白がそのことを良く示している。「もう選んでしまったら、選ぶ前には戻れない」「当事者になってしまった」*3。ここで言うように「選んでしまったら選ぶ前には戻れない」。とくに、このハルヒの世界におけるこの『決断』は、「やっぱやーめた」ということが起こり得ないように描かれている。*4

これが「物語がすすんだ」感覚を与える。前半のキョンが独り空転しているような物語に対して、後半が違うのはそのような理由もあるのではないかと思う。

また、別の要素が物語のおもしろさを支えている*5。

その一つがテレビ版からの積み重ねである。エンドレスエイト*6などはいい例だろう。同じ夏休みを一万五千回も繰り返す経験を筆頭とした、さまざまな事例が下地にある*7。そのような「表に出てはこない裏付けが支えるおもしろさ」も今回の映画にはあったことだと思う。このようなおもしろさは世界の奥深さを見ているものたちに感じさせる点で優秀である。人間は眼でみて、音で聴くものだけで物語をみているわけではない。言語にならない領域でも無意識に物語を判断、検証しているのではないかと感じる(あくまで所感だが)。言葉の端々、描かれ方、そのような些細な部分からでもわかることはかなりあるはずである*8。

映画版独自の要素ということならば、最後の、鏡面のキョンとの対峙というのが挙げられるだろう。あのような『もう一人の自分』からの問いかけというのは、存外物語に説得力をうむ。とくにアニメやマンガのような画を前提とした作品では効果的であろう。あのシーンがあるからこそ、キョンの『決断』により強い説得性が生まれたのだろう。同時に動きが加味されることから、動的な決断を表現できていたようで見ていてとても楽しかった。

原作つきの作品の場合、『映像でなければ表しえないこと』が必要であるとわたしは考えている。わざわざ別の媒体で表する以上、『原作の完全な焼き直し』では見ていて興がさめてしまう。なざなら、原作がライトノベルならば、映像のような『音と動き』を前提に物語は書かれていない。マンガであるなら『音や連続的な動き』がそうである*9。

その点今回は『映像では無ければ表現しえない世界』を十分に描いていたと思う。音楽や映像手法などもそうである。(個人的には、最後の朝倉さんのくるくるのあたりが好き。間の取り方とか描写の仕方とか)そういう意味でも個人的には良くできた作品だと思った。見に行ってきてよかったですね。

*1これは『自身の物語の肯定』=『他の物語の否定』という図式になっている。そのため物語上で主人公が「これでいいんだっ」ということも同じ作用を生みだすと思われる。ちなみに否定の連続の物語と、肯定の連続の物語にどのような違いがあるかないかは検証していない。

*2ニコ生で出した例としては、コードギアス、三月のライオン、ヴィンランド・サガなどがある。ほかにも、「すすんでない」感覚の物語の一例として『ナルト』が挙げられた。

*3記憶を元に書いているのでまんまの台詞かは保証できない。

*4ここの感覚を与える要素の一部としては『長門の世界の否定』『物語上のテーマ』『ラブ要素』(?)などがあげられる。『一つの世界の否定』(とそれにともなったキョンの苦悩)が、見ている我々に「もう戻ってこれないほど重要な決断をした」と認識させる側面もあるだろう。物語上で「人が死ぬ」ことが感動を生む理由に「死んだら人は生き返らない」という「回復不可能な物語」を描けるところにある(ニコ生より)が、「一つの世界の否定」もまた同様の感覚を有するような気がする。

*5『回復不可能な物語』だけが、「おもしろさ」を支えるわけではない。あくまで重要な一要素に過ぎない。そうでなければ、ドラゴンボール有する『ドラゴンボール』の世界が「おもしろくない」という結論に陥ってしまいかねない。そうではなく、いくつもの要素のうちの『重要』な部分の一つとして認識してほしい。

*6てれびんはエンドレスエイトを見ていません。(というか一期の途中でハルヒを見るのとまってます)友人から説明を聞いただけ。

*7キョンの言うとおり『長門が疲れた』から世界を改編したのかどうかは、証明がないので何とも言えない。ただ、エンドレスエイトのような『膨大な積み重ねのうちのなにか』が今回の事態を引き起こしたことは想像に難くない。そういう意味で下地になっているといえる。

*8ようは『ハンター×ハンター』で王がネテロの戦闘の『クセ』を読むようなことを、わたしたちは多かれ少なかれやっているということ。

*9意識していないとまでは言えないかもしれないとは思うが、媒体が違う以上用いる手法に差は確実に出るだろうということ。その差の補てんなり、修正を行わなければ、原作に比べて「何かが足りない」作品と評されてしまいうるのではないか。

↑オリジナルサントラ

↑原作のダウンロード販売

↑『消失』原作ラノベ

『消失』感想の序盤

はい。というわけで『涼宮ハルヒの消失』を見てきました。おもしろかったですねー。美麗な映像と優美なサウンドの組み合わせが素晴らしかったと思います。原作をいい具合に忘れているのも大きかったです。「次こうなるんだろ。どうせ」とかいう斜めな見かたをしないでいけたのが良かった。純粋に楽しめたって気がします。(まぁ、そういう『先』を知って見るのは見るのでおもしろいんですけどね)

追試が終わってやっと見に行けたのも喜びの理由の一つですね。

そのように喜びいっぱいで語っている『消失』ですが、映画が始まってしばらくは困りました。なぜかっていうと、「おもしろいんだけど語ろうと思うことが思い浮かばない」って感じだったからです。なにが「おもしろさ」を生み出しているのかをイメージできなかったんです。このままでは、一言「おもしろかった」で終わってしまいます。べつにそれが悪いわけではないけど、感想としては(個人的に)不満だったんですね。感想を語る以上、すべてとは言わないまでも、一部くらいは『なにがこの物語におもしろみを生んでいるのか』を語っておきたいところです。そのように(自分の中で)悶々としながら映画を見ていたんですが、途中から「これなら語れるな」ってことが見つかったんで一満足。

次の記事はそのことを書いておこうかなと思います。

http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-2fd2.html

↑これが続き

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