お久です。そういえば、新しく日記を始めています。本記事の続きの内容を明日そこで公開する予定
なんか今日も忙しかった気がする。毎日夜になると疲れが吹き出るんですよね。なんだろ。病気じゃないと思うので食事や睡眠の質が悪いんだと思います。
だから今日は近所の野菜バイキングの店に行って来ました。
腹いっぱいに食べたからもっと疲れが出てる気がする。空腹のときが一番からだの調子がいいんですよね。ぼくだけかしら。
あるいは脂肪肝かな。食べると疲れが出るのは脂肪肝の証って聞く。やはりファッティな食事は控えて出来るだけ野菜を食べよう。
さて、そんなこんなで夕食後のだるい身体タイムがもったいないので映画を観てきました。タイトルは『ルーム』
物語はジャックが5歳になったところから始まります。ジャックの朝はいつも同じ。起きて、まずは母に挨拶をする。続いて挨拶をするのは母子二人で住むの”へや”の家具たち。椅子に、机に、キッチンに、天窓に、洋服ダンスにとジャックは挨拶をしていく。ひとつのベッドと限られたキッチンとトイレを備えた”へや”でジャックは昨日も今日も、明日も変わらない日々を過ごしていた。愛するママと、楽しいテレビがジャックの友達である。
ただ、普通と少し違うのは、ジャックが生まれてから一度も”へや”の外にでたことがないくらい。あと毎夜洋服ダンスの中で寝なければいけないこと。なぜかというと、夜になると”へや”には外からオールド・ニックがやってくるから。ママはニックとジャックを会わせたくないらしい。ニックは魔法の袋からジャックたちに食事やプレゼントを持ってきてくれるけれど、ジャックとニックは一度も話をしたことはない。
しかし、とある日にジャックはニックと触れ合う機会を得る。それは”へや”での日々を終わりに導く事件への引き金となる。その事件をきっかけとして、ママはジャックに真実を語る。
実はママにはママ以外にもう一つジョイという名前があること。元々は”へや”の外にいたけれど、7年前にオールドニックに”へや”に連れてこられてしまったこと。そして、”へや”の外には”世界”が広がっていること。
本作は、誘拐された17歳の少女が監禁された先で子どもを産み、その部屋から出る物語である。
前半一時間は”へや”とその脱出。後半一時間は”世界”での生活が描かれる。
結論から言うと、ぼくはこの映画を観始めたとき「”へや”に帰るんだろうな」と感じた。そして、それは間違いではない。
本作は複数の視点から語ることが出来る。
ひとつは誘拐されたジョイの再生の物語である。高校生の少女が監禁され、レイプされ、監禁先で子どもを産むことになる。逃げようにも逃げられず精神的に追い詰められた女の子が、機転をきかせ社会へと戻っていく。しかし戻った先は少女にとって新たな地獄だった。
帰還先は少女が元々いる世界だ。だがその世界は一変してしまっている。かつて存在したやさしさは失われ、好奇の目が向けられる。静寂の変わりに喧騒と様々な圧力が襲ってくる。監禁された少女が子どもを産んで帰ってきたことをマスコミは騒ぎ立てる。そして、自分も7年前の自分とは変わってしまった。
過去のイメージと現実のコンフリクトはジョイを圧倒する。徐々にジョイは子どもへと依存するようになる。しかし、それも一時のことに過ぎない。最終的に彼女はその圧力に耐えかねて倒れてしまう。
本作の見所は、そのようになってしまった彼女を子どもの献身が救うところにある。
子どもによって救われ。彼女は社会へと戻り。幸せになりました。
めでたしめでたし
それが、一面の物語である。でも、ほんとうにめでたいのだろうか。本作を見終えた視聴者はこれで満足するのだろうか。物語を再構成してみよう。
本作においてジョイが子どもに真実を語るときに次のように言って聞かせるシーンがある。
壁がある。その壁には、表があれば裏もある。私たちは壁の内側にいて、外にも世界が広がっている。
ルームという映画は、ジョイの視点ではなく子どものジャックの視点から見ると別の様相をみせる。
先ほどのジョイからの視点の語りを一般的な視点の物語~インサイダーの視点~とするなら、ジャックから見ると物語はその外~アウトサイダーの視点~を有している。
ぼくはこの映画を観たときに、星の王子様を描いたサンテグジュペリを思い出した。世界の隅々を回ったことのない彼は、世界を巡る少年の物語を書き上げる。世界を描くのに実際の経験などは必要ない。人間精神とはそのような体験を上回る広大な力強さを持っている。
本作ルームのもうひとりの主人公。いや、個人的には真の主人公と呼びたいジャックはそのような広大な精神を有した子どもである。
ところで、ぼくは今までジャックを「子ども」としか表現してこなかった。なぜだろうか。
じつは、本作ではジャックが男なのかどうかは明かされていないのだ。ジョイは一度としてオールド・ニックにジャックを触らせることはなかった。男の子だと語られるのは、あくまでオールド・ニックに対してのみであり、ジャックが”へや”の外に出たときジャックを見た男性や警官はジャックのことを彼女と呼んだり、ジャック以外に名前はないのかと尋ねている。また、ジャックが寝ている洋服ダンスのなかでジャックの履いているパンツが明らかに女性物だったのも、おや?と感じた一因である。
ジャックが女性である可能性を考慮すると、オールド・ニックとジョイ、ジョイとジャック、ジャックとオールド・ニックの非対称性も見えてくる。
ジョイはジャックにオールド・ニックはリクエストなど応えてくれないようなひどいやつだと語る。ジャックが5歳の誕生日にケーキにろうそくがないとき騒いだときも、オールド・ニックは面倒なものを持ってきてはくれないと言っている。
一方、オールド・ニックはジャックに乱暴な行為を働いたことはない。むしろ誕生日だと知ったら失業中なのにも関わらずおもちゃのクルマをプレゼントしてくれる。
ジョイの語るオールド・ニックと、オールド・ニックの行動に矛盾が存在する。
その矛盾を解消するひとつの案がジャックが実は少女である、ということだ。オールド・ニックから娘を隠すために男の子だと偽っていたと考えると、過剰なまでにジャックをオールド・ニックと遠ざけようとしたことに矛盾はない。
映画の間ずーーっと、この子が男の子かどうかは気になってみてたんだけれど一度もそれは明かされなかった。母子が保護された病院でも、当たり前だが下半身は隠され、真実は闇の中である。
まぁ、ぼくの本当に話したいことは、ジャックが男だろうが女だろうが関係ないからどうでもいいんけどね。
折角なので、考察をしておいただけだ。
話を元に戻そう。
ジャックから見るとルームという物語はジョイから見たものと逆の物語になるとぼくは語った。
ちょうどジョイの物語を補助線にひくと理解しやすいと思う。
本作でジョイは「社会から切り離されて”へや”につれられてきた」少女である。だからこそ、先ほどの再生の物語という見方ができる。
しかし、ジャックから見たらどうだろうか。
ジャックからしたら、彼(彼女?)の世界は”へや”だけだったのだ。彼は母親の要望に従い、”へや”から”世界”へと移り変わる。
ジャックの視点からするならば、彼は元いたところから無理やり切り離されたと見ることが出来る。
母親と、”へや”のみんなに囲まれて平和に暮らしていた少女は他ならぬ愛する母親によってその場所を奪われてしまう。ジョイの視点からしたらオールド・ニックは平和な日常を壊した破壊者かもしれない。誘拐者である。しかし、ジャックの視点からしたらオールド・ニックは敵でも憎むべき相手でもない。むしろおもちゃのクルマをくれたやさしいおじさんともいえるかも知れない。
ジャックの側から見るなら、破壊者は母親のジョイである。
だからこそ、物語後半でジャックは母親が”へや”での母親と異なることを語っている。ジャックからしてみれば、彼の真の母親は”へや”のママだ。ジョイなどという存在ではない。だからこそ、からっぽだと表現したといえる。
ジョイもそれを理解しているのか、それでも私はあなたの母親だ、と述べている。
なんと歪な関係の物語だろうか。そして、なんと美しい物語なんだろうかと思う。
こういう構造を備え、自然とした物語を作り上げている本作は紛れもなく傑作だと思う。
そうやってみると、本作は本来あるべき場所から切り離された少女がもといる場所に戻る物語であると同時に、本来あるべき場所から切り離された少女の非対称的な物語であるといえる。
しかも、ジョイは救われるが、ジャックには救いがない。
彼は、”へや”にあったすべてのものを失い二度と取り戻せない。なにより、彼女の愛した母親は”からっぽ”になってしまったのだ。
”へや”と母親が揃ってこそジャックの原初は完成する。本作はジョイの再生であると同時に、ジャックの喪失の物語なのである。
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