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2009年11月

2009年11月29日 (日)

『キスと魔王と紅茶』 忍・チョコ先生 終了

キスと魔王と紅茶

キスと魔王と紅茶

チョコ先生の方は普通でちょっと残念でした。こうなったら忍だ!ということで忍ルート攻略。

映像的には忍―女の子―ルートのほうがいいけど、物語的には忍―男の子―ルートのほうがいい出来です(多分)

どちらも短いから微妙っちゃあ微妙ではありましたが…

やっぱり物語を掘り下げてほしいな~、個人的には

もうがっつり云ってほしい

Landreaall(15)―みんなそこに引っかかるのかよ―

Landreaall(15) 552円 (税込 580 円) 送料無料

チャットで話をしていたら『Landreaall』15巻の話題になった。細かい詳細は省くが、みんな「君は報われない幸せを知らない」に引っかかっていたことが判明(笑)

詳細については海燕さんが記事にわかりやすくまとめておいてくれるので、そちらhttp://d.hatena.ne.jp/kaien/20091129/p1を見てほしい。わたしは書きません。

なので今回は以前の記事http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-7886.htmlの補足などをここでしておこうかと思う。

前回は『神のみぞ知るセカイ』の記事の話題に絡めて『Landreaall』をだしたので、今回は『Landreaall』を主眼にしたお話。

わたしが『Landreaall』で感心するのは、全てのキャラが意味を持っていることである。『物語』の構成に無駄なものは用意されていない。最初はよくわからなくても、のちになってわかるよう作られている。それはまるで碁において、先を見据えてその時点では意味のない一手を打っているのと同様の作業である。

一つのキャラの物語における意味がのちに明かされたり、複数存在することなどはざらである。

前者の筆頭は竜胆の兄の竜葵であり、後者はライナスなどがいい例としてあげられる。

ライナスは現時点でも、「DXの友人」「外界への橋渡し(DXが東方へ行くときに口をきいた下り)」「道先案内人」など他にもいくらか重要な役割をこなしている。その中でも最も重要な役の一つが「DXとの対立軸」という役柄がある。

この役は非常に重要な役である。なぜかというと「DXは自分の内面を形に出さない」からである。正直言ってDXは「非常に分かりにくい」。一つの言葉にさまざまな含みを持っていたり、意図的に口をつぐむ癖があるからだ。

しかしそれでは読み手はDXを理解しきれない。そこで有効に機能するのがライナスである。ライナスが物語中で行う行動はDXの内面を浮き彫りにする。それは、今回の

「君は報われない幸せを知らない」

という台詞を引き出したことからもうかがえる。

ではなぜこのようなことが起こるのか?

それはライナスとDXが『似てる』からである。それは姿かたちではなく、能力、あるいは内面をも含んだ全体のことを指す。

その結果両者は「釣り合う」。これはDXとライナスが「対等」ともいいかえられる。

物語中においてDXはさまざまな「役割」を与えられている。たとえば「兄」、「主人」、「王位継承者」、はたまた「英雄」。

そういう中において関係性のパワーバランスは常に均衡をとれない。イオンとの関係においてDXは「対等」であろうか?六甲とにおいては?フィル、ルーディ、ティティはどうだろうか?

答えはノーである。(理由は以下※1で別途記載)

ライナス以外では竜胆が唯一DXと対等になりえたが、彼の場合は、彼の性質と相まって無理となった(※2)。

その点ライナスは「対等」である。それは彼が「商人」だからだ。

「商売」に上下関係はない。売るものと売られるものという「対等」な条件が存在する。

相手に与えるばかりでなく自分も相手から与えられる。それが商売のモットーといえる。

今まで相手に自動的にただ「与える」存在だったDXに、意識的に「俺に(ex.竜創を)与えろ」と云う存在がライナスなのである(代わりに「何か」を与える)。

15巻でライナスがいっている台詞は正しい。

「もし万能の勇者がいたら何をしてくれるか想像する でもいない 

 だから自分で何とかするしかない

 そーやって奴らはお前は「使って」た」

一方的に与える存在というのは、一方的に使われるものなのだ。パワーバランスが崩れている相手にとってDXは「便利なアイテム」と代わりはない。

そう考えると後の「俺の存在なんて意味はない」にもまた別の意味が与えられる。

DXが「フィルのため」に行った行為は、今までの「彼の枠」から外れた行動ではない。DXの「王」の特性。常に上にある性質。便利なアイテム。その結実といえる。

DXが「ないはずのマイナスがフィルから消えただけ」という時のDXの表情を見てみるといい。実に「気持ちが悪い」(そして唯一ライナスだけがそれに「怒り」を抱いている)。

この「気持ち悪さ」に抗することができる(ムカつけるが)ゆえにライナスは「対等」なのだ。

そしてだからこそDXの「鏡」たる資格が生まれる。なぜならどれほどDXが巧妙に「内」を隠しても、ライナスにはそれが漏れ出でる。その「反応」が我々にDXを知る「手掛かり」を与えてくれる。

ついでだから、竜胆の兄の竜葵の話もしておこう。以前の記事(この記事の最初に紹介)で竜葵はDXにとっての「世界の外」の存在という趣旨の話をした。彼はDXの今までのやり方(自分の世界におけるロジック)が通用しない存在で、DXに自分の枠の「外」を意識させるための格好の相手だった。

今回そのことを表す一言がDXから漏れ出ていた。

「ケンカにもならない リドの兄さんって規格外だった」

規格外!

いい台詞です。これはリドの兄自体が本当に規格外なのではなく、「DXの世界」にとっての規格外なんです。

これでDXは「外」を意識しました。

正確には「外の世界」の「人間」を意識しました。

その流れの中で見ると、「ボーイ」が「DXの予想外」に「ブドウを食べた」くだりのあたりの感動が一層強くなります。

『Landreaall』はまだまだ読み解けます。

(結局まずブドウを食べたのがライナスだった)

※1 なぜDXと周りの関係性は対等ではないと言えるのだろうか。それは以下に順に説明する。

まずイオンと六甲。この2人は単純である。DXとイオンの関係性において、イオンはDXに「守られるもの」だからである。もちろん後に成長して兄と対等になることはあるかもしれない(というか、それがイオンの物語かもしれない)、しかしそれは「後」のことであり、今は「まだ」である。また六甲はいまだDXとの関係において「主従」がある。

次にルーディとティティ。この辺は明確な記述がないから(あるいは見落としたか)、普段の行動から推察するしかない。しかし、スピンドル事件の顛末における「DXがいれば…」という意識との関係から「頼るもの・頼られるもの」という構図がみて取れる。

最後にフィル。ここにおいてはDXの言動に焦点を当てた方がいい。

15巻の台詞において

「俺は… つまり …対等でいたいから 敬意… を 払ってる」

「DXが フィルに?」

「俺が フィルに」

と言っています。これは少なくとも二つの取りようがある。

一つは「親しき仲にも礼儀あれを体現した」。ある意味一般的な取り方です。

しかしここの場合はもうひとつの意味。「DXはフィルに『合わせて』対等な関係を保っている」ととった方がいいと思います。その辺の理由は

「DXはフィルのチェシャ猫でいたいんだ」

「そうかも 俺の存在に意味なんてない」

「……」

「なるようになったらそれでいいんだ フィルは怒るかもしれないけれど」

の文脈から判断かな?

しかし、一方が一方に「意識して合わせた」関係が「対等」か?という話ですね。「対等になるため」行動をしているとは「対等ではない」と言っているようなものですから(笑)

ただ、DXの「アノ」パーソナリティは自然と自分が「上」になってしまうパーソナリティなんです。王様の性質を備えている。だから「意識」しないと「対等」になれないともいえる。

※2 これは竜胆の「相手に合わせる」性質のため。※1で言ったようにDXはいわば「王」の性格なんです。自然と自分が「上」になる。もちろん相手が目上だったりすると自分のほうが「下」に来るけど、それは「わざと」下に行っているんですね。賢者に対して王様が「礼」をとるのと同様です。

 

追記

ランドリオールにおいて世界の区分というか、ルールが分かれているんじゃないかという話をしようかと思ったが、膨らまないのでやめた。

要は、「君は報われない幸せを知らない」に対するライナスの答え「…知りたくもねーよ」は彼が「ランドリオール世界」における「商人」であることに由来するんじゃないかって話。「わからない」でも「気づけないでも」なく「知りたくない」ということ。

2009年11月28日 (土)

最近だらけています

注意 ほぼ愚痴なので、「そういうの聞くと気分が悪くなる」とかいう場合は見ないでください。自分の状態を客観視したいから書いてるのであって、見た人を巻き込むのが目的で書いているわけではないのでw

 

いや、だらけるほど心が鈍っていくのがわかるんですよね。

凛の台詞の「心に贅肉が付いていく」って台詞、あれを実感しております。なんてか、見えない「何か」にからめとられている感じです。

だいたい一年にいくつかそんな状態に陥るんですが、今回はちょっとヤバい状態でしたね。いまは立て直しが行われて少し良くなってます。

一度全てを解きほぐしてあるべきところに戻していく作業が必要ですね。なんていうか、さまざまな関係性から圧迫を受ける(と感じる自分の)今の状態は間違いな気がします。

関係性によってより自らの内をより自在な心境にもっていきたいです。

目指す境地と感覚は分かるのにそこにたどり着けないのが少しもどかしいです。やはり自分の内面こそが一番ままならないですね。

要は、「ベイビーステップ」の「理性と本能が一致した状態」にありたいんだと思います。「悩まないという幸せ」は素晴らしい。最近とみに理性と本能はバラバラです。

書いたら少し落ち着きました。

以上、愚痴でした。

2009年11月27日 (金)

Landreaal(15) 買った

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買って読んだ。今回の話は、DXの過去から現在につながる話と、革命の真実。

それにしてもこの作品は人間の掘り下げがきちんとなされてて面白いな~。

だいたい、DXとライナスの対立軸がアアなのは当然なんだよね。「商人」が「報われない喜びを知る」とか駄目な世界なんだね、この世界は。この作品はそういう見えないルールが区切られているところがあって、見ていて楽しいです。

『キスと魔王と紅茶』 更紗編 終了 ちょっと残念な感じだった

キスと魔王と紅茶

キスと魔王と紅茶

更紗編終了しました。

まぁ、普通のストーリーでしたよ。異常なまでの作りこみがない代わりに、それなりの完成度で。基本的に出来自体は悪くないと思います。

ただ物語には途中で飽きてしまいました。具体的に言うと、更紗と主人公が恋人になったあたりから。

この更紗編はエロゲの一般的なストーリーと同じで、孤独なキャラが主人公と心の交流を交わすことによってその意識を広げていくストーリーです。ぶっちゃけおんなじような話はいっぱいあるんで、やる必要があるかないかっていえば「ない」です。

ただ『魔王』を純粋なギミックとして用いているから、ストーリーに妙な重みがないことは評価しています。出来れば、もっと『魔王』の活動を掘り下げていった方が個人的には好みでした。

更紗と恋人になった後は、『魔王』のイベントは一つくらいしかないし、更紗の世界を広げていく話も終了してしまったから見るところが主人公たちのいちゃいちゃしかない(泣)

もーっと掘り下げてもいいのにな、って感じです。更紗が主人公という一点から外界の「人」をちゃんと名前ある対象として認識していく過程とかはとくにそうです。いろいろ書き込みが足りないから、読み手が置いていかれてしまう部分もちょこちょこ…

最後の主人公が自身のトラウマを乗り越えるところとか、もう…

それでもなんだかんだで楽しむことは出来ました。もしかしたら中には素晴らしいストーリーがあるかもしれません。

『あかね色に染まる坂』の湊ストーリー(兄妹という壁に真正面からぶつかったのを見たときには感動した)のような衝撃を待っています。

『キスと魔王と紅茶』 更紗編スタート

キスと魔王と紅茶

キスと魔王と紅茶

やべぇ、最高に笑える。

まだ一巡もしてないからどうこう言うことはできないんだけど、結構好きなタイプの話ですコレ。

確かに物語としては何ら生産性のない、ありふれたハーレムでハッピーな物語に見えるんだけどここまでのところ飽きることはありません。

似たような感想は『スズノネセブン』でも感じたけど、こういう雰囲気の作品が好きですね。現在主人公たる『魔王』が『魔王』として初めて衆目にさらされたところでストップ。

なんてか、サイコーに笑えます。

「お前の目的はなんだ!」って聞かれて「すいません。5分考えさせてください」っていうくだりとか楽しすぎます。

目的もなくあらわれてしまったゼロみたいな感じで好感が持てます。両親はともに仲良く、ナナリーは幸せで、スザクや生徒会メンバーに囲まれて退屈ながらも充実しているルルーシュがいきなり「今からゼロとして演説して」ってCCとかに言われたらこんな感じでしょうか?

戸惑いながら「何か」をなしている姿が楽しすぎます。

たぶん更紗編はさっさとおわします。まだやってるゲームがたまっているのに、新しいものに手を出すところに自分の移り気な性格が見えます。

2009年11月26日 (木)

子ども(ガキ)の理屈を並べるな!!!

【中古】少年コミック 1)真・女神転生デビルチルドレン / 藤異秀明 価格 150円 (税込)

最近一昔前の面白かった作品を揃えて見ている。今回はデビルチルドレン。残念ながら最終4巻はなかったから今から懸命に探します。

それにしても…改めて見直してみると凄い表紙ですね。雪の荒野で今から闘いを挑みに行く表紙です。

……えっ?

…これ誰を対象にしたマンガ!?

いや、だって考えてみてくださいよ。このマンガが刊行されていた雑誌は今は懐かしの『コミックボンボン』ですよ。ちなみに我らがウィキペディア君によるとボンボンの対象年齢は『小学生』だそうです。付録は「3歳以上対象」となっております。

すなわち、下は幼稚園から上は小学校中学年以上を対象にした作品だそうです。

はい。信じられません。

だってこのマンガときたら主人公とヒロインを生き別れにする(主人公はヒロインを助けられなかったことがショックで無茶な肉体改造したりする)わ、主人公の腕をちぎる(あとでつなぎます)わ、ヒロイン2を鎖でぐるぐる巻きにしたうえさるぐつわをつけて監禁(後で仲間になります)するわ、マジもんの戦争を始める(もちろん特攻兵士、膨大な死者、敵に囲まれてあきらめるなどあり)わ、とんでもない前科がいっぱいあります。

さらに極まったのは、小学生の主人公刹那に対する白いワーウルフのフェンリルの返答です

セツナ「わかんねぇよ!!! 親を殺されてまで世界を救うことがそんなに大事かよ!!! それでお前は幸せになれるのかよ!!!」

フェンリル「物事を客観視できん阿呆め!!! 自分の物差しの中でしか世界を見ていない!!!

子ども(ガキ)の理屈を並べるな!!!

きさまも大魔王と戦うために来たデビルチルドレンだろうが!!!」

セツナ「しらねぇよ!!!俺は別に大魔王に恨みはねぇし 世界なんて知ったこっちゃない!!! ただ俺は強くなるためにここに来たんだ!!!」

フェンリル「ぬるいわ 小僧!!! きさまの命などより大事なものはこの世にいくらでもあるんだよ!!!」

 

……

うぉぉぉぉぉぉぉぉぉい!!!!

この人『デビルチルドレン』の連載誌知ってんのか!?

『ボンボン』だぞ!!『コミックボンボン』だぞ!!対象年齢『小学生』の雑誌だぞ!!!!

なのに出てきた言葉は「ガキの理屈を並べるな!!!」「ぬるいわ 小僧!!! きさまの命などより大事なものはこの世にいくらでもあるんだよ!!!」ですか!?

ねぇ!!!ホントを対象にいってんだよ!

当時のお子様はこれをきちんと理解してたってのか!?

 

…あなどれねぇ…

やっぱり侮れないよボンボン。

大体にしてボンボンの連載漫画は質が高かった。だって「アノ」ガンダムシリーズを3巻とかで書くんだぜ!?しかも内容はほぼそのまま。これは「ボンボン」の編集技術がすさまじかったのか、アニメが引き延ばされてたのか?

いずれにせよわたしの中でボンボンの評価は高いです。

ベイビーステップ(10) 全てを積み重ねた者のすごさ

ベイビーステップ(10) 419円 (税込 440 円) 送料無料

エーちゃんのテニス人生物語もついに2ケタに突入しました。今回はvsアレックス戦決着~vsタクマ戦のほんとに序盤まで。途中でなっちゃんとのラブコメも入るけど、そこも「ベイビーステップ」かよwwって感じなのは笑えましたね。

しかしその「ベイビーステップ」が彼の強みなのは確か。海燕さんが『ベイビーステップ』のエーちゃんと『しゃにむにGO!』のルウイを比較していたけど、確かにエーちゃんとルーイ・延久には身体能力の点において絶対的なまでの才能の差というのが横たわっている。

たとえば6巻の時点でエーちゃんは肉体改造をしたけど、ルウイと延久はしなかった。もちろん羅川さんが気にしなかったから書かなかったのかもしれないけど、それを考えても「物心ついたときからテニスをやっている」奴や「陸上ジュニア選抜で文字通り『世界最強』だった』奴とエーちゃんには身体能力の差というものがある。

ちなみに『心の強さ』でいえば、延久とエーちゃんは似通ったところがある。2人ともまず「悩まない」。もちろん強くなるためになら「悩む」(ノブはちょっと別かもしれないが…)が、マイナス方向に考えて意識を停滞させることはない。本能的に「悩む」ことが「何も生まない」ことを知っているのかもしれない(スポーツにおいてはだが)。

だいたい考えてみてほしい、エーちゃんと延久では基本スペックが圧倒的に違う。しかし2人の成長速度はほぼ同等だ。これが異常なことは少しスポーツをやったことがある人にはわかるかもしれない。ただ両者を比べると、「目的を定めたらただそれに埋没する」能力はエーちゃんの方が高いかもしれない。その分延久より「楽しむこと」に特化できていない部分はあるが…(延久は基本的に「本能」が優先しているから「理性と本能が一致」しやすい側面がある、対してエーちゃんは「理性」が優先しやすい)

また同じ悩まないでも延久とエーちゃんは「悩まない」の形が違う。

延久の場合は「俺はすごいんだぞ!やれば(やらなくても)できるんじゃー!」なのに対してエーちゃんは「まずやってみよう。で、駄目かどうかはそれから考えよう」なのである。結局両者ともにけっして「試合を捨てる」ことはない。

この「試合を捨てない」というのはホントにすごいことで、自分の限界を自分で定めないということなのだ。これは『ベイビーステップ』をみていればわかることだが、一試合の中でも選手の成長というものは著しい。また『しゃにむにGO!」の青木民夫をみてくれ!池やん先生に泣かれるまでに成長した彼を!

結果今までの「限界」だった自分を常に越えていくこととなる。彼らはボールの「一球一球」を無駄にしないのだ(…ホント、わたしもまじめに勉強しなきゃナ…)。

ただそれだけではエーちゃんには延久と同等の成長速度を望むことはできない。なぜなら「基本スペック」が違うんだから。だからこそ彼は「練習」のボールも無駄にはしない。

何かミスがあれば、メモ

少しでも課題が見つかれば、メモメモ

一点でも向上したところがあれば、メモメモメモ

ホントに一球一球をしゃぶり尽くしているのである。もしこれを読んでいる人が学生とかであるならば周りを見渡してほしい、なんだかんだで一番強いのは「こういう」タイプなんだよ(例外あり)。変に「天才」を相手にするくらいならエーちゃんみたいに「自分」を相手にすべきです。

一つのものから一つを得ていくのがどれだけ大変なことか…

10巻の中でアレックスが言っている「小さくても無数にある夢をひとつずつ確実にかなえていくタイプの奴なんだ ひとつひとつは小さくても無数にかなえれば、それはいつの間にか大きくなる」「先のことよりまず目の前の1ポイントに勝つことを優先する これはプロの発想」はそれを如実に表しています。

あと、クリシュナの台詞がそのままエーちゃんの成長の理由につながるところが面白い。

アツシ「なんかアレックスらしくねえよな… バックハンドで攻めてミスるなんて…」

クリシュナ「まあね でも敢えてやってる感じにも見えるけど」

アツシ「そうなのかな?」

クリシュナ「異常なまでに細かく分析された自分に気付いたんじゃないか マルオのノートに書かれるとまるで鏡を見ているみたいに自分のことが見えてくると思うんだ そうなったら…

 

その自分を超えたくなる気持ちはすごくわかるんだよね

 

…これって、エーちゃんの成長の仕方そのものじゃん!?

彼の場合、ノートに書くのは相手のことより当然自分のことのほうが多いわけですよ。

いったい何回自分を乗り越えてきたんだ、彼は

自信を失ったもの、自分を乗り越えられなかったものはこの世の中にあふれています。たとえ乗り越えるにしても、そこを超えるには多大な手間がかかります。

タクマやルウイ、池やん先生がいい例です。

それに対してエーちゃんはすぐに壁にぶつかる代わりに、すぐにそれを乗り越えます。今週号のマガジンに至ってはその成長率・分析力が凄すぎるせいでお説教です。

しかしそのように成長していくエーちゃんのなんとすごいことか。

「エーちゃんノート」が「キモい」のは「普通の人がやろうと思ってもできないから」です。だらけてしまったり、(わたしみたいに)娯楽に耽溺してしまったり・・

そのような「寄り道」をしないで全てを身にしていくもののなんとすごいことか。

圧倒されます

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エーちゃんのテニス人生物語もついに2ケタに突入しました。今回はvsアレックス戦決着~vsタクマ戦のほんとに序盤まで。途中でなっちゃんとのラブコメも入るけど、そこも「ベイビーステップ」かよwwって感じなのは笑えましたね。

しかしその「ベイビーステップ」が彼の強みなのは確か。海燕さんが『ベイビーステップ』のエーちゃんと『しゃにむにGO!』のルウイを比較していたけど、確かにエーちゃんとルーイ・延久には身体能力の点において絶対的なまでの才能の差というのが横たわっている。

たとえば6巻の時点でエーちゃんは肉体改造をしたけど、ルウイと延久はしなかった。もちろん羅川さんが気にしなかったから書かなかったのかもしれないけど、それを考えても「物心ついたときからテニスをやっている」奴や「陸上ジュニア選抜で文字通り『世界最強』だった』奴とエーちゃんには身体能力の差というものがある。

ちなみに『心の強さ』でいえば、延久とエーちゃんは似通ったところがある。2人ともまず「悩まない」。もちろん強くなるためになら「悩む」(ノブはちょっと別かもしれないが…)が、マイナス方向に考えて意識を停滞させることはない。本能的に「悩む」ことが「何も生まない」ことを知っているのかもしれない(スポーツにおいてはだが)。

だいたい考えてみてほしい、エーちゃんと延久では基本スペックが圧倒的に違う。しかし2人の成長速度はほぼ同等だ。これが異常なことは少しスポーツをやったことがある人にはわかるかもしれない。ただ両者を比べると、「目的を定めたらただそれに埋没する」能力はエーちゃんの方が高いかもしれない。その分延久より「楽しむこと」に特化できていない部分はあるが…(延久は基本的に「本能」が優先しているから「理性と本能が一致」しやすい側面がある、対してエーちゃんは「理性」が優先しやすい)

また同じ悩まないでも延久とエーちゃんは「悩まない」の形が違う。

延久の場合は「俺はすごいんだぞ!やれば(やらなくても)できるんじゃー!」なのに対してエーちゃんは「まずやってみよう。で、駄目かどうかはそれから考えよう」なのである。結局両者ともにけっして「試合を捨てる」ことはない。

この「試合を捨てない」というのはホントにすごいことで、自分の限界を自分で定めないということなのだ。これは『ベイビーステップ』をみていればわかることだが、一試合の中でも選手の成長というものは著しい。また『しゃにむにGO!」の青木民夫をみてくれ!池やん先生に泣かれるまでに成長した彼を!

結果今までの「限界」だった自分を常に越えていくこととなる。彼らはボールの「一球一球」を無駄にしないのだ(…ホント、わたしもまじめに勉強しなきゃナ…)。

ただそれだけではエーちゃんには延久と同等の成長速度を望むことはできない。なぜなら「基本スペック」が違うんだから。だからこそ彼は「練習」のボールも無駄にはしない。

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ホントに一球一球をしゃぶり尽くしているのである。もしこれを読んでいる人が学生とかであるならば周りを見渡してほしい、なんだかんだで一番強いのは「こういう」タイプなんだよ(例外あり)。変に「天才」を相手にするくらいならエーちゃんみたいに「自分」を相手にすべきです。

一つのものから一つを得ていくのがどれだけ大変なことか…

10巻の中でアレックスが言っている「小さくても無数にある夢をひとつずつ確実にかなえていくタイプの奴なんだ ひとつひとつは小さくても無数にかなえれば、それはいつの間にか大きくなる」「先のことよりまず目の前の1ポイントに勝つことを優先する これはプロの発想」はそれを如実に表しています。

あと、クリシュナの台詞がそのままエーちゃんの成長の理由につながるところが面白い。

アツシ「なんかアレックスらしくねえよな… バックハンドで攻めてミスるなんて…」

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その自分を超えたくなる気持ちはすごくわかるんだよね

 

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しかしそのように成長していくエーちゃんのなんとすごいことか。

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2009年11月25日 (水)

ちょっとした悩み

最近自分の中で「原点回帰フェア」が始まっております。

単純に昔読んだ本をそろえなおしてもう一回読みなおそうという試みなんですが…これがなかなかハードな試み。現在読んでいる本は「小説 ドラゴンクエスト5」

これはわたしが初めて読んだラノベ(?)ともいうべき記念すべき本です。まぁ面白いこと面白いこと。わたしが小学生のころの本なので15年以上前の本なのにいまだ完成度の高さは健在です。

ちなみにほかに読んだのは成田美名子さんのサイファからナチュラルに、ブレイクエイジという知る人ぞ知る豪華ラインナップ!しゃにむにGO!も読み直した。この後はマジックナイト レイアースとかに行くかもしれない…

…え~と、最近の本読んでいません。ここの感想どうしよう?

ベイビーステップの感想でいいかな?いくらなんでもあらゆる感想の対象が初出’90年代かそれ以前は避けたいしな~。

もし余裕があれば2種類書いてもいいんだが…

2009年11月24日 (火)

驚愕の事実に気付く…の巻

本日ベイビーステップ10巻を購入。相変わらずの出来でうれしいことこの上なし。
それにしても本を買う時にさりげなく衝撃を受けた。
いつもはアニメイトなどでまとめ買いするが、本日買ったのはベイビーステップだけ。
レジでのこと

ピッ

「440円になります」
「!!!」

あれっ!?本の値段が上がってる!?
マンガは税込み420円になってると思ってたので衝撃です。
あわてて平積みの本を確認してみると419円(税抜き)、439円(税抜き)、400円(税抜き)…
どうやらサンデーなどは今までどおりらしいが、マガジンは単価が値上がりしている。
昔は390円のマンガが値上がりして衝撃を受けたものですが、また同様の衝撃を味わうとは…
時代が変わっていることを痛感しました

…それにしても、いつの間にマガジンはコミックを値上げしたんだろう?
気づかなかっただけでずいぶん前からそうだったんだろうか?

2009年11月23日 (月)

目の見えない人の見る世界

※mixiで書いた記事の転写です。もうずーっと眠りっぱなしだったのでこちらに書く記事がないんですよ(苦笑)
 
 
ラジオを聞いてたら偶然作文コンクール(うちの県版)の小学生の部が紹介されていた。
その中でも気になったのが「目が見えない人の見る世界」。内容は、目が見えない人と星を見る女の子の感想。内容自体は面白いので機会があれば見てほしい。
この中で作者の女の子は目の見えない人たちは「本当の星を見れない」からどのように星を「見て」いるかを紹介している。
それ自体は聞いてて楽しかった。しかしふと気に掛かる部分がある。なんだろうと思って考えてみると、自分は「本当の」という言葉に反応したらしい。 
考えて見れば「本当の」星を見るというのは面白い言葉だ。なぜなら「本当の星を見ている」我々自身も本当の星を見ているとは言えないからだ(ちなみに、別に作者の女の子を批判しているわけではないし、異なるニュアンスを用いての話であるのでこれは彼女に対する皮肉にも当然なりえてないことは一言付して置く。言葉を用いた「ことば遊び」の題材にさせてもらったというだけのこと)。
地球と星の物理的距離、人がモノを見る際の機構、そこにおける脳の果たす役割。これらを考えると我々自身も「本当に」何かを見るということがどれほど出来るのか?
このように「本当」というものを題材に考えて見るのは面白い。
本当の壺と偽物の壺。値段が同じならどちらがいいか。全く差がないなら?実は偽物の壺の方がやすく手に入って、後々本物より質が高いと評価を受けるならどうか?
本当を考えるということは「本当ではない」を考えるということである。多少意訳してよいなら偽物もしくはコピーを考えるといえばいい。
物なら本当と偽物などは世の中にゴロゴロしている。
てはそれが人なら?姿形に性格まで同じなら?少なくとも物理的に区別出来ないレベルで同じならどうか?それともベースは本物で、自分の望むようなカスタマイズが施されているならどうか?
そんな益体もないことを思うとき考えるのは
 
「みんな魔機工術士(エンチャンター)読もうよ!」
 
という思い。
…いや、改めて見てみるとよくできた作品です。雑誌掲載分の十七巻まででOKですよ。「本物とコピー」という題材にちゃんと面白いアプローチをかけています。
何か話題にはあがらないけど実は優秀な作品だと思います。個人的に。

 

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2009年11月19日 (木)

インフルエンザって言われた

最近体調悪いな~とか思ってたら、今日「インフルエンザです」って診断された。

これでしばらく学校は公欠です。のんびりためてた本を読みながら療養するとします。

2009年11月17日 (火)

精霊ルビスをあなたはどう判断する?-おちゃめさん?それとも陰謀家?

この話は高校の頃友人に話したネタが元です。まぁ、こういう意図が隠れてるかどうかはわからないけど、こういう風にも考えられるよね~ってネタです。ちなみにこれはゲームのみを前提にした話です。小説の精霊ルビス伝説などは省いて考えています(読んでないから矛盾するかどうかも判別できないんですよ]。

精霊ルビスの正体?

このことに思い至ったのはスーファミでドラゴンクエスト6で精霊ルビスと会ったときです。ここで思ったんですよね「なんでルビスが水中にいるの??」って。

で、つじつまを合わせていたら「ドラゴンクエスト―裏の歴史」とでもいうものが出来上がってしまって(笑)

笑いながら友人に話をしたんですよ。

そこで話を詰めていったら「精霊ルビスって本当はどんな奴なんだろう?」「なんでⅣやⅤでは見ないんだろう?」みたいなことを考えてしまい、「裏の歴史」の「バージョンA]「バージョンB」が出来上がりました。

今回はその「バージョンA」を中心とした話(私は「バージョンB」を支持しています。これは後半に書いてあります。でもバージョンAを説明すればBの理解は容易なので、こういう形式にしました。ポイントだけ掴んで、Bの説明を読むのも一つの手です。)。

「バージョンA」は「精霊ルビスはドジっ子」説です。要はドラクエⅠⅡⅢの危機は彼女の「ドジ」に端を発した事件なんですよって話。

これがどういうことかというと、物語の時系列順に話をしてみましょう。

Ⅲ開始前ルビスは闇の勢力に襲われます。これは未然に防げたことなのかどうかわからないので、ルビスに如何な責任があるのか(それともないのか)はわかりません。ただ地上世界の竜の女王の卵が産まれる直前(そしてもしかしたらそのせいで女王の体力がなくなっている時)に地下世界が闇の軍勢に奪われてしまっているのは、警戒が足りないんじゃないの?とは思わされます。

また彼女を開放するための「ようせいのふえ」が町中に落ちていることも彼女の「ドジっ子」説に拍車をかけます。彼女はゾーマに封印されて塔に閉じ込められています。ゾーマからしてみればルビスは目の上のたんこぶです。できれば殺してしまいたい、それが無理でも封印し続けておきたい相手です。そんな相手を開放するためのアイテムを自勢力で保持せず、町中にほっておくでしょうか?

ないない∑(; ̄□ ̄A、そんなこと

…ということは、どういうことなのでしょうか?

そうです。彼女が自分で落したんです!

「ようせいのふえ」の入手場所を思い出してみてください。マイラの温泉から南に5歩のところです。

…温泉って…

真相はこうでしょう。

彼女は(たぶん)お忍びでマイラの温泉に浸かりに来ていた。その際「温泉っ!おんっせんっ!」とかいうウキウキ気分で道を歩いている際にふえを落としたんです。お忍びだから当然お供のものなんて誰もいない。結果、「ルビス様、ふえを落としましたよ」と注意してくれるものなんていない。結果、ふえは町中に。

もしかしたらお風呂の帰り(最中)に襲われたのかもしれません。無防備な瞬間に突然襲われて、あわれ「塔の中の人」になってしまいましたとさ。(*1)

しかし、このミスは結果的にⅢの主人公たちの助けになります。ラッキー!(まぁ、最初からさらわれるような行動をとらなければいいんですけどね(*2))

そして最終的にⅢの主人公たちはゾーマを倒します。物語終了です。ハッピーエンドです。

~スタッフロール~

…しかしルビスの役目は続いていた

いっぱい仕事があります。闇の勢力に曝された地域の復興、そのための情報収集、そして地上世界の管理と子守り。

いいですか。重要なことだからもう一度言います。

地上世界の管理と子守りです

なぜなら、竜の女王はしんでいます。愛すべき子供を残して。

たぶんその原因の一端は闇の勢力です。世界が暗黒に覆われてしまったせいです。

そうです。ルビスがミスったせいで闇の勢力が台頭してしまって、「今度は地上だ~」とか言って地上に進出されてしまった責任です(*3)。しかも竜の女王のいる場所は人間では到達できない秘境なのです。モンスターにさらされていないことを考えるとモンスターですらたどり着けない場所なのかもしれません。

つまりラーミアなどのような「神鳥」でなければたどり着けないことになります。となるとたどり着けるのは「神」もしくはそれに準ずる者たちだけでしょう。この時点で卵にたどり着くのは限られたものだけであることがわかります。

城の中にはホビットたちがいるので、子供を育てるだけならできます。でもね、考えてみてください。

地上世界はだれが統治するの?

ホビットたちは卵の「彼」を育てることはできます。しかし世界の統治はできないでしょう。もしできるくらいの力があるなら、竜の女王に代わって主人公たちを影に日向にと助けるのではないでしょうか?

そういうとき、Ⅲの世界で竜の女王と同等の力と地位を備えているのはだれか考えてみてください。

もちろんその答えは我らがルビス様しかありえません。

純粋な格の問題なんですよ、これは。

もし竜の女王が代理を用意していたらその人は女王のそばで世界の統治を学んでいるはずです。それは当然「卵」の中の彼でしょう。しかし、不慮の事故のせい(?)で女王は死んでしまいます。「彼」を育てることはもうできません(*4)。

となると地上世界には、代理に見合う格の相手がいないんですよ。「世界一つ」を治めるに足る器量の存在が。

すると同等の格を持つ相手は物語中で「ルビス様」しかいません。たとえどれほどドジっ子で無能でも後見人として最適な相手です。

ここで「後見人 精霊ルビス」が誕生します。

このときこの後見人は予想にたがわない無能っぷりを発揮します。

まず「ひかりのたま」を返却し忘れる!

これ結構大事なものです。卵の中の「彼」からしてみれば「お母さんの形見」ですからね。普通返します。

でも返さないっ!これがルビスクオリティです!

続いて「彼」の育て方を間違える!

これは「竜王事件」(DQⅠ)のことですね。「彼」は見事なまでの「不良=竜王」に成長してしまいます。結果的にⅠの主人公に懲らしめられてしまい、何世代にもわたる「罰」(DQⅡの時点で子孫が幽閉されている。なんか、昔の天皇家を思い出します)を受ける。おかげで地上世界を治める正当後継者の血統は地下に閉じ込められてしまいます。彼女の「後見人」としての役割は「無事竜王を良い為政者に育て上げ、円滑に地上世界の統治に戻す」です。

しかし彼女は「後見人」としてあるまじき結果をたたき出します!

このように徐々に徐々に彼女はミスを繰り返していきます。

このような積み重ねが彼女をどん底にたたき落とすとも知らずに。

そして時はDQⅡの時代。彼女は最大級のミスを犯します。

それはハーゴンを野放しにすること!

邪神復活なんて企んでいる組織があそこまで大きくなるのを放置するなんて…

うっかり見落としてたにせよ何にしろ、うかつすぎますよ。しかも今回彼女は封印されているわけでもなんでもありません。なのに、ほっておく!

Ⅲのときのように温泉にでも行ってたんでしょうか?それとも、地上世界に遊びにでも行っていたのでしょうか?

とにかく、ハーゴンの勢力が台頭する前につぶせばいいのにやらなかった。

見事なまでの後手後手です。さすがです。

そして舞台はDQ6。このとき彼女は海の中に閉じこもっています。なぜでしょう?

私は「罰」かな、と思います。

思い出してください。DQ2の竜王一族を。彼らと同様の罰を受けていると考えるんです。

世界を治める「マスタードラゴン」、これを漢字にすると「竜の主」でしょうか?意訳すると「竜王」とも読めなくはないんですよね。

つまり度重なるミスに憤慨した竜王一族は立ち上がった!そしてルビス様を更迭してあらたな体制を気付き上げた。と、いうような裏の流れを想像することが可能なのです。

ちなみにマスタードラゴンはルビス様とは違い武闘派です。Ⅴのときといい、積極的に事件解決に尽力してくれるナイスガイです。

…みたいなネタを考えていました。

 

 

ちなみに「バージョンB」は「ルビス陰謀説」。私としてはこちらを押します。

つまりⅢのスタートからルビス様の陰謀だったという説。

竜の女王が弱る時を狙って闇の勢力を開放し、自分は閉じこもる。ふえは見つかりやすい所に置いておいて、時の流れに身を任せる。ルビス様はそういう「賭け」が好きみたいで、Ⅵでも同様なことをしています。彼女はいつも自分の手を汚しません。常に「誰か」を利用していく。かっこいい悪役です。「流れに身を任せる」器量があるのでしょう。自分を「ベット」することのできる度量の広さ、しびれます!

またそのようにして地上世界の管理の「後見人」を手に入れた彼女は続いて「正当後継者竜王」の追い落としにかかります。何を吹き込んだかは知りませんが(ひかりのたまをだしにしたのかもしれませんね)地下世界、それもラダトーム周辺という限定された地域で暴れさせます。

その間に見つけておいた「ロトの子孫」を派遣(また自分では手を出しません)して、「竜王退治」。この不祥事を盾にして竜王を幽閉。見事に自分の手に地上と地下の両方を手にします。

地下世界はルビス様が作ったそうなので、もしかしたら彼女は元々地上がほしかったのかもしれません。しかしそこには世界を治める「竜」の一族がいた。だから代替物として地下世界を作ったんです。

しかし、それでもあきらめきれなかった!

そのためにいろいろ画策してついに彼女は地上を手に入れました。

しかし残念なことにその数百年後地下では邪神復活が謳われます。彼女はもともと地上がほしかったのでちかには目を向けていません。チャンスだったんです(*5)。

そこで後半にちょっとだけ出てきて、手助けをし、シドー復活を阻止しようとします。

そしてⅣⅤⅥの天空シリーズです。この中でルビス様はⅥにしか出てきません。

なんででしょう?

それはマスタードラゴンとの政権争いに敗北したからなんです。ルビス様、いやルビスはあらゆるところでⅠやⅡのような悪だくみをしたのでしょう。それは長い恐怖政治の一つだったのかもしれません。

そこで立ち上がったのがナイスガイのマスタードラゴン!

かれはルビスの脅威にさらされている世界の救済のために立ち上がります。地道に仲間を集め、ルビスの封印を考え、もし「精霊」や「竜」の住む上位世界があるならかれはそこでルビスの悪状を糾弾したのかもしれません。

そして結果ルビスは更迭、マスタードラゴン政権奪取。

彼はルビスとは違います。事件が起これば積極的に自分でも手を出します。事件解決のためなら乗り物にだろうがなんだろうがなるのです。

そのようにして彼は着実に勢力基盤を作り上げていったのです。

って説。

個人的にはこちらの方が通りがいいんですよね。

ⅠⅡⅢなんて、要は事件の解決編ととらえられるんですよ。Ⅰで犯罪を起こして、Ⅱでその結果を提示、Ⅲで事件の発端を説明。まともにドラゴンが出なくても「ドラゴン」クエスト、つまり「ドラゴン」というキーワードで世界の裏にある事件を把握していく「探求の旅」ともとらえることができます。

ドラクエⅠ~Ⅷはかなり昔にやったから、記憶があいまいで詰め切れてない部分もあるけどこういう風にも考えられるよね、って話です。

で、あなたならルビス様をどう判断しますか?

*1ふえを落としたのはもしかしたら帰りの途中という可能性もある。あるいはさらわれる際に暴れたせいで落したのかもしれない。とにかく重要なのは「ルビスを復活させるふえは敵勢力にない」「落ちていたのは温泉のすぐそば」であることだ。また突然世界が暗黒に覆われたことを考えると、「ルビスは身を守るに十分な戦力を持っていなかった」だろうということもポイント。

*2「いやっ!ルビス様はお忍びで温泉なんかには行ってないっ!ちゃんと世界を統治するための城に居たんだっ!」という意見もあり得るかもしれません。

ですが、それはそれで問題です。ちゃんと防衛してあるはずの城を突然奪われるって…オイオイ、どんだけ無能な防衛力なんだよ!?という突っ込みを免れえません。もし*3のような仮説が正しいとしたら尚更です。

*3そう考えると「闇は仄暗い地下からやってくる」みたいなものなのかもしれません。地下を治める者の役割には「闇の進行を食い止める」もあるという想像が可能です。…それなのに、ルビスは軽率な行動をしたのか…。ex 一人(もしくは十分ではない戦力)で温泉に行くとか、防衛の準備を怠っていたとか(*2)

*4統治の教育を考慮に入れると、竜の女王の死亡は「予想外」の出来事であることがうかがえる。

*5あるいは適当に「自分をアピール」することで自分のありがたさを人間に分からせるための自作自演とも考えられる

2009年11月14日 (土)

やっぱり微妙だ

「最近ラノベが面白くないような気がするな~」という思いつきで記事を書いてみたけど、結構どっちらけになってしまった気がする。もう少し頭の中をまとめて伝えられるようにならないといけないな。

部分部分では考えてみると面白い所がある気がするんだけど…

まぁ、次からラノベやマンガのレビューに戻りましょうか。

ラノベに飽きを覚える件について(2)

前回の記事からかなり時間が経っているので忘れた方もいるのではないかと思います。一応続きものなので(1)の方の記事は↓ここにあります。良ければ見てみてください。

ラノベに飽きを覚える件について→ http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-64e3.html

飽きを覚える―慣れとは―

それでは徐々に本題に入っていきたいかと思います。私はこの記事の前書きでラノベが面白く感じられない理由に「慣れ」があるのではないかと言われたことを書いた。

では「慣れ」とは一体どういうものなのだろうか。

もちろん「慣れ」を体験したことのないものはいないだろう。自転車・車の運転においても「慣れ」とは重要な要素を示す。初心者が自動車事故を起こすのは車の運転に「慣れてきたころ」だというのはよく聞く話だ(つまりわき見運転)。ここで「慣れる」とはどういうことかを辞書から引いてみよう。

「なれる(慣れる・馴れる)」

  1. たびたび経験した結果、当たり前のこととして受けとめるようになる。なれっこになる。
  2. 何度も経験してうまくできるようになる。習熟する。
  3. 接触する機会が多く、心理的な隔たり・距離感がなくなる。
    (ア) 人に親しみをもつようになる。
    (イ) 獣・鳥などが人に対して警戒心や敵愾心(てきがいしん)をもたなくなる。
  4. 体になじんで具合がよくなる。
  5. 動詞の連用形や名詞の下に付いて、何度も経験して具合がよくなる意を表す。
  6. なじんで打ち解ける。
  7. 着物が着古されてよれよれになる。

(yahoo辞書の大辞林より)

車の例の「慣れ」で言うなら1と2の複合であろう。事故の原因は1の結果注意力が散漫になったからだ。

では今回「ラノベに飽きを覚える」際に要因となるであろう「慣れ」とは一体どのことを言っているのだろうか。いや、それ以前に本当に「慣れ」が本質的な原因なのだろうか。

つい今ほど車事故の原因を話した時を考えてほしい。事故の原因は「慣れ」ではなく「注意力散漫」である。自動車の運転に「慣れて」余裕ができ、その結果「車の運転以外のことをやってしまった」ことが原因となる。

このとき事故の本質的要因は「慣れ」にはない。「慣れ」は事故を引き起こす原因を誘発するものにすぎない。

ならば「ラノベに飽きを覚える」際に要因として考えられる「慣れ」も同じような作用があるのではないだろうか。

何故こんなことを考えたかというと、上記の「慣れ」という単語の意味を見ても「飽きる」直接的要因とは考えられなかったからだ。この理由まで説明すると長くなるのでここでは省こう。

とにかく、「慣れ」が直接的要因ではないとするならば原因は一体何なのだろうか。「慣れ」は一体何を誘発しているのか。

そのことについて次は考えてみる。

慣れの生み出すもの

このことを書く前にふとした思いつきを書いてみることとする。それは「慣れ」と「飽き」の関連である。

私たちは「慣れ」と「飽き」を常に関連させているように思うし、実際そういう側面もある。「飽きる」という作用は「慣れる」という過程を道程に含む場合が多い(*1)。

そのことを示すのは「~しあきる」という表現であろう。「味にあきる」というのは「味に慣れる」という過程の果てにある。このような例は私たちの実生活の至る所に見つけられる。

とはいえ、「慣れる」ことと「飽きる」ことはやはり別物である。「慣れる」ほど時間をかけなくても「飽きる」ことはあるし、「慣れる」ほど面白くなり「飽き」が来ないということもある。

このように同じ「慣れる」「飽きる」なのに違うことが起こるのは、言葉の持つ「広がり」に由来する差異だろう。その点を解消するには先ほどの辞書のように言葉を分割して、その広がりの区画をさらに細分化していくことが必要だ。しかしそれをやっていっても分かち難い部分は出てくるに違いなく、そのことを考慮しながら言葉にあたっていくことが求められるのではないかと思う。

ちなみに飽きるということについてネットにあたってみると次のような言葉があった

「飽きるとは、受け取れる情報が尽きること。
あるいは、発信している情報を受け取ろうとする
動機が受け手のほうになくなること」
という、説明ができると気づいた。
ついでに、めずらしく辞書ではどうなっているのか
調べようと『新解さん』にお訊ねした。
『十分満足する(して、
それ以上続けることがいやになる)』

(一部抜粋 元URLはhttp://www.1101.com/darling_column/archive/1_0710.html

これは考えてみると優秀な表現であるように思う。

「慣れ」か否かにかかわらず、「飽きる」という作用は「情報が尽きる。もしくは情報を受け取る動機がなくなる」ことだと説明できる。

このことを考えてみると「飽きる」というのは2パターンは考えられることとなる。

すなわち

  1. もう情報を受け取ろうとする動機が情報の受け手の方にないのに情報を受け取り続けているため起こる現象
  2. 受け取れる情報自体が尽きてしまっているため起こる現象

この際1については省くこととする。なぜなら情報の受け手に動機がない以上探るべきはその原因に他ならず、それは個別の事象のためここでは対処しきれないからだ。しかし、これは私の想像ではあるが、1のような場合は「ラノベを読む」ということ自体が停止してしまい「ラノベに飽きて面白く感じられない、どうしよう」などという疑問は生まれないのではないかと思う。それは内的動機が枯渇してしまった以上「本を読む」という意思自体が起こらないからだ。これは本やゲームを前にして「やる気が起きない」ため遠ざかってしまう一つの原因ではないかと思う。このような場合自発的に作品に手を出すことはない。そのため「読む」ということ自体をしない。「…確かに面白いけど」という感想が出ないのではないかと思う。

そこで2について考えていこう。

しかしこれもこのままでは不十分であるような気がする。なぜなら小説という媒体に置いて受け取れる情報が尽きてしまうという状態はまずない。特にラノベはその範囲をファンタジー・ミステリー・スポーツなど現存する多くのジャンルを内包している。これらすべての情報を得てしまい情報が「尽きてしまう」読者はいないのではないだろうか。

そこで、決して十分ではないが、2の文章を一部変更してみることとしよう。

  2'.  (読者側が)受け取れる情報が尽きてしまった(と判断する、もしくは情報の限界を見定めてしまった)ため起こる現象

これは物語を読む際に読み手が物語に何を求めるかに由来することである(求める情報の種類が違う)。ただこれはなんだかんだで一つの形におさまりがつくだろう。すなわち「楽しむ」ためである。それを「わくわく・どきどきするため」とか「研究して人間をしるため」であろうが、「楽しむ」というシンプルな形が原型にあるように思う(*2)。

ここで2'をもう少し変形して、今回における「飽きる」ということばの定義を表すと次のようなものであるということが導かれる。

「飽き」

  • (読者側が)受け取れる情報が尽きてしまった(と判断する、もしくは情報の限界を見定めてしまった)ため起こる現象であり、そのため読者が物語を読む際に感じる「楽しさ」を減少・もしくは消失させるもの

ではこの項の話に戻ろう。

慣れの生み出すものというと、それは慣れの過程の果てにある現象を考えるのがいい。私は今回の場合、それは「飽き」にいきつくと考えている(テーマが「ラノベに飽きを覚える件について」なので当たり前だが)。

ただ今回の場合、「慣れた」結果、なぜ「飽きる」のか、そしてそのことがなぜ「ラノベを面白く感じられなくさせる」のかを考えている。その仮説の一つを考えているのである。たとえ的外れなものであろうと何か考えるに値するものがある可能性があるかもしれない。そのようなことを思ってなぜ最近面白いはずのラノベが面白く感じられなくなったのか考えてみようかということになった。

で、慣れの生み出すものの話にもう一度戻る。

ちょっと前にも書いたが慣れと飽きは似ている流れにあるが、別物である。そこで慣れから飽きに移行するためにはもう一段階、ステップとも呼べないような微妙なステップが挟まっているのではないかと考えた。私はそれを「流れに乗ること」と表現する。あるいは「キャラクターを理解すること」「世界を把握すること」とよんでもいいかもしれない。すなわち物語に「馴れる」ということである。

これは物語を読む者なら誰でも経験があることではないかと思う。最初は「なんだこの世界!?」というべきものが当たり前のように受け入れられる。最初の方で述べた「慣れる」の辞書的意味の1の項目に該当する。この「慣れる」の終着点の一つとしての「馴れる」が「慣れ」と「飽き」の境にあるのではないか。

ここでなぜ「馴れる」を「慣れる」と区別するのかというと、そのニュアンスに若干の差異を与えたいからだ。私の言う「馴れる」はその世界を当たり前の物として受け入れるだけでなく世界の流れ、物語の展開自体を無意識に把握する所まで行きついた状態を意図しているからだ。

つまり「馴れる」とは、その世界を当たり前と思うだけでなく、そのジャンルの「空気」に馴染むという意味合いを付加している。

このことを考える際を鈴宮ハルヒに対するキョンを考えてみるとわかる。最初は彼女の突飛な物言いに驚いていた。続いて彼女の突飛な物言いにあまり驚かなくなる、「またか」という反応、これが「慣れる」である。対して次に何を言うか、何かこのタイミングで驚くことを言うだろうと分かるようになること、「そろそろ来ると思った。また妙なことを言い出した」、これが「馴れる」である。

このことを前提にして次の話に持っていくこととする。

*1このことを説明した文章に以下のようなものがあった

つまり、飽きる事とは、動物が持つ本能が環境によって変化したものと考えられるのです。

飽きる事とは、刺激に慣れる事と言い換えることが出来ます。
刺激に慣れる事は、本能である適応能力に根ざすものだと考えられます。
つまり、生物は刺激を与えられ続けると、それを刺激とは認識しなくなるのです。
これは、暗い所から明るい所へ移動した場合、最初は眩しいと感じ光に次第に慣れていくことから分かります。
我々が飽きるとき、これと同様のメカニズムが働いていると考えられます。
しかし、我々は日光に慣れる事はあっても飽きる事はありません。
従って、飽きる事には、刺激に慣れる事以外の要因が必要となるのです。
私はその要因を飢えだと考えます。

(一部抜粋 元URL http://www.melma.com/backnumber_162629_3887284/

*2中には聖書や口伝のように「伝える・教わる」こと自体を目的としたものもあるが、今回はラノベをはじめとした一般大衆娯楽的な物語に限定して話をしている。またこれも「読み手」の目的であり、「書き手」の目的とは必ずしも一致しない

本題―なぜ最近ラノベが面白く感じられないのか(仮説)―

え~、やっと本題です。正直このようなだらだらした文章(しかも実りのあるかは謎)をここまで読んでくれた方には感謝です。では最後を書いていきましょう。

前項に置いて私は「馴れる」ということを説明しました。

また前回の記事に置いて「キャラクター」について話をしました。ライトノベルの変遷における話です。今回はそこの話の拡張から「馴れる」と組み合わせて考えられればいいかと思います。

「キャラクター」の言及において私は新城カズマの言葉を引用しました。そのセリフがこれです。

「物語とは(ほぼ)キャラクターであり、キャラクターとは(ほぼ)物語である」

また別のところから彼の言葉を持ってきましょう。

「ドラマの結論から人物が規定されるのではなく、キャラクターの性質がドラマ(の可能性の束)に優先していく」

(『ライトノベル「超」入門 135ページ)(ちなみに私は『ライトノベル研究序説』よりこの言葉を知る)

これらは現在のライトノベルの大勢を示している言葉のように思います。とはいえ、これら以外の形にもライトノベルは存在します。だからこそ新城カズマも(ほぼ)という言葉をつけたのでしょうし、キャラクターだけで物語は構成しきれない部分もあるのではないかと思います。

しかし前回の記事における「読み手の理解を容易にするためのカスタマイズ」を考えてみてください。

「キャラクター≒物語」という図式はライトノベルが読者を獲得するために意図的に取り込んできた技術であるような気がします。

それを端的に表しているのが新城カズマの言葉です。

現在では物語がキャラクターを規定するのではなく、キャラクターが物語を規定するようになってきています。物語という「世界」はキャラクターの「内」に取り込まれ、従来の関係とは強く逆転してしまった物語がラノベと呼ぶことも可能でしょう。私はこの流れの果てに「セカイ系」があるといえるのかもしれないと考えます。

「社会・宗教・歴史」などといった主人公たちの外部にある要因を飛び越えて主人公たちの内面・行動とセカイが直結したリンクを持っている。これはある意味究極なまでに読み手に優しい形といえる。

複雑な外部要因の理解を必要としないで物語の理解が可能になるからである。読み手はキャラクターを理解すればよく、キャラクターを理解しきったときにはセカイそのものを理解しきったことになる。これはテクスト論と似た理屈が可能だということだ。「物語の理解はすべてその原本のみでよい」という形式である。

読み手たる私たちは外部の辞書に当たらなければその物語の世界観が理解できないということはない。なぜなら必要なことは「キャラクターの内部」に詰まっているからである。

これは読み手に物語の強度を求めない方向に進んでいった結果の一つといえるかもしれない。

しかし、この考えがある程度の妥当性を備えうると仮定するならば、そこに「ラノベに飽きを覚える」理由があるのではないのかと思う。様々なジャンルを内包した「ラノベ」が「ラノベ」として飽きを覚える理由。それがそこにあるかもしれないという仮説だ。

私の考えとしては、新城カズマの先ほどの言葉がそこを良く説明しているのではないかと思う。

「ドラマの結論から人物が規定されるのではなく、キャラクターの性質がドラマ(の可能性の束)に優先していく」

すなわち物語の先の展開は「キャラクターの外部」にあるのではなく、「キャラクターの内部」にあるということだ。これは読者に「先読み」を容易にする作用がある。考えてみてほしい。物語の予測に必要な情報は「キャラクター」の中にあるのだ。

これは行動のみを指示しているのではない。「馴れる」につれてその範囲は広がっていく。私は「馴れる」という説明をする際に「流れ・線」という趣旨の言葉で話をした。このことは「キャラクターの運命」に馴れるという意味合いも含みたくて使った言葉である。人の人生は点ではなく線である。物語にベクトルが存在する(時間の流れとは無関係ではないが、一致するともいえない)とでもいえばいいのかもしれない。

これは「キャラクタライズ化」ともリンクしたことで、「ポニーテール+金髪」=「ツンデレ」のような区分から物語の方向性が規定されやすいことから、(意識的ではなく)その物語の流れを悟ってしまうこととがあるのではないだろうかということだ。

心理学用語では「観念連合」という心理作用が機械的(必然的)に行われてしまう。そのため「物語自体は面白いはずなのに面白く感じられない。『飽きた』のかな?」ということが起こっているのではないか。

つまり「ツンデレ」というタグの物語類型を身のうちに重ねていくことで読んでもいない作品の「未来」を予測できるようになってしまう。それは意識的に「行わない」ということはできず、機械的に「行われてしまう」ものなのではないか。

同様に「ラノベ」というタグの流れに属することで「ラノベに飽きてしまう」。それはその作品の未来が予測できてしまうからではないか。

このことをある程度意識的に行っている作品に「神のみぞ知るセカイ」がある。彼は物語類型を意識的に集めることでその人間の物語(過去・未来)を予測する。これと似た作用が行われているのではないか、そしてそれが「飽き」の原因の一端にあるのではないかとふと思ったのでこんな長い文章を書きました(マル)。

追伸

ちょっと書き忘れた部分(もしくは拾い忘れている伏線)が多数あるかもしれないのでそのときは書き足します。たぶん「追記」の形になると思う。

追伸2

今さっと見返したんですが、理屈の流れで足りない(変な)部分があるような気がします。直せるようなら直します。まぁ、とにかく記事として上げておきます。

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2009年11月 8日 (日)

…おいおい

スカイプで11時間チョイ話をしてました(笑)

昨夜の10時に会話を始めて終わったのが朝の9時30分です。

スカイプの魔力ってすごいですよね。なんとなくだらだらしながらでも続けられるんですよ。そしてそれだけの時間話し続けていたウチラって(笑)

みなさんスカイプには気をつけましょう。ご利用は計画的に。

ちなみに計算すると一週間って168時間です、私たちはそのうちの6%くらい話してたことになります。これを長いと思うか短いと思うか、判断は任せます。

2009年11月 7日 (土)

幻想の在処は現実

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届きました。現在聞いています。やはりいい出来ですね。一般発売は12月なので、「みーまー」ファンの方はチェック。

ちなみに音楽自体の出来も相変わらずよいですよ。

http://www.voltagenation.com/mima/(←HPに飛べます。よければデモ音楽聴いてみてください)

Music 嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん イメージアルバム 幻想の在処は現実

アーティスト:bermei.inazawa;b;茶太;藤原祐規;伊瀬茉莉也
販売元:Voltage of Imagination
発売日:2009/12/24
Amazon.co.jpで詳細を確認する

BLACK LAGOON 通し読みの感想(略)

BLACK LAGOON(1) 本体価格 533円 (税込 560 円) 送料無料

この間やっとBLACK LAGOONの既刊手に入れて読み終えました。いや~、改めてみるとその内容のなんと濃いことか。九巻まで読むのにかなり時間をとられてしまった。

9巻あたりのきちんとした感想などは改めて書く気なので今回は簡単に感想を用意した。

腰を据えてこの本を読んだのは初めてだった(いつもコンビニでの立ち読み)。すると1巻、むしろ1話に大きな疑問が残った。だから今回の通し読みはその点を意識して読んだ。

その疑問とは、なぜロックは変貌したのか、である。1話を見ればわかるがロックは当初岡島緑朗(ろくろう)だった。その姿はいわゆる一般的な日本人であり、実に情けなく書かれている。ロックという名はのちに仲間となるダッチが彼につけたあだ名であり、彼はそれを船の中での人質状態で与えられる。しかしこの名を与えられた時彼はいまだに岡島緑朗でありロックではなかった。かれが岡島緑朗からロックに代わるその瞬間はいつだったのか。仮説としてはそれはおそらくダッチに裏拳を見舞われた時である。ダッチに殴られる直前ラグーン号はヘリに狙われていた。彼はそれに慌てふためき騒いでいた。それは平和ボケした日本人のテンプレートのような行動である。しかしその騒ぎにいらだちを覚えたダッチが彼を殴り飛ばしてからかれは変わる。まるでハリウッド映画の主人公が思いつくような突飛な起死回生の一手を思いつく。そうして危機を脱したラグーン商会のメンバーは取引先にたどり着いた。最後のところでロックは日本に帰るのをやめ、本格的にロックとして生きることとなる。

このような流れの中でロックがなぜ変貌したのかがわからなかった。直前まで彼は日本人のテンプレのような行動をとっていた。それがなぜ直後にハードボイルドに変わるのか?

これはまだ答えの出ない問いである。しかしいくつかヒントがあるように思う3つほど仮説を出してみようか。

1.殴られて頭がいかれた

 これは特に解説はいらないだろう。もう「そういう設定」として受け入れるしかない

2.彼は元々「そう」だった

 この場合元々岡島緑朗はロックであった。という結論に至る。月姫の志貴の「生まれながらの殺人者」ではないが、これもそういう設定として受け入れるべき事態だ。彼は状況に適応していただけ。根っからの「悪党(?)」であり、ちょうど危険を回避するためにアイディアを出しただけで変貌はしてない。

3.化学反応

 これが一番物語的にはベターな意見である。人と人が知り合って化学反応を起こして変化する。物語の登場人物が一人ではない以上互いに影響を及ぼしあうものだ。そもそも元来「物語」とは変化を描くものである。Aという存在がPという存在に遭遇・経験することでA’となる。これが物語の基本である。

 

で、おそらく3番ではないかという予想がある(2番も捨てがたい)。しかし事前にそれを示唆する伏線はなかった。そのためその原因が何かを特定することはできなかった。それを求めるために物語を読み進めている。1話になければ1巻、それでもなければ他の巻から理由を探し求めていた。

ヒントはところどころにあると思う。2巻のレヴィとのケンカ、4巻以降の日本編。しかしはっきり表れたのは7巻後半の一言ではないかと思う。

お前がもし銃だとすればー俺は弾丸だ。

弾丸は拳銃に装てんされたままならただの弾丸である。鉛でも銀でもかまわない。ただの「モノ」だ。しかし銃の撃鉄が挙げられ、引き金を引かれてしまったらそれは一瞬で凶器(狂気)にかわる。変貌は一瞬だ。そこにあるだけの「モノ」からたやすく人の体を貫ける「モノ」に変化してしまえる。

これがロックが伏線もなく変貌した理由なのかもしれない。そんな風に思った。

簡単に今回はここで終わり。

追記

オマージュがいっぱいで、知識を仕入れてからみるとかなり面白い。「アルミホイルで殺人電波を防ぐ」…なるほどね、やったことはないけどこんなところに出てくるんだアレ。

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ラノベに飽きを覚える件について

最近ライトノベルを読んでも以前ほど感動を覚えなくなったように思う。このことについて少し考えてみたいかと思う。

ちなみに以前この趣旨のことについて知り合いと話をした。その時の話題は「ラノベが以前より面白くなくなった」というテーマだった。その時は「慣れ」が原因ではないかという結論に至った。ラノベは以前と変わらずに”面白い“。もし面白くなく感じるならそれは一つ(ラノベ・本を読む)のことをやりすぎてしまった、つまり”慣れ”が原因だろうというのだ。それは確かに一理ある。そのことも踏まえて次の仮説を考えてみた。

仮説―ラノベが面白く感じられなくなった理由―

ライトノベル

まずラノベが面白くなく感じる理由に入る前に「ライトノベル」そのものについて考えてみたいと思う。現在ライトノベルというジャンルは多岐にわたっている。ライトノベルはその当初は今のように広範な範囲にわたってはいなかった。最初期にある「ライトノベル」の代表格は「スレイヤーズ」であろう(あくまで暫定的ではあるが)。かつて何度もアニメ化、マンガ化、映画化した作品である。その後電撃文庫や角川スニーカー文庫(スニーカー文庫はスレイヤーズより先にありました)が誕生し、「灼眼のシャナ」や「涼宮ハルヒ」をはじめとしたメディアミックスの怪物が生み出される。この記事はライトノベルの歴史をたどる目的で書かれていないので、細かいことについては別の本なり研究に譲ろう。とにかくそのような過程の果てライトノベルは拡大を続けてきた。現在では「ライトノベル」向けのレーベルで生み出されたわけではない作品も「ライトノベル」というカテゴリに組み込まれている。森博嗣などは講談社から作品を出しているが、「ラノベ作家」と分類されうる作家である(西尾維新はすでにラノベ作家といってもいいだろう、というかむしろそう考えてほしいそうだ)。またライトノベルレーベル出身の作家が純文学で作品を発表するなど、ライトノベルと一般小説の垣根は以前より薄くなっていると言えるのかもしれない。

とにかくここで言いたいのは、ライトノベルとはレーベルや作家で決まるものというより、読者が「そう」思うか否かに依拠している側面があるのだろうということである。

では何が読者にその作品を「ラノベ」だと感じさせるのか?これは様々な要素がからんでいるため一概にいうことは出来ない。ライトノベルをあまり読まない友人から「ライトノベルの定義を教えてくれ」といわれることがたまにある。しかしそれは難しいことではないかと思う。ライトノベルとは様々な要素に支えられた作品である。アニメ(マンガ)画、文体、キャラクターの”立ち”の強さ、メディアミックスの度合い、物語の“あり得なさ”(ファンタジー要素とも言えるかも)、あるいは購買層などもあるかもしれない。

ちょっと図は用意できてないので想像してもらいたい。上記にならって七角形(*1)である(うわ~、微妙な形)。そしてその各頂点はキャラクター、販売レーベル、画、物語の性質(形)、メディアミックス、読みやすさ、購買層などと分類されている。これらの項目をどの程度満たしているかでライトノベルの「度合い」が決まると考えてもらいたい。

そう。「ライトノベル」には明確な区切りはないと思ってもらってもいいかもしれない。どのような小説だとて「ライトノベル」と分類される要素を備えている。吉川栄治のキャラクターに「萌えた」ならそれは「ライトノベル」となる素養があると判断できるといってもいい。これはRPGの「レベル」と同じ概念である。レベル1の「ライトノベル」もあればレベル50の「ライトノベル」もある。これは「ミステリー小説」や「純文学」も同様に考えられる。それらの「度合い」の兼ね合いの結果各読者がその作品を「ライトノベル」「純文学」「ラノベ風のミステリー」「ミステリーを題材にしたラノベ」という風に分類する。

これが私の考えるライトノベルというものである。

「度合い」であるのでそれは偏りを持っているものもある。たとえば先述の西尾維新などはその代表であろう。彼の作品がラノベと認識される大きな要因にその「キャラクターの強さ」がある。現在では「化物語」がメディアミックスされているからその比率も変わったが、かつて講談社から本を出した当初の西尾維新は先ほどの七角形のグラフにおいて「キャラクター」欄のみが振りきれていた。その結果西尾維新の作品は「ライトノベル」として強く受け入れられた(まぁ、読みやすさや画、購買層などもずいぶん満たしているような気がするが)。

これらのことを理解してもらったうえで今度は上記項目の「読みやすさ」と「キャラクター」、そして「物語」に意識を絞って続きを書いていきたいと思う。

*1 ライトノベルの特徴を区分する際に細かい検証はしていない。そのためホントは八角形かもしれないし五角形かもしれない。あくまで私の思いつきで区分した。もしこの部分を厳密に検証するなら、複数の人間で「ライトノベル」の特徴をあぶり出す作業が必要ではないかと思う。

ライトノベル(2)-その変遷の一つ―

もうすこしこの部分について書く必要がある。ここでいうのは数行上の「読みやすさ」「キャラクター」「物語」に関する部分である。

さて、ライトノベルの一般文学などからの違いの最たるものは「キャラクター」にある場合が大きい。もちろんそれに該当しない作品もあるだろう(パッとは思い浮かばないが、思いついたら後に記述する)。しかし「ライトノベル」といえば「キャラクターの強さ」というのはやはり代表的な構図といえる。近年の「純文学のラノベ化」などもここを指して言っている場合が多い気がする(そこに意識的か無意識的なのかは分からないが)。

そこで思い至るのは「ライトノベル」≒「キャラクター文学」という図式である。この各文学界の垣根が薄くなった現在ではそれほど意識しないことかもしれないが、やはりライトノベルをライトノベルたらしめている重要要素は「キャラクター」であろう。それを表す言葉をラノベ作家新城カズマも示している。

「…物語とは(ほぼ)キャラクターであり、キャラクターとは(ほぼ)物語である」

(物語工学論 角川学芸出版 p168他より)

この言葉は上記の図式を端的に表している言葉といえる。

これは私の印象で申し訳ない(つまり調べてません)が、これは近年急速に増えてきた考え方ではないかと思う。ライトノベルが登場する前の時代の作品は「物語のためにキャラクターが存在する」ように作られていたのではないか(例外はあります)。作品のテーマを描くために舞台が選ばれ、登場人物が選ばれて物語が作られている印象を受ける。

石原千秋著の『読者はどこにいるのか』で面白いことが書いてあった。そこでは現代と昔の違いとして、「強度」が紹介されている。石原千秋氏曰く「三島由紀夫は本の中で分からない言葉が出たら辞書を引いて言葉の意味を確認してから本に立ち返るのが望ましいという趣旨の発言をしている」のに対し、現在ではそれは望むことのできないだろうという。たとえば「鹽」という字が小説内で出てもわざわざそれを辞書で調べてから読書に戻る読者は現代では少ないだろう。またポトスライムと言われてそれが観葉植物であることを知っているものはそう多くあるまい。そのため書き手の方はそのことを考慮して作品を作るようになる(強いられる)。前者の例なら普通に読めるように「ルビ」を振ったり、「塩」というように誰もが読めるような漢字を使うようになる。また後者では単に「ポトスライム」と書くのではなく「観葉植物のポトスライム」などと書くのが現代のスタンダードになりつつある。つまり昔のように「読者に分からない単語を調べさせる」ほどの「強度」は現在の文学にはない。「書き手」は「読み手」の「標準」を意識して物語を描くことが要求される時代になっている(*1)。

私はこのような変遷が純文学のライトノベル化等と呼ばれる現象の原因の一つなのではないかと考えている。

今でもそうだが、元々ライトノベルは若者向けの文学、すなわちティーンエイジ文学という使命を背負って育まれてきた。対象年齢は10代である。しかし10代といっても若者の一年というのは大きな差がある。12歳の少年に「禁色」を渡しても理解は難しいだろう。対して18歳なら多少なりとも作品の面白さを感じ取ることができる(あくまで一般論としてだが)。10代の青少年を対象とした文学である以上「ライトノベル」という文学は対象の標準を意識してカスタマイズされていったと考えることができる。

ここで物語の形が「文学」から「ライトノベル」に移行する一つの大きな節目があったのかもしれない。

続いて「読みやすさ」について簡単に述べていこう。最初に言っておくが、「読みやすい」=「文章が上手い」とは限らない(もちろん≒となるであろうことは否定しない)。それが何故かというと、「読みやすさ」を規定するのは「文章力」だけではないからだ。「物語のストーリー」「分量」など様々な要因がやはり絡んでくる。

ちょっと想像をしてみてほしい。「スレイヤーズ」「魔術師オーフェン」「BBB」「とある魔術の禁書目録」など長編とサイドストーリー(スレイヤーズでいうスペシャルのこと。もしくはSSなどとも表現する)の2つの支流がある作品のことを。多くの場合は長編は重くて長い作品で、サイドストーリーはギャグテイスト中心の短編の連なりとなっている。これらのうちでどちらが読みやすいだろうか。多くの場合はサイドストーリーの方に票が上がるだろうと思う。それはサイドストーリーが一つの大きなテーマを前提として物語が作られていることが少なく、短編ですぐ読め、馬鹿をやっている主人公たちを笑っていられるからだ。

そしてこの「読みやすさ」も「ライトノベル」は「軽く」した。そのような方法で持って読者層の「間口」を広げていった。

同様の理屈で持って「物語」もライトノベル風にカスタマイズされる。

すべては「読み手」を意識してのカスタマイズである。

ちょうどいいので先ほど挙げた新城カズマの言葉を思い出してほしい。

「…物語とは(ほぼ)キャラクターであり、キャラクターとは(ほぼ)物語である」

これもその「カスタマイズ」の一つの成果である。このような過程を経て今風の「ライトノベル」に近づいてきたのではないか。そのようなことを想像する。

また、この新城カズマのことば、すなわち「ライトノベル」≒「キャラクター文学」の図式をもう一度考えてみれば、「キャラクター」が「ライトノベル」のなかでどれほど重要な位置にいるか考えることができる。

ここで先ほどの七角形の「ライトノベル」の「度合い」表(仮)に補足を付け加えることとする。すなわちキャラクター、販売レーベル、画、物語の性質(形)、メディアミックス、読みやすさ、購買層の項目のうち「キャラクター」を赤字にしてもらいたいのです。以下に手書きの図を載せました。一応こんな感じであう。(スイマセン。下手です。誰か八角形や十二角形の分類を考えてほしい。するとコンピュータでも書きやすい…はず)。

Img058

なぜ色を変えるのかというと、「ライトノベル」における「キャラクター」の特別な位置づけを表すためのものです。

ちなみにこれが「ミステリー」なら「トリック」などのようになります。つまりそのジャンルを規定する際の中心的な「核」を赤字でひょうげんするということである(もちろんジャンルによっては複数あったり意見が分かれるものもあるだろう。今回はこのような形を前提としていこうと思う)。

ここまでで前半の記事とさせてもらいます。

…すみません。長いので2つに分けます。

次以降ではこのことを前提にしたうえでもう少し付け加えながら、なぜ最近ライトノベルが面白く感じなくなってきたのかという仮定の本題に入っていきたいと思います。

*1 もちろんどの時代でも「書き手」は「読み手」を意識している。しかし、近年にいたるまでは「書き手」は「書きたいもの」を思うがままに書くことがある程度許されていたように思う。それは基本的に情報の供給が「書物」や「口伝」のような形に頼っていたからではないかと思う。重要な情報を手に入れるためには「読み手」が積極的に本などの情報媒体を求めなければならない。そのため「必要な本は必要としている人のところにたどりつく」という意識が形成された。そのため書き手は読者を意識しなくてもよかった。現代では情報媒体が多数あるため本は「読んでもらう」ものであるが、昔は本とはその情報を手に入れるためには「読まなければならないもの」であった。そのような背景もあり本には「強度」が存在し、書き手も今のような形で読み手を意識しなくてもよかった。

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2009年11月 6日 (金)

今日のツボ

http://marushin.press.ne.jp/3438/gallery/doraemon/

授業中にネットしてたら偶然たどり着いたサイト。二つ名がツボにハマりました。

「泉よりの使途 きれいなジャイアン」とかなぜか胸に来た。

2009年11月 5日 (木)

来訪の刻

以前宣誓で出たHさんが本日我が家に来訪します。

…やっべぇ~。片付けが微妙な状態だ。誰かヘルプ!

2009年11月 4日 (水)

…うん、いいね

『とある科学の超電磁砲』も3話まで見終わりました。ホントにいい出来です。

それにしても見ていて思ったのですが、改めて考えてみると『学園都市』は過剰な歪みを備えていますね。

『とある魔術の禁書目録』の方と連動させてみるとそれがよくわかります。なぜなら『学園』都市のはずなのにその中の地位の基準が「レベル」なんですよね。ラノベだから気にしていなかったけど、これはかなり異常なことだと思います。

元々人間の能力は多方面に伸びているものです。それが数値化できるものもあればそうでないものもあります。前者の代表格は「成績」であり、この作品中では「能力のレベル」が該当します。後者は「コミュニケーションスキル」などが挙げられます。本編主人公の上条さんなどはそこら辺が優れています(いろいろ問題のあるコミュニケーションスキルではありますが・・・)

そこでもう一回考えてみましょう。この物語は『学園』都市です。そして『科学サイド』の代表です。なのにその評価基準が「超能力のレベル」というのはやはり異質な気がします。もちろん「成績」として表せるものだからそれが評価の一因であるのは構いません。しかしその程度が異常なのです。「レベル5」が学園のトップにあり、「レベル0」が最下層。評価が一元化され過ぎています。仮にも「科学サイド」の代表なのにその評価基準に「知性」や「(超能力以外の)才能」がほとんど考慮されていません。身体能力やプログラミング技術、創造力など本来ならもてはやされるだろう「天才性」は評価基準に入っていません。その証左の一つが「レベル0の不良」や「学園の園」です。通常であるならば美琴と同様の評価を初春が受けていてもおかしくないはずです。学園都市に「七人」しかいない「レベル5」ということがこの作品ではよく語られます。しかし初春と同様のウィザード級のハッカーも学園都市の中では限られます(下手すると彼女一人だけかもしれません)(彼女が自分の姿を隠しているところにも原因はあるでしょうが)。

これらの原因はやっぱり「クロウリー」の目的にあるんでしょう、きっと。意識してみるとこの世界の「学園都市」は「学園都市」らしくありません。そんなことを思いました。

…ちなみに、こんなことを考えたのは3話で初春のハッキング技術が出たからです。彼女の「才」は使いようによっては「レベル5」に抗することが可能です。「レベル5」といえど学園のコンピュータの影響を受けている以上、初春は「レベル5(を含めた多くの能力者)」を圧倒しうる存在となる(かも)しれません。

…それなのに初春はモブキャラ扱いに近い・・

本編にキチンと絡むと上条さんたちの「ジョーカー」になりそうな気がします。

「本編でもっと初春を活躍させようよ~。きっと物語の展開早くなるぞ~」との思いからこんなことを考えました。

追記

まぁ超能力を「科学」の側に入れるのはどうかという突っ込みは置いておきましょう。

『乙嫁語り』 一度読んでみませんか

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舞台は19世紀の中央アジア。主役は女性。名はアミル。彼女は20歳でエイホン家に嫁いでくる。山を越え、馬に乗り、辿り着くはカスピ海周辺の地方都市。迎えるは大所帯。祖父母に両親、家に残った姉夫婦と4人の子供たちに居候、そしてカルルク。カルルクはアミルの夫である。年齢は12。柔らかな笑顔を持つ優しい少年。物語は彼らの出会いから始まる。一見年の差カップルのような物語が展開されるのかと思ったが、違う。時代が、場所が違うからだろう。アミルはカルルクを夫として愛情を注ぐ、カルルクは妻を温かく受け入れる。現代日本に生きる我々とは違う土地、習慣、時代の流れの中で彼らは徐々に絆を深めていく。また家族もアミルを自分たちの一員として迎え入れる。日常の何気ない、どこにでもあるだろう些細な出来事を通しながらアミルはエイホン家の中に溶け込んでいく。この物語ではそのありふれた日々がこと細やかに描かれる。その迫力、引力が物凄い。見ているだけで私たちを中央アジアの日常へと運んでしまう。子供が木彫り細工を眺めているなら、私たちもその場で木彫り細工を眺めているのだ。アミルやカルルクが馬の遠乗りに出れば、私たちは彼らが感じる風や草の匂いを同様に感じる。真に迫るとはこのようなことを言う。アミルとカルルク、そしてその家族たちが生きる世界がこの本の中には詰まっている。同じ空の下、どこかでアミルたちが生きていることを感じさせてくれるすばらしい作品だ。

…というような感じで、今回は少し文体を変えて書いてみました。それにしても『乙嫁語り』はホントに面白い。敵が出てきたり、勇者が出てくるなんてことはない。ただそこに生きる人々が描き出されているだけにすぎない。しかし、それが素晴らしく楽しい。年上だけどカルルクを大事に愛するアミル。強く優しい女性。弓を持てばウサギをとり、鹿をとる。かと思えば途端に愛らしい子供のように慌てふためいたりもする。カルルクが病気になれば幼子のようにそのそばを離れず、馬で遠乗りをすれば風のように駆けていく。そこに描かれているのはキャラクターではなく人間である。彼女の行動に魅力を感じるとするならばそれは人間の魅力である。定型化した、類型化した存在ではない彼女の中には確かな生命の息吹を感じることができる。ホント何気ない日常を描くのがうまい人なのだと思う。これは機会があったら手を出してみるのをお勧めします。激しい争いも残酷な人間もなく、ただアジアで羊や山羊と暮らす者たちのふとした日常を見ることに喜びを感じるのならば尚更です。

追記

具体的には書かないけど、アミルとカルルクのふとした時のふれあいの瞬間がすごく好き。

2009年11月 3日 (火)

『とある科学の超電磁砲』見た

いまさらですが『とある科学の超電磁砲』の壱話を見ました。っても、私にしては見るのが早いほうです。何せまだ放映中の作品に手を出すんですから(笑)

それにしても出来がいいな~。正直『とある魔術…』のアニメ版よりはるかに出来がいいぞこれ。コミック版は読んだことがあるから出来がいいのは知ってたけど、音楽と動きがあるだけでこれほど心躍る作品になるとは思わなかった。

ふとなぜ『とある魔術…』の出来は微妙(あくまで原作に比べてではあるが)で、こっちの出来はいいのか考えると、やっぱり遊びの要素が強いからだよな~。

『魔術』のほうは小説版で18巻(…あれ、私18巻読んでないぞ。発売してるんだから多分買った。おそらくどこかに放置してあると思われる)出ていて、その密度が半端ない。物語のテーマを追いかけるのでギリギリになっているから4話で一巻分とかいうハードな詰め込みが行われていて、そのため遊びの部分があまりないからだと思われる。

遊びといっても分かりづらいかもしれないので補足すると、要は何気ない日常のこと。特別な事件も起きず(登場人物的に)、友達と絡んで笑って馬鹿をする日々のこと。これがあるとないとで物語のイメージががらりと変わる。その一つが想像の余地が生まれるということがある。

物語の解決という終端を目指すストーリー展開とは違い、遊びのある作品は明確な目的がそれほど存在しない。目的らしい目的といえば『その登場人物たちがその世界で確かに生きていることを視聴者たる私たちに伝える』というものである。ある意味もっとも重要だが、物語のテーマとしては排除してもかまわない部分(と認識されやすい)である。

明確なゴールを目指すのとは異なる遊び回はそれゆえ創造(想像もしくは妄想)の対象としやすい。すぐれた作品は大概こういう『遊び』を組み込んでおり、それゆえ私たちはライトノベルやアニメといった荒唐無稽な作品に親しむ足しとしているのだと私は思う。

限られた時間、紙面で登場人物たちの「生」を支えているのは一面私たちなのだ。私たち独自の経験から『足りない』部分を『補完』する。それを上手く誘起する作品はリアリティを感じさせる作品となり、読者(視聴者)を物語に誘う。

このようなプロセスが続くことで物語を読む読者を鍛えていって次につながっていく。

そういうことで『とある科学の超電磁砲』はその「遊び」がしっかり効いていていい出来になっているな、と感じたということ。

徐々に続きを見ます。

追伸

サービスショットがいっぱいあるな~。スカートの下とか、シャワーとか、最後の「ケンカ」とか(そこで聞く噂とか)。…ああいう日常もいいな~(遠い目)。私の今日の日常とは全く違うよ(当たり前だ)。

今日の行動

だらだらしていたら一日が過ぎてしまったので、今日の行動でも書き記してみることとする。

午前6:00起床。そののち五連休を利用してこちらに来ていた母親を駅まで送る。仕事が残っているから早めに帰るとのことなので、7:30過ぎの電車に乗れるようにした。

そのあと家に戻り昨日買ってきたBLACK LAGOONの4~9巻を一気読み。あらためて読むと本の密度に驚きを覚える。これらが読み終わった時点で一時過ぎとなる。

で、暇なので県内のブック・オフ巡礼をする。せっかくの機会なので今まで行ったことのない地域に足を向けてみる。3件ほど巡ってきた。

途中で立ち寄ったことのない本屋でついに『乙嫁語り』を発見。購入。…発見するのに今日までで10件近く本屋を回った。県内最大の本屋にも置いてないから苦労した。アマゾンとかで買えばいいのはわかってんだけどね、つい意地になっちまった。ちなみに『芙蓉千里』はいまだ見つからない(笑)。これはアマゾンで買うこととしよう。

ちなみにブックオフで買ったのは

  • 文庫版 ツーリングエクスプレス10巻ぐらいまで
  • 文庫版 輝夜姫6巻ぐらいまで
  • 闇の公使 タニス・リー著
  • マジカル×ミラクル 全6巻(ゼロサムコミック)
  • ヨルムンガンド 1・2、5・6巻
  • 文庫版 デビルマン 全5巻
  • マジック★スター学園 全5巻+続巻2冊

基本的にはこんなとこ。やっとデビルマンを手に入れられて良かった。

んで、五時過ぎに帰ってから本読みながら昼寝して、飯作って、デビルマン読み終えた。

夕飯はチャーハンとさんまの塩焼き(…いや、どうでもいい情報だけど…さんまが久しぶりにうまかったんでつい)

そして今アニマックスでカイジ見ながらこれ書いてる。おそらくもう寝る。…うん、ぐーたらな日常ですね。せっかくの休みだったのにな~。まぁ、いいか。

2009年11月 2日 (月)

『秘密-TOP SECRET- (7)』 読了

 

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本屋で偶然最新刊を見つけたので買ってきた。私は事前にどんな本が発売するかなどはチェックしない人間なので、偶然このような発見があると飛び上りたいくらいに喜びます(…おかげでその月の出費がとんでもないことになることもありますが…なにせ、見つけた端から買っているんで…)

本の感想としてはまず『おもしろかった』。最初のころほどパンチ力はないけど確実に面白いのはすごいことです。QEDの加藤元浩さんもそうですが、どこをとってもおもしろいものを作れるこの人たちの作家力には感服します。

~以下7巻の感想~

 

事件について評価編

ちょっとパンチが弱いな~というのはあるけど面白いです。ただ別の巻ほど「凄み」がないのも事実です。物語の構成としてはよくまとまっているんだけど、きれいに整いすぎている感は否めません。読んでてヒヤリとさせられることはありませんでした。今回の事件が「誘拐」で「政治(公)の判断と父親(私)の判断」という現実から遠めだったのが原因でしょうか。おかげでラストのネタばらしのインパクトの弱いのが残念と言えば残念です。

 

読んでての思いつき編

いつかは向き合うだろうな~というようなネタでした。MRIが「道具」である以上このような「利用」は出てくるはずです。ただこの巻では「問題提起」が行われただけで、そこにたいする答えは提示されていませんね。むしろ出ないのではないかと思います。

このようなことは基本的には個別に対処すべき事柄であり、万事に対する明確な答えなどはないでしょう。刃物を料理の道具に使うか、殺人の道具に使うかと同根の問題です。

この問いをさらに突き詰めていくと次のような事件が想定できるのではないかとふと思いました。

人の「脳」を「見る」というMRIの性質を利用し、意図的に「別のもの」を見せるようミスリードする(事実誤認させる)事件

これは例えば、わざと幻覚症状のある薬などを利用して犯人の特定を困難にさせる、というような事件です。これは3巻末にある「現実の秘密」に書いてある出来事を意図的に引き起こす事件と同じです。

このような事例をこれから扱うかはわかりませんが、この『秘密』の世界では遅かれ早かれこのような事態に遭遇すると思います。

ちなみにこの巻ではそれ以外にいくつかのテーマが透けて見える気がします。

ひとつはこの巻特有のテーマ「人の身になって考えられるか?」(…巧い表現が思いつけなかった)。大臣と青木の対比が描かれています。個人的には「この大臣ほど14年間の絆はばっさり切り捨てられるか~?」とか思うところはあります。しかしこれは青木との対比を際立たせるため(又ラストを盛り上げるための手法)なので「仕方ないな」といったところです。

さらに上記の派生として「人の身になって考えられるっていいことなんですか?」(…もうこの調子でテーマのタイトルをつけます)。これは一巻の「鈴木」の物語からの派生ですね。人の身になって考えた結果自滅してしまう人間の物語。世の中では「人の身になって行動しなさい」という道徳がまことしやかに唱えられており、そうした行動が取れないのは「悪」という認識がある。多くの人間はそうした行動は取れないけど実はそれは必要なことなんじゃないかというアンチテーゼです。

事件には関与しないけどこれから先の物語に絡んでくるのは「青木とマキの関係」。これはラストの青木の独白からもわかるように「まだ」わからない事柄。青木がマキにどのような言葉をかければいいか見つけた時こそ『秘密』は一つの終着点に着くでしょう。

一巻でマキと青木は『出会い』、それからの巻で関係を深め、最終的にどこにたどり着くのか?(といってもこの結末は物語の構造的に「もっと仲良くなる」か「別れる」ぐらいしかありませんが・・・)

というようなことをつらつら考えていました。

2009年11月 1日 (日)

今日買ったモノ

  • 死神のキョウ(3)
  • BLACK LAGOON1~3
  • QED(34)
  • 秘密 7巻

…旅行の疲れが抜けません

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