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君たちはどう生きるか 色々渦巻く想いがあるが、やはり大傑作だろうとしか言えなかった

お久しぶりです。

毎日お子様から乗り物認定されて日々過ごしております。じつはいまとある島で仕事してるのですが、たまたま三連休に空きができました。

これは島を抜け出すチャンスだぞと家族を説得して軽井沢にきてた次第です。島にいると最新の映画をみるチャンスなどありません。出来れば『君たちはどう生きるか』を観たいけど、流石に家族を置いて観にいくのはなと半分諦めてた(注意 おそらく奥様はお願いしたら全然行かせてくれるのですが、子どもの面倒とか見てもらわないといけないから不公平かなと自分のバランス感覚がいまは行ってはいけないと囁いてたのです)んですが

まあ、紆余曲折の果てに観にくることが出来ました。

軽井沢から直近の映画館は新幹線に乗って高崎または佐久平。家族から離れるタイミングや終電で戻れるのか問題などの紆余曲折を経て、先程みおえて新幹線の中です。

わざわざ旅行中に新幹線のって映画観に行くとかどうだろうとおもうけど、宮崎駿さんの新作だから仕方ないですよね。ネタバレ踏む前に見れるなら観たいし。

ちなみにアマシネマ佐久平で観たのですが、なかなか面白い環境でした。レトロなゲーセンの奥に佇む映画館のチケット入り口。同じ建物に飲み屋やパチンコ店が繋がっており、チケットカウンター横にラーメン屋のノレンが待っている。何を言ってるかわからないだろうけど、行ってみたぼくもよくわからない空間でした。これで(たぶん)シネコンなので、かなり珍しいとおもう。機会があれば行ってみてほしい。

まあ、そんなわけで映画を観てきました。内容は割と難しいと思う。なんでこの時代背景なのかとか、あのタナトスの世界がなんなのかとか、パンフとかに解説ないとわからないとおもう。

そういうわからない要素はあるんだけど、どう考えてもこのダイナミックな世界観を描き切っている点で、大傑作だろうなと言わざるおえない。もちろん好みはあるだろう。語られてないせいで、ストーリーに飛躍があるように感じることもあると思う。でも、生と死や世界の再生滅亡という2時間(仮にテレビ何クールあっても)で取り上げるには難しいテーマを扱い、かつチープに見せてないという、、この点だけでぼくは大傑作なんじゃないかなとおもう。

これまで宮崎駿作品を延々と扱ってきた人には、かなり去来する想いもあるだろうな。

ぼくは宮崎さんの過去作もそうだけど、なによりマーニーとかアリエッティを思い出しました。

どちらも素晴らしく良くできてる作品だとおもう。ただ、宮崎駿さんはこの二作をもっとダイナミックに扱いたかったんだろうなと感じました。

マーニーは内面に寄り添い、理屈を突き詰めると答えにいたる。アリエッティも繊細でうつくしい世界だけど、宮崎駿世界に比べると箱庭的美しさがある。

これらはこれらで素晴らしいのだけど、おそらく宮崎さんがやりたいものとは違ったんだろうな。

あと、宮崎吾朗さんに任せたコクリコ坂とかはあの時代の生き様などを扱いたかったし、継承とかを描きたかったのかなとか


そんなことを思いました


さて、ホテルに着いたから人の感想みるまえの雑感だけ

2021年3月10日 (水)

シン・エヴァンゲリオン ネタバレ感想 〜コロナワクチン接種の感想を添えて〜

『シン・エヴァンゲリオン』初日に見てきました。そろそろ感想を書こうかと筆をとった次第です。

医療従事者のワクチン接種も幸いにも受けられたので、じつに安心して劇場に足を運べました。奥様には「ごめんなさい!意地でも見てきます!!」と事前に言って出てきました。楽しんできてねと暖かく言ってもらえてよかった。エヴァにまったく興味がない(というか知らない世代)ので、そこまで見たいものなのかなぁって雰囲気だったけれどね。

ちなみに、ワクチン接種そのものは全く痛くなかった。翌日から筋肉痛のような痛みと、さらに翌日からは帯状疱疹初期のようなビリビリした敏感な痛みが二の腕に出現したのが辛かったくらいです。絶妙に痛痒い感じで夜中に何度も起こされてしまったよ。

とはいえ、ワクチン接種は大事なので受けて後悔はなかった。そのおかげでエヴァを安心して観られたのだから感謝しかないよね。

肝心の『シン・エヴァンゲリオン』感想としては、しみじみと良かったな、って思います。終わってから2日経ってその思いはより強くなっている。妙に心地よくて安心する、ってのが映画を見おえた感想です。

設定に関しては、今回の映画みて一層興味がなくなったかな。ゴルゴダオブジェクトとかループする世界設定が明かされたからですね。

エヴァンゲリオンという物語は、演劇的な要素が大きい。シンジ、アスカ、レイ、ゲンドウ、カオルetc な主要な登場人物を固定した舞台演劇ですよね。だから今回のエヴァンゲリオンと昔のエヴァンゲリオンは、同じとも言えるし別物とも言える。

今回のトウジは成長して医者になった。今回のケンスケは成長してアスカと通じ合う関係になった(まぁ、どの程度の関係なのかは知らんけれど)。

以前のエヴァとは、役者は同じだけれど設定も状況も異なるので関係も異なる。

唯一性が保ちにくいのが並行世界設定の欠点だとは思う。そういう意味では今回の『シン・エヴァンゲリオン』も本当の終わりかどうかはわからないんですよね。「今回の」エヴァンゲリオンはエヴァのない僕らの世界に来て終わっただけかもしれない。別の砂場では、別のシンジ君たちが別の物語を繰り広げているかもしれない。

そう考えると、物語が終わっても大きなカタルシスは少ないかもしれない。ぼくも今回の映画を見おえて衝撃を受けるようなことはなかった(EOEの時もたいして衝撃はなかったけれど)。

しかし、それでもしみじみよかったんですよ。理由は、25年間付き合ってきた友達が穏やかな日常を手にする未来を見ることができたから、なんじゃぁないかな。

あえて小難しくいうなら、25年間通じて実存性を獲得してきたキャラクターがエヴァ(争い・非日常の象徴)のない世界(現代日本)に至ることがまるで25年来の友人がついに平穏を手にできて友人として嬉しく思う気持ちに近いのかもしれない。

仕事で苦しくて仕方ない中で「あ〜、もうやりたくねぇよ。不貞寝しよう」とか、「休日だから心穏やかに昼寝しよう(うちのお子様に添い寝してもらってた)」とか。なんていうのかな、、無駄なことや平凡な日常というのはとても尊いものだと思うんですよ。

エヴァンゲリオンという物語は、日常回もあるけれど基本的にはなんらかの試練に満ちていた。穏やかな日常のなかでもシト襲来の恐怖やエヴァ搭乗で呼び出されるリスクに常にさらされていた。新劇場版のQ以降は、周りは死の世界に満ちているわけですよね。

ぼくらが当たり前のように獲得できている平凡な日常や無駄が得られない(そんな退屈な日常だとアニメになりにくいから仕方ないんだけれど……

……ん?『のんのんびより』『よつばと』『オタ恋』etcのことはだって?そういう退屈な日常をジャンル化できたのはこの25年の変化の一つだよねってのは感覚的に感じますわ)。

そういう過酷な日常の舞台演劇の仕事しかなかったエヴァンゲリオンの役者たちが、その使命から開放されて日常を送れるようになった。並行世界の中の一つかもしれないが、そういう『エヴァに乗らなくていい』世界の可能性を提示してもらえたことが嬉しかったんですよね(テレビ版エヴァ1話の一つのアンサーにもなっている)。

25年前からの友達が、もう道は分かれて連絡もとってないけれど、どうやら遠くで幸せにやっているんだな。

こういうのって嬉しいよね。

『シン・エヴァンゲリオン』をみてしみじみと同じような気持ちを抱いたんですよ。

繰り返すけれど、今回の映画は設定そのものはたいして興味はなかったな。でも、演出などは素晴らしく良かった。初号機と13号機の槍バトルとかぼくにはデモンベインの大十字九郎とマスターテリオンの新世界創造の儀式にしか見えなかったという戯言は残しておこう(デモンベイン面白いよ!)。

また序盤の地に足ついた日常を描いてくれたから、ラストに現実にきても大きな違和感はなかった。エヴァの役者も平凡な日常を生きることはできるんだって直観したのかな。

思えば25年経っていつの間にか変化したよなぁ。仕事をして、結婚して、子どもが産まれて。海燕さんやかんでさん、ペトロニウスさんたちとも10年以上の付き合いになる。

自分はどうやら(25年前にはなかったものを得てさらに)幸せになってきている一方で、25年前は割と苦しんでいたシンジくんたちも新しい幸せの形にたどり着いてくれた。

自分が幸せなら、友達も幸せであってくれた方が嬉しい(自分が苦しい時はせめて友達も幸せで僕を喜ばせてほしいね)。

そんなことを考えると、しみじみと良い集大成の映画だったなって思いました。クラシック音楽のBGMと同じで流していると安心できる映画だったな。いやぁ、たのしかった!

2021年1月 2日 (土)

ハッピーニューイヤー N高の川上さんの記事とエンタメについての呟き

お久しぶりです。ハッピーニューイヤー2021!

まさかブログを何年もサボっているうちに新型コロナウイルスで世界が激変するとは思っても見なかった。

2020年は本当に色々ありました。まさか僕が結婚してパパになる日がくるとは思わなかった。見届け人は海燕さんにお願いしました。

海燕さんたちとも出逢ったから10年。長くなったなあ。

ちなみにウチのお子様の名前は『ことみ』さんになりました。可愛いよね。狙ったわけじゃないけどお庭の広い子に育つといいですね。

さて、それで久しぶりに記事を書こうと思ったのは下のリンクの話題が面白かったから


カドカワの社長退任や『シン・ゴジラ』の舞台裏、そして教育事業に賭ける情熱とは?──川上量生・特別インタビュー

https://news.denfaminicogamer.jp/interview/201229a


内容は読んでみてください。好悪はあるにせよ実に面白く興味深い話だった。

これを読んでいると、改めて現代のエンタメというのは高度な話をしていると思わされます。

リアルワールドで起こっている出来事は、エンタメでテーマになってることだよね。

記事の中にこんな文があります


川上氏:

だから、みんな文科省が改革しようとしたときにさんざん叩いているくせに、教育が変わらない責任を文科省に押しつけるのはおかしい。世の中を変える改革なんて、すべて正しくやるのは難しくて、そりゃ間違いも起こりますよ。でも、それはまた直せばいいんであって、やるなと叩くのは違う。N高は、教育を改革する、という高い志を持ってやってるけど、それは反文部科学省ということではないよね。というか、なんだったら我々、むしろ文部科学省寄りですから(笑)。

(中略)

川上氏:
 彼女が言うには、ゆとり教育っていうのは、文科省が戦後の歴史の中で、抜本的に改革を試みた最大の取り組みのひとつだったんだと。何も変えたくない人もたくさんいる中で、文科省内でも改革派の人たちが集まって、ゆとり教育を推進したらしいんです。

──でも結果的に、失敗の烙印を押されてしまった……。

川上氏:
 そう。世間に叩かれて、改革は撤回させられた。嫁の仲がよかった改革派の若手の多くも、その後、不遇を囲っている。そして、世間が叩いた結果、教育はよくなったかっていうと、その後のすべての改革に大きなブレーキがかかっただけだと、世の中はそれを望んだんじゃなかったはずと、彼女は泣いたわけです。

──何かことを起こすことがリスクにしかならないと、そうなっちゃいますよね。

川上氏:
 僕がこのエピソードから得た教訓はふたつあって、ひとつは経産省だけでなく、政府のあらゆる政策の悪口は言わないことにしようということ。どこに地雷があるか分からない(笑)
 もうひとつは、リスクとって改革に取り組んでいるひとの足を引っ張るのは、やっちゃいけないということです。
 結局のところ、みんな、表面的な結果しか見ようとしないじゃないですか。とくに状況が悪いところだと、だいたい問題が起こってるのって、何もやらないからじゃなくって、なにか”やれない理由”があることが多いんです。
 そういうところに切り込んでいって、火中の栗を拾うような人たち、問題が起こっているところで頑張る担当者っていうのは、とても危険な仕事をやっている人たちだと思うんです。
 でも、そういう問題が起こってるところっていうのは、世間的にはすごく批判されやすくて。そのときに、火中の栗を拾いに行った人をみんなが叩いちゃう。でも、それってさ、何も生産的なことを生み出さないよね。

引用おしまい!

ぼくがそうだよなって共感するのは「僕がこのエピソードから得た教訓はふたつあって、ひとつは経産省だけでなく、政府のあらゆる政策の悪口は言わないことにしようということ。どこに地雷があるか分からない(笑)

 もうひとつは、リスクとって改革に取り組んでいるひとの足を引っ張るのは、やっちゃいけないということです。」ってところ

これは本当にそう思う。現場には現場の苦労があってそれは外から見えてこないものです。

外から見たら悪なんだけど、内部的には仕方ないことってのが無数にある。そこに対して外から悪し様に言ってどうな意味があるというのか。

無数の顔のない悪意をテーマにした作品としては、神山健治監督の『攻殻機動隊』『サイボーグ009』や中村健治監督の『ガッチャマンクラウズ』などがある。

SNSで顔のない人々が好きなことを言い合ってる。無数の人々が自由に発言できる希望の時代でもあると同時に、顔のない悪意に晒される時代にもなっている。

記事のなかにも『みんな文科省が改革しようとしたときにさんざん叩いているくせに、教育が変わらない責任を文科省に押しつけるのはおかしい』とある。

この辺ってSNS時代のいま、さらに拡大している部分でもあるよなと

青織亜論さんのツイート周辺を眺めていると、そういう悪意と戦うことの困難さがよくわかる

この「みんな」ってのがポイント

「みんな」の中に個々人が紛れてしまうことで、悪意(その「みんな」の中では善意)がより容易に拡散できるようになってしまう。

口は出すがその結果めちゃくちゃになっても責任は取らない、ということも起こり得る

いやー。。無責任に言い放っていくのはなんて悪いことなんだ!最悪だねっ。

…なんて思いたいのだけど、事はそんな単純ではない。

こんなことを言い始めると「では、外部の人間は口をだすなってことじゃないか!」なんて批判も出てくる

責任のない立場であってもおかしいものはおかしいと言わないといけない。そうやって世の中は良くなっていくんだ。

これも、また大切な指摘だと思う。

(この辺をテーマにした作品おそらくあるはずなんだけど、パッと思いつかないな…顔のない批判による制度破壊の正と負の側面を扱った物語)

そんなことをツラツラと考えました!


まだ考えられることあるけど、そろそろ家帰ってことみさんに遊んでもらわないといけないので


でわっ


今年もよろしくお願いします〜

2017年5月14日 (日)

複数の視点で見てみる:『東京ウインドオーケストラ』

お久しぶりです~ みなさんお元気でしたか?てれびんです。 無事に医者の免許を取れ、最近は病院で毎日働いております。 知らないことが毎日襲ってくる楽しい職場です。ホウレンソウは実に大切。よくよく実感が欠かせない日々となっております 。


さて、本日は高田世界館にて『東京ウインドオーケストラ』の初回講演(中西美帆さん舞台挨拶つき)を見てきましたので、 文章を書くリハビリを兼ねて感想を挙げていきたいと思います。


じゃ、始めましょう。


『東京ウインドオーケストラ』を見てきた。
東京ウィンドオーケストラと勘違いして、カルチャースクール「東京ウインドオ ーケストラ」を屋久島まで呼んでしまった役所職員の話だ。 途中で勘違いに気づくも、周りが大熱狂しているので言うに言えず偽物を本物として舞台に立たせてしまおうとするとんでも ない話である。


呼ばれた楽団員も楽団員で、オファーのときにもらったお金はすべて楽器につかってしまっている。返せと言 われても無い袖は振れない。では逃げ出そうと逃げ出してしまう。


まるで森見登希彦の小説に出てくるかの決断をするものだと感心してしまう。だいたいにしてお金がないから逃げ出そうなんて普通では出来る発想ではない。いや、ちらっとくらいは考えるかもしれないが、実際に行えるものではない。


そういうちらっと考えてしまうけれど、普通ならやらないことをついやってしまった人たちの物語が、この『東京ウインドオ ーケストラ』だった。


実はこの物語は結末はどうしようもないものである。
間違えて呼ばれた楽団員は、ラストで演奏がうまくなるわけではない。中学生より下手な彼らの演奏は、最後の舞台まで改善 されることはない。奇跡など起きない。

それではこの映画は奇跡など起きないペシミスティックな話なのかというと、そういうわけでもない。どこか明るくユーモラ スに描かれる。

下手な演奏をしたものたちは、ヘタなりに大舞台に立てて楽しかったと島を去る。島民は東京でしか聞けない 名演奏を聞けたと満足をした。間違いを犯した職員は始末書を書く羽目になったものの日常に帰ることができた。


どこを見てもダメな人たちしか出ていない映画なのだが、なんでここまで明るく描かれているのか。


実はこの映画を上映した高田世界館に主演女優の中西美帆さんたちが来られてたので、その場で質問をしてみた。その時はう まく言葉に纏められていなかったけれど、要は「ダメな人間たちを演じる時に何に注意したんですか。演出意図などの指示を 受けたならば教えてください」という内容を言いたかのだ。


拙い質問に対して、皆さん真摯に答えてくださった。特に印象に残っているのは、中西さんの「愛すべき人々」というセリフ である。


これをぼくなりに解釈すると、この映画はひとはみんなダメな部分を抱えているということを言いたいのだと思う。
ひとには どうしてもだめな部分というのがある。そこを許しの視点でみよう。なぜならみんなダメだから。


映画はそういう視点でみているからこそ彼らを愛すべき人々として捉えて描いているの だろう。


そういう意味ではとてもいい映画だったと思う。


・・・でも。


でも、それでいいのだろうか。 そう思う。


映画を見ていて自分なりに思うところはいくつもあった。


来島人数をなぜ確認していないのか。当日のスケジュールをなぜ伝 えていないのか。どんな演奏をするのか演奏時間も含めてなぜ確認しないのか。なにより、実務を職員の1人に任せっきりで 上司は部下のスケジューリングをしないのか。


なぜ。なぜ。なぜ。


見れば見るほどにだめな部分が際立つので、正直みていて辛い部分も多数にあった。


この視点は、上述の優しいまなざしからしたら、厳しい眼差しということになるのだろうと思う。


第三者が外から正義面でも のを語っていやがるな、と思う向きが自分でもある。


しかし、ぼくは次のようにも思うのだ。 この物語の一番の被害者は、島民の皆さんだろう、と。


物語の構造を考えるならば、上述のテーマ(仮に正しいとするなら)を体現するには情報が足りていない。


少なくとも島民の許しが必要だったのではないだろうか。島民が偽物に気づか なかったからそれで良しとしてしまっていいものであろうか。


映画には描かれていないが、事態を収拾するために奔走した人 々もかなりいるのではないだろうか。おそらく始末書一枚で済む問題ではない。


その意味では、厳しい言い方をするなら、被害者を除け者にして加害者たちが互いに許し合っている映画と見ることもできる 。


モノの見方は多面的なものだろう。

一方の視点から見たら美しくみえ、他方から見たら醜悪にも見える。 そんなことを考えさせてくれる映画だった。


映像は綺麗で、実際に良い映画だったと思う。


ただ、この映画を見てると、どうしても自分の弱さが見えてくる。大なり小なり自身にも振り返る部分が多数あった。


弱い心は自分にもある。 もし魔が差したらやるかもしれない。

一瞬でもそう思わせられると非常にヒヤッとする。


まるで自分の弱さを写されているようで見ているときはつらかった。しかし見終えたら良かったと思える映画だった。



これを読んでくれたかたのなかで、じぶんは合うかもと思ったら見てみてもいいんじゃないかなと思う。 面白かったですよ。


追記


被害者が島民の下りだが、被害者が気付いていないんだから、わざわざ教えてショックを与えることもないという見方もでき る。

どれが正解ということではない。
個人的異見からしたら、状況によって答えは変動するものだろう。

ちなみに今回ぼくが久しぶりに記事を書いてみたのは、1:文章を書くリハビリのため、2:複数の視点から物事が見えるという指摘 のため、3:この記事を読んだ人にとって自分なりの正解は何なんだろうな。もし意見があるなら教えてもらいたい。、そん な意図があってのことです。


もしご意見質問などがあれば、以下に気軽にメールください。 terebinn2@gmail.com

2016年11月19日 (土)

久しぶりに『そだシス』に驚かされた。

やはりラインで呟いた内容。

久しぶりにぼく驚いたよ。一般的な物語としては面白くないって人もいるかもしれないけど、ぼくは『そだシス』が大好きです。

それは、この作品がホントにナチュラルに『異世界』を描いてると思ってるから。

その一例を、ラインの会話のコピーから感じてもらえたら幸いです。

以下 コピー

久しぶりにぼくのなろう大好きリストトップクラスのそだシス読んでたんだが

「この世界の1日は24時間でなくて10時間」

えーー。数百話してはじめて出てくる情報だよ

この物語こういうことがたまにあるから驚く

今まで出てきたビックリリスト
・実は太陽が二つある(月の間違い)
・世界は丸くない
・近親相姦しても奇形は生まれない(別の要因によって生まれえる)
・お金が存在しない

主人公の男の子の一人称で話が進むので、彼が意識しない限り『異世界』の情報は僕らに明かされない鬼畜仕様のなろう小説

向こうの世界では「当たり前」だから意識にあがらない。とあるイベントなどでふとした瞬間に「そういやこの世界は違うんだよね」と明かされる

ぼくらだって日常的に生きているなかで「この世は基本は漢と女で出来てる」とか言わないようなもの

実は男女のない異世界の人からしてみたら驚きの情報かもしれない

この小説こわいわー。
これリアルSF小説だと思ってよんでる

ちなみに。お金が存在しないのも、世界の秘密に関わる理由がある

さらに、むかしの設定情報で『1日は十刻』(地球の何時何分に該当)とは、明かされてる。

ただ、それでも『この世界は24時間』で、時間の呼び方が違うんだと思ってたんだが

今回『1日は10時間』とされたので……こえー

油断ならない

たしかにいま読み返すと「地球換算時刻」とは書いてあるが、24時間が1日とは言ってない

2016年11月16日 (水)

そっと、信念のようなものについての覚書の更新

おひさしぶりです。

生きてます。てれびんです。

今回、この世界の片隅に(まだ映画はみてない)が公開されたことに合わせて、LINEでで自分の話した内容がなかやか興味深かったので、コピペでここに記録しておこうかなと思った次第です。

読んで面白いかわからないけど、てれびんの思考はトレースできるかと思います

以下の内容は『私、能力は平均値でって言ったよね!?』139話、宿屋4を読んだ後の話です

〜以下 転載〜

今なろう読んでてさ

他人のことに部外者が口出しするな?
興味本位でかき回すな?
いいんだよ!楽しまなくて、なにが人生か!
やりたいこともできずに我慢して、死んで後悔するのは、一回だけで十分だよ!

ってあってさ

そうだよなあ、とおもう

もちろん程度というのはあるんだろうけど、この世界の片隅で何か行動するってことは、結果的に世界に生きる誰かの人生を掻き回してることに他ならないよなと

能動的に行動してるのと、そうでないのは違うという人ももちろんいるのはわかるんだけど

でも、結果的に引き起こす現象は同じようなものでさ

能動的・意識的にやってるひとは悪い、けど、そうでないひとは仕方ないってのはアンフェアに感じる。
誰が決めたわけではなく、ぼくが決めた公平さではあるけどさ

被害者意識というのが何処から来るのかってのをたまに考えるんだけどさ

結局はそこの差異なんじゃないかなーって思うんだよね

これは、片隅とかと同じ流れにある話でさ

結局のところ
片隅がなんで被害者としてみられて
風立ちぬが加害者としてみられるかというと
能動的行動を世界に働きかけたか否かというところにあるんだろうなと

その極端な事例

対照的なものというだけでさ

でも、たとえば、片隅が世界に影響を与えてないかといえば、違うよなと

描かれてないだけで、いきて行動している以上は何らかの影響を与えてる

今回はそれが劇的な描きがされてないだけにすぎなくてさ

たとえば、オルフェンズなんかは、逆に劇的な描きになってるんだよね

たとえば
ビスケットという少年兵がオルフェンズにいるわけだ

鉄火団の副長的な立ち位置

彼の行動により団員は死に、敵も死に、世界は変わっていく

交渉により敵が味方になり、味方がてきになる

そういう変化がおこってるわけだが

では、彼がなぜそれを成し遂げたかといえば

火星で農業している妹たちに学校にいってもらいたいから、なわけだ

妹たちは言うなれば、片隅的な世界にいきている

幼いながらも生活のために安い賃金で働き、日々をそれでも笑顔ですごしてる

その行動が妹たちを愛する兄の胸を締め付け、結果的に人を死に追いやる

ただ生きてるだけでも、それだけの影響を与えてしまいうるわけだ

もちろん少女たちは生きてるだけだから、彼女たちの行動が人を死に追いやったというのは言い過ぎではあるとおもう

でも、現象としてみるなら

結局、それは死を撒き散らす行為だよね

あらゆる出来事に責任をとることはできないけど

能動的に動いてたら責任があり、そうでないなら責任がないとでも言う行為というのは

そうでない行為の先が見えてなかっただけにすぎなくて

想像できてなかっただけに過ぎなくてさ

現象としては等価だとおもうんだよな

なので、どちらの行為も等しく罪深いものを引き起こす可能性は存在しててさ

そう言う意味では、ぼくは積極的に、意識的に行動しているひとは擁護したい部分はある

少なくとも、原罪にたいして目を背けなかったという一点においてはその人はコンフィデンスのある行動をしてると言えるわけで

その一点においては、能動的に行動しなければ許されるとばかりの行動は、強い言葉でいうなら卑怯ともいえる

と、ぼくはおもうのね

目を背けてるようにみえる

だからこそ、覚悟をきめろ、とそういう話になる

(注意 あくまで個人との会話の流れにあるものなので、対象が存在するわけではありません。あくまで、ぼくからは『そうみえる側面もある』というだけに過ぎません。逆に、別のひとの見方からしたらぼくのこの発言内容こそが卑怯に見えることもあるんじゃないかなと。ただ、こういう思考をしてるよ、という正直なものを記録しておきたかった。そんな次第です)

2016年4月13日 (水)

おっと、ブロマガで公式BANされたぞ。全文UPしてみよう。やはり幼女のパンツが悪かったのか・・・

さて、ブロマガで更新中の日記が公式BANされたようなので、全文UPしなおして見ます。文章が粗くてもがんばって書いたしね。

それにしても、これって原因はなんなのかなぁ。どうやら「性的な理由」でアウトらしいんだけれど。

やっぱ、幼女ってワードとパンツってのがまずかったのかなぁ。運営さんはここに性的な意図をよみっちゃったのかしら。

うーむ。せめてBANした明確なキーワードやBANした責任者の名前をしりたいなぁ。なんか気分でBANされたんじゃないかって気がしちゃうよね。

これマズイのかしら?いやね、別に怒ってはいないけれど、気にはなるね。あと1ヶ月使用禁止は流石にやめてほしいんだけれどなぁ。日記書けなくなる


ま。いいや。とりあえず公開してみます


(以下:公開記事部分)

なんか今日も忙しかった気がする。毎日夜になると疲れが吹き出るんですよね。なんだろ。病気じゃないと思うので食事や睡眠の質が悪いんだと思います。

だから今日は近所の野菜バイキングの店に行って来ました。

腹いっぱいに食べたからもっと疲れが出てる気がする。空腹のときが一番からだの調子がいいんですよね。ぼくだけかしら。
あるいは脂肪肝かな。食べると疲れが出るのは脂肪肝の証って聞く。やはりファッティな食事は控えて出来るだけ野菜を食べよう。

さて、そんなこんなで夕食後のだるい身体タイムがもったいないので映画を観てきました。タイトルは『ルーム』

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物語はジャックが5歳になったところから始まります。ジャックの朝はいつも同じ。起きて、まずは母に挨拶をする。続いて挨拶をするのは母子二人で住むの”へや”の家具たち。椅子に、机に、キッチンに、天窓に、洋服ダンスにとジャックは挨拶をしていく。ひとつのベッドと限られたキッチンとトイレを備えた”へや”でジャックは昨日も今日も、明日も変わらない日々を過ごしていた。愛するママと、楽しいテレビがジャックの友達である。

ただ、普通と少し違うのは、ジャックが生まれてから一度も”へや”の外にでたことがないくらい。あと毎夜洋服ダンスの中で寝なければいけないこと。なぜかというと、夜になると”へや”には外からオールド・ニックがやってくるから。ママはニックとジャックを会わせたくないらしい。ニックは魔法の袋からジャックたちに食事やプレゼントを持ってきてくれるけれど、ジャックとニックは一度も話をしたことはない。

しかし、とある日にジャックはニックと触れ合う機会を得る。それは”へや”での日々を終わりに導く事件への引き金となる。その事件をきっかけとして、ママはジャックに真実を語る。

実はママにはママ以外にもう一つジョイという名前があること。元々は”へや”の外にいたけれど、7年前にオールドニックに”へや”に連れてこられてしまったこと。そして、”へや”の外には”世界”が広がっていること。

(あらすじ)

本作は、誘拐された17歳の少女が監禁された先で子どもを産み、その部屋から出る物語である。 前半一時間は”へや”とその脱出。後半一時間は”世界”での生活が描かれる。

結論から言うと、ぼくはこの映画を観始めたとき「”へや”に帰るんだろうな」と感じた。そして、それは間違いではない。

本作は複数の視点から語ることが出来る。

ひとつは誘拐されたジョイの再生の物語である。高校生の少女が監禁され、レイプされ、監禁先で子どもを産むことになる。逃げようにも逃げられず精神的に追い詰められた女の子が、機転をきかせ社会へと戻っていく。しかし戻った先は少女にとって新たな地獄だった。

帰還先は少女が元々いる世界だ。だがその世界は一変してしまっている。かつて存在したやさしさは失われ、好奇の目が向けられる。静寂の変わりに喧騒と様々な圧力が襲ってくる。監禁された少女が子どもを産んで帰ってきたことをマスコミは騒ぎ立てる。そして、自分も7年前の自分とは変わってしまった。

過去のイメージと現実のコンフリクトはジョイを圧倒する。徐々にジョイは子どもへと依存するようになる。しかし、それも一時のことに過ぎない。最終的に彼女はその圧力に耐えかねて倒れてしまう。

本作の見所は、そのようになってしまった彼女を子どもの献身が救うところにある。

子どもによって救われ。彼女は社会へと戻り。幸せになりました。

めでたしめでたし



・・・・・・

さて、これが一面の物語である。表と言い換えてもいい。

でも、ほんとうにめでたい?素直に感動できる?

本作を見終えた視聴者はこれで満足するのだろうか。物語をもう一度再構成してみよう。

本作においてジョイが子どもに真実を語るときに次のように言って聞かせるシーンがある。

壁がある。その壁には、表があれば裏もある。私たちは壁の内側にいて、外にも世界が広がっている。

ルームという映画は、ジョイの視点ではなく子どものジャックの視点から見ると別の様相をみせる。

先ほどのジョイからの視点の語りを一般的な視点の物語~インサイダーの視点~とするなら、ジャックから見ると物語はその外~アウトサイダーの視点~を有している。

ぼくはこの映画を観たときに、星の王子様を描いたサンテグジュペリを思い出した。世界の隅々を回ったことのない彼は、世界を巡る少年の物語を書き上げる。世界を描くのに実際の経験などは必要ない。人間精神とはそのような体験を上回る広大な力強さを持っている。

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本作ルームのもうひとりの主人公。いや、個人的には真の主人公と呼びたいジャックはそのような広大な精神を有した子どもである。

ところで、ぼくは今までジャックを「子ども」としか表現してこなかった。なぜだろうか。

じつは、本作ではジャックが男なのかどうかは明かされていないのだ。ジョイは一度としてオールド・ニックにジャックを触らせることはなかった。男の子だと語られるのは、あくまでオールド・ニックに対してのみであり、ジャックが”へや”の外に出たときジャックを見た男性や警官はジャックのことを彼女と呼んだり、ジャック以外に名前はないのかと尋ねている。また、ジャックが寝ている洋服ダンスのなかでジャックの履いているパンツが明らかに女性物だったのも、おや?と感じた一因である。

ジャックが女性である可能性を考慮すると、オールド・ニックとジョイ、ジョイとジャック、ジャックとオールド・ニックの非対称性も見えてくる。

ジョイはジャックにオールド・ニックはリクエストなど応えてくれないようなひどいやつだと語る。ジャックが5歳の誕生日にケーキにろうそくがないとき騒いだときも、オールド・ニックは面倒なものを持ってきてはくれないと言っている。

一方、オールド・ニックはジャックに乱暴な行為を働いたことはない。むしろ誕生日だと知ったら失業中なのにも関わらずおもちゃのクルマをプレゼントしてくれる。

ジョイの語るオールド・ニックと、オールド・ニックの行動に矛盾が存在する。

その矛盾を解消するひとつの案がジャックが実は少女である、ということだ。オールド・ニックから娘を隠すために男の子だと偽っていたと考えると、過剰なまでにジャックをオールド・ニックと遠ざけようとしたことに矛盾はない。

映画の間ずーーっと、この子が男の子かどうかは気になってみてたんだけれど一度もそれは明かされなかった。母子が保護された病院でも、当たり前だが下半身は隠され、真実は闇の中である。



・・・まぁ、ぼくの本当に話したいことは、ジャックが男だろうが女だろうが関係ないからどうでもいいんけどね。

折角なので、考察をしておいただけだ。

話を元に戻そう。



ジャックから見るとルームという物語はジョイから見たものと逆の物語になるとぼくは語った。

ちょうどジョイの物語を補助線にひくと理解しやすいと思う。

本作でジョイは「社会から切り離されて”へや”につれられてきた」少女である。だからこそ、先ほどの再生の物語という見方ができる。

しかし、ジャックから見たらどうだろうか。

ジャックからしたら、彼(彼女?)の世界は”へや”だけだったのだ。彼は母親の要望に従い、”へや”から”世界”へと移り変わる。

ジャックの視点からするならば、彼は元いたところから無理やり切り離されたと見ることが出来る。

母親と、”へや”のみんなに囲まれて平和に暮らしていた少女は他ならぬ愛する母親によってその場所を奪われてしまう。ジョイの視点からしたらオールド・ニックは平和な日常を壊した破壊者かもしれない。誘拐者である。しかし、ジャックの視点からしたらオールド・ニックは敵でも憎むべき相手でもない。むしろおもちゃのクルマをくれたやさしいおじさんともいえるかも知れない。

ジャックの側から見るなら、破壊者は母親のジョイである。

だからこそ、物語後半でジャックは母親が”へや”での母親と異なることを語っている。ジャックからしてみれば、彼の真の母親は”へや”のママだ。ジョイなどという存在ではない。だからこそ、からっぽだと表現したといえる。

ジョイもそれを理解しているのか、それでも私はあなたの母親だ、と述べている。

なんと歪な関係の物語だろうか。そして、なんと美しい物語なんだろうかと思う。

こういう構造を備え、自然とした物語を作り上げている本作は紛れもなく傑作だと思う。

そうやってみると、本作は本来あるべき場所から切り離された少女がもといる場所に戻る物語であると同時に、本来あるべき場所から切り離された少女の非対称的な物語であるといえる。

しかも、ジョイは救われるが、ジャックには救いがない。

彼は、”へや”にあったすべてのものを失い二度と取り戻せない。なにより、彼女の愛した母親は”からっぽ”になってしまったのだ。

”へや”と母親が揃ってこそジャックの原初は完成する。本作はジョイの再生であると同時に、ジャックの喪失の物語なのである。

それにしても、ぼくは本作をジャック視点で見ていると大林宣彦やホドロフスキーを想起してしまう。

ぼくは本作の一番の見所は人間精神の広大さが描かれていることにあると思っている。いきなり人間精神の広大さといわれてもわからないだろうと思うので、もう少し話をしよう。

たとえば映画の終盤あたりでジャックは



”世界”は忙しなくて早く早くと急かしてくる



と、言っている。

これは、”へや”と”せかい”を対比して「世界とはなんて生きづらいところなんだ」って告白しているシーンだとぼくは解釈している。ジョイにとっては”せかい”はあるべき場所なのかもしれないが、ジャックにとっては”せかい”は異郷なんですよね。ジャックが自分の魂を真に安らげられる場所は”へや”のなかなんですよね。

彼が何度も”へや”に戻りたいというのは、犯罪に巻き込まれた後遺症とかではなく、”へや”こそが彼にとって在るべき場所だからです。

ぼくがこの映画を観始めたときに「”へや”にもどるだろうな」って考えたのは、二通りの可能性を考えてのことでした。

ひとつは執着。さきほど否定しましたが、犯罪に巻き込まれた結果”へや”という狭い空間に魂を惹き付けられてしまうことがあります。例えとしてわるいかもしれないけれど、虐待をうけて育つとしたくなくても虐待をしてしまうというのに近いと思う。目を逸らそうとするほどに目を逸らそうとする場所に囚われる。ちょっと前までの物語はこういうものが、割と多かった。

きづきあきらさんの「いちごの学校」とかはそういうパターンですね。他にも、この人の作品はそういうエンディングが多い。あと、瀬戸口連夜さんの『カーニバル』とかにもそういうエンディングがあったような記憶がある。まぁ、エロゲはそういうエンディングが多かったとおもいます。目を逸らしたいのに、その闇に取り込まれてしまうエンディング。

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このような執着が描かれるなら、物語は最終的に”へや”に戻るはずです。そして、その”へや”で孤独に終わっていくことが想定される。

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もうひとつの可能性は、”へや”に希望を閉じ込めるパターン。さきほど話した星の王子様と同じです。べつに世界にでなくても、世界の広さを感じることができる。実際に行動したり経験することなどが世界の真実を実感する方法ではないという感性です。これはどうやらわからない人には徹底的に共感できない感覚らしい。

もうちょっと説明してみようかな。例えば、お坊さん。高僧ですね。高僧はなにをもって高僧と捉えられるのでしょうか。大きなお寺を管理しているとか、病を祈祷で治したとかでしょうか。

おそらくそうではなくて、僧侶自身の徳の高さこそが高僧たる所以です。たとえば、「あっかんべぇ一休」という漫画があります。ここで描かれる一休さんは決して立ち居振る舞いに優れた人物とはいえない。しかし、彼の生き方の気高さや奥深さなどが高僧たる所以であることを示している。ちなみに、一休さんの逆パターンの人間が良寛さんみたい。機会があったら調べてみるのも面白そうです。また、この系統でよく描かれているのは『阿吽』とかもそうですね。人間精神への深い信頼と教典に書かれていることから独自の悟りを得る過程が描かれています。別にお金があるからえらいとかではなく、自然と頭を下げたくなるほどに徳の高い精神性へと敬意を示して高僧と呼ぶのだとぼくは考えています。

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形のないものに価値を見出す・信頼を寄せる文化は世界中で見られることでしょう。それの物語版が星の王子様です。

前述の星の王子様以外にこのパターンの物語を作り上げる作家は何人か心当たりがあります。まずは大林宣彦作品が頭に思い浮かぶ。特に『ふたり』はまさにそのパターンの作品でしょう。また、同様に人間精神への強い希望を描くのがホドロフスキー。『ホドロフスキーのDUNE』『リアリティのダンス』は、人間の内的動力(精神の強さ)は外部の圧力に負けないということを端的に示している。

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ちょっと長くて大変かもしれないけれど、麻枝准による『AIR』もそのひとつでしょう。先ほど名前を挙げた瀬戸口さんの別作品である『SWAN SONG』もその一つ。

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これらの作品はカルト的な人気を誇っていて時として「なんかわからないけれど凄い」という評価を得て売れてしまう。

ところで、最近大林宣彦さんの『大林宣彦の体験的仕事論』というのを読んでいるのだが、そこに面白い一文がある。

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大林さんがHOUSEを作るときに、もうひとつ別の花筐というシナリオを抱えていた際のエピソードです。大林さんのHOUSEはあまりにめちゃくちゃで東宝の監督が全員「おれはこの映画を撮れない」とサジを投げたらしい。そこで台本を提示した大林さんが当時異例の抜擢で東宝で映画を撮ることになった。そのとき、花筐のほうのシナリオも東宝のひとに読んでもらったらしい。

すると向こうは「よくできたシナリオですが、これならうちの監督でも何とか撮れます」といった。

それを聞いた大林さんは「ああそうか、東宝の監督が撮る映画を僕がやってはいけないんだ」と気づいて、『こんなものは映画じゃないぞ』という映画を撮ろうと思ったらしい。

これは非常に良くわかる話なのだが、その話は別の機会に譲る。

とりあえず、「なんだかわからない」っていうのは「いまはまだわからない」というのに過ぎないんですね。

ホドロフスキーなんて本気で映像による人類の革新を狙っている大変態なんですが、彼の狙っていることも同じです。

「いまわからない」ことでもそれを出していれば反応をするひとがいる。その人がきっかけになって、あるいは「わからないけれどすごい」という感覚が人を引き寄せ、いつのまにかそれが「わかる」ことになる。

それこそが、人間の革新だといっているんだと思います。

ワンピースもそういう心意気の高さを感じる。「夢を語れ!」という黒ひげの言葉が表現しているのは、そういうものでしょう。

大林宣彦、ホドロフスキー、麻枝准などは、まさに「いまはわからない」ことを表現し続けた作家です。大半の人間には「まだ」わからないことを描き続けてきた。

しかしその作品が持つ「まだわからない」ところから来る凄みはひとを惹きつける。

カルト映画には、商業映画には持ち得ない未知の鉱脈が広がっています。

その考え方から言うなら「”へや”のなかから”せかい”を知る」ことが出来ることは、まったく不思議ではない。麻枝さんの作品のひとつ『CLANNAD』で、ヒロインのひとりことみが「わたしのお庭は広いから」というシーンがある。

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それは、家一軒程度の広さの狭いスペースで得られることは、世界の広さから得られることに負けないくらい素晴らしいものなのだ、という表明だ。

本作ルームの2つ目の可能性として、狭い”へや”は人間を閉じ込めるようなものではない。さきほどの「わたしのお庭」とおなじく、「わたしのお”へや”」となるかもしれないと思ってみていた。

その観点でいうなら、最終的にジャックは”へや”に帰り、幸せな終わりを迎えることになるだろう。

映画を見ていると、この映画が表現しているのはこのふたつ目の内容であることがわかる。

しかし、この映画は”へや”で終わることを許さない。

この映画は結果的に”へや”にお別れを言って去ってしまうことになる。

それはなぜか。

実は、ここに関しては2つの解釈がある。どちらでも納得はいくが、ぼくとしてはこれからいう内容での理解を推したい。なぜなら、そちらのほうが人間精神への深い感動を覚えられると思っているからである。

映画で母ジョイはジャックにたいして「それでも私はあなたの母」だと述べ、ジャックもそれを認める。

いままで述べてきたとおり、ジャックとジョイは互いに異なる価値観を有した人間である。ジャックを優先すればジョイが立たず、ジョイを優先すればジャックが立たない。

ここで、ぼくは、「ジャックはジョイのために”へや”という安住の地を捨てた」と考えたい。つまり、愛する者のために自らの魂の在りかへの帰還を諦めたという解釈を推したい。

ちなみに、もうひとつの解釈は「”へや”は喪われ、母は”からっぽ”になってしまったので『永遠に部屋は喪われてしまった』」という喪失が描かれているという解釈だ。

このふたつに大きな違いがないと感じるように思うかもしれないが、小さいが大きな差をぼくは感じる。

さきほどもいったが、人間精神というのは広大なものだ。その精神性の深さというのはじつは場所に依存しない。

いっていることがわかるだろうか。どこにいたって”へや”にいることはできるのだ。

”へや”で培った精神性を背景に「孤独」に生きる覚悟さえ出来るならば、”へや”を自分の内部に取り込むことが出来る。それこそが人間精神の奥深さだとぼくは思う。

しかし、この映画の場合は”へや”を内部に取り込むことすら出来ていないと解釈するのが妥当だろう。

解釈の仕方によっては、「”へや”を内部に取り込んだのだ」ということも出来るかもしれないが、それでは最後のエンディングの孤独感の説明がつかない。

だからぼくはあえて”へや”を捨てたのだ、という解釈を優先したい。

”へや”を捨てる最後のシーンがジャックがジョイに言う「お別れは言った?」という台詞である。この瞬間、ジャックは”へや”を捨て、真に孤独になった。

内部に”へや”をもたず、”せかい”のなかで異端の存在として生きていくことが決定ずけられたのだ。物語内で「ぼくはこの”世界”でずっと生きていく」というのは、部屋を捨てる覚悟を表明するシーンだったと考えられる。

すると問題はなぜ部屋を捨てたのかになる。

そこで、さっきのふたつの差異が重要になってくる。

「場所や人が喪われてしまってもう戻ってこない」という無常観をあらわしているという解釈なのか、「自分の意志をもって”へや”を捨てる」という孤独への道程を表現しているのか。

ぼくは意志をもって捨てたほうを推したいのだ。

ママのために、自分の安住の地を去り”せかい”で生きることを決意したと考える。

ジャックが”へや”に心を残せば、ジョイはそれを敏感に感じ取ってしまう。その結果、精神に過剰な圧迫がかかってしまう。

ジャックは愛するママ(たとえそれが”からっぽ”でも)のために、”せかい”のなかで生きることを決意したと解釈するほうが物語の深みを感じられる。より素晴らしい物語だと考えられる。

5歳の子どもが自分の意志で寄る辺なき道程を歩む苦難の始まりが、映画ルームのラストシーンなのだ。

そう考えていくと、この物語はなんと孤独でなんと恐ろしい決意を描いた映画なのだろう。

かつて愛したママがたとえ”からっぽ”になっても、その愛は喪われるものではない。そのために、自分のアウトサイダーとしての世界”へや”を捨ててでもインサイダー”世界”へと迎合する。

それはなんて孤独で尊い物語なのだろうか。

かつて、空の境界で奈須きのこが描いた「ああ、なんて孤独」というシーンを思い出す。

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空の境界を見たときに、さいごの台詞がわからなかったという人も多いのではないだろうか。あれはぼくなりの解釈では、今回のジャックの決意と同類の決意に対する台詞だ。自分の在るべき場所を捨て誰も隣に立てない領域にたってしまった黒桐のために、つぶやかれてしまった台詞だ。空の境界では、黒桐以上に孤独なものはいない。

かれが真に愛した式は、彼を愛し普段接する式ではない。真に求めているのは「両義」式ではなく、「肉体」の式だ。そのことを理解したうえで、「肉体」の式とは逢えなくなることを理解したうえで、黒桐は「両義」式の横にたつ。彼女のために身を捧げ、罪を背負い、癒す。しかし、真に黒桐を癒すものはどこにもいない。だれにも理解されず、誰にも知られないままに、黒桐幹也は孤独に生き孤独に死んでいくのだ。それはどれほどの孤独だろう。

「ああ、なんて孤独」

この美しい台詞と同じエンディングを、映画ルームは抱えている。

誰にも理解されず、誰にも知られないまま、孤独に生きて孤独に死ぬ決意をジャックはしたのだ。それはなんと恐ろしく、なんとも崇高な人間精神の働きだろうか。

あちこちに話がとんでしまってわかりづらいかもしれないが、出来る限りのちからでもって映画ルームで感じた内容を説明してみた。

読んでくれたが理解できないという方もいるだろう。それは実に申し訳なく感じる。

もっと短く出来たらよかったのかもしれない。しかし、これはまとめるとまた別のニュアンスをもってしまうような気がする。



どこが凄いのかというのは、ホントは口頭で説明するほうがいいのかもしれない。

しかし、口頭で伝えるには相手がいる。そして、人間は忘れてしまうものだ。何処かに記録を残しておいたほうがいいだろうとおもうのだ。

ひとりでも、少しでも伝わることがあったなら幸いだ。

2016年4月11日 (月)

【完全ネタバレ】映画『ルーム』にまとわりつく謎をネタバレ自重とか考えずに考察しまくってみた

お久です。そういえば、新しく日記を始めています。本記事の続きの内容を明日そこで公開する予定

なんか今日も忙しかった気がする。毎日夜になると疲れが吹き出るんですよね。なんだろ。病気じゃないと思うので食事や睡眠の質が悪いんだと思います。

だから今日は近所の野菜バイキングの店に行って来ました。

腹いっぱいに食べたからもっと疲れが出てる気がする。空腹のときが一番からだの調子がいいんですよね。ぼくだけかしら。

あるいは脂肪肝かな。食べると疲れが出るのは脂肪肝の証って聞く。やはりファッティな食事は控えて出来るだけ野菜を食べよう。

さて、そんなこんなで夕食後のだるい身体タイムがもったいないので映画を観てきました。タイトルは『ルーム』

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物語はジャックが5歳になったところから始まります。ジャックの朝はいつも同じ。起きて、まずは母に挨拶をする。続いて挨拶をするのは母子二人で住むの”へや”の家具たち。椅子に、机に、キッチンに、天窓に、洋服ダンスにとジャックは挨拶をしていく。ひとつのベッドと限られたキッチンとトイレを備えた”へや”でジャックは昨日も今日も、明日も変わらない日々を過ごしていた。愛するママと、楽しいテレビがジャックの友達である。

ただ、普通と少し違うのは、ジャックが生まれてから一度も”へや”の外にでたことがないくらい。あと毎夜洋服ダンスの中で寝なければいけないこと。なぜかというと、夜になると”へや”には外からオールド・ニックがやってくるから。ママはニックとジャックを会わせたくないらしい。ニックは魔法の袋からジャックたちに食事やプレゼントを持ってきてくれるけれど、ジャックとニックは一度も話をしたことはない。

しかし、とある日にジャックはニックと触れ合う機会を得る。それは”へや”での日々を終わりに導く事件への引き金となる。その事件をきっかけとして、ママはジャックに真実を語る。

実はママにはママ以外にもう一つジョイという名前があること。元々は”へや”の外にいたけれど、7年前にオールドニックに”へや”に連れてこられてしまったこと。そして、”へや”の外には”世界”が広がっていること。

本作は、誘拐された17歳の少女が監禁された先で子どもを産み、その部屋から出る物語である。
前半一時間は”へや”とその脱出。後半一時間は”世界”での生活が描かれる。

結論から言うと、ぼくはこの映画を観始めたとき「”へや”に帰るんだろうな」と感じた。そして、それは間違いではない。

本作は複数の視点から語ることが出来る。

ひとつは誘拐されたジョイの再生の物語である。高校生の少女が監禁され、レイプされ、監禁先で子どもを産むことになる。逃げようにも逃げられず精神的に追い詰められた女の子が、機転をきかせ社会へと戻っていく。しかし戻った先は少女にとって新たな地獄だった。

帰還先は少女が元々いる世界だ。だがその世界は一変してしまっている。かつて存在したやさしさは失われ、好奇の目が向けられる。静寂の変わりに喧騒と様々な圧力が襲ってくる。監禁された少女が子どもを産んで帰ってきたことをマスコミは騒ぎ立てる。そして、自分も7年前の自分とは変わってしまった。

過去のイメージと現実のコンフリクトはジョイを圧倒する。徐々にジョイは子どもへと依存するようになる。しかし、それも一時のことに過ぎない。最終的に彼女はその圧力に耐えかねて倒れてしまう。

本作の見所は、そのようになってしまった彼女を子どもの献身が救うところにある。

子どもによって救われ。彼女は社会へと戻り。幸せになりました。

めでたしめでたし

それが、一面の物語である。でも、ほんとうにめでたいのだろうか。本作を見終えた視聴者はこれで満足するのだろうか。物語を再構成してみよう。

本作においてジョイが子どもに真実を語るときに次のように言って聞かせるシーンがある。

壁がある。その壁には、表があれば裏もある。私たちは壁の内側にいて、外にも世界が広がっている。

ルームという映画は、ジョイの視点ではなく子どものジャックの視点から見ると別の様相をみせる。

先ほどのジョイからの視点の語りを一般的な視点の物語~インサイダーの視点~とするなら、ジャックから見ると物語はその外~アウトサイダーの視点~を有している。

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ぼくはこの映画を観たときに、星の王子様を描いたサンテグジュペリを思い出した。世界の隅々を回ったことのない彼は、世界を巡る少年の物語を書き上げる。世界を描くのに実際の経験などは必要ない。人間精神とはそのような体験を上回る広大な力強さを持っている。

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本作ルームのもうひとりの主人公。いや、個人的には真の主人公と呼びたいジャックはそのような広大な精神を有した子どもである。

ところで、ぼくは今までジャックを「子ども」としか表現してこなかった。なぜだろうか。

じつは、本作ではジャックが男なのかどうかは明かされていないのだ。ジョイは一度としてオールド・ニックにジャックを触らせることはなかった。男の子だと語られるのは、あくまでオールド・ニックに対してのみであり、ジャックが”へや”の外に出たときジャックを見た男性や警官はジャックのことを彼女と呼んだり、ジャック以外に名前はないのかと尋ねている。また、ジャックが寝ている洋服ダンスのなかでジャックの履いているパンツが明らかに女性物だったのも、おや?と感じた一因である。

ジャックが女性である可能性を考慮すると、オールド・ニックとジョイ、ジョイとジャック、ジャックとオールド・ニックの非対称性も見えてくる。

ジョイはジャックにオールド・ニックはリクエストなど応えてくれないようなひどいやつだと語る。ジャックが5歳の誕生日にケーキにろうそくがないとき騒いだときも、オールド・ニックは面倒なものを持ってきてはくれないと言っている。

一方、オールド・ニックはジャックに乱暴な行為を働いたことはない。むしろ誕生日だと知ったら失業中なのにも関わらずおもちゃのクルマをプレゼントしてくれる。

ジョイの語るオールド・ニックと、オールド・ニックの行動に矛盾が存在する。

その矛盾を解消するひとつの案がジャックが実は少女である、ということだ。オールド・ニックから娘を隠すために男の子だと偽っていたと考えると、過剰なまでにジャックをオールド・ニックと遠ざけようとしたことに矛盾はない。

映画の間ずーーっと、この子が男の子かどうかは気になってみてたんだけれど一度もそれは明かされなかった。母子が保護された病院でも、当たり前だが下半身は隠され、真実は闇の中である。

まぁ、ぼくの本当に話したいことは、ジャックが男だろうが女だろうが関係ないからどうでもいいんけどね。

折角なので、考察をしておいただけだ。

話を元に戻そう。

ジャックから見るとルームという物語はジョイから見たものと逆の物語になるとぼくは語った。

ちょうどジョイの物語を補助線にひくと理解しやすいと思う。

本作でジョイは「社会から切り離されて”へや”につれられてきた」少女である。だからこそ、先ほどの再生の物語という見方ができる。

しかし、ジャックから見たらどうだろうか。

ジャックからしたら、彼(彼女?)の世界は”へや”だけだったのだ。彼は母親の要望に従い、”へや”から”世界”へと移り変わる。

ジャックの視点からするならば、彼は元いたところから無理やり切り離されたと見ることが出来る。

母親と、”へや”のみんなに囲まれて平和に暮らしていた少女は他ならぬ愛する母親によってその場所を奪われてしまう。ジョイの視点からしたらオールド・ニックは平和な日常を壊した破壊者かもしれない。誘拐者である。しかし、ジャックの視点からしたらオールド・ニックは敵でも憎むべき相手でもない。むしろおもちゃのクルマをくれたやさしいおじさんともいえるかも知れない。

ジャックの側から見るなら、破壊者は母親のジョイである。

だからこそ、物語後半でジャックは母親が”へや”での母親と異なることを語っている。ジャックからしてみれば、彼の真の母親は”へや”のママだ。ジョイなどという存在ではない。だからこそ、からっぽだと表現したといえる。

ジョイもそれを理解しているのか、それでも私はあなたの母親だ、と述べている。

なんと歪な関係の物語だろうか。そして、なんと美しい物語なんだろうかと思う。

こういう構造を備え、自然とした物語を作り上げている本作は紛れもなく傑作だと思う。

そうやってみると、本作は本来あるべき場所から切り離された少女がもといる場所に戻る物語であると同時に、本来あるべき場所から切り離された少女の非対称的な物語であるといえる。

しかも、ジョイは救われるが、ジャックには救いがない。

彼は、”へや”にあったすべてのものを失い二度と取り戻せない。なにより、彼女の愛した母親は”からっぽ”になってしまったのだ。

”へや”と母親が揃ってこそジャックの原初は完成する。本作はジョイの再生であると同時に、ジャックの喪失の物語なのである。

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2015年5月10日 (日)

ゴールデンウイーク終わったな〜

(ただの呟きで中身は何もないです)

今回の休みはめちゃくちゃ長かったきがするなー












うーむ。。

何にもやってない気がしてたけど、、写真みると、そんなこともなかったなーってわかります。

亡国のアキトも見てきたし。

最後の写真は富士山の天然氷を使ったかき氷です。かなり美味かった!

それにしても、身体がボロボロになってるので明日までになんとかしたい^^;

さ、、早めに風呂入って寝よ

2015年5月 9日 (土)

近況:かき氷うまうま




先日バイトのついでにいってきました!

富士河口湖町の富士山麓の天然氷のかき氷を食べさせてくれるお店。

美味かったのでまた行こうっと!

«『亡国のアキト 三章 』感想と、ここ二日間の出来事についての雑記。

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