2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
フォト

ウェブページ

無料ブログはココログ

« ヒカルの碁 完全版を読んで | トップページ | 今帰りの途中 »

2009年6月27日 (土)

約束通り

約束通り私の脳死(というか死かな?)についての一意見。

正直私自身はあまり脳死を法律で定めるのは賛成していません。これは私一人が言っていることではないのですが、ここから先は人の死です!とスパッと区切れるものなのかな?ということが一つありますね。(まぁその意味では現在の通常の死亡判定も多少怪しい部分はありますけどね)

遺族の感情(例えば肉親が亡くなったと判定された瞬間にその亡くなった人をどのようにとらえるか。即座にその人を”死体”ととらえるべきなのかとか)を考えてみてもそうですね。

あと、遺族の感情を差し引いたとしても、即座にその“死んだ”と判定した人を”死体”と扱っていいか、とかね。これは柳田邦男さんの「脳革命治療の朝」という本にある話なんですけど、ある事故ですでに瀕死、もう意識もなく普通なら死んでしまうだろう人(後にある治療で助かる)が、実は外界の情報を把握していたという話があります。実は人間って徐々に死んでいくんですよね。だから、医師が“お亡くなりになりました”といっても死んでるとは限らない。低い確率ではあるけどもしかしたら生き返る可能性はまだ存在しているし、もし生き返らないとしても“死んだ人”に意識がないとは限らない。確実なのは“その人は自身の外界に意識を表現することがない”だけとも言える。もしかしたら死んでからも意識が残っていて私たちの話を聞いているとかね。もちろん脳細胞とかの大半が死んでしまえば意識もないだろうと予測できるけど、それは死んでからそこそこの時間がたってからですよ。

だから“死んだ”からといって即座にその人を”死体”(=生きていない)として扱うのか?やっていいのか?とか疑問は残ります。そういう考えだと人は“徐々に死んで行く“んですよね。

それに反対する理由はまだ別にあります。

それは”死の境界が変化”しているからです。これも「脳革命治療の朝」での話(というかメイン)なのですが、今までなら”脳死”と判定せざる終えなかった方たちを現実の社会で生きれるレベルまで戻すことが可能になってきました。あと世界では(私の知る限り数件ですが)脳死判定された人間が生き還っています(脳死判定に間違えがあったとかの可能性は常にあるけど)。だからここで社会に”脳死=人の死”という認識を定着させてはヤバいのではないかなと思います。まだ世の中に上記のような事例がなかったならば、仕方ないとも思わざる終えない(部分もある)のですが、今言ったように”脳死≠人の死”の可能性が提示されている以上そこに議論を当てて、少なくとも大半の人間が“妥当”と判断できる部分を見つけないと人の死を議論できないのではないかと思います。あとで“ごめん!実は僕ら生きてる人間から心臓とか抜き取ってたよ!”ってのはしゃれにもなりません。そしてその“死”を規定したのは法律、ひいてはその法律を定めた議員、議員を選んだ我々ということになります。ひどい言い方をすれば我々は“罪のない人から生きたまま(しかも麻酔も使わず)臓器を抜き取って殺し“た“超残虐な殺人者”ともとれる状態になります。そして場合によってはそれはわれわれ自身を苛みかねない。

そんな訳で私は反対側にあります。

ちなみにどこかのブログが来年度のWHOの指針の原文を紹介していたけど、本文中には移植のための海外渡航禁止の文言はないそうです。もちろん海外の移植待ちの人の席を取ってしまうのは問題です。でも、もし本当に明確な違反でないなら、「WHOが来年にでも禁止する」といった趣旨は見当はずれなところからせっついていることになる。もっと問題に対して的確な問いが必要ということになるんじゃなかろうか?とかおもった。

見つけた→社会学と生命倫理の迷い道http://d.hatena.ne.jp/minajump/20090524

« ヒカルの碁 完全版を読んで | トップページ | 今帰りの途中 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

趣味」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 約束通り:

« ヒカルの碁 完全版を読んで | トップページ | 今帰りの途中 »

カウンター

カテゴリー

楽天アニメ

楽天コミック

ブログパーツ

  • いいねボタン