2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
フォト

ウェブページ

無料ブログはココログ

« BGMが流れるようにしました | トップページ | ほうかご百物語5 読み終わりました »

2009年6月15日 (月)

『記号的』ということについて

吉兆さんが運営するブログ『積ん読を重ねる日々』のコメント欄において『記号的』ということについての定義を尋ねてみた。吉兆さん曰く、『ここで使用している「記号」とは、オタク的エンターテインメント(ライトノベル、アニメ、ゲーム)的な文脈に属する戯画化された個性という意味合いです。』とのことであった。具体的な事例を示してわかりやすく解説してくださってありがたいことだった。詳細については以下のリンクからとんで、http://kiicho.txt-nifty.com/tundoku/2009/06/02-6e9b.html#commentsを見ていただければ幸いかと思う。

ここでもう少し『記号的』ということについて考えてみたい。うまくまとまるかもわからないが試してみることとする。おそらく格別新しい考えは出せないとは思うが、誰かがこのことに意識を向けるきっかけになり得れば幸いと思い書く。

ここで『記号的人間』とは『人間たる無限の可能性をはぎ取られ、1つないし複数の要素に焦点を当てて戯画的にキャラクタライズされた人間』としてみよう。この前提が完全に狂っていれば的外れな考察になるが、おそらくそこまでずれたものではないと思っている。その根拠は吉兆さんの答えと私が今まで読んできた本(東浩紀著『動物化するポストモダン』ほか)にある。

現代日本のオタク社会において”キャラが立っている”ことと『記号的人間』であることには密接な関係があると私は考えている。様々な人間の可能性をはぎ取られ、カテゴライズ化された存在にひどく強い“リアル”を感じるようになってきている。(ex.ツインテール+金髪=ツンデレ系)これは上記のようなキャラクターが作品内で典型的な行動(最初は気が強いなど)をとることで「生き生きとしている」などと感じる(私を含めた)読者を見ればそう否定できないことであると思う。もちろんこの関係は=ではなく≒ではある。しかし、我々がそのように「人間たる要素をはぎ取られた人間」に「リアル」を感じるようになってきているのは恐らく事実である。

私はこの現象がこれからどのようにヒトの意識に絡んでいくのかに興味がある。もちろん「現実は現実、虚構は虚構」という状態が維持されるかもしれない。しかし、社会に深く浸透することで「現実と虚構が一部交差して」しまう可能性もあるのではないかと考える。

その場合それらがこの「社会」にどのような影響を与えるのだろうか?「人間たる可能性をはぎ取られた人間」≒「リアルな人間」を感じるようになっていくならば、「本来の可能性に満ちた人間」≒「ノンリアルな人間」たる方向性につながっていきはしないだろうか?もちろんこんな風に単純化はできないだろう(しかも論理的根拠もない)。これはあくまで“妄想”の領域である。

ただ現在の社会、特に揺れ動いている「生死」の概念を考慮するとき、ヒトは「新しい生死」に「リアル」を感じられるだろうか考えるときにこれらが絡んでくるのではないだろうかと「直観」した。(明確な根拠はない。ただ両者の発生時期が近く、ヒトの新たな概念に踏み込みうるからそう観じた。)

……ああ、結局何が言いたいのかも分からなくなってきた。もっとじっくり考えて、ことばに出来るようならまた書こう。

« BGMが流れるようにしました | トップページ | ほうかご百物語5 読み終わりました »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

趣味」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『記号的』ということについて:

« BGMが流れるようにしました | トップページ | ほうかご百物語5 読み終わりました »

カウンター

カテゴリー

楽天アニメ

楽天コミック

ブログパーツ

  • いいねボタン