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2009年11月14日 (土)

ラノベに飽きを覚える件について(2)

前回の記事からかなり時間が経っているので忘れた方もいるのではないかと思います。一応続きものなので(1)の方の記事は↓ここにあります。良ければ見てみてください。

ラノベに飽きを覚える件について→ http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-64e3.html

飽きを覚える―慣れとは―

それでは徐々に本題に入っていきたいかと思います。私はこの記事の前書きでラノベが面白く感じられない理由に「慣れ」があるのではないかと言われたことを書いた。

では「慣れ」とは一体どういうものなのだろうか。

もちろん「慣れ」を体験したことのないものはいないだろう。自転車・車の運転においても「慣れ」とは重要な要素を示す。初心者が自動車事故を起こすのは車の運転に「慣れてきたころ」だというのはよく聞く話だ(つまりわき見運転)。ここで「慣れる」とはどういうことかを辞書から引いてみよう。

「なれる(慣れる・馴れる)」

  1. たびたび経験した結果、当たり前のこととして受けとめるようになる。なれっこになる。
  2. 何度も経験してうまくできるようになる。習熟する。
  3. 接触する機会が多く、心理的な隔たり・距離感がなくなる。
    (ア) 人に親しみをもつようになる。
    (イ) 獣・鳥などが人に対して警戒心や敵愾心(てきがいしん)をもたなくなる。
  4. 体になじんで具合がよくなる。
  5. 動詞の連用形や名詞の下に付いて、何度も経験して具合がよくなる意を表す。
  6. なじんで打ち解ける。
  7. 着物が着古されてよれよれになる。

(yahoo辞書の大辞林より)

車の例の「慣れ」で言うなら1と2の複合であろう。事故の原因は1の結果注意力が散漫になったからだ。

では今回「ラノベに飽きを覚える」際に要因となるであろう「慣れ」とは一体どのことを言っているのだろうか。いや、それ以前に本当に「慣れ」が本質的な原因なのだろうか。

つい今ほど車事故の原因を話した時を考えてほしい。事故の原因は「慣れ」ではなく「注意力散漫」である。自動車の運転に「慣れて」余裕ができ、その結果「車の運転以外のことをやってしまった」ことが原因となる。

このとき事故の本質的要因は「慣れ」にはない。「慣れ」は事故を引き起こす原因を誘発するものにすぎない。

ならば「ラノベに飽きを覚える」際に要因として考えられる「慣れ」も同じような作用があるのではないだろうか。

何故こんなことを考えたかというと、上記の「慣れ」という単語の意味を見ても「飽きる」直接的要因とは考えられなかったからだ。この理由まで説明すると長くなるのでここでは省こう。

とにかく、「慣れ」が直接的要因ではないとするならば原因は一体何なのだろうか。「慣れ」は一体何を誘発しているのか。

そのことについて次は考えてみる。

慣れの生み出すもの

このことを書く前にふとした思いつきを書いてみることとする。それは「慣れ」と「飽き」の関連である。

私たちは「慣れ」と「飽き」を常に関連させているように思うし、実際そういう側面もある。「飽きる」という作用は「慣れる」という過程を道程に含む場合が多い(*1)。

そのことを示すのは「~しあきる」という表現であろう。「味にあきる」というのは「味に慣れる」という過程の果てにある。このような例は私たちの実生活の至る所に見つけられる。

とはいえ、「慣れる」ことと「飽きる」ことはやはり別物である。「慣れる」ほど時間をかけなくても「飽きる」ことはあるし、「慣れる」ほど面白くなり「飽き」が来ないということもある。

このように同じ「慣れる」「飽きる」なのに違うことが起こるのは、言葉の持つ「広がり」に由来する差異だろう。その点を解消するには先ほどの辞書のように言葉を分割して、その広がりの区画をさらに細分化していくことが必要だ。しかしそれをやっていっても分かち難い部分は出てくるに違いなく、そのことを考慮しながら言葉にあたっていくことが求められるのではないかと思う。

ちなみに飽きるということについてネットにあたってみると次のような言葉があった

「飽きるとは、受け取れる情報が尽きること。
あるいは、発信している情報を受け取ろうとする
動機が受け手のほうになくなること」
という、説明ができると気づいた。
ついでに、めずらしく辞書ではどうなっているのか
調べようと『新解さん』にお訊ねした。
『十分満足する(して、
それ以上続けることがいやになる)』

(一部抜粋 元URLはhttp://www.1101.com/darling_column/archive/1_0710.html

これは考えてみると優秀な表現であるように思う。

「慣れ」か否かにかかわらず、「飽きる」という作用は「情報が尽きる。もしくは情報を受け取る動機がなくなる」ことだと説明できる。

このことを考えてみると「飽きる」というのは2パターンは考えられることとなる。

すなわち

  1. もう情報を受け取ろうとする動機が情報の受け手の方にないのに情報を受け取り続けているため起こる現象
  2. 受け取れる情報自体が尽きてしまっているため起こる現象

この際1については省くこととする。なぜなら情報の受け手に動機がない以上探るべきはその原因に他ならず、それは個別の事象のためここでは対処しきれないからだ。しかし、これは私の想像ではあるが、1のような場合は「ラノベを読む」ということ自体が停止してしまい「ラノベに飽きて面白く感じられない、どうしよう」などという疑問は生まれないのではないかと思う。それは内的動機が枯渇してしまった以上「本を読む」という意思自体が起こらないからだ。これは本やゲームを前にして「やる気が起きない」ため遠ざかってしまう一つの原因ではないかと思う。このような場合自発的に作品に手を出すことはない。そのため「読む」ということ自体をしない。「…確かに面白いけど」という感想が出ないのではないかと思う。

そこで2について考えていこう。

しかしこれもこのままでは不十分であるような気がする。なぜなら小説という媒体に置いて受け取れる情報が尽きてしまうという状態はまずない。特にラノベはその範囲をファンタジー・ミステリー・スポーツなど現存する多くのジャンルを内包している。これらすべての情報を得てしまい情報が「尽きてしまう」読者はいないのではないだろうか。

そこで、決して十分ではないが、2の文章を一部変更してみることとしよう。

  2'.  (読者側が)受け取れる情報が尽きてしまった(と判断する、もしくは情報の限界を見定めてしまった)ため起こる現象

これは物語を読む際に読み手が物語に何を求めるかに由来することである(求める情報の種類が違う)。ただこれはなんだかんだで一つの形におさまりがつくだろう。すなわち「楽しむ」ためである。それを「わくわく・どきどきするため」とか「研究して人間をしるため」であろうが、「楽しむ」というシンプルな形が原型にあるように思う(*2)。

ここで2'をもう少し変形して、今回における「飽きる」ということばの定義を表すと次のようなものであるということが導かれる。

「飽き」

  • (読者側が)受け取れる情報が尽きてしまった(と判断する、もしくは情報の限界を見定めてしまった)ため起こる現象であり、そのため読者が物語を読む際に感じる「楽しさ」を減少・もしくは消失させるもの

ではこの項の話に戻ろう。

慣れの生み出すものというと、それは慣れの過程の果てにある現象を考えるのがいい。私は今回の場合、それは「飽き」にいきつくと考えている(テーマが「ラノベに飽きを覚える件について」なので当たり前だが)。

ただ今回の場合、「慣れた」結果、なぜ「飽きる」のか、そしてそのことがなぜ「ラノベを面白く感じられなくさせる」のかを考えている。その仮説の一つを考えているのである。たとえ的外れなものであろうと何か考えるに値するものがある可能性があるかもしれない。そのようなことを思ってなぜ最近面白いはずのラノベが面白く感じられなくなったのか考えてみようかということになった。

で、慣れの生み出すものの話にもう一度戻る。

ちょっと前にも書いたが慣れと飽きは似ている流れにあるが、別物である。そこで慣れから飽きに移行するためにはもう一段階、ステップとも呼べないような微妙なステップが挟まっているのではないかと考えた。私はそれを「流れに乗ること」と表現する。あるいは「キャラクターを理解すること」「世界を把握すること」とよんでもいいかもしれない。すなわち物語に「馴れる」ということである。

これは物語を読む者なら誰でも経験があることではないかと思う。最初は「なんだこの世界!?」というべきものが当たり前のように受け入れられる。最初の方で述べた「慣れる」の辞書的意味の1の項目に該当する。この「慣れる」の終着点の一つとしての「馴れる」が「慣れ」と「飽き」の境にあるのではないか。

ここでなぜ「馴れる」を「慣れる」と区別するのかというと、そのニュアンスに若干の差異を与えたいからだ。私の言う「馴れる」はその世界を当たり前の物として受け入れるだけでなく世界の流れ、物語の展開自体を無意識に把握する所まで行きついた状態を意図しているからだ。

つまり「馴れる」とは、その世界を当たり前と思うだけでなく、そのジャンルの「空気」に馴染むという意味合いを付加している。

このことを考える際を鈴宮ハルヒに対するキョンを考えてみるとわかる。最初は彼女の突飛な物言いに驚いていた。続いて彼女の突飛な物言いにあまり驚かなくなる、「またか」という反応、これが「慣れる」である。対して次に何を言うか、何かこのタイミングで驚くことを言うだろうと分かるようになること、「そろそろ来ると思った。また妙なことを言い出した」、これが「馴れる」である。

このことを前提にして次の話に持っていくこととする。

*1このことを説明した文章に以下のようなものがあった

つまり、飽きる事とは、動物が持つ本能が環境によって変化したものと考えられるのです。

飽きる事とは、刺激に慣れる事と言い換えることが出来ます。
刺激に慣れる事は、本能である適応能力に根ざすものだと考えられます。
つまり、生物は刺激を与えられ続けると、それを刺激とは認識しなくなるのです。
これは、暗い所から明るい所へ移動した場合、最初は眩しいと感じ光に次第に慣れていくことから分かります。
我々が飽きるとき、これと同様のメカニズムが働いていると考えられます。
しかし、我々は日光に慣れる事はあっても飽きる事はありません。
従って、飽きる事には、刺激に慣れる事以外の要因が必要となるのです。
私はその要因を飢えだと考えます。

(一部抜粋 元URL http://www.melma.com/backnumber_162629_3887284/

*2中には聖書や口伝のように「伝える・教わる」こと自体を目的としたものもあるが、今回はラノベをはじめとした一般大衆娯楽的な物語に限定して話をしている。またこれも「読み手」の目的であり、「書き手」の目的とは必ずしも一致しない

本題―なぜ最近ラノベが面白く感じられないのか(仮説)―

え~、やっと本題です。正直このようなだらだらした文章(しかも実りのあるかは謎)をここまで読んでくれた方には感謝です。では最後を書いていきましょう。

前項に置いて私は「馴れる」ということを説明しました。

また前回の記事に置いて「キャラクター」について話をしました。ライトノベルの変遷における話です。今回はそこの話の拡張から「馴れる」と組み合わせて考えられればいいかと思います。

「キャラクター」の言及において私は新城カズマの言葉を引用しました。そのセリフがこれです。

「物語とは(ほぼ)キャラクターであり、キャラクターとは(ほぼ)物語である」

また別のところから彼の言葉を持ってきましょう。

「ドラマの結論から人物が規定されるのではなく、キャラクターの性質がドラマ(の可能性の束)に優先していく」

(『ライトノベル「超」入門 135ページ)(ちなみに私は『ライトノベル研究序説』よりこの言葉を知る)

これらは現在のライトノベルの大勢を示している言葉のように思います。とはいえ、これら以外の形にもライトノベルは存在します。だからこそ新城カズマも(ほぼ)という言葉をつけたのでしょうし、キャラクターだけで物語は構成しきれない部分もあるのではないかと思います。

しかし前回の記事における「読み手の理解を容易にするためのカスタマイズ」を考えてみてください。

「キャラクター≒物語」という図式はライトノベルが読者を獲得するために意図的に取り込んできた技術であるような気がします。

それを端的に表しているのが新城カズマの言葉です。

現在では物語がキャラクターを規定するのではなく、キャラクターが物語を規定するようになってきています。物語という「世界」はキャラクターの「内」に取り込まれ、従来の関係とは強く逆転してしまった物語がラノベと呼ぶことも可能でしょう。私はこの流れの果てに「セカイ系」があるといえるのかもしれないと考えます。

「社会・宗教・歴史」などといった主人公たちの外部にある要因を飛び越えて主人公たちの内面・行動とセカイが直結したリンクを持っている。これはある意味究極なまでに読み手に優しい形といえる。

複雑な外部要因の理解を必要としないで物語の理解が可能になるからである。読み手はキャラクターを理解すればよく、キャラクターを理解しきったときにはセカイそのものを理解しきったことになる。これはテクスト論と似た理屈が可能だということだ。「物語の理解はすべてその原本のみでよい」という形式である。

読み手たる私たちは外部の辞書に当たらなければその物語の世界観が理解できないということはない。なぜなら必要なことは「キャラクターの内部」に詰まっているからである。

これは読み手に物語の強度を求めない方向に進んでいった結果の一つといえるかもしれない。

しかし、この考えがある程度の妥当性を備えうると仮定するならば、そこに「ラノベに飽きを覚える」理由があるのではないのかと思う。様々なジャンルを内包した「ラノベ」が「ラノベ」として飽きを覚える理由。それがそこにあるかもしれないという仮説だ。

私の考えとしては、新城カズマの先ほどの言葉がそこを良く説明しているのではないかと思う。

「ドラマの結論から人物が規定されるのではなく、キャラクターの性質がドラマ(の可能性の束)に優先していく」

すなわち物語の先の展開は「キャラクターの外部」にあるのではなく、「キャラクターの内部」にあるということだ。これは読者に「先読み」を容易にする作用がある。考えてみてほしい。物語の予測に必要な情報は「キャラクター」の中にあるのだ。

これは行動のみを指示しているのではない。「馴れる」につれてその範囲は広がっていく。私は「馴れる」という説明をする際に「流れ・線」という趣旨の言葉で話をした。このことは「キャラクターの運命」に馴れるという意味合いも含みたくて使った言葉である。人の人生は点ではなく線である。物語にベクトルが存在する(時間の流れとは無関係ではないが、一致するともいえない)とでもいえばいいのかもしれない。

これは「キャラクタライズ化」ともリンクしたことで、「ポニーテール+金髪」=「ツンデレ」のような区分から物語の方向性が規定されやすいことから、(意識的ではなく)その物語の流れを悟ってしまうこととがあるのではないだろうかということだ。

心理学用語では「観念連合」という心理作用が機械的(必然的)に行われてしまう。そのため「物語自体は面白いはずなのに面白く感じられない。『飽きた』のかな?」ということが起こっているのではないか。

つまり「ツンデレ」というタグの物語類型を身のうちに重ねていくことで読んでもいない作品の「未来」を予測できるようになってしまう。それは意識的に「行わない」ということはできず、機械的に「行われてしまう」ものなのではないか。

同様に「ラノベ」というタグの流れに属することで「ラノベに飽きてしまう」。それはその作品の未来が予測できてしまうからではないか。

このことをある程度意識的に行っている作品に「神のみぞ知るセカイ」がある。彼は物語類型を意識的に集めることでその人間の物語(過去・未来)を予測する。これと似た作用が行われているのではないか、そしてそれが「飽き」の原因の一端にあるのではないかとふと思ったのでこんな長い文章を書きました(マル)。

追伸

ちょっと書き忘れた部分(もしくは拾い忘れている伏線)が多数あるかもしれないのでそのときは書き足します。たぶん「追記」の形になると思う。

追伸2

今さっと見返したんですが、理屈の流れで足りない(変な)部分があるような気がします。直せるようなら直します。まぁ、とにかく記事として上げておきます。

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